人に似ていながら、人にあらざる異形の背で、闇色の翼がざわざわと音をたてる。
闇色の悪魔の群れが──静かにオレを見下ろしていた。
Scene 13
さよなら
「ほう。よろしいのですか。山本陽一クン? この方にすべてを話して、魔界までお連れするおつもりですかな?」
口調だけは丁寧に、嘲りを孕んだ調子で、なまずヒゲの悪魔が言う。
はじめから、山本陽一が銀色の悪魔だということは誰にも──悠乃サンにも言えない契約だった。わかった時点で、悠乃サンを魔界に連れてゆくと、ナーンは明言していた。
「最初から、そういう計画か……ナーン」
悠乃サンの、北条の、三田村の視線を背後に感じる。オレの数少ない大切な人々。山本陽一の姿のままでは守りきれない──人質。
でも、今ここで、銀色の悪魔に姿を変えてしまったら──オレは恋人も悪友もすべてを失うだろう。
「さて、どうするのかね? 〈山本クン〉は、もともと封印体じゃ。魔力を抑えるのが目的の封印体では、力を発動できぬのが道理。〈山本クン〉には誰も守れぬよ」
言いながら、ナーンがくつりと嗤って、背後に浮かぶ悪魔の群れに向かって長い腕をあげた。
「やめろ!」
オレの叫びに、ナーンが口の端を大きくつり上げて笑んだ。白い奇妙な仮面に張りついた、酷薄な悪魔の嘲笑。ナーンの合図にあわせて、天高く浮かんでいた異形の者たちが、ざわざわと校舎に向かって降りてくる。
位階の低い矮小な悪魔は、知性が低く、その性、残虐。
校内のあちらこちらから、一斉に悲鳴があがる。
「やめろ、ナーン!」
つかみかかったオレの腕は、ナーンにあっさりはねのけられ、オレはそのまま尻餅をついた。
「山本くん……!」
悠乃サンが泣きそうな顔をして、オレの名を呼ぶ。
「山本、やめろ! おまえがかなう相手じゃない」
北条がオレに駆け寄って、助け起こしてくれた。三田村はそのうしろで蒼ざめて震えている。
「残念ながら、〈山本クン〉のお願いなど、わしにはなんの効力もないのじゃよ。無力な人間のお願いなど、悪魔にとっては災いを産む種に過ぎぬものじゃからの」
嘲るように言って、ナーンはふと気づいたように顔をあげて笑みを深めた。
「ああ、キミたちのクラスメイトがふたり、死んだようじゃな。まあ、銀の君の恋人の髪を切るような愚かな娘たちには当然の酬いじゃ」
「死……んだ?」
オレのすぐ傍で、悠乃サンが唇を震わせた。
「そんなの、エルは望んでない!」
悠乃サンの叫びに、ナーンは嗤う。
「ならばなぜ、銀の君はここにあらわれぬのじゃろう? 大切な恋人の傍に、なぜ彼の君はいない?」
ナーンの言葉に彼女がびくりと震えた。そして、ちいさく頭を振ってから、ゆっくりと顔をあげてオレの目を見た。じっと、オレの中に誰かを探すように。
時が──とまる。
永遠のように感じた一瞬のあと、悠乃サンは視線を逸らして「……まさか、違うよね」と呟いた。
──違わない。違わないのに。それを知ったらもう、キミとオレは。
「ナーン」
オレは悠乃サンに顔を向けたまま、振り向きもせずに悪魔の名を呼んだ。
「おまえの望みは」
「銀の君のご帰還にござります」
打てば響くように悪魔は応えた。 エリュシエルの魔界への帰還──それがナーンの目的。それなら。
「オレの存在をこの世界からすべて消去すれば、オレの正体を知った人間を魔界へ連れていかなくてもいいな?」
「御意」
ナーンの応えが聴こえてすぐに、校内にあがっていた悲鳴が消えた。突然の静寂に空気がひりりと震える。場の静寂を破ったのは、悠乃サンの声だった。
「いまの……どういう意味?」
目を吊り上げて、オレをじっと見つめる。
「悠乃サンが考えてるとおりだよ」
言ってから、彼女を強く引き寄せ、耳許にささやく。
「ずっと、悠乃サンのことが好きだった。ずっと、本当のことが言えなくて、ごめん。あの……一度だけ、いい?」
オレの言葉の意味に気づいた悠乃サンが、一瞬、目を見開いてから泣き笑いのような顔をして、そっと目を閉じる。オレは彼女の小さな顔をつつみこんでキスをした。
一度でいいから、オレのままでキスしたかった。
悠乃サンの甘い香り。やわらかなぬくもり。すべてが、オレの腕のなかで、砂のようにさらさらと崩れてゆく気がする。
互いの身体が離れたあと、いたたまれずナーンのほうを振り返ると、異形の群れはあとかたもなく消えていた。
「この部屋にいる人間以外の記憶は、私が消去いたしました。この世界にあなたは存在しなかったことになっております」
ナーンが淡々と告げて、いつかのように跪いた。
「それは、よせ」
悠乃サンはともかく、北条と三田村の視線が痛い。
「本来のお姿にお戻りください。彼らの記憶を消去なさるために」
ナーンの言葉に、北条と三田村が叫んだ。
「記憶を消すって、どういう意味だ?」
「山本、どうなってるんだよ?」
ああ、奴らのまえで、アレになるのか。
悠乃サンがオレの腕をつかんで、無理矢理、顔をつきあわせられた。
「なによ、山本くんのくせに! あなたに記憶を消すなんて、できるわけないじゃない。わたし、絶対忘れないから。エルのことも……山本くんのことも」
怒った悠乃サンの顔もかわいい、オレはぼんやりと思いながら目を閉じた。
背中にふわりと六枚の翼がひろがる感覚。奥底に封じられていた力が解放される感覚は嫌いじゃない。
「……エリュシエル」
真名を呼ばれて、重たい気分で目を開けた。悠乃サンのうしろで、北条と三田村が、悪魔の俺を凝視している。
「……悪い。映画、出られなくなった」
唇からそんな言葉が漏れ出る。もっと、言うべきことはあるだろうに。言葉を探しながら一歩踏み出すと、北条がこちらを睨んだまま、三田村が怯えた顔で、それぞれ後ずさった。ずきりと胸が痛む。
「おまえらと一緒にいられて……楽しかった。ごめんな」
北条がなにか言いたげにしていたから、少しだけ待った。だが、結局、言葉にならないらしく、オレの顔をただ見つめている。
「……ごめん」
オレはそれだけ言って、ふたりに指を伸ばす。
「山……本?」
北条が呆然と呟くのを聴きながら、オレは悪友たちに忘却の魔法をかける。ふたりは眠るように、その場に崩れ落ちた。次に目覚めたときに、奴らのなかにオレの記憶はない。もともと影のうすかったオレは、悪友たちの記憶からも消えて、なくなってしまった。
「……うそ」
悠乃サンの声が掠れている。
「こんなの、うそよ」
小刻みに震える彼女に指をのばすと、その腕を強く引き寄せられた。
「エル……山本くん? わたし、あなたのことを絶対忘れないから」
オレは首を横に振ってみせる。
「大丈夫、忘れられる。エリュシエルはキミだけの恋人だけど、水梨悠乃はオレだけの恋人じゃない。銀のエリュシエルの名において、悠乃サンは自由だ」
解放の言霊──これで悠乃サンを縛る契約はなにもない。エリュシエルさえ、彼女を求めなければ。
「どういう、意味?」
彼女がまずい言葉を口にしないよう、指先で唇に触れた。
「愛してる……さよなら、悠乃サン」
そう口にして、忘却の魔法をかける。彼女は一瞬、目を見開いてから、ゆるやかに瞳を閉じた。
泣き出しそうだった空から、雨粒が落ちる。
静まり返った校舎を背に、輝く銀色の翼と、闇色の翼が飛び立つ。ふたつの影はまたたくまに雲の彼方へと消え去った。そして、しばらくすると、校舎にざわめきが戻り──なにごともなかったように、人の世の日々が戻った。
ただ、銀色の雨が、校舎をやさしくつつむように降りつづいていた。