07年5月27日
第2回日本グランプリで式場壮吉のポルシェ904を一時リードする生沢のスカイラインと 第3回日本グランプリで滝進太郎のポルシェ・カレラ6をおさえる生沢のプリンスR380 オートスポーツ67年5月号 |
60年代にあった日本グランプリについてまとめてみました。 鈴鹿サーキットの完成(1962年) 62年9月に鈴鹿サーキットが完成しました。これは本田宗一郎さんが日本にも国際レースができるサーキットが必要だと考えて作られたものです。そして日本グランプリを開催することとなりましたが、当時は国際レースを開催するためのFIA(世界自動車連盟)に認知された実効的な組織は日本にはありませんでした。 そこで鈴鹿サーキットは(と言うことはホンダが、藤沢武夫さんが中心となって)JASA(日本自動車スポーツ連盟)を作り、第1回はJASAの主催とし、第2回以後は新しく設立するJAF(日本自動車連盟)が主管することとなりました。 第1回日本グランプリ(1963年) 国内レースと外国招待選手によるメインレースがありましたが、国内レースではホイールが外れたりフロントスクリーンが外れたり、デフが割れたりと今では考えられないような初歩的なトラブルが続出しました。サーキットでは空気圧を高めることさえ知らない人も多くいたそうです。 外国人によるメインレースではロータス23Bが圧倒的な速さでフェラーリやアストンマーチンを退けて1〜3位を独占し、純粋なレーシングカーとGTとの速さの違いを見せ付けました。優勝したピーター・ウォーは後に中島悟がロータスに乗ったころにレーシングマネージャーをしていた人物です。 国内レースはエンジンをいじることは許されていませんでしたが、どのチームもいじっており、フェアレディーは大方の予想を覆してトライアンフTR4を下しクラス優勝しましたが、市販車のシングルキャブの代りに輸出用と称してツインキャブが付けられてました。プリンスは規則を守ったために惨敗し、櫻井眞一郎さんは上司から「馬鹿正直にもほどがある」と責められたそうです。 第2回日本グランプリ(1964年) メインレースはフォーミュラカーでしたが、盛り上がったのはなんと言ってもGTUクラスですね。砂子義一、古平勝、杉田幸朗、殿井宣行、大石秀夫、須田祐弘、生沢徹の「プリンス7人の侍」を擁するプリンスがスカイライン2000GTで式場壮吉のポルシェ904GTSと戦いました。 レースはポルシェの勝利に終わりましたが、生沢のスカイラインが一時ポルシェをリードしたことが大きな話題となりました。この件については後に生沢自身が90年頃のある雑誌での確かミッキー・カーチスとの対談で「式場君に一周だけでいいから先を走らせてくれと頼んだんだ」と告白してますが、式場が生沢の頼みを聞き入れて抜かせたのかどうかは不明です。 式場壮吉がポルシェで出場したことに関して、式場が当時トヨタのワークスドライバーだったことから、プリンスに勝たせたくないトヨタが画策したのではないかといわれました。 |
65年に発表されたプリンス R380 これはプリンスのカタログです |
第3回日本グランプリ(1966年) この年からフジ・スピードウェイで開かれることとなりメインのグランプリはプロトタイプスポーツカーで争われることとなりました。第2回ではグランプリはフォーミュラカーによるレースでしたから、これはプリンスが新たに作ったR380を出場させるための方策としか思えませんでした。 打倒ポルシェに燃えるプリンスが4台のR380を出場させ滝進太郎のポルシェカレラ6と戦いました。このレースは私もテレビで見ましたが、私はポルシェに勝ってほしいと願いました。プリンスはその前年にR380を完成させていましたが、欧州やアメリカの本場のレースに出る気配はなく、どういう意味があるのか良くわからない速度記録を立てたりしていました。 そうしたやり方がF1GPに出て戦うホンダと比べるといかにも姑息なように思いました。国内しか走らないR380をポルシェが打ち破ってほしいと期待しましたが、レースは生沢のR380が滝の抑えにまわる間に砂子のR380が逃げて優勝しました。プリンスの燃料補給が早かったということもあります。 戻ってきた生沢に観客から「馬鹿野郎。汚いまねしやがって」と罵声が浴びせられましたが、生沢は勿論チームの作戦に従っただけです。私は汚いとまでは思いませんでしたが、たった1台のプライベート相手のプリンスの勝利は誇れるものではないと思いました。(レギュレーションもプリンスが捻じ曲げたと私は解釈してます) |
第4回日本グランプリをポルシェ・カレラ6で制した生沢徹 オートスポーツ67年6月号 |
第4回日本グランプリ(1967年) 第3回日本グランプリのあと生沢はイギリスに渡り本場のF3に挑戦しました。この時の生沢の活躍はオートスポーツで見ることができましたが、私は生沢を心の中で応援しました。 第4回日本グランプリを前に生沢は帰国して、プリンスを吸収合併した日産に自分を日産車に乗せてくれるように頼みますが、日産は生沢の依頼を拒否しました。生沢は短時日のうちに三和自動車からポルシェ・カレラ6の提供を受け、日本ペプシ・コーラやVANジャケットなどから援助を受ける契約を取ることに成功しました。式場壮吉のシキバ・エンタープライズ(RACING MATE)も生沢の援助をすることとなりました。 かくして開催された第4回日本グランプリは私にとってはもっとも印象深い日本グランプリとなりました。生沢は4台の日産R380Uを打ち破って優勝しました。このレースはコカ・コーラがスポンサーとなっており、表彰台に立った生沢にコカ・コーラが差し出されましたが、生沢はこれを断り、隠し持っていたペプシ・コーラを高々と掲げました。 ’68日本グランプリ この年からこういう名称に変わりました。日産は必勝を期してなんとシボレー5.5リッターエンジンを載せたR381を3台とR380Vを出してきました。勝ちさえすれば見栄も外聞もどうでもいいという日産のやり方にはがっかりしました。 これに対し滝進太郎はタキ・レーシングチームを作り、ローラT70MkV(6.3リッター)2台とMkU(5.5リッター)1台、さらに2リッターのポルシェ910とそろえました。トヨタも3リッターのトヨタ7を出し、TNTの激突といわれました。 滝進太郎はスーパーマーケットを経営してると何かに書いてありましたが、スーパーマーケットはそんなに儲かるのだろうかと思いました。 レースは北野元のR381が勝ち、生沢の910が2位に入りました。ローラT70はCAN−AMシリーズなどを戦っていたクルマで、本領を発揮できればR381に負けることはなかっただろうと考えられますが、恐らくローラからのサポートがあまりなくクルマを仕上げることが出来なかったんだろうと思います。ポルシェのほうは日本でロードカーを販売してる関係でしょうが、専任メカニックを派遣するなどかなり強いサポートがありました。 こういう状況になったらワークスがプライベートより強いのは当然であり、私はもうどうでもいいやという気分でした。 ’69日本グランプリ ’69は日産は日産自製の6リッターエンジンを載せたR382を3台出場させました。 すでにこのころ私はもう好きなようにやってくれと言う心境でした。 その後 70年の日本グランプリは中止となり、71年から再開しますが、これは(もともとの姿だった)フォーミュラカーによるものであり、プロトタイプスポーツカーによるものは69年が最後となりました。 60年代の日本グランプリは言ってみればメーカーの宣伝合戦であり、またメーカーとプライベートの戦いでもありました。プリンスや日産がしたことは少なからずみっともないものだったと私は思いますが、これも成長のための一過程と捉えるべきなのでしょう。 |
必勝を目的に現れたシボレー5.5リッターエンジンの日産R381と 3リッターのトヨタ7 表紙には第5回日本グランプリとあるが、正しくは’68日本グランプリ カーグラフィック68年6月号 |
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R382 ニッサングラフ 1969年 左端の人が櫻井眞一郎さんらしいです |