だから、もしかしたら、このままなにごともなくやり過ごせるんじゃないかと、そう思いたかった。
Scene 3
ジミーくんのささやかな日常
なんだかクラス中の女子の視線が痛い。思えば、これまでの短い生涯で、オレがこれほど女の子たちから注目をあつめたことがあっただろうか。いや、ない。そもそもこれは、バカ竜に気がある女子からの非難の視線だ。つまり、重要なのはやっぱり美瀬で、オレのことはきれいさっぱりどうでもいいのだ。
「美瀬となんかあったのか?」
日常と非日常のあまりのギャップに、なんとなくヘコみながら席に戻ろうとすると、悪戯っぽい笑みを浮かべた北条に呼び止められた。
「あー……えーっと」
オレはムニャムニャと語尾を濁した。できれば、この悪友にウソはつきたくない。とはいうものの、オレが実は翼の六枚も生えた悪魔だとか、美瀬も魔界の竜族でオレは今朝あいつに一度殺されて生き返っただとか──言えない。言えるはずがない。
「わかった。言いたくないんなら、なにも言うな。まあ、おまえにしちゃ、いい傾向だ」
北条はなにか企んでいるような笑顔で、オレの肩をぽんぽんと叩いた。
ああ、良心がずきずき痛む。オレはこれから一生ウソをついて、生きていかなきゃならんのか。オレがマジで悪魔だなんて、誰かウソだと言ってくれ。
だが、一限めの英語の授業がはじまり、教科書をひらいてすぐに、オレは愕然とした。いつもはぼんやりとしか意味をなさないローマ字の羅列が、いきなり意味のある生きた言葉にみえた。日本語のように言葉が脳に入ってくる。
「……次。山本くん、読んで」
英語教師の平田にいきなり指されても、どこを読めばいいのか、なぜかわかってしまう。そして、立ち上がったオレの口からこぼれた言葉は、あまりにも自然で流暢な英語だった。
ざわめいていた教室がにわかに静かになる。教科書を読み終えたオレが席に着くと、気難しいので有名な平田がいきなり拍手をした。
「びっくりするほど、きれいなクイーンズイングリッシュですね。みなさんも山本くんを見習うように」
こんどは正真正銘、クラス中にオレが注目されていたけれど、あまりうれしくなかった。
「なあ、帰りにゲーセン寄ってかない?」
半日カリキュラムの放課後、三田村がオレと北条を誘いにきた。
「おまえ、シナリオはできてんのか?」
北条が訊くと、三田村はくふっという謎の声をあげて笑った。やっぱり、こいつのノリは妙だ。
「ゲーセンのシーン、入れようと思ってんだよねー。いっつも対戦してるから、意外にジミーくんがやってるとこ覚えてないんだなー、これが」
「だから、ジミーいうなって。さっき、女子にも言われて、結構ショックだったんだからな」
オレがこぼすと、三田村がちょこんと小首をかしげた。
「ふうん。これはちょっとシナリオ書き直したほうがいいかもなー」
「な、なんだよ?」
オレが訊くと、三田村はまた、くふふっという謎の声をあげた。
「いいって。気にしなーい、気にしない」
オレたちはいつも対戦型の格ゲーをやってから、カラオケに流れるのがコースなんだが──この日は勝手がちがった。
「山本、どーしちゃったんだ? 春休みのあいだ、特訓でもしたのかー」
妙に間のびした三田村の声に、オレは笑ってごまかすしかなかった。
「ははは。今日はなんだか絶好調らしい」
……わざとらしいぞ、オレ。
そう、英語と同じなのだ。
ゲームキャラの動きがぜんぶ見える。まるでスローモーションみたいだ。スローな相手に、こっちもスローな攻撃を仕掛けるだけだ。こんなの、はずすわけがない。
「絶好調にしちゃ、やけにがっくりきてるねぇ? 山本」
北条が不思議そうに、オレの顔をのぞきこんだ。
「……悪い。用事、思い出した。先に帰るな」
オレは怪訝な顔をした悪友たちを置いて、ふたりから逃げた。
魔の封印が解けただけで、こんなにちがってしまうとは思ってもみなかった。オレは変わらないと、山本陽一はそのままだと──信じて、いたかったのに。
その時、頭というより魂に直接、言葉が届いた。
──エリュシエル。
えっ? 悠乃サン?
彼女にその名を呼ばれると、見えない糸でぴんと引っ張られたような気分になった。他の誰にエリュシエルと呼ばれても、こうはならない。これが、真名をかけて誓うということなのか。
だけど、悠乃サン。今日は田中さんと一緒に帰ったはずなのに。真っ昼間から悪魔を呼ぶなんて、なにかあったのか?
オレはあわてて彼女の居場所を捜した。こんなとき、魔法は便利だ。悠乃サンが制服のままで学校近くの喫茶店にいるのが視える。あまり危険な感じはしないから、オレは翼も角もないエリュシエルの姿をとって、ふつうの客らしく喫茶店のドアから入ることにした。服はこの際、なんでもいい。
喫茶店のなかに入ると、まず、悠乃サンと目が合った。オレの顔を見て、うれしそうに微笑う。テーブルに近づくと、悠乃サンの向かい側にはやっぱり田中さんが座っていて、オレはつい「あれ、田中さん?」などと口にだしてしまった。
ヤバい。悠乃サンは不思議そうな顔になるし、田中さんはオレを見て呆然としている。ごめん、田中さん。見ず知らずの男にいきなり名前を呼ばれたら驚くよな。
しかし、この状況はいったいなんなんだろう。悠乃サンがいて、田中さんがいて、女の子同士で楽しくやってるようにしか見えない。オレって、ものすごく邪魔なんじゃないか?
「えっと……悠乃サン。なんで、オレ呼ばれたの?」
訊ねてみると、悠乃サンはにっこり笑った。
「絵里に紹介しようと思って。いきなり呼び出しちゃってごめんね」
絵里に紹介──それって、悠乃サン。もしかして、もしかしなくても、仲のいい友達にカレシを紹介ってことか? ああ、オレたちってふつうにカレカノじゃん。
オレがほにゃらけたままぼんやり突っ立っていると、悠乃サンが自分の隣の席を掌でぽんぽんと叩いた。
「ああ」とかなんとか言って、オレが彼女の隣にすべりこむと、「このひとはエリュシエル。長いから、エルって呼んで」などと悠乃サンが紹介してくれた。
「ええっと……エリュシエルです。よろしく」
やっぱりこの名前であいさつするのは、なんだか抵抗がある。とくに相手はクラスメイトの田中さんだし。
「あ……はじめまして。田中絵里です」
田中さんは日頃の彼女らしくもなく、恥ずかしそうにそれだけ言うと、真っ赤になってうつむいてしまった。なんとなく、気まずい。
「あのさ、オレ相手にそんな緊張することないよ、田中さん」
つい、そう口にすると、悠乃サンも田中さんも不思議そうな貌になった。