chapter 4
雨音が静かに響く昼下がりの窓辺で、女は小さな蛙を膝にのせていました。すべらかな蛙の膚を女は愛おしげに撫でています。
かつて、女はこの国の王子の妃候補のひとりでした。物語から抜け出たような見目麗しい王子を、夜毎の舞踏会で女は見つめていました。王子はいつもやさしく女をダンスにいざない、礼儀正しく手の甲にくちづけて、はなれてゆきました。
ある日、麗しの王子を悲劇が襲いました。
北の森に棲む魔女が王子に蛙の呪いをかけたのです。王子の呪いを解くには、人の子の女のくちづけが必要なのでした。
女は王子のおとずれを待ちました。魔女の怒りをおのれの身に受けようとも、彼にくちづけを贈ろうと覚悟したのです。侯爵の娘のもとへ王子があらわれ、その娘が愚かにも彼にくちづけなかったことを聞き、喜びさえしました。
けれど、昼と夜をいくたびむかえても、王子はおとずれませんでした。やがて、魔女が不思議な死をとげたとき、女はそれが王子の為したことだと気づきました。
ああ、これで、あの方はお戻りになられる。女は王子を待ちつづけました。
魔女の産み落とした王女が五つの年を数えるころ、窓をぺたぺたと叩く音がかすかに響きました。
「姫君……わたしです」
懐かしく美しい声が耳に届きます。女は窓をあけて、小さな蛙を招き入れました。
「姫君、どうかわたしに貴方のくちづけをくださいませんか? そして、わたしの妻となっていただきたいのです」
やさしく誠実な声でした。蛙にくちづけても、死んでしまった魔女の怒りを恐れることはありません。待ち焦がれた麗しの王子の妻となれるのです。
女は、ひんやりとすべらかな蛙の膚を撫でました。そして、長い爪で蛙の膚をつるりと剥いたのです。
「もうこの国に貴方の居場所はないのですわ、麗しの王子様」
貴方は──遅すぎたのです。
貴方を迎えるはずのあたたかな場所は虚ろな洞に埋められてしまいました。
わたしのなかに貴方の居場所は、もう、ないのです。
4
こうなる予感はあった、けれど──蛙の賢者フロッグ・クェック・ゲーロックの名で知られるアルフィリオン・ディアン・ブリューエルは後悔した。
ふたたび侍従の青年に案内された客間は、広さは充分にあるものの、どう見ても一人部屋で寝室にはシングルベッドがひとつだけしかなかった。やはり悪趣味な蛙は客の数に入っていないらしい。
昼の鐘が鳴るころに運ばれてきた食事は、念を押すかのように一人分だった。
「どうしても行くんですか? 女王陛下のお茶会」
リディアが赤と緑のきれいなソースのかかった白身魚のソテーを美味しそうに咀嚼するのを眺めながら、わたしはうんざりした気分を声音に込めて言ってみた。
不本意ながら生きるために虫を捕った時代もあったが、魔法的生物となった今では食事を摂る必要もない。ひまなので、冷えたグラスに飛び込んで水の感触を楽しむことにした。
うん、冷たくて気持ちがいい。
「行きます。アルラウネ様に祝っていただくんです」
「なにを?」
「あなたと僕の結婚に決まっているでしょう?」
……無理だと思う。今さっき、互いに訣別の意志を確認したばかりだ。客の数にさえ入っていない。
「捨ててこいと言われたばかりでしょう?」
「捨てて欲しいんですか?」
そんな仮定は考えたくもない。だが、リディアにとってはそのほうがしあわせかも知れない。
「アル。今の間って、そのほうが僕にとってしあわせかも知れないとか考えたでしょう?」
彼女がわたしの思考回路をよく理解していることを喜ぶべきか、哀しむべきか。
「ねぇ、リディア。アルラウネは十三人の暗殺者を送るほどわたしを憎んでいるんです。赦すはずがないでしょう」
「でも、僕はアルラウネ様に祝ってほしいんです」
リディアがわたしの入ったグラスに手をのばして、目の高さに掲げた。自然と目が合う。
「アル! 目をそらさないで聞いて下さい」
かれこれ三百年近く、目をそらしてきたというのに?
明くる日の昼下がり、侍従の青年があらわれた。
「女王陛下よりリディア様をお茶の席へご案内するよう申しつかりました」
すでに支度をととのえていた若草色のドレス姿のリディアが、にっこりと笑って立ち上がる。
「ありがとうございます」
「恐れながら、それは置いていかれたほうがよろしいかと」
青年は男らしくととのった眉をひそめて、リディアの肩のうえに載ったわたしを一瞥した。
「彼は僕……わたしの婚約者です。一緒にまいります」
リディアがきっぱり告げると、青年は困ったように肩をすくめた。
「陛下は蛙がお嫌いなのですよ。いま、城内の庭園には一匹の蛙もいないはずです」
リディアの肩がびくりと震える。
「そのことはご承知おきください、若草の姫君」
青年はリディアの手をとり、やさしく微笑いながらくちづけた。息が触れるほど近くで、リディアの頬が朱にそまるのを、わたしは黙って眺めていた。
案内されたのは、王城の中庭に建てられた眺めのよい東屋だった。夏らしく涼しげな青い花々が風に揺れている。
「それを飼うのは悪趣味だと言ったでしょう?」
アルラウネは、リディアの肩のうえを見るなり、さも厭そうに指先でわたしの右脚をつまみあげ、逆さに吊るして右に左にぷらぷらと振った。
残念なことにこの程度の扱いなら慣れている。魔法使いになるまでは見世物小屋でさらし者になったり、貴婦人に膚を剥かれたり、雌の蛙に追い回されたり──想い出したくもないような目に遭っているのだ。
「アルラウネ様! お願いですから、やめて下さい。誤解なんです。彼はあなたがおっしゃっていたような人じゃありません」
リディアがなんとかわたしを取り戻そうとしてくれるが、背の高いアルラウネにするりとかわされてしまう。
「厭なら自分で厭だと言うでしょう? あら? わたくしとしたことが可笑しなこと。蛙が話をするはずがないわね」
乾いた声で笑いながら、逆さに吊るしたわたしのやわらかい腹を長い爪で弾く。膨らんだ蛙の腹がぷるぷると震えた。
「あなたもあなたです。どうして何もおっしゃらないんですか!」
リディアがわたしの瞳をのぞきこむ。
いまさら何を話すというんだ。贖罪か、それとも赦しを乞うか。どちらも、遅すぎる。
腹を弾くのにも飽きたのか、アルラウネはわたしをぽーんと放り投げた。小さな蛙はおそらくゆるい放物線を描いて、東屋から少しばかり離れた花々のあいだにぽとりと落ちた。
庭園をわたる風に夏草がゆれる。
葉の透き間から見える青い空は、あの日に似ていて。かつて、たった一度だけ、アルラウネと話をした日のことを想い出す。
淡い金色の巻き毛の幼い少女。大きな空色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちていて、葉隠れからそっと眺めるだけのつもりだったのに、思わず話しかけてしまった。
大嫌いな蛙にキスしてくれたきみを置いて、わたしは逃げ出したのだ。ひとりぼっちで泣いていた幼いきみを。話しかける資格はとうの昔にない。
遠くからアルラウネの凛とした美しい声が聴こえてくる。
「リディア。あなたには長いあいだ無理をさせたし、感謝もしているわ。たいていのことなら許してあげたいと思っているし、あなたが選んだ伴侶なら、女王の養い娘として国を挙げて祝福したいとも思っているの。でも──」
美しい声に鉄錆に似た濁りが滲む。
「あの薄気味の悪い化け物だけは駄目よ。いまだって見たでしょう? 人間の男があんなふうに逆さに吊るされて逃げ出そうともせずに黙っていられると思う? あれは性根が蛙なのよ。わたくしの父はとうに亡くなっているの。あれは父の名を騙って母を殺した、縁もゆかりもない狡猾な蛙」
そうだ、アルラウネ。そう思うのが、たぶん一番いい。
きみはたったひとりで強く美しい女王になった。無力な父はきみには要らない。
庭園にアルラウネの声が響く。
「それでね、素敵なことを思いついたの。あなたの花婿を選ぶために剣術大会を開きましょう」
ああ、やっぱり。こう来るか。
「アルラウネ様、僕はアルのことが」
「あれは人を誑かす狡猾な蛙。騙されるのも無理はないわ。けれど、剣術ならあれには手も足も出ないでしょう? 魔法は禁止ですもの。いい気味だこと」
たしかに魔法を禁じられては手も足も出ない。ここでリディアが断っても、アルラウネは剣術大会とやらを強行に開催するだろう。
「アルラウネ様、僕は」
そこで、リディアは言葉に詰まった。
ああ、厭な予感がする。
「……そうですね。剣術大会はよいかも知れません」
え……っ?
「では、大会は二週間後ということで公示しましょう」
「ありがとうございます、アルラウネ様」
なぜ、断らないんだ──わたしがいるのに。
「リディア、どうして」
思わず、ぽつりと口をついた。
「……本当にしゃべった」
真上から降ってくる低い声に顔をあげると、葉の透き間から青い瞳がのぞいていた。