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アルフィリオンと三人の姫君



10



 

 この日一番の歓声が競技場を包みこんだ。
 人々は口々に女王を讃え、フレデリック・クロアとリディアを讃え──アルフィリオン・ディアン・ブリューエルを讃えた。
 どこかよそよそしく響く「アルフィリオン殿下、万歳」の声に、当の本人は酷く苦いものを口にしたような表情を浮かべてから、額に手をあてうつむいた。そして、跪いた若者の耳許になにかをささやく。煉瓦色の髪の若者がちいさくうなずくと、物語の王子が姫君に対するように、恭しく手をさしのべて立ち上がらせ、きつく抱擁した。
 守護騎士フレデリックを驚くほど長く抱擁したのち、アルフィリオンは貴賓席の女王を見上げ、ゆっくりと階(きざはし)をのぼりはじめた。王族の証である薔薇と剣の紋章をマントの背にひるがえす軽やかな足どりは優美にして華麗、ついさきほどの試合で無様なようすをさらしたそのひととは思えない。
 女王の足下に膝をついたアルフィリオンは、浅くこうべを垂れ奏上する。
「陛下。リディア姫をわたくしの妻とすることをお許しいただき心より御礼申し上げます」
 いつのまにか静まった場内に、アルフィリオンの玲瓏な声が響く。女王に向けた言葉が君主に対する二重敬語でなくなったのに気づき、側近のひとりは顔を歪めた。臣下ではなく、法的に王太子であることを体現したふるまいだった。
「しかしながら、ひとつ問題がございます」
 アルフィリオンの言葉の間に、場の空気が揺れる。
「申してみなさい」
「わが剣術はただいま御身でご覧になった通り、酷いものでございます。これでは、いかにフレデリック・クロアが護衛として秀でていようと心もとありません。陛下がまことに王族としてのわたくしを必要となさるのならば、わたくし自身でこの身を護れるよう──」
 言葉を切って顔をあげ、アルフィリオンは残った右眼でじっとアルラウネの顔を見つめた。
「陛下が封印なされた魔法の力を、お返し下さい」
 魔法──の言葉に観衆がざわめく。
 アルラウネは苛立たしげに眉根をひそめた。父と娘のよく似た淡い空色の瞳が対峙する。そして、低く響く声が沈黙を破った。
「女王アルラウネが後ろ盾になると言っているのです。人として伴侶とともに余生を送るのも悪い選択ではないでしょう?」
 娘のひとことひとことをかみしめるようにうなずいてから、アルフィリオンは白薔薇が揺れるように微笑んだ。
「人として生きる機会を与えて下さいましたこと、深く、感謝いたします。されど、わたしは『蛙の賢者』ゆえ、魔法はわたしにとって息を吸うのと同じこと。蛙の姿であることも哀しいほどに自然なことなのです」
 アルラウネは苦く微笑って、長い、長いため息を吐いた。そして、目のまえで膝をつくアルフィリオンにしか聴こえないほど小さく「本当に頑固で面倒な男」と呟く。次いで、魔法にのせた女王の声が朗々と響きわたった。
「辺境の水無村より『蛙の賢者』の帰還嘆願書が届いています」
「……えっ?」
 アルフィリオンの驚いた声に、女王が人の悪い笑みを浮かべた。彼女が立ち上がり掌を上にかざすと、そこにやわらかな光の球が浮かびあがる。観衆の見守る中、光の球から実体を結んだのは一通の書状だった。手品のように鮮やかな手つきで分厚い書状を広げたアルラウネは、つんと顔をあげて口をひらく。
「曰く、『蛙の賢者』は村の守り神ゆえに、蛙なくしては村の水源は涸れ果て、村は立ち行かなくなるとのこと。曰く、『蛙の賢者』は村で唯一の医師であるがゆえに、蛙なくしては村の者は病に冒されたなら三日以上かけて隣村の医師のもとへ行かなくてはならないとのこと。曰く、『蛙の賢者』は村の長老であり、誇りであり、語り部であるがゆえに、蛙なくしては人々は哀しみにくれ、心安く暮らせぬとのこと。これらの理由から、速やかに『蛙の賢者』の帰還を乞い願う──要約すると以上ですわね」
 うつむいて聞いていたアルフィリオンがぽつりと訊き返す。
「それは……本当に? 水無村から?」
「ええ」
 短く応えが返る。アルフィリオンはふるえる顔をあげ、濡れた瞳で娘をみつめてささやいた。
「ありがとう、アルラウネ」
 娘は一瞬目をみひらいてから、口元を歪め、悔しげにアルフィリオンをにらみつけた。
「アルフィリオン・ディアン・ブリューエル。立ちなさい」
 音もなくするりと立ち上がったアルフィリオンを、アルラウネが見上げた。
「魔法の力を返しましょう。これよりは水無村のみならず、わが国の治水をそなたに任せます。『蛙の賢者』アルフィリオン・ディアン・ブリューエル」
 女王の指がアルフィリオンの額に触れる。刹那、金色の魔法陣が閃き、溶けて消えた。同時に丈高い金の髪の青年の姿も消え、そこにはちょこんと座る小さな蛙の姿があった。
 競技場がどよめく。よほど貴賓席の近くでない限り小さな蛙の姿は見えず、アルフィリオン突然が消えたように見えたのだ。
 その時。蛙が大きく跳ねて、女王の肩の上におさまった。
「っ……!」
 引き攣った女王の頬に蛙はかろやかにくちづけて「ありがとうございます、女王陛下」と、青年の姿であった時と同じ、きれいな声で礼を口にした。
「あれ、蛙か?」
「たぶん……蛙だな」
「『蛙の賢者』と言うからには、蛙なんだろう?」
 戸惑う場内に、さきほどの少年がぼそりと呟いた。
「なんだ、やっぱり蛙なんじゃない」


 わたしを肩に載せたまま、魔法で書斎に転移したアルラウネが柳眉をはねあげる。
「いい加減に、わたくしの肩から降りてくださらないかしら? 蛙は嫌いだと何度も言っているでしょう?」
 さも厭そうにわたしの片脚をつまみあげ、顔の前にかざすと、茶会のときと同じように右に左にぷらぷらと振られて目と目が合う。
「酷いなあ、小さなころはキスしてくれたのに」
 アルラウネはわたしの膨らんだ腹を長い爪で弾いた。
「あの日以来、わたくしの前では口もきけなくなった臆病者のくせに、どうしていきなり馴れ馴れしい口をきくようになったのかしら?」
「蛙の嫌いな女王様のくせに、なぜかわたしをやさしく治療してくれた人がいるせいかな」
 アルラウネはぴくりと片眉をつりあげた。
「……なんのことかしら?」
「きみの侍従は魔法が使えない、だろう?」
 剣術大会で感じた、ジェイル・ラグレインへの違和感。
 牢を訪ねてくれた時と同じ姿、同じ声、同じ言葉遣い、なのに今日の彼はどこか違っていた。
 八つ当たり気味に「きみが治療してくれれば早いだろうに」と口にしたわたしへの怪訝な反応がすべてを物語っていた。ジェイルに治癒魔法は使えない。ならば──。
「残念ながら、本物のジェイルとはこんなふうにぽんぽんと話がはずまないんだ。牢でわたしを治療してくれた話好きの侍従は、きみだろう?」
 あの時のジェイルはなぜか、わたしの昔話を楽しそうに聴いてくれた。皮肉屋で、頭の回転のいい、世話好きな青年。わたしをからかうのが好きなくせに、昔、膚を剥かれたことがあると言ったら、本気で怒ってくれた。
 彼女はすっと視線をそらすと、近くにあった深紅のクッションのうえに小さな蛙をそっと置いて白い背中を向けた。
「アルラウネ」
 わたしは人の姿に戻って、窓辺に立つ彼女のそばに歩み寄った。窓にかけられた繊細なレースがアルラウネの仄白い顔に淡い影を落とす。
 わたしによく似た空色の瞳。わたしとは違うほっそりとした華奢な肩。わたしの──娘。
 ゆらゆらと波打つ長い髪の一房に躊躇いがちにくちづけた。振り払われることはなかった。
「すまない、アルラウネ。はじめはきみに逢いにゆくためにはじめた魔法修行だった。王子でもなく、人間でさえない、ただの蛙には娘に逢う資格なんてないと思ったんだ」
 情けないほど声が震えてしまう。しばらくのあいだ、アルラウネは黙ったままわたしを見上げていた。そしてきつく眉を顰めてから、火傷で引き攣れたわたしの左頬に爪を立てた。
「それで? 大好きな魔法修行に夢中になって、娘のことなどきれいに忘れたのね?」
「違う! 妖精の森の三年が、こちらでは百年だなんて思ってもみなかったんだ。魔法修行を終えて帰ってきたら、すべては終わっていたんだ。きみは立派に成人して、女王になっていて、わたしはもう──」
 アルラウネは焼け焦げて穴があきそうなほど、じっとわたしを見つめた。
「……信じられない間抜けだわ」
 我が事ながら賛同する。
 母に似た娘の白い指先が、黒くひび割れた左の頬、目蓋、額をたどった。
「不思議ね。あれほど欲しかったものが、いまはもう、ちっとも欲しくない」
「……そうか」
「蛙を選ぶ男なんて灰にしてしまえばよかった」
 言葉とは裏腹に、白い指の触れた先から傷痕が癒えるのを感じた。
「蛙を父とは呼ばないわ」
「すまない」
 ひんやりとした娘の手をとり、その甲にくちづけた。
「それでも、わたしはきみの父親だ」
 冷たい指先が微かに震える。
「アルラウネ。きみのことを忘れたことは、一日たりとてないよ」
 娘は、呆然と目をみひらいて。
 ほんの一瞬、ふわりと笑んだ。


「そういえば」
 ふたたび口をひらいた娘は人の悪い笑みを浮かべていた。
「あの時、ジェイルに、娘の侍従はつらいのか──そう訊いたわね? わたくしの侍従をつとめるのがつらいって、どういう意味かしら?」
 ああ、あの時のわたしを穴に埋めてやりたい。
「あ、あれは失言だった。世話になった男に対して、つい、同情したというか。その、きみは根はやさしいけれど、やっぱり若い男が神経をすり減らして……いや、臆してしまうくらいには気が強いというか……」
 拙い。言えば言うほど、深みにはまっていく気がする。
 おそるおそるアルラウネの顔を見ると、夏だというのに冷ややかな視線に凍りつきそうになった。
「これのどこが賢者なの。こんなものを王に推す声があったなんて呆れてものが言えない」
 アルラウネは長い長いため息を吐くと、凛と響く王の声で告げた。
「水妖の魔法使いであることを選んだからには、国の治水に務めなさい。少なくとも、ジェイル・ラグレインを婿にするより賢明な判断だったと皆に認めさせなさい。王太子アルフィリオン」


To be continued
2010.12.16
Written by Mai. Shizaka


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