chapter 5
陽の射すことのない昏い森の小さな庵で、黒髪の娘は赤々と燃える炎を凝視つめていました。
風のない晩夏(おそなつ)の宵のこととて、娘の白い肌にうっすらと汗がにじみます。庵に満ちるのは、つんと鼻孔をつく没薬の匂い。耳の痛くなるほど静まりかえった森の庵に、ときおり炎の爆ぜる音が微かに響きます。
ふいに、ゆらめく炎の中に眩い光が浮かびあがると、光は人のすがたを結び、娘にむけてやわらかく微笑みました。
半月ほどまえ、娘にむけられた微笑み。
ゆったりと白馬をうたせて、人々に微笑みかけるその人を見たのは、娘が身の回りの品を調えるために、森からほど近い街におりたときのことでした。母方に妖精族の血をひくという、この国の第二王子。彼は、この世の光を一身にあつめたかのように眩く輝いていました。白い花吹雪の舞う中、人々はみな、熱に浮かされたように馬上の貴人を見つめ、歓声をあげています。
刹那──真夏の熱を孕んだ風が、彼の輝く髪をふわりとかきあげ、その淡い空色の瞳が娘のすがたをとらえました。そして、娘にむけてやわらかく微笑んだのです。
灼けつくような痛みが、娘の裡を走り抜けました。
同じ人としてこの世に生を受けながら、ふた親の顔も知らず、森の魔女に拾われるまで、日々の食べ物にさえ事欠き、春をひさいで糊口をしのいだ自らとのあまりの差異に、胸が痛むのだと娘は思いました。
先代の魔女が亡くなり、今ではひとり住まいになった北の森の庵に戻ってからも、娘の裡からその人の微笑みが消えることはありませんでした。見あげた月に、星降る湖の面に、ゆらめく炎に、遍く光あるところに彼の微笑みが浮かぶのです。
あれほどまでに光り輝くのは、人の世の闇を知らぬ浅薄さゆえ。ならば──闇を知ったなら、あの微笑みはどう変わるのだろう。
5
わたしは『蛙の賢者』だ。
蛙の姿でなら、おそらくこの世で一、二を争う魔法の使い手だ。だが、『人』であるわたしは膨大な魔法の知識を持つただの男にしかすぎない。
「第一案『魔法で嵐を起こして剣術大会を無効にする』、第二案『女王に魔法をかけて公示できないようにする』、第三案『今すぐここから逃げ出す』。リディア、どれかを選んでください。ちなみに、わたしのおすすめは第三案です」
客間に戻ってすぐに、わたしはなるべく軽い調子で提案した。リディアが即答する。
「すべて却下です! ただでさえ、狡猾で邪悪な蛙なんて誤解を受けているのに」
少しは検討してみてもいいだろうに。
「ですから、リディア。やっぱり穏便に逃げましょう。ね? ここで逃げれば、臆病で軟弱な蛙に評判が変わるかも知れません」
「アル!」
「いいんですよ、わたしの評判なんて。わたしの望みはただ、あなたとのんびり暮らしたい、それだけなんです」
本当にそれだけなのだ。他にはなにも要らない。リディアがそばにいて、笑って暮らしてさえいられれば。
リディアはうつむいた。
「……あなたはそれでいいかも知れません。でも、女王様はどうなるんです? あなたの、娘は?」
わたしの、娘。
父は死んだと言っていた。わたしを憎み、わたしの存在を消し去った娘。わたしが、見捨てた娘。
「あなたは……アルラウネよりわたしの言葉を信じると、言ってくれたでしょう。あの時、アルラウネではなくわたしを選んでくれたんじゃなかったんですか?」
ああ、こんなことを口にする、わたしは卑怯者だ。
思いがけなく掠れたわたしの声に、リディアは狼狽えたようにくちびるを震わせ、歯を食いしばった。
「僕は今でもあなたの言葉を信じています。でも、アルラウネ様をこのままにして、僕たちだけがしあわせになるのも厭なんです」
そう呟くように叫んでから、肩のうえのわたしにそっと頬を寄せ、くちづける。ひんやりとした小さな蛙の躯をあたたかな涙が濡らした。
しばらくして彼女がわたしの躯をそっと持ち上げた。そして静かにテーブルに置くのを、わたしはただ凝視つめていた。しだいに彼女の足音が遠ざかる。こうなる予感はあった。だから、アルラウネのもとへ連れてくるのが怖かった。
リディアを失うことが──あの日、アルラウネを見捨てたわたしへの罰なのかも知れない。
その日の夕べ。女王アルラウネの名において、養い娘リディアの花婿を決めるための剣術大会が、二週間後に催されることが公示された。
時は深更。
真夏の夜は熱を孕んだ命に満ちて、王都を走る水路に精気を注ぐ。水路は蛇のごとく蜷局(とぐろ)を巻き、精気は血のごとく王都をめぐる。水路より王城の堀へと導かれた精気は回廊をわたり、渦を描いて王城の中央に吸い込まれる。
王城の中央に聳えるは魔女の住まう女王宮。王都の水路と王城の回廊とは、すなわち女王宮に精気をあつめる巨大な魔法陣である。魔法陣は幾層もの結界を形成し、王都とその核たる女王宮を守護していた。
ひゅるん。風が鳴る。
王都の核へと、小さな影が跳ぶ。
蛙の賢者フロッグ・クェック・ゲーロックの名で知られるアルフィリオン・ディアン・ブリューエルは、女王宮へと向かっていた。日頃のどこにでもいそうな雨蛙の動きではない。蛙の賢者は四本の脚に魔法の呪をのせて、闇を切り裂くように、王城の上空を大きく弧を描いて跳んでいた。
ひゅるん。
アルフィリオンが低く呪を呟くたび、膜のような結界が仄白く閃き、するりと蛙の姿を呑み込む。巨大な結界の綻びを幾度もすり抜け、小さな蛙は女王宮の天窓にたどりついた。
ブリューエル家の紋章である剣と薔薇の意匠を施した天窓から、女王宮が遥か地下深くまでつづくのが魔法使いの目には視えた。
ぺたり。
蛙が剣の柄の部分に、みずかきのついた小さな手をあてると、鞘のない刀身が虹色にきらめいた。
『そなたの名は』
剣が問う。蛙はためらうことなく応えた。
「アルフィリオン・ディアン・ブリューエル」
蛙の声に刀身が眩しい金色に輝く。
『そなたをブリューエルの末裔(すえ)と認めよう』
言葉とともに、金色に輝く剣は蛙の小さな躯に吸い込まれ、気づくと蛙の躯は女王宮の闇の中に在った。
アルフィリオンはふわふわと浮かびながら、静かに地下へと降りてゆく。女王宮の地上部分の一室にリディアの気配を感じたが、あえて無視した。
王子であったころ、女王宮──かつての『王の間』の地下を訪れたことはあったが、代々の王の霊廟と聖なる泉があるのみで、それより奥にはなにもなかったはずだ。だが、短い祈りを捧げて霊廟の間を抜けると、魔法使いの目には下へと降りる細い螺旋階段が視えた。
その、螺旋階段への入口に、すらりと背の高い女の姿があった。ゆらゆらと腰まで流れ落ちる金色の髪、眦のあがった空色の瞳。紅い唇がゆっくりと口角をあげて嗤う。
「なぜ、わたくしの嫌いな蛙がここにいるのかしら?」
「……アルラウネ」
魔女はぴくりと蛾眉をはねあげた。
「なぜ、蛙が口をきくのかしら?」
「リディアとの結婚を、赦してくださいませんか」
魔女の髪が、蛇のように長く伸び、蛙の腹を鋭く貫く。
「なぜ、腹を貫かれても、この蛙は生きているのかしら?」
魔女は冷たい霊廟の床にくりかえし蛙を叩きつける。
「なぜ? 王城の蛙はすべて殺したはずなのに」
「ア……ルラウネ……わたしは不死身なんです」
魔女は蛙の躯に細い靴の踵を落とした。ぶつり、と厭な音がする。
「そうね、おまえは不死身だわ。蛙のおまえは──ならば」
魔女はくつりと紅い笑みを刷く。
「人の姿になりなさい。なんの力も持たぬ、無力な、ただの男に」
魔女の足下で蛙がぴくりと震えた。
「震えているのかしら? わたくしを恐れるあまり、人の誇りを捨て、醜い蛙として生きることを選んだおまえは」
魔女の耳に蛙の掠れた声が響いた。
「アルラウネ、すまない」
蛙が仄かに光ると、淡い金色の光が魔女の足をそっと持ち上げる。悔しげに眉をひそめる魔女の足下で、ずたずたに千切れた蛙の四肢が再生し、またたくまに傷口が癒えた。
金色の光が眩しく閃いた時。
魔女のまえに頭半分ほど丈高い男の姿があった。男は白いシャツに黒いズボンの簡素な身なりだが、貴公子にしか見えない風情をまとっている。一瞬、魔女は目を見はってから、自分をじっと凝視つめる男の淡い空色の瞳に気づき、その秀でた額にすばやく封じの呪印を描いた。
「愚かな蛙。人の姿のおまえにはなんの価値もないというのに」
蛙の姿をしていた男は、君主に対する作法通りの優雅な所作で膝をつき、深くこうべを垂れた。
「如何なる罰でもお受け致します。女王陛下」
王家の霊廟に末の王子の声が響いた。