第 1話     戸板で帰っていった老女

ひつじさんが大学を卒業して5年ばかりたった頃のことです。
その頃ひつじさんは300床ぐらいの大きな市民病院で、外科の中堅医師として働いていました。
ある夜のこと、山奥の開拓村で 一週間前からお腹が痛くて苦しんでいる女性を診て欲しいとの連絡がありました。
きっとひどい虫垂炎であろうと予測したひつじさんは 手術の準備をして待つことにしました。
四時間ほどして、一人の老女が戸板に乗せられて運ばれてきました。
お腹はもう膨れあがり、ひどい腹膜炎です。すぐに開腹してお腹の中に溜まった膿を出さなくてはなりません。
ひつじさんが家族に手術の必要なことを説明していると、その老女が 必要な治療費の額を尋ねてきました。
一般にお医者さんはそんなことは知りません。
そこで事務当直の人に聞いてみました。
手術を含め、入院治療に必要な金額を聞くと、老女は 「お金は孫のために使います」 と言うとまた戸板に乗せられて帰っていきました。
日本で“国民健康保険”が始まり、自己負担額が四割だった頃の話です。

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