毒 書 収監
by フレデリック・G・高岡
結局、毒のない著作というのは影響力を持たない作品のことである。 この本が日本の教育を悪くした。 この本が日本の教育を救うかもしれない。 いずれの場合も、それは毒だ。 |
目次 |
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第1章 それは6時間目だった 1 午後の教室 2 とっさの判断 3 時間との闘い 第2章 津波襲来 1 C小学校の場合 2 D小学校の場合 3 荒浜小学校の場合 4 震災当日それぞれの夜 第3章 夜明け―2週間後まで― 1 夜明け 2 安否確認 3 餓えと人間 4 再開まで 第4章 その後の苦闘―学校再開― 1 学校と社会に向かう子どもたち 2 うったえる心と身体 3 拠り所としての学校 4 高校生たち |
第5章 過去と未来の間で 1 日々のはじまり 2 忘れること、思いを寄せること エピローグ これから、学校とまちは― 【考察】 「力量」と「運命」の抗争/隠すこと、守ること /悲哀の仕事=喪の作業 私を失う苦痛/「かり住まい」について 【資料】 聞き取り調査の目的など/主な質問項目 /インタビュー協力者情報 |
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目次 |
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はじめに 私と「あすべさん」 アスペルガー症候群とは発達障害の一つです 1章 苦手なことには理由(わけ)がある 左右の差が大きい 集中しているときは呼ばないでっ! 世の中はまぶしいっ! 左右が身に付かない 耳から聞いた情報を保持できない お一人ずつお願いします 画像中心の記憶と思考 ささいなことで大騒ぎするのはなぜ? 2章 診断されて変わったこと 診断までの道のり 診断後の気持ちの変化(1) 診断後の気持ちの変化(2) 私が本から学んだこと あすペさんのことわざ劇場 ・・・二兎を追う者は一兎をも得ず 3章 理解されるって難しい? 頭の中で仕事をする 「一人はさびしい」は本当? プレゼント選びが苦痛なのはなぜ? 「障害を理解する」とはどういうことか お掃除ロボットから支援のあり方を考える(1) お掃除ロボットから支援のあり方を考える(2) 電車が大好きなのはなぜ? |
4章 子ども時代の凸凹成育 無条件に「自分が悪い」と感じてしまう 断ることは悪いこと? 次にすることがわからない! おっちょこちょいだと思ってた ミルク飲み人形の運命は?(1) ミルク飲み人形の運命は?(2) 伝言ゲームは苦手 あすぺさんのことわざ劇場 ・・・怒りは敵と思え 5章 社会適応するために 「劣等感」は自分の可能性を狭める? カメなら水中を行け! 予定変更でパニックになるのはなぜ? 予習すれば怖くない? 「なんで?」の使い方からわかること 見直しができないのはなぜ? ささいな失敗を減らすには? とっさに「大丈夫?」と言えないのはなぜ? 社会適応への道のり 当事者から学ぶこと・当事者の生きづらさ おわりに |
しーた 著
発達障害 工夫しだい支援しだい
〜私の凸凹生活研究レポート2
(学習研究社 2011)
目次
1章 苦手なことは工夫でカバーする
過集中による誤解を防ぐ/「のちほど連絡します」と言われたけど/初めては怖い!/手先が「不器用」は間違い?/書くことと理解することは別問題/一言めが聞き取れない/パニックスイッチのONとOFF/梅永雄二のちょっと一言
2章 自分に合った管理術をさがす
ポイポイ放り込むのはイヤ!/ゴミを出し忘れる/片づけをいかに「めんどくさい!」と思わせないか/片づけを習慣にするためには/時間が余ったらどうする?
3章 気持ちの理解は難しい?
頼まれると断れないのはなぜ?/人を信じるって難しい/オーバーワークが「普通」だと思っていませんか?/メールを打ちきるタイミングって?/どうして対立してしまうのか?/「しまった!」と思ったときのお助けフレーズ
4章 自己肯定感を土台にする
「普通」でいられる世界をさがす/不安定な自己肯定感/自己肯定感は揺るぎ無い安心感から/先生のひと言の大きさ/小さな才能も組み合わせしだい/診断名は免罪符ではない/支援の拡充のポイントは「Win-Winの関係」
5章 当事者の目線と疑問
当事者対談「私たち、発達障害と楽しくつきあってます」/当事者が支援者に聞きたいQ&A/私たちにできること
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 目次 ・はじめに 1 発達障害児の思春期 育ちのニーズ/容貌/恋心/正論/不安 2 発達障害と二次障害 困った行動/連続性/隠ぺい性/メッセージ性/周囲の反撃/誤解/ 失礼な言辞/距離感/他者認知/安定性/その他の症状/二次障害の本態 3 非行少年 外見/男性/経済的余裕/価値観/不適切な養育/学業不振/大人の真似事/ 背水の陣/ 親に頼らない自分/ファンタジー/高校進学/変化/少女/ 早すぎる自立/非行少年の本質 4 二次障害としての非行化 頻度/非行化事例/実態把握の遅れ/複雑な理由 5 二次障害の予防 学習支援/生活支援/自己制御 6 実際場面での指導 指導する場所/個別指導/ほめ方/無気力/こだわり/約束指導/ 禁止事項/保護者支援 ・おわり |
------------------------------------------------------- 目次 第1章 留学前にやったこと 第2章 塾のない世界 第3章 英語は書 くことに始まり書くことに終わる 第4章 フィンランド語を習得する 第5章 自分をいかに表現するかという国語 第6章 落ちこぼれをつくらない留年と いうシステム 第7章 白夜とダンス・パーティー 第8章 将来を決める |
石井 昌浩 著
丸投げされる学校
(扶桑社 2009)
------------------------------------------------------- 目次 序章 フィクションの世界で育てられた子供たちの悲劇 第1章 子供たちに支配された学校 第2章 教育界、丸投げの連鎖 第3章 道徳を教えない道徳授業 第4章 虚構の戦後民主主義教育 第5章 GHQの描いたシナリオ 第6章 戦後教育3つのステージ 第7章 フィンランドの教育、学力世界一の秘密 第8章 教育基本法改正の意義 第9章 「学校は変わらなくてはいけない」?東京都品川区の教育改革 第10章 「美しい日本語を世田谷の学校から」?東京都世田谷区、教科「日本語」 |
坂東 眞理子 著
親の品格
( PHP新書 2007)
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プロローグ 第一章 生命を育む 挨拶から始めよう 泣く子と地頭に負けない 子どもの機嫌を取らない ものをいとおしむ 食事はみんなで食べる 清潔を保つ習慣 幼児言葉は早めに卒業を 素直な子はのびる 一緒に歌う、一緒に読む 親子で自然を楽しむ 第二章 マナーを育む よい叱り方、悪い叱り方 お辞儀をする 手伝いをさせよう 乗り物のなかでは座らない 現代版江戸しぐさを身につける 個性と社会規範 お客を家に招く 環境配慮の生活習慣 よい生活習慣をつける 自分のことは自分でできる子に 第三章 人間性を育む 約束は必ず守る 悪口は言わない 差別をしない 謙遜はほどほどに 親はごまかさない 自信をもたせる 自分の職業について語る 正しい日本語を使う 責任を取る子に育てる 子離れのしたく 父親の子育て 第四章 学校とのつきあい 教育と先生 いじめをしない子に育てる 母親同士のつきあい 子どもの学校行事 地域の年中行事への参加 勉強は強制しないこと 低年齢化する受験 子どもが問題を抱えたら チームプレイを学ぶ |
第五章 ティーンエイジャーの子どもと ボランティアから学ぶ ホームステイのすすめ 子どもの友人との出会い 自分を守る知恵 家庭内犯罪を起こさないために お金の経験を積ませる 自分たちのルーツを知ろう 子どもの進路 職業選択について 第六章 情報といかに接するか 好きな本を読ませる 新聞、雑誌を読む 情報機器とのつきあい 子ども部屋にテレビは不要 家族への手紙、電話、メール 第七章 成熟した親子関係をつくる パラサイトシングルにしないために 挫折を忍耐強く見守ること 子どもが結婚するとき 子どもの配偶者とのつきあい お金と財産について 親の介護 子どもに迷惑をかける 遺言の品格 感謝の気持ちを言葉で表す あとがき |
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坂東 眞理子 著
女性の品格
( PHP新書 2006)
「毒書収監」で取り上げるほどのことはないと思っていたが、ネット上の書評を見ると、特に若い層からめちゃくちゃに言われているので薦める気になった。
子どもの嫌がるものにはしばしば教育的価値の高いものがある。
一度読んでおくといい。
「女性の品格」という題名だが日本人として身につけておくべき多くの徳目が効率よく並べられていて、使いやすいハンドブックという感じ。私にとってはけっこうな良書であった。
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はじめに − 凛とした女性に 第一章 マナーと品格 礼状をこまめに書く 約束をきちんと」守る 型どおりの挨拶ができる 相手に喜ばれる物の贈り方 手土産を持っていく 電話のかけ方 断るときほど早く、丁寧に パーティーのマナー 長い人間関係を大切にする 記金日を大事にする 第二章 品格のある言葉と話し方 敬語の使い方 品格のある話し方 ネガティブな言葉を使わない 魔法の言葉「ありがとう」 大きな声ではっきりと話す 乱暴な言葉を使わない 第三章 品格ある装い 流行に飛びつかない インナーは上質で新しいものを 勝負服を土もつ 秘すれば花 姿勢を正しく保つ 贅肉をつけない 髪の手入れ、お化粧の基本 第四章 品格のある暮らし よい客になる 行きつけのお店をもつ 値段でモノを買わない 浪費とケチの間で けちけちしないで役資マインドを 得意料理をもつ 花の名前を知っている 古典を読む趣味をもつ 思い出の品を大事にする 無料のものをもらわない |
第五章 品格ある人間関係 もてほやされている人に擦り寄らない 利害関係のない人にも丁寧に接する 仲間だけで群れない 不遇な人にも礼を尽くす 怒りをすぐに顔に表さな グラス半分のワイン プライバシーを詮索しない 後輩や若い人を育てる 聞き上手になる 家族の愚痴を言わない 心を込めてほめる 友人知人の悪口を言わない 感謝はすぐに表す 第六章 品格のある行動 よいことは隠れてする 人の見ていないところで努力する 独りのときを美しく過ごす 目の前の仕事にふり回されない 役不足をいやがらない 私生活のゆとり 頼まれたことは気持ちよくするか、丁寧に断る 縁の下の力持ちを厭わない 時間を守る ユーモアを解する 第七章 品格のある生き方 愛されるより愛する女性になる 恋はすぐに打ら明けない 内助の功 うわべに惑わきれない 品格ある男性を育てる 過去にこだわらない 権利を振り回さない ゴールデンルール 満足度をあげる 倫理観をもつ あとがき − 強く優しく美しく、そして賢く |
内田 樹 著
下流志向
──学ばない子どもたち、働かない若者たち
( 講談社 2007)
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第一章 学びからの逃走 新しいタイプの日本人の出現/ 勉強を嫌悪する日本の子ども/ 学力低下は自覚されない/ 「矛盾」と書けない大学生/ わからないことがあっても気にならない/ 世界そのものが穴だらけ/ オレ様化する子どもたち/想定外の問い/ 家庭内労働の消滅/教育サービスの買い手/ 教育の逆説/不快という貨幣/ 生徒たちの意思表示/不快貨幣の起源/ クレーマーの増加/学びと時間/ 母語の習得/変化に抗う子どもたち/ 「自分探し」イデオロギー/未来を売り払う子どもたち 第二章 リスク社会の弱者たち パイプラインの亀裂/階層ごとにリスクの濃淡がある/ リスクヘッジとは何のことか/三方一両損という調停術/ リスクヘッジを忘れた日本人/代替プランを用意しない/ 自己決定・自己責任論/貧しさの知恵/ 構造的弱者が生まれつつある/自己決定する弱者たち/ 勉強しなくても自信たっぷり/学力低下は「努力の成果」 |
第三章 労働からの逃走 自己決定の詐術/不条理に気づかない/ 日本型ニート/青い烏症候群/ 転職を繰り返す思考パターン/ 「賃金が安い」と感じる理由/ 労働はオーバーアチープ/ 交換と贈与/IT長者を支持する理由/実学志向/ 時間と学び/「学び方盲学ぶ/工場としての学校 第四章 質疑応答 アメリカン・モデルの終焉/ 子どもの成長を待てない親/ 育児と音楽/高速化する社会活動/ 師弟関係の条件/教育者に必要な条件/ 無限の尊敬/クレーマー化する親/ 文化資本と階層化/家族と親密圏/ 新しい親密圏/ニートの未来/ ニート対策は家庭で/ 余計なコミュニケーションが人を育てる/ 付和雷同体質/相手の話を聴かない人々/ 時間性の回復策/身体性の教育 |
小野田
正利 著
悲鳴をあげる学校
―親の“イチャモン”から“結びあい”へ
( 旬報社 2006)
題名を読んで、世の中の学校はどんなイチャモンに曝されているのか、きっと面白おかしく書いてあるだろうと思って買い求めたが、そんな軽い本ではなかった。
著者は300を越えるインタビューと2000を越えるデータをもとに、
「なぜ学校は理不尽な要求を突きつけられ続けるのか」「理不尽な要求を突きつける親たちの真の目的は何か」
を丹念に解きほぐしていく。
例えば、
「小野田先生。ほんまに私、小学校の教師を二〇年やってるけど、困ったわ−。ある保護者の人は、『宿題が多すぎるから減らせ』と言ってくる。ある保護者の人は、『少なすぎるから、もつと出せ』と言ってくる。どうせえちゅうんでしょう」
と聞かれることがよくあります。私は、笑いながらこう答えます。
「どっちも本当です。要は、宿題が多い少ないということが本質的な問題ではなくて、子どもの教育のことで悩んでいる保護者がいて、そのことをきっかけとして、それであんたと話がしたいんだ。こういうメッセージとして、それは解釈しないといけないんだ」(P.151)
これはまったくその通りであろう。
鬱陶しい要求が次々と突きつけられると、私たちはついつい保護者をクレーマー扱いにしてしまうが、そうではない。保護者もまた、子どもと同じように自分の意思をきちんと表現できていないのだ。
私たちは彼らの「本当に言いたいこと」を、その都度斟酌しなくてはならない。
その意味で、十分に考えさせられる書籍であった。
ところで、学校はなぜもこのように次々と要求を突きつけられるようになってしまったのか。
小野田はこれについて、二つの学校神話が関係しているという。
この「学校神話」は学校を等身大の姿で評価するということよりは、そのことによって過小評価をしたり、過大評価をして学校そのものの実像をきちんと確認するチャンスを逃し続けてきたのではないでしょうか この 「学校神話」 ですが、大きくは二つあると思います。
一つは、むかしからの「学校神話」です。それは「学校というのは子どもたちのためには何がなんでも全力を尽くすべき存在だ」というものです。そういう意味では学校教職員は日夜二四時間体制で奔走しています。私はそういう実態もよく知っています。
もう一つは、ここ五、六年ぐらい前から、先ほど言いました規制緩和や公教育の 「改造」という問題とあわせたところで意図的につくり出されてきた神話です。つまり、それは「学校はすでに機能不全におちいっている。かくなるうえは構造改革を徹底的におこなうべき存在なんだ」というものです。
私はこの二つの「神話」はともに神話であり、実像ではない、そして誤っていると思います。前者は「ほめ殺し」です。これはかつての竹下首相が皇民党から批判されたときによく言われたキャッチフレーズです。まさに前者の評価は、ほめ殺しなんだろうと思います。後者はまさに「やらずぼったくり」的な評価と決めつけです。つまり学校にきちんとした環境条件を与えずに、もうダメな存在だと決めつけて切り捨てていく、まさにえげつない主張です。
しかし私たちはいつまでこうした状況に耐えていかなければならないのだろうか?
これについて小野田は「三年」だという。
しかし、あと三年踏ん張ってくれませんか。三年という言葉に根拠はないのですが″まともに冷静に″学校をみてもらうための期間が必要ですし、学校の役割の境界領域と協力についての ″合意の形成″を、やはり地道につくっていくしかないと思います。わたし自身も、口先だけでなく、研究者として具体的な改善策の提示に取り組んでいきます。
私は本当に学校が動かなくなったのはここ3年と見ている。そしてひとつの歴史が終わるには10年はかかるという考えから、今日の状況あと7年はかかると思っている。
あとはただ状況が変わるとき、日本の教育が回復不能なまでに破壊されつくしていないことを望むだけである。
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第1章 悲鳴をあげる学校 ふえる学校へのイチャモン |
第3章 イチャモンはどうしたら打開できるか |
関根 眞一著 となりのクレーマー ―「苦情を言う人」との交渉術 (中央公論新社 2007) |
デパートの「お客様窓口係」の苦情対応の話である。 「苦情を言う顧客をクレーマーにしてはいけない」という点で勉強になった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 第1章 クレーマー物語―絡まった糸はなかなか解けない (婚約指輪;六〇日の攻防…そして ;ヤクザとの対決;軟禁事件 ;婦人服売り場の怪事件、三題 ;賞味期限;靴下問答 ;二人のクレーマー―銀行員と公務員 ;被害額は二円?) 第2章 苦情社会がやって来た! 第3章 クレーム対応の技法 |
もうひとつはそれに失敗したばかりに裁判に持ち込まれた事例である。
福田 ますみ著 |
「殺人教師」とまで報道された暴力教師、裁判で明らかにされたのは、 保護者の訴えのほとんどがでっち上げだったという事実・・・。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 序章 「史上最悪の殺人教師」 第1章 発端「血が汚れている」 第2章 謝罪「いじめでした」 第3章 追放―停職6か月 第4章 裁判―550対0の不条理 第5章 PTSDごっこ、アメリカ人ごっこ 第6章 判決―茶番劇の結末 終章 偽善者たちの群れ |
佐藤 幹夫著
自閉症裁判
レッサーパンダ帽男の「罪と罰」
(洋泉社 2005)
2001年の4月に起きた浅草女子短大生殺人事件のルポルタージュ。この事件では容疑者がニッカボッカに縞模様のハーフコート、頭にはレッサーパンダの帽子をかぶるという極めて異様な姿で、日中ひとりの若い女性を惨殺した衝撃的なものだった。そのため報道各機関もこぞって取り上げ、世間の耳目を集めた。しかしその後、裁判の展開や判決を巡って大きな反響が起きることもなく、容疑者の責任能力が認められ、2004年11月、無期懲役の判決が下りた。
軽い知的障害があるとは報じられたが、彼が自閉症で養護学校にいたことは最後まで伏せられたままだった。
この本の著者は養護学校の教員を20年以上も勤めた特別支援教育の専門家である。そうした経歴のため容疑者支援の立場から取材を始めるが、次第にその視点を変えていく。自閉の者もその範囲内で、取るべき責任は取らなければならないのだ。
しかし容疑者であるこの男に、どう責任を取らせることができるのか、通常の意味での「責任能力」あるのか、ないとしたら誰がその責任を取るべきなのか、それがこのルポルタージュの主要なテーマである。
容疑者は他人が理解できるように、自己のことを説明できない。
女性に想いを伝えるのに、刃物をちらつかせることしか思いつかないような男だからである。
かぶっていた帽子は犬の帽子であってレッサーパンダではないと、どうでもいいことにこだわるかと思うと、その同じこだわりで自分に不利な要件を積極的に認めていく。弁護士が抑えようとしても決して怯むことはない。
男には妹がいた。21歳で癌にかかった妹は、その治療費と生活費を捻出するために必死に働くのだが、男はその金を何の躊躇いもなく盗み出すことができる。冷酷なのではない。思いが至らないのだ。
しかしだからと言って無罪としたのでは、何の落ち度もない19歳の無辜の女子大生は浮かばれない。遺族も耐えられない。
男の保護者はどうか。
母親はすでにこの世になく、父親もまた知的な問題を抱えていて、生活保護の意味さえ理解できない。
男の通っていた養護学校の担当者はどうか。
、これも無理である。男は軽い知的障害ということで養護学校にいたのだし、高機能自閉という概念自体が、その頃は十分に浸透していなかった。
対処法は今も確立していない。
結局、同様の「次の事件」を起こさないために、特別支援教育の強力な推進が必要とされるのだが、それがこの事件の悲惨を救うことにもならない。
男は生涯を刑務所の中で過ごす(*)。彼の生の裏には二人の若い女性の死があるのだが、男は反省もできない。自分が命を奪った被害者に対しても、決して優しくすることのなかった妹に対しても、彼は心を寄せ、悲しむこともできない。
実に暗澹たる気持ちにさせられる著作である。
*「無期懲役になった場合にその服役者は、一生外に出られない訳ではない。模範囚であれば10年ほどで出られる可能性が高い」といった言い方があるがそれは間違いである。「犯罪白書」(05年版)によると、04年に仮釈放された無期懲役囚数は全無期懲役受刑者1467人中3人。いずれも20年以上服役し、仮釈放許可人員の平均服役期間は27年2カ月という。10年あまりで出所できるなどありえない話である。
------------------------------------------------------------------------ 目次 レッサーパンダ帽の男が浅草に 加害者・被害者 逮捕まで 報道 隠されたこと 裁判(一) 初公判での「沈黙」 被害者(一) 家族のアルバム、その突然の空白 裁判(二) 「障害」はどう受けとめられたのか 裁判(三) 「自閉症」をめぐる攻防 加害者(一) 「なぜ顔を上げないのか」と男は問い詰められた 加害者(二) 放浪の果て 被害者(二) 「思い出も、声も忘れたくないのに…」 加害者(三) 「教え子の事件」が連れてきた場所 裁判(四) 消された目撃証言 裁判(五) 「殺して自分のものにする」と言ったのは誰か 裁判(六) 彼らはどのように裁かれてきたのか 被害者(三) 「この国を腐らせているのはマスコミのあなたたちではないか」 加害者(四) 責任と贖罪 裁判(七) それぞれの判決 最期のレクイエム |
山脇由貴子 著
教室の悪魔
見えないいじめを解決するために
(ポプラ社 2006)
これはいかにも「毒書」の名にふさわしいトンデモ本である。
発売から2ヶ月で10万部売れたと言う。
一連のいじめ自殺報道が過熱しきっていた2006年12月20日発行だから、まさに時期を得たものだった。
著者は東京都児童相談センターの心理司である山脇由貴子女史、年間100家族以上の相談や治療を受け持っているという。それだけでも権威ある著作であるが、どんな権威が書こうとも、いわゆるトンデモ本はトンデモ本でしかない。
第1章では著者の指導に従ったおかげで「いじめ」を解決した「雄二君(仮名)」の相談事例を扱い、第2章では著者のあつかった「見えないいじめ」の事例を次々と紹介する。
現代のいじめはクラス全体を巻き込んで、きわめて陰湿な形で行われる。いじめのターゲットは誰でもいいのであって、いじめの主犯たちは自由にクラスの子どもたちをあやつる。いじめの真相は親にも学校にもわからない、というのが趣旨である。
第3章 なぜクラス全員が加害者になるのか?では、いじめは集団ヒステリーであり、いじめに参加しないと必然的にターゲットのされてしまう(したがって被害者であるひとりを除いて全員が加害の側に加わっていく)いじめの仕組みが語られ、
第4章 「いじめ」を解決するための実践ルール―親にできること、すべきこと、絶対してはならないこと、
第5章 「いじめ」に気づくチェックリスト
へと続いていくのだが、確かに、この本を読んで普通の気持ちでいられる保護者は少ないだろう。なぜなら、
いじめはもはや因果の鎖から解き放たれ、個人の性格や能力、家族関係や学校生活のありかたなどとまったく無関係に、全員が罹る一種の疫病なのだからだ。どんな子育てをしようとも、全員が加害者または被害者になるしかない恐ろしい病気なのである。
しかし、本当にそうなのだろうか?
著者はいじめを「客観的に調査する」ことはナンセンスであるという。
結局、いじめの本質は被害者にしかわからない。被害にあった子どもの言葉は、客観的事実とは異なっていても、それこそがいじめの実態であり、彼にとっての真実なのである。だから、彼らのいちばんの味方であるべき親は、その言葉をまるごと受け止め、真実として扱わなくてはならない。
つまり子どもが「いじめられた」といったら、
それが単なる友人同士の諍いなのか、
わが子のやった何か悪いことの仕返しなのか、
あるいは本当に単純な誤解なのかも知れない、といった一切の可能性は、まったく考えなくても良い、本人がいじめと言えばそれはいじめなのだということである。
本来相互性のあるはずの人間関係が、ひとりが「いじめられた」と言うだけで、100対0で、叫んだ側に理があることになるのである。そんな人間関係というのはあるものだろうか?
著者はさらに言う。
(学校は)まず子ども達に、「学枚としていじめの事実はあったと判断している。被害者以外は、程度の差はあれ、全員が何らかの形でいじめに関与、加担したと考えている。今後は被害者が安心して登校できるよう、いじめの問題に取り組むと同時に、次の被害者が出ないように学校と保護者全体で取り組んでいく」ということを伝える。
誰が何をしたのか、個々に子どもに聞くことは、意味がない。そんなことをすれば、みなが保身に走り、他人に責任を押しつけ、自分のせいではないと主張し、当事者意識がなくなってしまう。重要なのは、「全体で行われたことだ、被害者以外全員が加害者であると判断し、取り組む」というメッセージを伝えることだ。
客観的事実は必要ない、いじめられた子がいじめられたといっただけで、数十人の子どもに対して、
学枚としていじめの事実はあったと判断している。被害者以外は、程度の差はあれ、全員が何らかの形でいじめに関与、加担したと考えている。
と宣言しろと言うのである。子どもたちが一斉に目に炎を燃やし、怒りに打ち震えるのが目に見えるようだ。
そんな横暴が通ると思っているのだろうか?
さらに
学校は保護者全体にも同様のことを伝えなければならない。誰か特定個人によって行われたいじめではなく、全体によって行われたいじめであることを理解してもらう。
客観的事実なしに、どうやって理解してもらうのだろう?
普通の親だったら絶対に納得しない。 今度は30数人の親たちが怒りに燃える。
我が子かわいさのあまり庇いたいのではない。取るべき責任は取らせたいが不必要な責任まで背負う必要はない。それが常識というものだ。しかも有無を言わさずいじめを認めさせるという横暴な仕事を、児童相談所はしない、親もしなくていい、学校が行えと言うのである。
さらにまた、学校の横暴にさらされた保護者たちも、家に帰って同じことをしなければならない。
私は、保護者達それぞれが、自分の子と話しあう必要があると思っている。学校の保護者会で聞いてきた内容を親それぞれが子どもに伝える。しかし親は子どもに、やったかやらないかを確認してはいけない。「一緒にいじめたの?」と責める言葉や「あなただけはやってないわよね」などという言葉は、間違っても口にすべきではない。
(中略)
親として子どもに伝えるべきことは、いじめがあったということを知った、全員が加害者であったと理解している、今後はいじめをなくすための取り組みに、クラスの保護者全員で取り組んでいくという、大人の認識と姿勢である。
私は、保護者達それぞれが、自分の子と話しあう必要があると思っているの「話し合い」のこれが内容なのだろうか?
子どもの言うことを何も聞かずいじめがあったということを知った、全員が加害者であったと理解しているでは、話にも何にもならないだろう。
こういうやり方をして子どもが引くはずもないし、万一やれば、親子関係に重大なひびが入る。
そうした危険を冒しても、クラスの全保護者が山脇氏の思うようにしてくれるためには、それなりの仕掛けが必要なはずだが、それについては一言もない。
『第4章 「いじめ」を解決するための実践ルール―親にできること、すべきこと、絶対してはならないこと』の最初の項目は、「@ 学校を休ませる」である。
第一章の事例にもあるように、我が子がいじめにあっているかもしれない、と感じた時、最初にやるべきことは、学校を休ませることである。
(中略)
その際に、いじめの有無について、子どもに問いただしてはならない。被害者である子どもは必死に隠そうとしている。だから、親が、いじめにあっている、と感じたら、気づいたら、即刻休ませるべきである。
この文章を読んで震え上がらない人はいるだろうか?
親が我が子がいじめにあっているかもしれない、と感じた時から、子どもは学校に出してもらえない。学校に出さないことについての話し合いもなされない。どんなに学校に行きたがっても、被害者である子どもは必死に隠そうとしている。と信じる親はその子を永遠に学校に出さないのだ。
穂積 隆信 著
由香里の死そして愛
積み木くずし 終章
(アートン 2004)
穂積隆信という人がどういう気持ちでこの本を書いたのか、私は疑っている。
私が書いたこの本を
父からの悔恨と愛の書だと思ってください
本人はそう書いているが果たしてそうだろうか?
主観的にそう信じているとしても、本当にそうだろうか?金儲けのためでないか?
1982年9月に出版された前作「積み木くずし」を、私はおそらくその翌年読んだ。私が教員になった記念すべき年である。
そのとき既に、私たちは「これはいけない」と思っていた。13歳の娘は、その本のもたらす厄災に耐えられないだろうと考えたのである。
しかしそんな憂慮をよそに、作者の穂積はマスコミの寵児となっていく。次々とワイドショーに出演したかと思うと、やがて講演活動に奔走するようになり、ついには私設の教育相談所まで持ってしまった。
「まて、それは違うだろ」
私たちはそう思った。まだ娘がしっかりと立っていない状態で、何の相談なのかと・・・、しかしそうした活動を重ねたおかげで、彼はわずかの間に4億円近い収入を得るのだ。。
やがて夫婦は金がらみで離婚する。
娘は「積み木くずしの娘」としてヌード写真集を売り出す。
程なく覚醒剤で逮捕される。
結婚する、離婚する・・・
しばらくニュースがないと思っていたら2001年、別れた妻の死が小さく記事に取り上げられていた(その死が自殺であったことを、今回初めて知った)。
2003年8月「積み木くずし」の主人公は35歳の若さで死ぬ。多臓器不全ということだが、穂積によれば拒食症のためである。
私は「積み木くずし」からたくさんのことを学んだ。これは私の教員としての原点の書といってもいい。
しかし作者自身は、自らの経験からほとんど学ぶことはなかったようだ。
この本の最大の価値がそこにある。
彼の行った全てのことは、親が親としてやってはいけないことなのである。
なおこの本の中に出てくる警視庁少年相談室の竹江孝技官、この人の指導には深く噛み締めるべきものがある。子どもの非行に立ち向かう術として、彼のやり方は20年以上経った今日でも全く輝きを失っていない。
一、子どもと話し合いをしてはいけない。
(親の方から絶対に話しかけてはいけない。子どもの方から話しかけてきたら、愛情を持って相づちだけを打つ。意見を言ってはいけない)
二、子どもに交換条件を出してはいけない。相手の条件も受け入れてはいけない。
三、他人を巻き込んではいけない。
(どのような悪い友だちだと思っても、その友だちやご両親のところへ抗議したり、また、電話をかけたりしてはいけない)
四、日常の挨拶は、子どもが挨拶しょうがしまいが、「お早う」「お帰り」「お休みなさい」等、親の方から正しくする。子どもがそれに応じなくても、叱ったり文句を言ったないこと。
五、友だちからの電話、その他連絡があった場合、それがいかなる友だちからのものであっても、事務的に正確に本人に伝えること。
一読を勧む。
穂積 隆信著 |
<参考> 原著「積み木くずし」復刻版 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 目次 荒れ狂う嵐の中で
(桜田門の秋、由香里前史、闘いの始まり)安らぎの場を求めて (動く点を追って十時、十時) 街で生きる (街で生きる由香里の中へ) 明日に向かって歩く (かたつむり兆し) 家族列車 (悪いのは私家族列車) |
榊原 洋一 著
「アスペルガー症候群と学習障害」
ここまでわかった子どもの心と脳
(講談社+α新書 2002)
(中略)
たいていこちらが見つめているあいだじゅう、乳児もこちらにまっすぐに視線を返してくる。こちらも実験(!) なので、がんばって視線を送り続けていると、やはりずっと見つめていることに不安になるのか、ちょっと視線を外すがすぐにまた視線を返してくる。電車のなかで他にたくさんの人が乗っているにもかかわらず、視線を媒介として乳児と私のあいだに瞬時に強い関係が生じるのだ。(中略)
英語ではアルファベットを二十六文字覚えればすむので、二通りのカナと数千の漢字を覚えなくてはならない日本語は、英語より学ぶのがたいへんだと思っている読者の方が多いのではないだろうか。ところが英語を覚えることもたいへんなのだ。----------------------------------------- 目次 序 章 大事にすればいい子に育つ? 第1章 子どもの心の発達は何でわかるか 第2章 多重知能とワーキングメモリー 第3章 まれではないアスペルガー症候群 第4章 学習障害と脳の回路 終 章 子どもの心の障害と現代社会 |
西林克彦
「間違いだらけの学習論」
なぜ勉強が身につかないか
(新曜社 1994)
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目次
第1章 有意味な学習と認知構造
1 学習論に、間違いはないか?
2 学習対象の量は少ないほどやさしいか?
3 経験すれば学習できるか?
第2章 有意味学習の特徴
1 詰めこむとあふれるか?
2 見れば、見えるか?
3 学習すればどんどん伸びるか?
4 賞罰は学習を進めるか?
5 学習すれば知らないことが減るか?
第3章 理解と応用
1 理解の構造
2 有意味化と理解と確信
3 理解と応用
4 構造化された知識
第4章 知識と教育
1 知識のありようとできること
2 内容と方法と教材解釈
3 教師の役割
第5章 教育への提言
1 「詰め込み教育」の問題点は、「詰め込めない」こと
2 月の半分は昼間に見える
3 教科書は厚いほうがいいという正論
小塩隆士
「教育を経済学で考える」
(日本評論社 2003)
----------------------------------------------------- 目次 第1章 教育への経済学的視点 第2章 教育は投資か消費か 第3章 夢または勘違いが支える教育需要 第4章 教育はどこまで成果を挙げられるか 第5章 成長を促し、格差を広げる教育 第6章 経済学から見た教育改革 |
両親悔恨の手記
「息子が、なぜ」
名古屋五千万円恐喝事件
(文芸春秋 2001)
和田秀樹・河上亮一・小浜逸郎ほか著
「息子を犯罪者にしない11の方法」
(草思社 2000)
鳥越俊太郎・後藤和夫著
検証◎金属バット殺人事件
「うちのお父さんは優しい」
(明窓社 2000)
佐瀬 稔著
「うちの子がなぜ!」
〜女子高生コンクリート詰め殺人事件〜
(草思社 1990)
まず次の文を読んでいただこう。
(最後のリンチが行なわれ、ぼろぼろになった被害者を放置して町に出たとき)
「一夫先輩が『あいつ、死ぬんじゃないか』と何回も繰り返しました。ぼくはそんなこ
とあるわけないと思ったし、あんまりしつこいので、先輩は……狂ったと思いました」
翌日、死んでいるのがわかったね。そのとききみはどうした?
「自分と次郎先輩は、笑いました」
どうして?
「よくわからないんですけど、とにかく、大声というか。なんで笑ったのか、よくわからないんですけど……」
もちろん楽しくて、笑ったわけじゃないんだね。
「はい」
1989年に東京都綾瀬市で起こったいわゆる「女子高生コンクリート詰め殺人事件」、
路上で女子高生を拉致し、一ヵ月にわたって監禁。暴行の限りを尽くした上で殺害、遺棄。
それだけでも事件の深刻さがうかがえるが、以下のような事実が分かるにつれて、社会に大きな衝撃をあたえることになった。
犯人の4人の少年(18〜19歳)はそれぞれ「不登校」「家庭内暴力」「ファミコン」「学業不振」「高校中退」「非行」等、現代の教育問題をフルセットで抱えている。だからといって彼らの家庭に大きな過ちや欠損があったとはとても思えない。ただし小さな過誤や基本的な間違いも少なくない。
その内のひとつ、すさまじい家庭内暴力の後、この犯行に加わることになった三雄(仮名)の家では・・・・・・
松居 和
「子育てのゆくえ」
子育てをしないアメリカが予見する日本の未来
(エイデル研究所 1993)
最近ではあまり聞かれなくなったが、日本の教育や教師を批判するのにヨーロッパやアメリカを引き合いにして「10年遅れている」とか「20年遅れている」とかいった主張がなされることは少なくなかった。
実際ノーベル賞の受賞者やオリンピックの入賞者の数など見ていくと、「アメリカの教育はすばらしく優れている」といった錯覚を持ちそうになる。そうしたアメリカの輝かしい一面がアメリカの教育の成果と考えられるのに対し、アメリカの犯罪の異常な多さや貧困については、一向にアメリカ教育の責任ととらえる視点がないのは、ずいぶん片手落ちだと思っていた。
そうしたらこの本に出会った。
アメリカに在住する著者はその教育に徹底した不信感を持ち
家庭の問題に関して『欧米では』ときたら、まず反射的に『それは真似してはいけないこと』と考えるような癖がついている
と言い切る。
こうした立場に立つ著者は日本の受験地獄まで賛美してしまう。
彼の奥さんは幼稚園に子どもを通わせながら、この希望の小学校の入試のための塾へ子どもを毎週電車で連れて行ったのだが、子どもが合格したときには泣いていたという。
わたしは子どものことで親が涙を流すということに素直に感動する。たとえそれが親のエゴであっても、実際に塾でならうことが無意味であっても、そんなことは関係ない。親が子どもとともに一喜一憂することがあり、涙を流すことがあることに大きな意義を感じるのだ。
現在大きな問題となっている日本の高校中退率はわずか3%程度である。ということはつまり、そもそも高校へ進学しなかった者のことを考えても、およそ人口の90%以上が高校を卒業しているはずである。それに対してアメリカは
子どもたちが義務教育を途中で放棄するいわゆるドロップアウト率が50%に達する。
しかも
アメリカの義務教育は高校までで、12年間。ところが、高校を卒業する子どもたちの20%が社会で通用するだけの読み書きができない。しかもこの高卒の文盲率が毎年少しずつ上がっている
ほかにもアメリカの教育のどうしようもない様子を表した数字には枚挙にいとまがない。
・デトロイト市では、子どもたちの60%が家庭に父親像となる男性を持たない (全米では20%が片親の家庭である)。
・その社会では40%の親たちが子どもが18歳になるまでに離婚し、毎年5万人の子どもが親によって誘拐される。(アメリカでは、毎年10万人のこどもが誘拐されるが、日本の人口は約半分なので、もし同じ状況が日本で起きれば5万人という計算になる。ちなみにアメリカでは毎年3000人の子どもが誘拐され殺されている。これも人口比で計算すると、日本で毎年1500人の子どもが誘拐され殺されることになる。)
・17歳以前の性体験−50%、三分の一が避妊しているが、毎年10万人以上が出産する。十代の妊娠まで広げれば毎年百万人、そのうち出産するのが五十万人と言われる。
・毎年四千人にのぼる子どもたちが、親の幼児虐待または何らかの形の子育て放棄によって死んでいます。(中略)ニューヨーク市だけでも、毎年六万件に達する幼児虐待事件が報告されています。
・アメリカでは90%の子どもが麻薬を経験し、75%が常習している。
・アメリカの親たちの70%が、もしやり直せるのだとしたら子どもは作らないだろう、と言っている。
そして著者は、アメリカが得意とし、日本がアメリカからしか学びがないと考えている「人権」や民主主義についても、さっぱり同調していかない。
・幼児虐待や家庭崩壊が決定的に進んでしまったアメリカではもはや「道徳」ではなく、「人権」という言葉で弱いものを守るしか手段がない社会状況になってしまっている。
・ところが人間が近頃考え出し、それによってより良い社会を作ろうとしている理論である民主主義や人権といった考え方には、どうしても避けて通れない矛盾がある。民主主義の土台である人権が、個人主義と結びつき、個人主義が民主主義と相容れないという点である。一人ひとりが「自由にのびのびと、個性を大切に」暮らし始めたら、人々の個性はぶつかり合い、やがて誰も「自由にのびのびと、個性を大切に」暮らせなくなるということである。
・親が子どもに「我慢しなさい」と言わなくなった社会がここアメリカにあるということ。子どもに「我慢しなさい」と言うよりは「勝ちなさい」と親は言うであろう社会がここにあるということ。そしてその社会は多くの人たちにとって、とくに弱いものにとって、とても住みにくい社会であるということ。この社会で人々が言う「自由」とか「平等」「人権」とかいう言葉は、人々をルールのない競争へと追い立てる。ルールのない競争は「喧嘩」なのだ。
・家庭において、この「個性豊かに」「自由にのびのびと」「無限の可能性」といった、専門家がつくり出した実態のない言葉に親たちが囚われると迷路に入り込む。
具体性がほとんどないこうした表現に惑わされ、どうしていいのかわからない、じゃあそういうことを言っている専門家に任せようかということになってしまう。
幼稚園は三年保育、というのが主流になりつつある。家庭崩壊を薦めて商売をしている人たちの思う壺である。子どもたちを対象に置いた「個性豊かに」という言葉が、親たちの子育てから個性を消している。
著者の一貫した主張としては次のものがあげられる。
@ アメリカの家庭は子育てに興味を失い、それを放棄しはじめている。
A その結果学校教育への依存は高まったが、家庭で教育されてこなかった子の教育はもはや学校の手にはおえず、親たちは荒れた学校を見捨てて教育産業への傾斜を深めるようになった。けれどそれにもかかわらず(それだからこそ)アメリカの教育は荒廃の一途をたどり続けている。
B そんなアメリカの実情も伝えず、マスコミはアメリカ型の社会や家庭生活、教育観を価値あるものとして宣伝し、日本も全体としてアメリカ型を指向するようになってしまった。
C 日本も結局はアメリカにならざるを得ないかもしれないが、それは一刻でも先に延ばされなければならない。
佐瀬 稔著
「いじめられてさようなら」
(草思社 1992)
東北地方で昭和60年に起こった「いじめ=自殺事件」のルポルタージュ。
今日では珍しいガキ大将型の中学生による同級生いじめを扱ったものであり、その点ではあまり興味は引かれない。
ただし、いったんいじめや自殺が法廷の場に出された場合
(損害賠償の民事訴訟がなされた)、学校長はじめ教師たちがどういう扱いを受けることになるかという点では大いに勉強になった。
裁判で争われるのは教育的理念や原因追求ではなく、賠償額の多寡である。この時教師は被告(市町村教育委員会)側の証人として「一銭も出さない」ことを目標に戦わなくてはならなくなる。
冷淡な言い方をすれば、
「個人(原告=被害者)の手に公共のもの(賠償金=元を質せば住民の税金)が渡らないように守る」
のが最大の目標となるのである。
事件に対する教師の対応は、マスコミに対しての発言も含め、一切合財が引きずり出され検証される。
その中で、教師は不本意な発言を繰り返えさざるを得ないのだ。「知らなかった」「気づかなかった」「忘れた」………。
久徳重盛著
「母原病」
〜母親が原因でふえる子どもの病気〜
(サンマーク出版 1990)
生理学的な検査では以上がないのに異常を訴える子どもが増えている。
久徳クリニックの院長である著者は、そのような病気の原因を母親の子育てに求め、心理療法で治療にあたっている。
「母原病」は副題が示す通り「母親が原因でふえる子どもの病気」だが、具体的には「ぜんそく」「慢性の腹痛」「カゼ」「食欲不振」「下痢」「足痛」「ことばの遅れ」「夜尿」が例示され、治療にいたる様子が記されている。
もちろんすべての原因を母親に求めているのではなく、母親に対して結果的に間違った育児を強いている現代社会のありかたにも考えを及ぼしているが、「母親が変われば、病気が治る」という確信からスタートしているので、どうしても母親を責める雰囲気が全編からぬぐえない感じがある。
「母原病」は一世を風靡した言葉だが、「慢性の腹痛」「カゼ」「食欲不振」「下痢」「足痛」「ことばの遅れ」まで母親のせいにされたらかなわないだろう。
批判的な意味を含めて、一度読んでおくといい。
最終節ではアメリカ型の子育てが、いかに日本に適合しないかを考察しているが、その点では好書といえる。
小寺やす子著
「いじめ撃退マニュアル」
だれも書かなかった<学校交渉法>
(情報センター出版局 1994)
大河内清輝君の「いじめ自殺事件」の直後に出版され、爆発的に売れた。親に撃退されないようにと考え、購入して読んだ。 しかし思ったほど学校に対して攻撃的ではなく、基本的には普通の親以上に学校を信頼していることが了解される。
特に、学校に対して不当な要求をする親を攻撃する部分では、教師の前に保護者が立って猛烈に弁護してくれているような、あるいは側面から圧倒的な掩護射撃で支えてくれているような気持ちになった。著者は教師ではないが、教師のホンネに精通している感じである。
マスコミを攻撃し、訳知り顔の評論家を罵倒し、「先生たち!ガンバッテクダサイ!」という感じがヒシヒシと伝わってくるような気がした(ただし教師に対もそんなにやさしい訳でもない)。
◎人権派を気どるコンサルタント、ソーシャルワーカー、評論家、学者、弁護士、進歩的文化人、市民運動家、一部フリースクール関係者の類が声をそろえて、 ただし基本線として一貫している「学校は必ずいじめを解決できるはずだ」という確信は、果たしてどうだろうか。この点にのみひっかかりが残った。
河合隼雄著
「子どもと学校」
(岩波新書 1992)
河合は日本の心理学の草分け、重鎮中の重鎮であり、したがってその影響力も大きい。彼の立場は、子どもの内に存在する自発性や個性・創造性に期待し、教え込む教育や型にはめる教育を厳しく批判するものだが、そうした現代の学校批判を網羅的に体系化したような本書は、その意味では良書だと思う。
ただし、私はほぼ全面的に不賛成である。
それは著者がどれほど曖昧にしようとも、主張の核心が以下のような文に明確に現われているからである。
わが国では、すでに述べたように母性原理による絶対平等感が強いので、特定の能力のある人が、たとえそれにふさわしいだけの待遇を受けていたとしても、それは『民主的でない』という言葉で表現される、日本固有の論理によって反対されてしまったりする。このために、想像的な個人がのびのびと活躍する場が奪われてしまうのである。
このことは、今後、日本の教育や研究のあり方を考えていくうえで、大いに反省しなくてはならない点であろう。
河合はフツーの子の「個性」など問題にはしていない。
そもそもフツーの子にも個性があるなどと思っていないのかもしれない。
河合が嘆いているのは、日本のエリートたちの個性が学校教育の中で、芽を摘まれていることなのである。
そういう視点から本書を読み直すと、曖昧だった箇所もすっきりと理解され、よくわかる文となる。
日本の教育に対する河合たちの提言は、「エリートを救え!」なのだ。
NHK教育プロジェクト編
「公立中学はこれでよいのか」
(日本放送出版協会 1992)在庫切れ
NHKという巨大組織が本を編集すると、時々とんでもなくすならしいものができあがる。
とにかく情報の収集能力が個人とは圧倒的に違うからだ。
アンケートや統計を駆使した本書は、全体がとても客観的に仕上がっており、多くの部分で納得のいくものである。
中でも、第4章「授業がわからない」、第5章「何をいつどのように教えるのか」が秀逸。
学 習指導要領がどのように編成されるか、なぜあんなに多い授業内容が放置されているのかが、具体的に詳しく説明されている。
高垣忠一郎著
「登校拒否・不登校をめぐって」
―発達の危機、その「治療」と「教育」
(青木書店 1991)
登校拒否を扱った本の中では、おそらく最良の部類に入るものだと思う。
今日の子どもの問題現象を、幼児期の発達の過程から分析し直し、説明しようとしている。
所々に納得できない部分もあるが、「ここから先はよく分からないが、ここまでは分かったので説明しよう」という感じが全面に流れており、とても好感がもてる。
いろいろ難しいことの言われる登校拒否についても、頑張りすぎた上で息切れ状態になった「よい子の登校拒否」と、未熟なために学校に行けなくなった「未熟型の登校拒否」のふたつに分類して終わりにしてしまう(それ以上の分類はしない)。現場の人間にとってはこのほうがはるかに分かりやすい。
一律に「登校拒否」といっても、中には「ガンバレ」と言ってはいけない子もいれば、頑張らせなければいけない子もいるのだ。 その他、いじめ問題にも適切な分析があり、繰り返し読むのにふさわしい本である。
◎受容することは、子どものやりたいようにさせてやることだと誤解されていることがある。受容することと、きびしく要求することとは対立するものではない。 教育の本質は、要求や課題を子どもの前に立て、矛盾や葛藤をつくりだし、それを克服する自主的な活動をよびおこし、
その活動を援助することを通して、こどもの発達・自立を実現してゆくことである。
そこにおいては、ある価値観や目標に立って、こどもの行動を評価したり、よくないと考える行動を禁止したり、ある欲求の実現を断念させたりすることは不可欠の要素である。
それらは、子どもを受容することと対立するものではない。
受容するということは、こどもの感情や欲求・願望など、子どもが心の中で経験していることを、子どもの立場に立って共感し、理解し、それなりの理由のあることとして認めることではあっても、決して子どもの個々の行動をすべて是認し、許容することではないからである。
大村はま著
「教えるということ」
(共文社 1973)
国語教育の世界の重鎮。女性教師のパイオニアの一人。この人の講演会には「おっかけ」のグループがいるという。
その主張には、耳を傾けるべきものが多い。
私は卒業式の時、若いときは別れるのが悲しくて泣きましたが、今はこの人たちの生きていく世界が目に見えて、かわいそうで泣けてしまいまいます。「どんな苦しみの中を越えて、この人たちは生きていかなければならないか。それにしては、いかにも力をつけなさすぎた。」
と思うんです。
小浜逸郎著
「学校の現象学のために」
(大和書房 1985)【絶版】