撮影日記 2011年5月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 
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2011.5.30〜31(月〜火) 古いもの


NikonD700 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX

 これまで何度となくチャレンジしたものの、毎回投げ出しているテーマが、田んぼや田んぼの生き物たち。
 そうなってしまう理由は幾つか思い当たるが、一番大きな原因は、田んぼの写真を通して何を伝えるのか、自分の心がよく整理されていないからだろう。
 例えば、
「田んぼの水路がコンクリートで塗り固められ、生き物たちが減ってしまった。」
 とか、
「田んぼが区画整備され、まっすぐになってしまって景色が味気ない。」
 などと嘆く人がおられるが、いったい何を言いたいのだろうか?水路を昔のように土に戻せとか、昔ながらの曲がった田んぼに戻せと言いたいのだろうか?
 しかし、田んぼは米を作る場所であるから、農家の人が効率よく仕事ができるやり方を選択するのは当たり前のこと。その手の嘆きは、なんだか無責任な嘆きのような気がしてならない。
 だからもしも自分が田んぼの生き物の本を作るのなら、ただ嘆くのではなく、この先田んぼはこうあってほしいと何か現実的な提言をすべきだと思うのだが、僕にはこれと言ったアイディアがなく、それが田んぼの写真を難しくするのだ。
 もちろん、そんなメンドクサイことは言わずに、今現在田んぼでみられる生き物を解説する本もありだと思うが、それでは10年前や20年前、今よりももっと田んぼに生き物が多かった時代に作られた本に敵わないことになる。
 田んぼの水路をロケハン中に、ギンヤンマのつがいが目の前に降りてきた。
 



 
 子供の頃に遊んだ、近所の公園。
 管理人のおばちゃんがいた小さな建物も、亀や鵞鳥が飼われていたプール付きの大きな鳥小屋や、鹿や猿が飼われていたケージも、今はもうない。
 ここで猿や鹿を見た思い出は、なぜだかわからないのだが、動物園で気のきいた外国の生き物たちを見た思い出よりも濃い。
 





 
 このつり橋を、いったい何度渡ったことか。
 当時すでに古びていた石炭記念館は、ほとんどそのままの状態で、ただ益々古くなった。
  
 
 

2011.5.29(日) レンズの話

 レンズを変えると、写真が変わる。
 例えば、同一のスペックのレンズでも、ボケがいいレンズを持てば、ボケを生かした作品作りをしたくなるし、逆光に強いレンズを持てば、逆光の光を生かしたくなる。
 もちろん、カメラを変えても写真は変わるけど、カメラの違いによる描写の違いは、写真を撮ってみなければわからないのに対して、レンズを変えると、ファインダー越しに見える像がすでに違っているのであり、写真家の目に映るものがまず違うことになる。

 もっとも、そんなことはお構いなしに、ボケのいいレンズを使用する場合でも、悪いレンズを使用する場合でも、同じ構図の写真を撮る方もおられるだろう。あたかも、レンズの比較テストでもするかのように。
 その場合は、レンズを変えたところで描写が変わるだけで、写真そのものは変わらないだろうし、むしろ、カメラを変えた方が写真が変わるという意見になるだろう。
 つまりその人がどんな撮り方をするかによって、何が真実かが違ってくる。逆に言うと、その人が書いていることを読めば、その人がどんな写真の撮り方をしているのかが想像できる。
 
「でもオリンパスペンとニコンD3では、レンズの違い以上に全然違うでしょう?」
 という方もおられるだろうけど、それはスペックが違うのだから、当たり前の話。50ミリのレンズと100ミリのレンズを比較して、描写が違うというのに等しい。
 
 
 

2011.5.27〜28(金〜土) 先生方

 写真は芸術か?という議論があるが、芸術としての写真もあれば、芸術ではない写真もある。
 僕の場合、写真は、武田ワールドを表すための手段ではなく、現実の自然について伝えるための手段なのだから、僕の写真は芸術ではない。
 ただ、写真=芸術と思い込んでおられる方も少なくない。だから、通りすがりの人に芸術家として扱われれば、その時には便宜的に芸術家を名乗ることにしている。
 また、多少なりとも中身のある会話を交わす機会がある相手には、僕の写真は芸術ではないことを一応伝える。
 さらに、僕のことを良く分かっている人から芸術家として扱われたなら、その時は、黙ってそれを受け入れる。
 ともあれ、僕は芸術家ではないのだから、自分が作りたいものをひたすらに追求するのではなく、自分が作りたいものと社会との接点をいつも探そうとするし、いい打算をしたいものだと思う。
 水と地球の研究ノート(偕成社)では、僕はその社会との接点を、小学校の教育の現場に求めた。
 そこで、僕の地元の先生方の集会にお邪魔させてもらい、本を紹介する場を作ってもらった。5/14日のことだった。
 さらに先日は、僕の出身とは何の縁もない別の地区の先生方の集会でも、そのような場を作ってもらった。支部長を務めておられるT先生の、何か好きなことに打ち込んでいる人の話はイイという思いから、与えてもらった時間だった。
 やる気のある先生方にまとめて出会うことができるのだから、そうした場を提供してもらえることは、実にありがたい。
  数年前、本を企画した段階では、とにかく形にしたいの一念だった。そしてようやく本が出来上がった。
 ああ、なんとか無事終わったと思った。
 だがそれも束の間、本が完成してみると、その本が活躍してくれなければ何の意味もないと強烈に感じるようになり、むしろ、本作りの本番はこれからではないか、とさえ思うようになった。
 
 
 

2011.5.26(木) TO DO

 携帯電話はできれば持ち歩きたくないが、時々山で遭難をした人が、それに命を救われることもあるので、念のために持ち歩くことにしている。
 だから最近は、通話よりも、付属するメモの機能を使うために電話を扱うことの方が多い。
 以前はメモ帳を持ち歩いていたのだが、武田家伝統の物忘れの激しさで、そのメモ帳を無くしてしまうケースが多々あった。その点携帯電話なら、安っぽいメモ帳よりは無くす確率は低い。
 だいたい一回撮影に出かけると、5〜6個くらい何か改めなければならないことや、改めた方がいいことや、改めたいことが思い浮かぶから、それらを記録しておく。仮に、年に100日撮影に出かけるとするならば、一年間の間に500〜600くらい、自分の従来のやり方に何がしかの修正を加えることになる。
 例えば、カメラバッグの中からカメラが30秒で出てくるのと、15秒で出てくるのとでは、結果はかなり違ったものになる。言うまでもないが、15秒で出てくる方がいい写真が撮れるし、さらに短ければなおいい。
 そこで、瞬時に機材を準備できなかった時に「カメラの収納見直し」などとメモをする。
 最初はカメラの取り出し30秒かかっていたところを、25秒、20秒、15秒と縮めていく。
 人と一緒に歩いてみると、写真を見なくてもそうしたところを見れば、だいたいその人がどれくらい写真が撮れるかが分かる。僕は、準備が遅い人で、写真が上手い人に出会ったことがない。
 本当にいい瞬間はいつも一瞬なのである。いや、一瞬が捉えられていて二枚と撮れない写真のことを、いい写真と言う。
 
 僕のことを、
「ずっと1つのことをやりつづけて凄いですね。」
 と褒めてくださる方もおられるが、日々そうして変化をしながら新たなことに取り組んでいるのであり、決して1つのことを続けているわけではない。
 ここのところは、いい撮影場所を見つけ出すことが僕にとって一番重要な課題になっているのだが、いい場所を見つけるためにはたくさん歩かなければならないから、身軽でありたい。
 しかし、場所探しに徹するために機材を持たないのも、どうも面白くない。
 その点、オリンパスのペンシリーズは大変に素晴らしいカメラで、カメラとしては羽のように軽いのに、プロの仕事に使える画質を兼ね備えている。
 最近の僕のメモの中身はほとんどが、そのペンを上手に活用するための工夫だ。
 最初、ペンには三脚は使わないつもりでいたのだが、ごくごく軽い三脚を準備することにした。
 それから、その三脚を取り付けることができるカメラバッグを1つ。
 
 
 

2011.5.25(水) センス

 亡くなられて20年以上たった今でも、木原和人さんの写真のファンは多い。特に、僕くらいの世代の人には、木原さんに憧れて写真を始めたという方も少なくないようだ。
 残念ながら、僕にはその木原さんの写真を理解するセンスが備わってないらしく、決して悪い写真だと思わないものの、特別に心を揺さぶられたことはない。
 他に僕にとってそれに近い存在が、やはり大人気であり、カリスマ的な存在だった前田真三さん。
 決して食わず嫌いではないはずだし、こういう世界にはセンスの有無があり、学校の教科書の勉強とは違って努力をすれば誰でも一通り分かるとは限らないし、分かる人には一番最初からわかるものなのだと思う。
 別に写真に限った話ではなくて、音楽だって絵画だっておそらく同じではなかろうか。自然観察に関しても、それに似たところがあるように思う。



 海外の写真家にまで枠を広げてみると、絶大な人気を誇るものの、なぜか僕にはよく理解できないのがジム・ブランデンバーグ氏の世界だ。
 ハッとさせられることがないわけではないし、だから本を買ってみたりもするが、そのページをめくっていくと、気がつくといつの間にか集中力を欠いている。
 そう言えば、若干作風は異なるものの、木原和人さんの世界に近くて、言うならば、写真機を使った絵画の世界だ。
 おそらく、木原和人さんの世界が好きな人は、この本のページをめくると頭がクラクラして天にも昇る気分になれるのではなかろうか。多分、ものすごくキレイなのだと思う。
 そう感じることができる人をうらやましいなぁと思うし、僕も分かりたいなとも思うが、こればかりはどうにもならない。理屈ではないのだ。
 

 
 
 

2011.5.21〜24(土〜火) 通行止め

 高速道路のICを降りてから1時間ほど車を走らせると、キャンプ場につく。
 ところが、キャンプ場まであと1〜2分というところにある橋を、工事で渡ることができない。
 途中の看板に、「○○までは通行できます」と書いてあったから、僕はてっきりキャンプ場の名前が○○だと思い込んでいたのだが、それは橋の手前にある公民館のような建物のことであった。
 時間は午後の4:30。キャンプ場のチェックインは5時なので、そこでみんなを下してキャンプ場まで歩かせ、僕は一人で車を迂回させる。




 山がとても深いから、橋の反対側までは、いったん引き返し対岸を登り直すと、少なく見積もっても30分はかかるだろう。
 果たして、30分以上の時間を要して橋の反対側にたどりついてみると、そこからキャンプ場までの道も通行止めであった。
 さらなる迂回は下手をすると1時間かかるのではないか?と思えたのであきらめて帰宅しようかと思ったが、ふと考えてみれば、人を先に下したのだった。僕が行かなければ、みな寝袋も食料もない。
 道は、一時的な工事のためのう回路なので、非常に細くて所々落石もみられ、暗くなるとそれなりに危ない。

 そんな状況であるから、キャンプ場は貸し切りだ。
 おそらく、2〜3週間は人が訪れてないのではなかろうか。ポツポツと雨が降り出す絶好の渓流釣り日和であることを考え合わせると、目の前を流れる沢はおそらくヤマメの入れ食いに違いない。
 腕がガラガラとなり始めるが、土日は釣り師で溢れているだろうと思い込んでいた僕は、釣り具を準備していなかった。
 悔しい。
 しかし、川を眺めているだけで、心のなかで釣りをすることができる。
 そこが趣味のいいところでもあり、あそこに針を落として、こう流すと、ここであたりがある。ほら釣れた!と近年稀にみる大漁だった。

 これが自然写真の仕事ならそうはいかない。すべては結果であり、結果だけで物を言わなければならない。
 もっとも、それはそれで、またいい。
 例えば、先輩が言っていることが間違えていると思うのなら、その先輩以上のいい仕事をして、先輩以上の評価を得、発言の場を手に入れる努力をすればいいし、組織人のように上司の陰口をたたいたり、愚痴を言う必要もない。
 また、自分への対応が悪いと思うのなら、黙って努力をして、それなりの対応をしてもらえる立場になればいいし、他人への不満を口にする必要もない。
 厳しい世界ではあるが、非常に潔い世界だと言える。
 
 
 

2011.5.20(金) カエルいろいろ



NikonD700 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

 昨日の晩〜今日の午前中は、カエルの撮影。
 真夜中の田んぼでは、ヌマガエルにレンズを向けてみた。
 近くには、マムシが陣取っている。
 マムシは、熱を持った生き物以外は食べないという話をちらりと聞いたことがある。確か、飼育下での話だったように記憶しているが、野外では、間違いなくカエルを日常的に食べていると思う。



NikonD700 AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

 トノサマガエルには背中に線が一本ある、と図鑑には書かれているが、福岡県内の僕が出かける場所に関して言えば、線がないトノサマガエルも多数みられる。
 今回は4匹のトノサマガエルを見かけたが、そのうち2匹に線があり、残りの2匹には線がなかった。むしろ、図鑑に出てくるような、はっきりとした目立つ線を持っている個体の方が少なく、図鑑は、別の生き物のように感じられることがある。
 
 
 

2011.5.18〜19(水〜木) 改造の手順

(撮影機材の話)
 先日紹介したライカのマクロレンズ・APO-MACRO-ELMARIT-R 100mm F2.8を、僕はニコンのカメラに取り付けて使用しているのだが、ライカをニコンに取り付ける場合は、ライカのマウントを外して、代わりにニコン用のマウントを取り付ける。
  


 まずは、ライカのレンズのマウントを取り外す。
 上の画像は、ELMARIT-R 180mm F2.8のマウント部分。
 シルバーのネジを6本、その内側にある黒いネジを3本取り外し、マウントを左右に回してみれば、取り外すことが可能な角度が見つかる。




 マウントを取り外す時には、マウントとレンズの間にはさまっている小さなボールを紛失しないように注意する。
 ボールの下にはバネが収まっていて、バネはボールを上に押し出そうとして、それとマウントに刻んである小さな穴と組み合わさると、絞りリングを回した際の1/2絞りごとのクリック感になる。
 マウントは、このボールが思いがけず飛び散るアクシデントに備え、何か入れ物の中で取り外した方がいい。




 さらにカムと呼ばれる部品を取り外し、最後にニコン用のマウントを取り付ければ完了。
 ニコン用のマウントは、下記で販売されている。
 http://www.leitax.com/
 すべてのレンズが改造できるわけではないのと、レンズによって、マウントを固定するネジが10本のものと6本のものがあるので、購入の際にはホームページをよく読み、間違えないように注意すること。
 先日紹介したライカの100ミリマクロレンズは10本、今日の画像に写っている180ミリには6本のネジが使われている。
 注文をしてから、2週間くらいで荷物が届く。注文画面の一番下で、Extra shipping cost for UPS courier を選択するとより早く到着する(電話番号が必要になるので、書き忘れないように)。
 
 
 

2011.5.17(火) 才能

 プロの写真の世界は力の世界なので、才能に満ち溢れた方がおられるし、そんな人が華々しく活躍する様を見せつけられることがある。
 そんな連中を相手に、特別な才能があるわけではない人間が生きていくためにはどうしたらいいのか?
 写真を撮ること自体は競争ではないが、仕事には、限られた発表の場を誰が取るかといった側面があり、必ず競争が付きまとう。
 時々、僕のこの日記が大好きだと言ってくださる方がおられるが、自分なりに解釈すれば、この日記が仮におもしろいとするなら、それは、凡人が工夫をしたり無駄を省いたりといった小さなことを積み上げていくことで、才能に満ち溢れた連中と同じ土俵で仕事をする面白さではないかと思う。
 
 さて、この春に手入れをして整えておいた撮影用の水槽が、苔だらけになってしまった。
 取っても取っても新しい苔が生えてきて、どうにもならない。
 仕方がないので、今日は一旦器具や砂利を水槽からすべて取り出し、洗浄をして、乾燥をさせることにした。
 春に手入れをした際には、砂利や器具はそのままで、水槽の中で目立つ汚れを取り除くやり方で掃除を済ませたが、どうも中途半端だったようで、結局二度手間に。めんどくさがらずにじっくり構え、長い目で見て無駄のない仕事をする、という自分の信条に反する結果になってしまった。
 その手の無駄は、僕にとって非常に歯がゆい。
 別に、無駄を省くことが正しいとは思わないのだが、そうでもしなければ、才能のある人には太刀打ちできるものではない。
 実は僕の場合、何もしていない時間が案外長いのだが、それは無駄とはまた別のものであり例えるなら、発酵時間のようなものだ。 
 
 
 

2011.5.15〜16(日〜月) 動機

 人によって写真を撮る動機はさまざまだが、大きく分けると2つのタイプが存在するように思う。
 1つは、その写真によって人とつながりたい人。写真を通して人と知り合い、仲間と一緒に撮影にでかけたり、クラブに属してみたり、今の時代ならWEB上の掲示板に投稿してみたりすることに、この上ない幸せを感じる人ような人。
 また、以前ある自然保護活動にかかわっておられる方が、
「テレビ局に自分が撮影したビデオを貸したら、ポンとテープが返却されてきただけで、何も言葉もなかった。」
 とひどく腹を立てておられたのだが、その方なども、感謝されたり、評価されたり、それによって自分が人ととつながることが、活動の大きな動機になっているのに違いない。
 一方、あとの1つは、写真を撮ることによって一人になりたい人。
 僕の釣りの師匠が、
「釣りの何が楽しいって、魚が針にかかっとる時は、嫌なこととか悩みとか、自分が評価されたいとか感謝されたいとか全部忘れて、世間の喧騒から一人になれるもんな。」
 と話してくださったことがあるが、師匠の話はよく分かる。
 僕も、一人になれるというのが写真を撮る一番大きな動機だと言えるし、人から評価されたいとか、それなりの扱いを受けたいなどとはあまり思ったことがない。
 僕にとって写真は仕事なので、その義務をちゃんと果たせているかどうかは気になるし、仕事が評価されたと時に安堵したり、逆に時には落ち込んだりもするが、それは写真に対する思いというよりは仕事に対する思いであって、評価されることは、僕が写真を撮る動機ではない。

 さて、携帯電話を車の中に置き忘れ、今日は電話が鳴らんなぁと思ったら何のことはない、電話が手元になかっただけというようなことが、僕の場合、よくある。
 だから、という訳ではないけれど、仕事の連絡は、E-mailが一番ありがたい。
 「メールでは失礼でしょうから、電話で・・・。」
 と気を使ってくださる律儀な方も少なくないけど、撮影やその他に集中している時に電話の着信音で集中を切らしたくないのと、メールなら跡が残るので、うっかりが多い僕の場合、引き受けた仕事をすっかり忘れていたなどということを防ぐことができる、いい面もある。
 E-mailの方がよりありがたいというだけで電話が迷惑というわけではないし、電話の方がよく伝わるのなら電話がいいのだが、メールでは失礼になるのではないか?という理由なら、別に気を使ってもらう必要は、僕の場合はない。
 またそのメールにしても、あまり律儀に返信をするよりも、僕の場合は、サラッとしてもらったほうがありがたい。
 僕は、自分を丁重に扱ってもらったり立ててもらうことにはあまり興味がないし、俺に気を使えという生き方は好きではないし、そんなことよりも、写真であったり本作りに打ち込みたい気持ちが強い。
 写真を撮ってきてくれと言われたいし、技術屋でありたい。
 
 
 

2011.5.14(土) 教科書



 小学校の教科書を開いてみると、どこの出版社の教科書にも、同じ生き物が登場する。例えば、モンシロチョウ。
 ところが、モンシロチョウとよく混同されている、良く似たスジグロチョウが登場する教科書はない。
 どの生き物を取り扱うかについては、学習指導要領に書かれており、モンシロチョウだと決まっているからだ。それに伴って、モンシロチョウの写真はよく売れるがスジグロチョウの写真はほとんど売れない、などという現象が起きる。
 世の中にはいろいろな生き物が存在することを思うと、写真が売れるかどうかは別にいいとして、モンシロチョウでなければダメといった風に、何か特定の生き物だけが取り上げられるのは、悪しき慣例だなといつも思う。
 教科書の中身がダメだと言いたいのではない。むしろ、教科書が取り上げる項目や内容は、さすがに長い歴史に裏打ちされたものだと感心させられることが多々あるが、同じ中身を伝えるのに、もっといろいろな見え方があっていいと思うのである。
 
 スジグロチョウのことを、嬉々として話してくださる先生がおられたらなぁなどと考えてみたりもするが、そんな昆虫オタクみたいな人がたくさん存在するわけもないし、実は、チョウの幼虫のイモムシなど生理的に受け付けないしあまり見たくないという方がおられても、その気持ちも分かる。
 第一、先生方には、頻繁に野山をウロウロするような暇などあるはずもなかろう。
 ならば、それを読めば、先生方があたかも自分が現地に赴いたかのような、自分の目で見たかのような気持ちになることができ、しかも、子供と一緒に読める本があればいい。

 さて、今日は先生方の集りに参加させてもらい、過密なプログラムの合間に、少し話をする時間を作ってもらった。
 今日の話をきっかけに、さらに、理科を得意とする先生方の集まりにも招待してもらったので、なんとかして時間を作り、参加してみたいものだと思う。
    
   
 

2011.5.13(金) 広角接写



(撮影機材の話)
 今日は、ある生き物の撮影。広がりがある写真にして欲しいという依頼だったから、広角レンズでの接写を試みた。
 そんなケースで最近良く使用するのは、
 Carl Zeiss Distagon T* 2.8/25mm ZF
 Carl Zeiss Distagon T*2.8/21mm ZF.2
 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONALFISHEYE +1.4X 
 の3種類。

 時々、それらのレンズの使い分け方を聞かれるが、Distagon T* 2.8/25mm ZFは、画面の周辺の画質が少々悪いが、ボケがとてもいい。画面周辺の画質の悪さは、被写体を見下ろすアングルで撮影すると目立ち、見上げるアングルで撮影するとあまり目立たなくなるから、このレンズは主に、被写体を見上げるように使う。
 Distagon T*2.8/21mm ZF.2は、画面の周辺までよく写るから、被写体を見下ろすアングルで撮影する場合に使用する。だが、ボケは25mmよりもやや汚い(とは言え、広角レンズとしてはとても美しい部類に入るが)。
 今日は、被写体を見下ろすアングルだったから、Distagon T*2.8/21mm ZF.2を使用した。
 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONALFISHEYE +1.4Xは、上記の2本のレンズよりも、人の肉眼の見え方に近いイメージの写真が撮れる。
  
 
 

2011.5.11〜12(水〜木) 据え膳食わぬは

 仕事を依頼されたら、自分にそれが撮影可能かどうか自信がない場合でも、
「分かりました!やります。」
 と二つ返事で引き受けておき、あとで何とかして帳尻を合わせるくらいの楽天的なところが、自然写真の仕事には不可欠ではないかと思う。
 まず自分を追い込み、あとから、実際の自分がそれに追いつく。やせ我慢は、僕が一番大切にしていることの1つだ。
 一方で、依頼をこなせるかどうか、なんだか不気味な不安を感じる場合もあって、そんな時には、自信がないことと、自分に何ができて何ができないのかをなるべく正確に伝える努力をすることにしている。
 とは言え、自信がありませんと伝えなければならないのは、非常に悔しい!
 
 過去に、自信がありません、と恥を忍んで言わなければならなかったケースは、大抵、一見難しくはなさそうなのに、いざ手をつけようとしたら、案外手がかりがなかったケースだった。
 意外に、難しそうな撮影がやってみると易しく、易しそうな撮影が難しい場合が多いのだ。
 
 
 

2011.5.10(火) 男のロマン

 うかつに、男のロマンなどと口にしてしまえば、下手をすると
「それが女性への差別につながる。」
 などと噛みつかれることもあるが、それでもやっぱり男のロマンというやつが、紛れもなく存在するように思う。
 例えば、メカに対する憧れは圧倒的に男性のものであって、女性でメカが好きな人やメカに強い人に、僕は会ったことがない。
 そうした男女の別は、男性中心の社会が作り上げたものだと主張する方もおられるが、その人は自分が女性で男性の感覚を理解できないか、男性ならオカマのような人ではなかろうか。男がメカに惹かれる時のあの感触は、心の奥底から込み上げてくる抑えられない衝動であり、本能に近い何かであって、理屈ではないのだ。
 


 自然写真に熱中し、数年間、一度も釣りに行くことがなかった時期にも、釣り師の看板を下ろそうとは一度も思わなかったのはなぜだろう?
 よくよく考えてみると幾つか理由が思いつくが、その1つに、いい道具を持っていたことがあるように思う。
 フランス製のリール、ミッチェル408などは実に形が良くて、いつ眺めても気分がいい。
 安価な製品ではなかったけど、決して高価な製品でもなく、高性能というわけでもないが、手によく馴染み、何とも言えない柔らかさがあって使いやすい

 そのミッチェル408も、時代とともに少しずつ味気ない製品へと変わっていく。
 大変に魅力的な製品を作っていたミッチェルだが、経営的にはおもわしくなかったようで、あるいはそうしたことが影を落とし始めていたのかもしれない。
 




 最初は、文字が金属のボディーに刻まれていたのが、やがてMITCHELL408と記されたプラスチックのバーがはめ込まれるようになる。


 
 外観だけでなく、内部にも変化があった。
 古いモデルは、歯車の歯の一枚一枚が微妙にカーブしており、より滑らかにかみ合うようになっているのに対して、新しい製品では、ごく普通の直線状の歯車が採用されている。

 その後、新たに408を購入しようとしたらどこへ行ってみても手に入らず、輸入代理店に電話をして問い合わせてみたら、新しいミッチェルが発売されると言われ、期待をして2つほど買ってみた。
 だが、同じ形ではあるものの、塗装やその他、さらに味気ない製品へと成り下がってしまい、がっかりさせられた。
 経営面での苦戦の陰には、日本の売り上げ至上主義のメーカーの影響があったのだと言われている。
 当時、クソのようなリールを作っていた日本の某社などは、大していいわけでもない製品をコマーシャル攻勢で売りまくり、今や高級品の扱いを受けている。
 釣り具のコマーシャルなんて見たことないと思う方もおられるだろうが、メーカーが釣り番組を主催し、そこで釣り名人がそのメーカーの製品をべた褒めするというようなやり方や、釣り雑誌でも同じような発想のページがちょくちょくあった。
 
 さて、心がこもった仕事をする写真家になりたいものだと思うが、ミッチェルのように売り上げ至上主義のものに飲み込まれるわけにもいかず、何を取り何を捨てるのか、頭を悩ます日々が、これからも続くことになるのだろう。
 ともあれ、ミッチェル408を手にすると、ロマンの大切さを改めて思う。
 
 
 

2011.5.9(月) 撮影機材の話

 一生に一度だけ馬鹿げた買い物をするのなら、ライカRシステムのAPO-MACRO-ELMARIT-R 100mm F2.8というレンズだ、と以前から思っていた。
 接写用のレンズの中では、ずば抜けた性能だという噂。そのあまりの性能の凄さゆえに、AMEなどとニックネームで呼ばれたりもする伝説のレンズ。
 実売価格で50万円前後。
 安く上げようと思えば、タムロン社製のSP AF90mmF/2.8 Di MACRO1:1あたりを選べば4万円前後で十分に素晴らしい描写が得られることを思うと、AMEは、道楽の中でもかなりレベルが高いと言える。
 ところがそのAMEが、僕の手が届きそうな価格で手に入るようになった。


NikonD700 LEICA APO-MACRO-ELMARIT-R 100mm F2.8

 時代はフィルムからデジタルへと移り変わり、そのデジタル化の流れについていけなくなったライカのRシステムは製造中止となり、それ以上存続することがなくなったシステムの価値が下がって、ついに、程度のいい中古品が10万円台で買えるようになったのだ。
 一時期中古市場には、それ以前には滅多に目にすることがなかったAMEが溢れ、10万円を割り込んでいた頃さえもあったのだが、僕が目移りしてクラクラしている間に、それらのレンズの大半は新たな持ち主の手に渡り、価格はまた上昇して、今は、10〜20万円くらいの間で落ち着いているようだ。

 さて、その伝説のレンズだが、確かに素晴らしい描写をする。
 50万円の価値があるか?と問われたなら正直に言えば答えに困るが、現在発売されている他の製品を比べると次元が違う。
 特に、ハイライトの描写が素晴らしい。
 僕のこれまでの常識よりも1/2絞りくらい明るく撮影しても、明部が質感を失わずに粘るから、より明るく撮影することができるし、そうして明るく撮影すると、ライカのレンズ独特のパステル調の色合いになる。
 昔、岩合光昭さんの写真集・セレンゲティを初めてみた際に、その何とも言えない独特の色合いに打ちのめされ、それを再現しようといろいろな光を試したものの、近づくことさえできなかったのだが、AMEを使ってみると、それがライカの色だったのだとわかった。
 それにしても、明部の描写が、レンズによってこんなに違うものなのか!ベンチマークテストでデジタルカメラのダイナミックレンジを比較することなど、アホらしく感じられてくる。 

 もちろん、従来通りの明るさに撮影してもいい。
 明部が粘るから、画像処理の際にコントラストを高めてもハイライトが破たんしにくく、よりコントラストが高い画像を得ることもできる。
 ピントリングが重たくて、さらにピントを合わせるのに手をクルクルクルクル何度回さなければならない作りになっているので動体の撮影には不向きなレンズだが、その不自由をエンジョイするくらいの心構えが、道楽には必要なのである。
 
 
 

2011.5.6〜8(金〜日) トンボ合宿

 小学校4年生の時に連れて行ってもらったヤマメ釣りが、僕の人生を大きく左右した出来事だったことは、以前にも書いたことがある。
 ヤマメを一生懸命釣ろうとする人が一番エライ。ヤマメを誰よりも上手に釣れる人が一番スゴイ。帰らなければならない時間になっても、まだまだと帰ることを拒否する人が一番の努力家であるような空間。
 自らにブレーキをかけて自分を立派に制御しようとするのではなく、ひたすらにアクセルを踏み続けようとするような。
 そこには、学校とは180度逆の価値観があった。
 今の僕にとってそのヤマメ釣りに一番近いのが、トンボマニアのみなさんと過ごす、トンボの撮影の時間だ。


NikonD700 TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO

 恒例のトンボ合宿の日。今回の僕のテーマは、ムードを写し撮ること。
 写真に情報を写し込むことにとらわれ過ぎないように心掛け、その場所が持っているムード、その人が持っているムード、その虫が持っているムードを少しでも多く表すことができるように。


NikonD700 TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO

NikonD700 TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO

NikonD700 TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO

NikonD700 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX

 おしゃれな写真を撮る人は、いかにも洒落た写真を撮りそうな感じに。
 神出鬼没な人は、神出鬼没なイメージで。
 静かな人は静かな感じに。
 でかい人はでかい雰囲気で。


NikonD700 TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO

NikonD700 TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO

NikonD700 TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO

 スマートな人はスマートな感じに。
 自分独自の目線を持っている人は、そんな目線を写し撮るように。
 なるべく一枚一枚の写真のムードが被らないようにと思っていたのだが、ちょっと似過ぎてしまった。


NikonD700 LEICA APO-MACRO-ELMARIT-R 100mm F2.8

 今日は少し霞がかった青空で、トンボが少し淡い色に感じられた。
 
 
 

2011.5.4〜5(水〜木) 来客

 この2月、近所の公園の工事の際に、重機で土を掘り返したものだから、木の根っこが丸見えになり、セミの幼虫の地下での様子が観察できるのではないかと気になったが、5冊組の本の制作の真っ最中であり、忙しくて時間を作ることができなかった。
 昨年は、その本作りにひたすらに打ち込んだから、他の撮影を進めるゆとりがなかったし、新たな仕事のために出版関係の方々とお会いすることもなかった。
 すると、さすがの東京嫌いの僕にも、上京して人と会って話したいことがたまった。
 それで、年明け早々に、
「本作りが終わったら上京しますね。」
 、と約束だけは取り付けていた。ちょうど、初夏に参加したい集まりがあり、それに参加することも兼ねての上京の予定を組んだ。
 ところがその後、地震と原発の事故が起きた。さて、どうしたものか?と上京を迷っていたら、先方から
「こちらが事務所に伺います。」
 と連絡があった。



「地震と原発ってどうですか?」
「う〜ん、やっぱり不気味ですね。よく揺れるし。」
「もし僕が東京在住なら、開き直って普段通りに暮らすんでしょうけど、九州に住んでいるのにこのタイミングで上京するのも馬鹿らしいような気がして・・・」
「私もそう思いますよ。私がそっちに寄りますので。」
 今日は、うちの事務所で、新しい仕事の話をした。
 余震や関東を襲う直下型のものに関しては、それを言えばきりがないという面もあるが、僕が気になっているのは、巻き込まれた時に自分がどう振る舞うか、心の準備ができてないことだった。

 3月11日、地震や津波のことを知った際に、もしも僕が取材でその場にいたのなら、おそらく災害に巻き込まれることはなかっただろうと感じた。
 取材の際は、いつもそうしたことは念頭に置いているし、あたりの地形をみたり確認することを欠かすことはない。自然災害のみならず、以前は、日本海側に行く際には、某国から拉致をされないように注意をしたものだ。
 だがもしも僕がサラリーマンで、会社の出張でその場にいたのなら、おそらく死んでいただろうなと背筋がゾッとしたのだった。
 比較的そうした可能性が低い九州北部だって、可能性はゼロではないので、あの日以降、ちょっとずつ備えを始めているものの、東京の町のど真ん中で被災することまでは、まだ想像が至っていない。
 今日は、その日のことを詳しく聞くこともできた。

 夕方は、一眠り。
 人と仕事の話をすると、熱くなりすぎて神経が高ぶり過ぎてどうにもならなくなるので、すぐにしばらく眠ることにしている。


 

2011.5.2〜3(月〜火) 義務にしないこと

 この春、偕成社から発売された『水と地球の研究ノート』(全5巻・偕成社)の制作の際に、僕らが作った試作品に対して、編集のOさんが、
「話が唐突に本題に入ってしまい、導入が面白くない。」
 という指摘をしてくださった。
 ならば、と本の導入に相当する写真の撮影を急きょ試みてみたが、写真を撮りながら、なんか違うなと感じたのだった。
 僕は、導入部分に使える写真がないという理由で、必要に駆られてそれを撮りに行った。だが、Oさんから求められたのは、おそらく、面白いなと楽しみながら撮影した臨場感のある写真だったのではなかろうか。
 それは、付け焼刃ではできないことであり、次の大きなテーマの1つになった。
 別に本作りに限らず、勉強でも、町おこしでも、やらなければならないという動機には限界があるし、何事も義務にしてしまわないことは、僕が一番大切にしていることの1つでもある。
 そこで、オリンパスの PEN Lite E-PL1sというカメラを買ってみた。このカメラなら非常にコンパクトだから、いつも持ち歩くことが苦にならないし、ふと何かを感じた時に写真を楽しむことができるのではなかろうか。
 そのE-PL1sは少しずつ守備範囲を広げ、次第に、僕の撮影の本題の部分をも担いつつある。 
 

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL ED40-150mm F4.0-5.6 SILKYPIX

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL ED40-150mm F4.0-5.6 SILKYPIX

 先日購入したばかりのED40-150mm F4.0-5.6は、接写能力も高くて、メダカの撮影にも使えそうだ。昆虫なら、ベニシジミくらいの大きさからいける。


OLYMPUS PEN Lite E-PL1s Ai AF Micro-Nikkor 60mm F2.8D SILKYPIX

 アダプターを介せば、他社のレンズも取り付けることができる。
 そこで、いろいろなレンズを取り付けてみると、ニコンのレンズの性能がいいことに、改めて驚かされた。
 
 
 

2011.5.1(日) 立ち位置

 小学生の頃、学校で毎年のように 『はだしのゲン』 の映画を見に行って、そのあとで、
「原爆はダメですよ。」
 と教わったものだけど、僕にはどうしても先生の言葉が理解できなかった。
「原爆はダメ。」
 というのなら、他の武器ならまるで許されるのではないか。
 それを先生に尋ねてみたけど、ちゃんとした答えは返ってこなかったように記憶している。

 今なら、当時の僕が感じた疑問の正体がわかる。
 それは、自分の立ち位置をどこに置くかの問題。
 小学生だった僕は、ある個人の立場から物を見た。
 ある個人の立場に立てば、原爆で死ぬのも、銃殺されるのも、刀で殺されるのも大して違いはない。
 一方先生は、人間社会の立場から物を見た。
 人間社会の立場から物を見れば、原爆は大変に大きな爪痕を残す。
 学校は、一般的に社会の立場に立とうとする。例えば、昼休みが終わってもなお遊び続けるような子供は社会の一員としては困った子供だし、怒られることになる。
 がしかしそれが絶対的に正しい訳ではなく、もしも自然写真家としていい写真を撮ろうと思うのなら、昼休みが終わってもまだお遊び続けるような要素がその人の中に必要になるし、時間がきたらパッと切り上げることを良しと感じるような人は、むしろやる気がない人だという側面もある。
 プロの写真家の場合は、撮った写真でもって社会に対して主張しなければならないから、社会人としての立場も大切になるが、ともあれ、立場が違えば、何が正しいかも違ってくる。
 ふと、なぜ原爆はダメなのか、あの時先生に答えて欲しかったな、と思うことがある。

 人間の立場から見れば、人間がかかわらないものが『自然』、そうでないものが『人工』だけど、他の生き物から見れば、人間が作った建造物もシロアリが作ったアリ塚も同じような存在であり、おそらく人間が作ったものだけを区別することなどないだろうし、自然も人工もないんだろうなぁ。
 自然について語る時、あたかも自分が自然の立場に立って考えているような錯覚を起こしてしまうけど、実は全くその逆であり、自然だとか人工だと区別しているのは人間だけであり、人間の立場を語っているのである。
 
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2011年5月分


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