序章 石川啄木と妻節子

        子を負ひて 雪の吹き入る 停車場に
     
                  われ見送りし 妻の眉かな

多くの人々の感動をよぶ繊細な名歌を数多く詠んだ薄幸の歌人、石川啄木は明治四十五年 東京小石川で結核のため二十七才の生涯を終えました。
啄木は 妻節子 との結婚式の日、行方をくらまし、花婿のいない結婚式であったそうです。
知人の多くは 啄木は無責任な男である と断じて絶交しました。
啄木の母校 盛岡中学校は幾多の人材を輩出した名門校。
しかし啄木は不運にも退校処分を受け、上京してからも世に認められず、不遇な生活を送ったようです。
女は子供さえ産めば世間に認められますが、男は生活能力を示す必要があります。啄木は妻子を養う力が無く、ために結婚式への出席を恥じたのでしょう。
啄木はその気性から平易な生活を送ることが出来ず、一家は貧困に苦しみます。
啄木の母も妻節子も結核で亡くなりました。
この歌は糧を求めて単身、酷寒の地 釧路へ赴く時の小樽駅頭のありさまです。
今世紀の初め、貧困と病気に絶望した若き歌人の心が偲ばれます。


             第一章 あねさまと慕われて

のちに啄木の妻となった 堀合セツ は明治十九年十月十四日 岩手県盛岡市の郊外で生まれ、五才の時市内に移りました。彼女は士族で官吏という恵まれた家庭の長女として父母の愛と期待を一身に受けて育ちました。
やがて多くの弟妹が生まれ、節子は三男六女の長女として 弟妹たちから “姉様” と慕われながら成長します。
普通、一般に このような大家族では、長姉が母親の代わりとして、幼い弟妹達の世話をするのが普通ですが、節子にはそのような話は伝わっていません。
恵まれた堀合家では女中や子守りがいたのでしょう。
節子は 盛岡第一尋常小学校、盛岡高等小学校、盛岡高等女学校と進学します。
この頃は 高等小学校に進学できる人さえ少なかった時代ですから よほど経済的に恵まれ、かつ、成績もよかったのでしょう。
節子の父はさらにバイオリンを買い与え習わせます。
やがて、節子は文学と音楽の得意な美しい少女に成長していきます。

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