悪魔はシャイに I Love You

第3幕 銀の雨 Scene 9


「お願い、エリュシエル。山本くんが絵里を好きになるように魔法をかけて」
 ──いま、なんて言った? 悠乃サン?
 彼女はつづけて、ぽつぽつと言う。
「絵里、山本くんのことが好きなんだって」
 田中さんが、オレのことを? でも、オレは──。
「そんなに……山本ってヤツが嫌いか?」
 そんなに、オレが嫌いか?
 頭に血が昇った。
「えっ? どうして?」
「だって、オ……あいつは悠乃サンのことが……」
 言いかけて、鏡に映った自分の姿が視界に入った。
 なんでいまさら。こんな悪魔の格好で告白してるんだ、オレは。
 そのとき、悠乃サンが意外な言葉を口にした。

Scene 9
嘘つきなオレとキミの髪


「うん。そうだったらしいね」
 えっ? そうだった、って。
「まさか、悠乃サン、知ってたのか?」
 オレの気持ち。
「絵里が教えてくれたんだ。それで、山本くん、わたしのことを見てたんだって」
 彼女は照れくさそうにまつげを伏せた。胸が鳴る。
「どう、思った?」
 ああ、別人のフリしてこんなこと訊くなんて、オレは卑怯者だ。
「ごめん。ちょっとだけ、うれしかった」
 悠乃サンははにかむように微笑う。そして、オレの鬱陶しいくらい長い髪を軽くひっぱって、視線を合わせた。
「ごめん。ごめんね、エル。全然、浮気じゃないから。それに、山本くん、もうわたしに興味ないらしいし。最近、なんだかわたしに冷たいし。たぶん、わたしのこと、嫌いになったんだと思う」
 悠乃サンはなぜか早口で言って、少し哀しそうな貌になる。
「オ……あいつは嫌いになんか……」
 言いかけてやめた。それは、エリュシエルの姿で言うべきことじゃない。
「ね? わたしが好きなのはエルだけ」
 悠乃サンがまっすぐな眼差しでオレを見上げる。
 彼女はいつでもまっすぐに考えて、まっすぐに思ったことを口にする。裏がない。嘘がない。
 なのに、オレは。いつも悠乃サンのまえで嘘をついている。
「オレも悠乃サンだけだよ……どんな姿をしていても」
 悠乃サンがこくりとうなずいて、オレたちはまた長いキスを交わした。

 その夜、オレはひさしぶりにナーンの名を呼んだ。
 驚いたことに、姿を現したナーンは膝をついて頭を垂れていた。
「お呼びでございますか。エリュシエル様」
 顔を上げないまま、ナーンの不機嫌そうな声が聴こえる。
「なんの冗談なんだ、それは?」
 オレはおそるおそる訊いた。
「封じられていたお力を取り戻されたからには、あなたさまは私より上位のセラフにあらせられる。当然の礼を尽くすまでのことにございます」
 そう口にしながらも、不機嫌なのが声に滲んでいる。
「もしかして、それでオレの封印が解けてから現れなかった、とか?」
 ナーンの肩がぴくりと揺れた。図星だったらしい。
「あの、さ。居心地悪いから、ふつうにしてくれる?」
 オレが言うと、ナーンは厳かに顔を上げて、きっちりと胡座をかいた。顔には青筋が立っている。
 つまり、オレの位階十三位とかいうのは、ナーンよりずっと高いらしい。ということは、このあとの話も上手くいくのかもしれない。オレは期待に胸をはずませた。
「あの……さ、ちょっと訊きたいんだけど」
「なんなりと」
 なまずヒゲの悪魔は無表情に応える。
「悠乃サンに、オレの正体、教えてもいいだろう?」
 同一人物だってことさえ解れば、悠乃サンとオレのややこしい関係だってかなりすっきりするはずだ。オレの纏う魔法のことは気にかかるけど。
「正体とは? あなたが銀の悪魔エリュシエル様だと、彼女は知っておりますが」
 なまずヒゲは慇懃無礼に応えた。
「すっとぼけるなよ。悪魔が山本陽一だってことに決まってるだろう?」
 オレが睨むと、ナーンは口の端をあげて嗤う。
「山本陽一とはあなたさまの封印された仮のお姿。そのようなものは、六枚の翼あるセラフであるエリュシエル様の恥にしかなりませぬ。他言なさらぬようご進言申し上げます」
「恥ってなんだよ?」
 ナーンは瞳になんの感情も映さないまま、嘲笑を浮かべる。
「あのように力なき者として封印されていたなど、力ある悪魔にとって恥以外のなにものでもありますまい」
 オレを見上げる瞳がうっすらと細められる。
「エリュシエル様の恥は魔界の恥。それを知った人間は魔界に連れ去るが掟にございます。高位の悪魔たるエリュシエル様でも、魔界の掟には逆らえませぬ」
 オレは苛々と言い放った。
「まわりくどいな。つまりは、ダメってことか」
「御意」
 万事休す、か。

 学校で、オレはまた悠乃サンを眺めるようになった。ただ、相手に気づかれていると思うと照れくさくて、なるべくさりげなく目立たないように、だ。
 同時に、田中さんの視線も感じるようになった。どうしよう。田中さんは可愛いコだし、性格も明るくて気のきくやさしいタイプだ。悠乃サンのことしか頭にない俺にはもったいない。ああ、本当にどうしよう。
「山本、遅れんぞォー」
 三田村が間延びした声で、オレの肩を叩いた。そっか、次は家庭科だから移動だった。悠乃サンが急いで教室を出てゆくのが見えた。すっかり出遅れたオレが最後に教室を出たところで、また、前を行くすらりとした悠乃サンの影が見えた。その影が誰かとすれ違ったとき、彼女の肩からなにかがはらりと落ちるのが見えた。
 え……っ?
 オレには一瞬なにが起こったのかわからなかった。
 悠乃サンもその場に呆然と立ち尽くしている。ちょうど進行方向に彼女がいたので、オレは自然と彼女のほうへ歩み寄った。
 スローモーションみたいに、彼女が自分の髪に手をあてるのが見える。そう、髪だ。はらりと落ちた束は、悠乃サンの長い髪だ。
「悠乃サン?」
 オレが声をかけると、彼女はこちらを向いてちいさく首を横に振る。泣き出しそうな目と視線が合った。
「大丈夫だから」
 オレの顔を見て、悠乃サンが呟く。
「大丈夫じゃないだろう? いきなり髪を切られるなんて!」
 オレは制服のブレザーを脱いで、彼女の頭にかぶせた。
「山……本くん?」
 悠乃サンが不思議そうにオレを見上げる。
「行こう」
 オレが言うと、悠乃サンが訊き返した。
「どこに?」
「決めてないけど……そんな頭、誰にも見られたくないだろう?」
 オレは彼女の手をひいて、階段を昇りはじめた。

Page Top