悪魔はシャイに I Love You

幕間 夢の断章


幕間
夢の断章


 それは、学校に悪魔の大群があらわれ、俺が人界でのすべてを失った──前日のことだった。


 春うららかな日曜日、俺は渋谷のTSUTAYAまえにいた。正確にいえば、入り口の少し横といったあたりか。目のまえには、あの、スクランブル交差点。
 自宅から渋谷までは電車でだいたい一時間ちょっと。今日は魔法で跳んできたので一瞬だった。距離的にいって、俺はそこまでビビるほどの田舎者でもない、はずなんだが。
 目のまえを行き交う人たちはみな、洒落てキラキラしていて眩しい。
 似合わない。ジミーな俺に果てしなく似合わねぇぞ、渋谷。

 来るまえからわかっていた。わかっていたのに、今日ここに来たのは。
 五月七日が悠乃サンの誕生日だからだ。俺は彼女の誕生日プレゼントを買うために渋谷に来たのである。
 ゴールデンウィークに入ってしまったら、それ以降は土日も放課後もほぼ撮影のためにあけておけと北条に釘を刺されている。だから、悠乃サンが田中さんと買い物に行っている今日が、俺が自由行動できる最後のチャンスだった。
 そんなわけで、冬休みに稼いであったバイト代を握りしめて、洒落たアクセサリーを買うために、ここ渋谷の街にやってきたのだが。

 ああ、めちゃくちゃ見られている。
 そう、いま俺はエリュシエルが人間に化けた姿で渋谷に立っているのだ。
 なぜ、こっちの姿で来たのかといえば、答えは簡単だ。
 ジミーに渋谷は無理だったんだよ。ビビったんだよ!

 相変わらず、銀色の悪魔の『魅惑』は凄まじい。
 目のまえを通り過ぎた人が俺を視ると、その近くにいた人々にそれが伝播して、こちらを視る。それがまた伝播して──。
 信じられないことに、スクランブル交差点全体から、視線の圧を感じるのだ。
 俺は『威容』を発動して、人の流れが一気にこちらへ向かってこないようコントロールした。

 これで将棋倒しの大惨事にならない。さっさと移動して買い物しよう。
 俺が歩きだした、そのとき。
 切羽詰まった声が聴こえた。
「そこの、あなた! そう、あなた。とってもキレイなあなた!」
 俺を見ている。だけど、この台詞で立ち止まるのは恥ずかしすぎる。
〈無視しないでよ、お願い!〉
 英語でそう言って、彼女は俺の腕をつかんだ。

「そのルックスで、その年齢で、これまでデビューしていらっしゃらない。この手の話をいままでさんざん断り続けてきたのは理解しております」
 彼女──望月亜矢さんはこれぞまさしく立板に水といった感じでまくしたてた。
「だけど、お願いです! 一度だけでいいですから。あの大穴を埋められるのはあなたしかいないんです!」
 とりいそぎ入った高そうなレストランの個室で、俺は母親より少し年下くらいの、いかにも仕事ができそうな女の人に拝まれていた。
 望月さんは月刊誌の編集者だという。メインのグラビアページに予定していたある大物俳優が不祥事を起こして、いきなり掲載不可になってしまったのだそうだ。急遽、不祥事を起こした俳優の事務所が、売り出し中の俳優を代替に寄越してきたそうなのだが。
「無理。そりゃ付き合いがあるから撮影はしたし掲載もしますが、あのド新人に大穴は埋められません」
「いや、それこそ、俺は新人でもなんでもない……」
 素人だろう。
「あなたなら、大丈夫です」
 キラキラした目をして、彼女はにっこりと笑う。どこからくるんだ、その自信。
 うーん、これは。雑誌に大穴があいて困り果てているところに、悪魔の『魅惑』がつけ込んで、正常な判断ができなくなってるんだろうなあ。
 だから──俺は望月さんに諦めざるを得ないムチャ振りをすることにした。
「条件があります。まず、これ一度きりで。俺の本名も連絡先も教えません」
「残念ですが、了解です。とても残念ですけど」
 本当に残念そうに眉根を下げた彼女に向かって、俺は余裕ありげに微笑みながら、さらなる条件をつけ加えた。
「あと、撮影は今日。ギャラは即金。それから、俺は今日買い物に来ているので、それにつきあってください」
 うわあ、自分で言っておいてなんだが、これはひどすぎる。ごめんなさい、望月さん。
 まあ、これくらい言えば、『狙った獲物に逃げられた』のではなく『傲慢野郎の条件がひどすぎた』と、自分にも上司にも言い訳できるだろう。
 だが、彼女は「ってことは契約書も領収書も無理か。羽田ちゃんに連絡とって……」などと、ぶつぶつ独りごちてから、三カ所くらいに電話をかけた。
「了解です。お買い物はどちらのお店をご予定ですか? さすがに何店舗も回れませんが」
 あっさりと、そう言った。
 ……え。
「あ、あの? いまのでいいんですか?」
「なんとかします。この条件だと、契約書を交わせないことが大変申し訳ないのですが。ご迷惑がかからないよう、わたくしが責任をもって対処させていただきます」
 凛とした彼女に圧倒される。
「それで、お買い物のご予定をうかがっても?」
 うわ、断られる前提で出した条件だったから、心の準備が。
「……えーと、店はまだ決めてません。プレゼントで……その、アクセサリー」
 俺がぼそぼそと返すと、望月さんは目をみはってから微笑んだ。
「失礼ですが、アドバイスがご必要ですか? 女性向けの雑誌編集を担当しておりますので、少しは詳しいほうかと」
 なるほど、女性向けならアクセサリーの特集も組むだろう。
「お、お願いします」
「ご予算は?」
「……さ、三万円」
 月給高そうな大人の女の人からみると、安いんだろうな。
「お相手の方はおいくつくらいでしょう?」
「高校生です」
「うーん、ご婚約者? ご令嬢? それともふつうのお家の方? 何度めのプレゼントですか?」
 なんだか質問がおかしい。この人の中で俺はどんな設定になってるんだ?
「婚約者なんていません。お嬢様っぽいけど、ふつうの家の子です。プレゼントは、は、はじめてです」
 矢継ぎ早にここまで訊いて、望月さんは「ふむふむ」とうなずいた。
「なるほど。ちょうどいいご予算ですね」
 え?
「お相手の方が、親御さんの前でも気兼ねなく身につけられる、ちょうどいいご金額です。ご年齢から考えて、これ以上ははじめてのプレゼントとして重いでしょう。それから──」
 ま、まだあるのか?
「なにか、こだわりはあります?」
 ……あ。
「あの、えーっと……銀色のネックレス、で」
 ──恥ずかしい。恥ずかしすぎる。銀色って。バカか、バカなのか、俺は。

「それならやっぱり、ティファニーかしら」
 え? それって。
「ティファニーで朝食を?」
「そうそう、映画で有名な。あの、ティファニーに行ってみましょう!」
 言いながら俺の顔を見て、望月さんは「あら」と口に手をあてた。
「そういえば、なんとお呼びしましょうか? 仮のお名前で結構ですから、掲載する際の芸名を頂戴できますか?」
 芸名、か。結局、撮影することになってしまった。この人ホントにやり手だよなあ。
「エルで、大丈夫ですか?」
「もちろんです。エルさん」
 ふふ、と望月さんは軽やかに笑って、俺をまた渋谷の街へ連れ出した。


 店の高級感が、ツライ。
 さすが、俺でも名前を知ってるティファニーは、キラキラした渋谷の街のなかでもひときわ輝いて見えた。
先を行く望月さんは、なんのためらいもなく、そのキラキラ空間へ入ってゆく。
 ひとりだったら、こっちの姿でもここに入れなかっただろうな。
 そう思いながら、俺は店に足を踏み入れた。

 ざわざわと、店内の空気が揺れる。
 みんなが『魅惑』されるがままに銀色の悪魔を視ている。
 まただ。忘れようとして、考えないようにしていたことを思い出してしまう。
 悠乃サンが俺に惹かれるのは──エリュシエルの『魅惑』のせいだ。

 だけど、そうと識っているのに、彼女は俺にこう言ってくれたのだ。
「あなたの、たったひとりの恋人になりたい」

「エルさん、こっちです」
 華やいだ望月さんの声で、俺はわれに返った。
「こんな感じ、いかがですか?」
 ショーケースの中にあったのは、銀色のネックレスだった。
「……ハート?」
 俺がここに来るまでなんとなくイメージしていたのは、銀色のネックレスに小さな宝石がついている感じのものだった。
 けれど、そこに飾られていたネックレスには、宝石ではなく、小さな銀色のハートがついていた。なめらかな曲線でハートを描いたようなデザイン。
「オープンハートっていう、ティファニーで有名なシリーズです。ハートのデザインがかわいいのに甘すぎなくて、キレイめにもカジュアルにも合わせやすいので、オススメなんですよ」
 悠乃サンがつけているところを想像してみる。カワイイ。絶対似合う。
 いままでの数少ない外出デートでも、このデザインのネックレスはつけていなかったから、持っていないだろう。値段もさすが望月さん、予算きっちりくらいだ。
 念のため、他のショーケースも眺めてみたが、やっぱりオープンハートが頭から離れない。お店の人に購入の意思を告げると、なにも言わないのに、ツヤツヤのティファニーブルー──というらしい──の箱に白いリボンでラッピングして、同じ色の紙バッグに入れてくれた。

「望月さん、アドバイスありがとうございました」
 店を出たところで、俺はお礼を言った。
 撮影、がんばらなきゃな。
「気に入っていただけて、よかったです」
 望月さんが微笑む。
 彼女のうしろに見える空が、やけに青い──そうだ、あのとき、そう思ったんだ。
 望月さんの微笑みと青い空がぐにゃりと溶ける──。

 あのあと、スタジオ撮影に向かった、はずだ。
 タクシーを呼んで。望月さんが電話をかけまくって。
 広いスタジオ。眩しい照明。連写するシャッター音。銀の髪。
 バラバラになった記憶の欠片が虚空に飛び散る。

 俺は、悠乃サンの誕生日に、銀のオープンハートを渡す──はずだった。

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