*** クリスマスの歴史 ***
BGM 「Amazing Grace 」
〜アメージング・グレース〜
賛美歌第2編167番
イエス・キリストの降誕記念日。
クリスマスは英語でキリスト
Christ のミサ mass の意味。
<Xmas> と書く場合のXは、ギリシア語のキリストの第1字を用いた書き方である。
フランスではNoel、イタリアではナターレNatale、ドイツではワイナハテン
Weihnachtenという。
また、12月25日を<クリスマス・デー>、その前夜を<クリスマス・イブ>、
クリスマスから公現祭(1月6日)の前日(ときには1月13日、または聖燭節=
2月2日)までを<降誕節Christmastide>と呼ぶ。
[起源]
新約聖書には、マリアの処女懐胎に始まるキリストの誕生について記されている。
しかし、その日がいつなのかということは、語られていない。
このため、初期キリスト教徒は1月1日、1月6日、3月27日などに、
キリストの降誕を祝したが、教会としてのクリスマスを祝うことはなかった。
クリスマスが12月25日に固定され、本格的に祝われるようになるのは、
教帝ユリウス1世(在位337−352)のときであり、
同世紀末にはキリスト教国全体で、この日にクリスマスを祝うようになった。
一般に、この時期に大きな祭りを行うことは、古い時代の社会慣習であった。
なかでもキリスト教会が改宗を願っていたローマ人やゲルマン人の間には、
冬至の祭りが盛大に行われていた。
12月25日は、ローマの冬至の当日であり、
その日は<征服されることなき太陽の誕生日>として、
3〜4世紀のローマに普及していたミトラス教の重要な祭日であった。
また、12月17日から24日まではサトゥルナリアと呼ばれる農耕神
「サトゥルヌスの祭り」が行われており、
この期間は家々にあかあかと火が灯され、常緑樹が飾られた。
また贈り物が交換され、男たちは女の衣服や獣皮などをまとい、
主人と奴隷が席を交換するドンチャン騒ぎも行われた。
このようなローマのサトゥルナリアと、ゲルマンのユールの祭りの時期が、
イエスの降誕を祝うクリスマスとして選ばれたのだ。
さて、各国それぞれに歴史はあるが、
一例として、イギリスのクリスマスの歴史を見てみよう。
[中世]
597年、カンタベリーのアウグスティヌスがイギリス伝道をしたとき、
クリスマスはローマ教会の三大祝日の一つとなっていた。
彼は翌年のクリスマスに、1万人以上のアングロ・サクソン人に洗礼を施したという。
常緑樹を飾り、ユールの丸太を燃やし、仮面劇やまじない歌を歌い、踊りに興じた。
このようにしてイギリスのクリスマスは、ユールと降誕祭の合体として成立し、
アングロ・サクソン暦は、この日から新年を数えることとなった。
この慣習は中世末まで残った。
<クリスマス>という用語は、<アングロ・サクソン年代記>の、
1043年の項で初めて使用されている。
[宗教改革以後]
ヘンリー8世、エリザベス1世の時代にも、
クリスマスはイングランド教会(アングリカン・チャーチ)の三大祝日として祝われた。
当時の文学作品によると、クリスマスは神に感謝を捧げるとき、
正真正銘の喜びのとき、友人・親戚との旧交を温め、
貧しい隣人を歓待するときであった。
この時代は宮廷生活の華やかさに対して、地方では貧富の差が激化し、
過去の人間関係の絆が破綻しはじめた時代であった。
クリスマスは、貧しい隣人たちを歓待するようという文言が、
著述家たちによって、とくに強調されている。
[ピューリタン革命時代]
王党派とイングランド教会は、楽しい伝統的慣習としを象徴する日として、
クリスマスを祝った。
しかし、厳格なピューリタンはこの日をローマ・カトリックの祝日として非難し、
暴飲暴食、ダンス、賭事、乱ちき騒ぎ、その他諸悪に結びつく祭日として攻撃した。
穏健派は、行き過ぎを是正するにとどめるつもりだったが、
1644年、彼らはスコットランドの長老派教会の圧力によって、
態度決定を迫られたのである。
長老派は、スコットランドでクリスマスを全面的に禁止した。
しかし1647年、議会派はクリスマス禁止法案を可決しようとしたら、
このとき、これに反対する暴動が各地で起こり、
ついに家庭でのクリスマスは認めざる得なくなった。
[王政復古(1660)以後]
クリスマスは再び教会の三大祝日の一つとなり、
人々はこれを自由に祝うことが出来るようになった。
しかし、社会経済上の変化が、かつて田舎の地主邸で繰り広げられていた、
クリスマスの相貌を変え、素朴な人々のどんちゃん騒ぎも廃れ、
宗教心も薄れていくことになった。
19世紀になると、産業革命の余波をうけ、労働条件はきわめて過酷となり、
クリスマス休日は当日だけとなった。
クリスマスは裕福な家庭では華やかに祝われたが、
一般ではこれを祝う費用のない人が増大し、
クリスマスはいよいよ死滅するかに見えた。
[ビクトリア時代]
19世紀中頃、クリスマスが蘇生した。
それはチャーチスト運動の時代であり、
大英帝国の威光が最も拡大された時期であった。
新しいクリスマスでは、隣人愛、慈善が重視され、
宗教心の復古による宗教的側面の補正がなされ、
その上に古い時代のにぎやかな祭りの慣習が輝きを添えた。
特に、クリスマスが子供を中心とする家族の祭りとなったことが、
この時代の特徴である。
「サンタ・クロース」、「クリスマス・カード」が導入され、
「クリスマス・キャロル」が復活し、クリスマス・プレゼントやディナーが、
庶民の家庭に進出した。今日のクリスマスはこのときから始まった。
新しいクリスマスの成立に大きく寄与たのが、
ビクトリア女王の夫君アルバート公とC.ディケンズである。
アルバート公はドイツからクリスマスツリーの慣習を、
ウィンザー城の家庭クリスマスに持ち込み、
ディケンズは「クリスマス・キャロル」をはじめ、いくつかの文学作品を公刊し、
クリスマスの楽しさ、陽気さを伝え、同時にクリスマスのあるべき姿、
物質的楽しみを享受するために、果たさなければならない慈善などの義務を教えた。
新しいクリスマスは急速に浸透し、反対論者も認めざるを得なくなったのだ。
こうしてイギリス国民が新しいクリスマスを祝うようになり、
短縮されていたクリスマス休日もBoxing
Day (クリスマス翌日で、
この日に使用人や郵便配達人などに祝儀を贈り物を与える)まで、延長された。
こうやって、今日のみんなで祝う楽しいクリスマスが成立したのである。
クリスマスは、キリストの生誕を祝う日である。
その意味ではなにより宗教的な儀式である。
しかし、この時家庭では年最大の家族の祝典が行われる。
生活もそれをめぐって行われる。その意味では民族習慣である。
しかしこのような行事は、表層に見える現象に過ぎない。
ヨーロッパ世界では、キリスト教一色に塗りつぶされているかに見えるが、
よく見ると、その表層下にさまざまな、民族古来の伝統を温存している。
キリスト教はたくみに土俗を採り込み、民間信仰を習合させながら発展してきた。
だからクリスマスの行事の中にも、キリスト教のみでは説明つかない要素が
たくさん混じっている。クリスマス・ツリーや、アドヴェント・クランツ(花輪)、
キャンドルなどの飾り物や、シュトレン、ビュシュ・ド・ノエルなどのの
クリスマスの祝祭菓子、そのからクリスマスには必ず行われる墓参りなど、
キリスト教とは関係なさそうな、不思議な習慣が寄り集まっている。
クリスマスは呼び名こそちがえ、キリスト教行事となる遙か以前から、
存在していたと言ってもよいかもしれない。
キリスト教化されたその文化の表層をばかしていくと、
クリスマスというものが、古代からの種々の要素を含んだ、
重層文化だということに気づくのである。
もみの森に粉雪が舞い、しんしんと積もる真冬、すべて枯れ死したかに見えても、
その雪の下に、秋の盛りはまだ息づいており、春の芽吹きも予感させる。
このように、クリスマスの古い根は地下をとらえ、冬ごとに約束のように枝を伸ばす。
そこには古代人の、自然を畏敬した心、豊饒を希求する心が今に伝えられている。
参考文献 朝日新聞社
「誰も知らないクリスマス」 舟田詠子・著