福野礼一郎さんの自動車評論

04年11月7日


フェラーリ365GT4BBについての論、ポルシェ911はゴシックであるという論などは面白いです
 
8月に福野礼一郎さんの 「超 クルマはかくして作られる」 を読んで以後、福野礼一郎さんの 「クルマはかくして作られる」「ホメずにいられない」「幻のスーパーカー」「いよいよ自動車ロン」「極上中古車を作る方法」 を購入して読み、さらに既に読んでいた 「自動車ロン」「またまた自動ロン」 も読み返しました。

福野礼一郎さんの自動車評論に対する姿勢はあくまでも機械として出来がいいかどうかです。「いよいよ自動車ロン」 では次のように書いています。

>俺は自動車評論家だから、「いい/悪い」しか言わない。それしか言う権利はないと思ってるからね。「出来が悪いけど楽しいからいいクルマです」 なんてフォローもしない。

これは何かとても斬新なような気がしました。実際福野礼一郎さんの評論は自動車がまずは機械として良く出来てるかどうかに最大の重点が置かれています。これは考えてみれば当たり前のようにも思うんですが、しかしこれまでの自動車評論はこのところを軽視しすぎていたような気がします。

例えば徳大寺有恒さんはこんな内容のことを言ってました。
「クルマは少しくらいボロだっていい。乗って楽しいかどうかが大事なんだ」

これは気持ちとしては大変に同意できるんですが、しかしなぜか今までこうした評論には抵抗を感じていました。「楽しいかどうか」 は確かにもっとも大事なものでしょう。特にマニアにとってはその通りです。しかし 「機械として良く出来ていることをそれほど軽視していいんだろうか」 という思いもありました。

私が高校生だった40年前ころは自動車雑誌はいわば国産車のヨイショ記事を書いてました。これを打ち破ったのが小林彰太郎さんのCARグラフィックです。
「小林彰太郎の世界」 によれば当時国産車をテストするときにはメーカーから 「お目付け役」 が同行したそうで、またCARグラフィックは過酷過ぎるテストをするということで車を貸してもらえないこともあったそうです。

しかしCARグラフィックが「成功」してからは今度は逆に国産車を必要以上に悪く言う評論がまかり通っていたように私は思います。これはオートバイ雑誌も同じことです。
例えば別冊モーターサイクリスト91年2月号にホンダST1100のロードインプレッションが掲載されてますが、そこには次のように書いてあります。

「非の打ちどころがない。それがSTの印象だ」
「ツアラーとして過不足のない仕上がりには恐れ入る」

しかしそのあとに次のようにも書いてあります。

「しかし癖や欠点のないものがいいバイクなのか」
「味わいということになればSTはきわめて無味無臭に近く、存在感も薄れがちだ」

これは明らかにおかしい評論です。ST1100は長距離専用の高速ツアラーですから癖や欠点がなく非の打ちどころがない、このこと以上の価値が何か他にあるでしょうか。
こうしたいわれのない批判が日本車に対して多かったように思います。味わいが大事だといいながら味わいとはどういうものなのかは何も書いてありません。

福野礼一郎さんはあくまでも機械として出来がいいかどうかを論じてます。セルシオやセンチュリーの出来のよさを正確に書いてます。こうしたクルマを嫌いだという人もいます。
しかし好き嫌いはその人のご自由に、という姿勢ですね。

これは私はいい評論だと思います。センチュリーのウッドパネルが 「屏風継ぎ」 で作られていることや革に関する解説などはこれまでの自動車評論にはなかったものです。
小林彰太郎さんはいつだったか、カーグラフィックを作るにあたり 「暮らしの手帳」 の自動車版を作りたかったというようなことを書いていたと思いますが、機械としての出来不出来を最大のテーマとする福野礼一郎さんの自動車評論は本質的にこれに通じるものだと思います。

クルマの場合パッケージングが如何に重要であるかを書いてます。「幻のスーパーカー」ではフェラーリ365GT4BBと一連のV12ミドシップカーのパッケージング上の基本的問題について詳しく書いてますが大変面白く読みました。また文章がとても読みやすく、読者に良くわかってもらおうという意思を感じます。書いてあることは大変に論理的です。

ある某A誌でも04年6月発行の号で(「幻のスーパーカー」の3ヶ月後)、365GT4BBの問題点について書いてましたが、この雑誌などは「てにおは」がおかしいので1ページスムーズに読めた試しがないです。

私としては初めてカーグラフィックを見つけたときと同様のある種の革命的感触を得ました。

 
「ダメグルマ、ポンコツ車を見抜く方法」 は一読の価値ありです

 

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