悪魔はシャイに I Love You

第3幕 銀の雨 Scene 2


 胸から血を流して横たわっている彼を見たとき、わたしの心臓も停まってしまうかと思った。
 信じられなくて、信じたくなくて、なにも考えられなくなって、気がつくと彼にキスしていた。まさか、キスであのひとが生き返るなんて思ってもみなかったのに。触れた唇がかすかに震えて、彼はゆるゆると目をあけた。銀色の不思議な瞳はいつもと同じにやさしくて、そしてなぜかいつも哀しい色を帯びている。
 わたしだけを見つめて欲しい──切なくそう願った。
 悪魔の恋人なんて絶対ダメって、理性は頭の中で悲鳴をあげていたけれど。それでも、わたしの唇はたしかに言葉をつづっていた。
「たとえ、あなたがすべてに愛されるひとだとしても、あなたはわたしだけを好きでいて。銀のエリュシエル」

Scene 2
ヘンな人


 次の朝、教室に入ると、あたりまえのように美瀬くんがいて、あたりまえのように「おはよう」と挨拶された。
 あのひとにあんな酷いことをしたのに、涼しい顔をしている。信じられない。
「そんな怖い顔しないでよ、悠乃サン」
 美瀬くんは自分の机に浅く腰掛けて、いつものように爽やかに笑う。いままで王子様のように見えていたその笑顔が、今日はとても胡散臭く思えるから不思議だ。
「彼が目的で、わたしに近づいたんでしょ?」
 そう言うと、美瀬くんはくすりと笑って肩をすくめた。
「悠乃サンこそ、彼を忘れるためにぼくとつきあおうかなと思ったんじゃない?」
 わたしが一瞬言葉につまったとき、誰かが彼の腕を強く引いた。そのまま、美瀬くんは苦笑いを浮かべて、たいして抵抗することもなく教室の外に引きずられていった。腕を引いていたのは──あの、とことん地味な山本くんだった。
 なんで地味な人が美瀬くんを?
 教室にいた誰もがこの組み合わせを不思議に思ったらしく、みんなふたりの消えたドアを呆然と見ている。
「あのふたり、なにかあった?」
 絵里がわたしに訊いてくる。
「そんなのわかんない」
 そう答えると、絵里はなぜかわたしの顔を不満そうに見上げてつづけた。
「山本くん、すごく怖い顔してたけど? 悠乃、知らないの?」
「どうしてわたしが知ってるのよ?」
 ため息まじりに言うと、絵里は「悠乃が関係してなくて、あの山本くんが美瀬くんに対してあんな貌するわけないじゃない」と呟いた。
「なにそれ?」
 わたしが言ったのと同時に、外のようすをうかがっていた子たちが黄色い悲鳴をあげた。
「な、なに?」
 思わず絵里と顔を見合わせる。
「ジミーくんって、美瀬くんに気があるんだって」
「マジ?」
「うわっ、ジミーが美瀬くんのことをバカ竜なんて呼んでる。マジかも」
 一緒のクラスになったばかりで、まだ名前も知らない女の子たちが次々と声をあげる。そんな中、ウワサのふたりが教室に戻って来た。美瀬くんはいつもの涼しい顔で、山本くんはなんだか真っ赤になっている。うーん。BL系ってあんまり興味ないのよね。別に美瀬くんがそっちの人でも、いまとなってはどうでもいいし。
 なんとなく顔をあげると、真っ赤になったままの山本くんと目が合った。彼は思い切り顔をしかめて、口をへの字に歪めたり、ひょっとこみたいな顔になったり、酸素不足の金魚みたいに口をぱくぱくさせたりしている。ヘンな人。
 ヘンな人は妙な百面相のあと、突然、わたしのほうを向いて叫んだ。
「みみみ、水梨さん、誤解だ。オレは女好きなんだ!」
 叫んでから、彼はわたしの顔を見て、ふらふらと目を泳がせる。思い切り挙動不審。別に、あなたが女好きだろうが男好きだろうが、どうでもいいのに。
 美瀬くんが「……女好きのジミーね」と意地悪く呟いたのに言葉を返すこともなく、彼はそのままとぼとぼと席に戻っていった。
 ……ヘンな人。

 今週いっぱい半日カリキュラムだから、放課後が長くてうれしい。
「えっと……ね。わたし、美瀬くんとはつきあわないことになったんだ」
 ちょっと妙な言い回しだなと思いつつ、わたしはいつもの喫茶店で絵里に報告していた。
 絵里はわたしの顔をじっと見つめたあと、おもむろに口をひらく。
「もしかして、例のカレシとよりが戻った?」
 ……さすが、カンがいいよ、絵里サン。
「うん」
「どんな人? 写真とかないの?」
 そういえば、ない。今度、人間に化けてもらって、一緒に撮ろう。絶対、撮ろう。
「写真はないけど……ちょっと美形」
 ホントはちょっとじゃないけど。
「悠乃、メンクイだもんね」
 わたしはムッとした。
「顔がいいだけじゃないの。彼はやさしくて照れ屋で不器用で背が高くて格好よくて年上なのにすっごくかわいいんだから」
「ああ、わかった、わかった」
 絵里がやれやれといった貌になる。
「ホントに顔だけじゃないんだから」
 やさしくて、すぐ真っ赤になって、照れくさそうにぼそぼそしゃべるんだから。こたつが好きで、みかんなんて、すごくキレイに剥いちゃうんだから。純情なのに色っぽくて……なぜかキスがうまいんだから。
 ああ、見せびらかしたくなってきた。だって、彼ははじめてのカレシなのだ。期間限定なんかじゃない、本物の恋人。もう隠す理由なんてない。悪魔だってことさえ、バレなければ。
 だから。心のなかで、そっと呼んでみた。
 ……エリュシエル。

「どうしたの? 悠乃?」
 絵里が怪訝そうな貌で訊いてくる。
「えっ? あ……その」
 わたしは笑ってごまかした。名前を呼んだって、すぐに現れるはずがない。夜はわたしの声に耳を澄ましてくれてるのかもしれないけど、今は真っ昼間だし。
 でも、こんなとき、ケータイで呼び出すこともできないのは、やっぱり寂しい──そう思ったとき。
 カラン、と喫茶店の古びたドアのベルが鳴って。
 そこに──彼がいた。

 ゆるくウェーブのかかった肩より短めのブラウンの髪。翼も角もない、人の姿に化けた彼は、ジーンズに真っ白なシャツを着ているだけなのに、なんだか眩しかった。
「悠乃サン?」
 彼は少しだけ驚いたような貌をして、わたしの顔をまっすぐ見つめる。わたしたちのテーブルに近づくと、絵里に気づいて「あれ、田中さん?」とぼそりと呟いてから、目を瞬かせた。そうか、彼ってわたしの友達の名前を知ってるんだ。
 突然、名前を呼ばれた絵里は彼の顔を見上げて、そのまま吸い込まれるように固まってしまった。
 小さな喫茶店のお客さんもお店の人も、みんな彼を見ている。だけど、平気。このひとはわたしだけの彼なんだもの。
「えっと……悠乃サン。なんで、オレ呼ばれたの?」
 人の姿に化けたキレイな悪魔は、甘く響く低い声で、不思議そうに訊ねた。

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