キース・アウト
(キースの逸脱)


2000年10月

by   キース・T・沢木














2000.10.09


パソコン指導 先生に重荷!? 公立校 99パーセント配備したが・・・ 
授業に活用たった3割

[西日本新聞2000年10月09日]



情報技術(IT)時代の読み書きといわれるコンピューターの指導者不足が、各地の学校で深刻な問題になっている。コンピューターは全国の公立学校の九九パーセントに配備されたが、授業に活用できる教師は三二パーセント。九州・山口は平均以下の三〇パーセント。授業内容も自治体任せでばらばら。政府は短期研修で指導者育成を急いでいるが“泥縄対策”を疑問視する声も強い。


文部省の研修も泥縄

 文部省によると、全国の公立小中高校のコンピューター設置率は、今年三月末現在九九・三パーセント。しかし、情報教育は必修科目ではなく、中学で必修になるのは二〇〇二年度。高校では、新科目の「情報」として登場するのが〇三年度から。

 直面する問題は、情報教育が本格スタートするまでの対応。同省は、すべての授業でコンピューターを活用する工夫を指示しているが、専門知識のある教師はわずかしかいない。

 同省の調べでは、インターネット検索など初歩のコンピューター操作ができる教師は公立学校全体の六六・一パーセント。コンピューターを授業に活用できるのは三一・八パーセント、九州・山口は三〇・一パーセント。同省は、全国で五―十日のコンピューター指導者養成研修などを開いているが、内容は初歩レベルが精いっぱい。

 情報教育に詳しい拓殖大学工学部の高橋延匡教授は「わずか十日ほどで指導者は育成できない。市販ソフトが使える程度の教育も無意味。ITの人材を育てるためには、教師を大学に再入学させるくらいの覚悟が必要だ」と指摘する。

 情報教育の内容も、同省の指導はあいまいで、現場の裁量にゆだねているのが実情。

 各県の教育委員会は「ITの進歩が早過ぎて追いつくのが難しい」(福岡県教委)、「パソコン活用を先生に強制できず、学校や授業によってばらつきが大きい」(佐賀県教委)などの悩みを訴えている。

 大学の教職課程では、ようやく本年度から情報教育が義務づけられたが「パソコン世代の教師が各校で多数を占めるのは何年も先」(同省情報教育室)。緊急の解決策が求められている。


バカにしないでもらいたい。教師はそこまでバカではない。
専門知識と言ったって、まさかUNIXが理解できたり、プログラミング言語が扱えたり、ハードの組み立てができなければ、教師として役に立たないということはないだろう。インターネットへの接続だの「Word」や「Excel」の扱いなど、教師にとってそう難しいことではない。


私が初めて携帯用のワープロを買った13年前、校内にワープロを使える職員は2人しかいなかった。それがわずか10年のうちに、すべての職員が使いこなせるようになってしまった。20代・30代といった若い世代だけでなく、40代・50代といった世代まで、必要とあればなんでも勉強にしてしまうのが教師だ。しかもそれは20万円近い機器を身銭を切って購入し、独学で学んだのだった。

タイプライターに触ったこともない人間がワープロを使いこなすのと、ワープロの打てる人間がインターネットを使いこなすのと、どちらが難しいか考えるまでもない。その気になれば一ヶ月で、全国の教師を100%コンピュータの指導者にすることだって夢ではない。教師はその程度には優秀なはずだ。


しかし何故ここまで遅れてしまったのか。答えは簡単。
コンピュータの習得が今日の学校にとって、ほとんど必要性のないものだからだ。

情報技術(IT)時代の読み書きといわれるコンピューターかどうか知らんが、いまだに教師は、小中学生や高校生が読むべき情報はコンピュータの中より書店にこそ多いと信じている。時代遅れかもしれないが、漢字の習得はワープロの変換ではなく、手書きでなければ無理だと思いこんでいる。(「憂鬱」「薔薇」「魑魅魍魎」といったコンピュータ上の文字を見て、ドットに反映しない部分まで類推して覚えられる人が普通なら別だが)文書作成におけるワープロの力は認めるにしても、コンピュータが生徒一人に一台ずつ与えられていない現状からすれば、まだまだ原稿用紙にこそ軍配が上がる。

模造紙とマジックインキを使ってのプレゼンテーションからマルチメディアへの移行というのは魅力的だが、それとて一人が一台のコンピュータを数時間に渡って占有できるという条件がなければ果たせることではない。


しかしそれでもなおコンピュータをやれというなら、せめて各校、2人に1台程度のコンピュータを用意してもらわなくてはならない。コンピュータルームに20台入れろという意味ではない。400人の学校には200台入れよという意味である。

いつでも好きなとき思い立ったとき、すぐにもコンピュータの前に座って何かが出きるような環境ができて初めて、コンピュータ教育は実現可能なものとなる。

そのとき教師は、放って置いたってあっという間に技能を蓄えてしまうだろう。

メディアよ。そのための増税をぜひ、世間に呼びかけてくれ。




今月は面白い新聞記事がないので、思いっきり面白い投書をひとつ・・・・・・。


◇教師に社会人を採用したほうがいい

 
[Mainichi DailyMail Education 10月5日]



先日、高校の文化祭に足を運んだが、生徒にとっては普段より開放感を感じるのであろうか、首を傾げたくなることが多い。廊下にべたっと座って話をする。土足で校内を歩き回る。お菓子をほおばりながら、我が物顔で校内を徘徊する。文化祭だからではなく、きっと普段から似たような学校生活だろうと思われる。

 教師は何をやっているのか。「もう言ってもしかたがない」程度に考えているのか。教師があきらめたら、今の社会で誰が彼らを注意するのか。もちろん、まわりの大人たちも注意する態度が欲しいが、それはやはり勇気がいる。毅然とした態度で注意できる、しなくてはいけない、それが教師ではないか。親の教育がなってないなどと言われているが、そこを変えて行くのは本当に困難だ。なにが出来るかといえば、教師の質の改善しかないと思う。

 教師の採用制度からして間違っている。初任者はほとんどが大学出で、つまり学生だったのである。社会人を採用したほうがよいと思う。ベテランを採用し、今の日本をつくった人たちに学ぶ。「君達が出る社会とはこんなところである」というバックボーンをしっかり持った人が生徒を教えなくてはいけないと思う。私も教育学部を卒業し今は一般企業に勤めている。客観的な視点を持ってみると上記のような考えが浮かぶのである。なにか意見・反論等があったら願いたい。

       千葉県松戸市 システムエンジニア 男性(24) 教師って難しい




学生だった頃、夜の暑さに耐えかねて窓辺に座ってボンヤリと外を眺めていたところ、30代くらいのいかつい男がつかつかと歩いてきて、いきなり犬にほえられるといった場面を目撃したことがあった。その男はそれこそ1mも跳び下がって、それからすごい剣幕で、怒った。

「バッキャロー!、おっかねェーじゃねェーか!」

その勢いと叫んでいる内容のギャップに、私は思わず窓から滑り落ちそうになった。

遠い昔の思い出である。



さて、上の投書だが、要旨をまとめるとこんな具合になるのだろう。
近頃の高校生はロクなもんじゃないが、ボクたちはおっかないから注意したくない。本当は親の責任なのかもしれないけど、親を変えるには時間がかかりすぎる。だから教師にやってもらうのが一番いいんだけど、近頃の教師はちょっと力がないみたい。

だから社会のベテランを入れて(ツーことはボクなんか入れちゃダメってことだけど)一発「喝」を入れてもらったらどうなんだろう。

教育学部を出て社会人をやってる
(つまり両方の世界に精通している)ボクの言うことだから絶対正しいはずなんだけど、どう思う?

けっこう正直な青年だ。
しかし世間の考え方は、こんなものなのかもしれない。










2000.10.13

絶対評価の問題については既に先月触れたのでもう書くまいと思っていたが、あまりにもふざけた記事があったので、また書く。


「絶対評価」/問題点も見詰め浸透を

[神戸新聞10月13日]


小学生から大学生まで、およそ、学び舎に通う者にとって「成績」というものは付いて回る。
 5、4、3…から優、良、可、◎、○、△。単なる記号だが、この記号は一人歩きして、個人の評価、人格をも規定するほど、強力な意味を持つようになってしまった。

 それは、この評価基準が、おおむね集団の中での順位を示す「相対評価」によるものだからだ。


 5は、クラスの七%などと決まっておりいくら努力して自己ベストを更新しようとも、そのことによって、高評価が得られるものではなかった。

 「成績」とはそういうものだ、という声もある。そうではないという考えもあり、自己の能力をいくらかでも伸ばせば、それはいい評価を与えるべきだという「絶対評価」を支持する声も強い。相対評価と、絶対評価。採用をめぐるかっとうは、古くて新しい課題であった。

 文相の諮問機関「教育課程審議会」がこのほど、小中学校での成績評価を従来の「相対評価」から「絶対評価」に改めるよう求める「中間まとめ」を大島理森文相に提出した。

 学校における評価方式の全面転換は戦後初めてだが、審議会は、絶対評価採用の理由として

(1)二〇〇二年度以降の新学習指導要領は、基本の確実な習得を目標にしており集団順位ではなく目的到達度をはかる絶対評価が適している
(2)少子化で相対評価の客観性が薄れる―などの点を挙げている。


 評価の方向としては、こうした流れに沿って変わっていくのであろう。子どもたちは、自己ベストを目指して頑張れば、「いい評価」が得られる。学校を“悪しき競争集団”にさせないためにも、一定の抑制要因になる。

 しかし一般社会は、この評価方式をもろ手を挙げて歓迎している訳ではないということも忘れてはならない。

 例えば、競争社会を身をもって体験する父母の立場から見ると、わが子の「位置」がわからない。よく努力しているなと、安どする一方で、それが客観的にどう評価されるべきかを測りかねる。そうした評価の善し悪しは別にして、このような素朴な思いにも、納得のいく答えを用意すべきである。

 これは、高校入試でも問題となる。入試制度を激変させない限り、絶対評価での選抜は不可能だ。同審議会では高校入試は都道府県の判断で従来通り相対評価でいいとしているが、評価の「二重性」を招く懸念が強い。同時に塾の基準が入試を左右すほか、私学への生徒流出も加速させることになりはしないか。

 こうした問題を、さらに整理、精査するべきである。
 そのうえで、例えば絶対評価の範囲なども視野に入れた、きめ細かい最終提言を求めたい。

 「しかし一般社会は、この評価方式をもろ手を挙げて歓迎している訳ではないということも忘れてはならない」
それはその通りだ。

しかし一般社会がもろ手を挙げて歓迎しないはずの絶対評価を、
それこそもろ手を挙げて翼賛してきたのがメディアであったことを私は覚えている。

絶対評価によって「わが子の『位置』がわからなくなること」はそれ自体が絶対評価導入の目的だったはずだ。そんなものに「納得のいく答えを用意すべきである」と書くメディアの思考は倒錯しているとしか言いようがない。そもそも「絶対評価」を強力にぶち上げてきたメディアこそが「納得のいく答え」を用意すべきなのだ。

 「5、4、3…から優、良、可…が、一人歩きして、個人の評価、人格をも規定するほど、強力な意味を持つようになってしまった」 かどうか、私は知らない。しかしもしそうだったとしても、それは親や社会の問題であって、学校のせいではない。変えるべきは親や社会の意識であって、評価の方法ではなかったはずだ。

ところで、相対評価を絶対評価に変えれば人格問題は起きないというのは決定的な間違いである。メディアはそのことを承知の上で国民をだましている。

なぜなら、勉強の成績が低い(相対評価)ことよりも、努力ができない(絶対評価)の方が、よほど人格的に問題だ
からだ。


相対評価のもとで「1」をもらったって、大したことはない。なぜなら「だって、みんな頭が良かったんだモン」といういい訳が通用するからだ。

しかし絶対評価のもとで「1」をもらうような人間は、もう本当に最低だ。「2」だって保護者には許しがたい。頭なんか良くなくたっていい、コツコツと努力さえしていれば世の中なんとかなる。そう考える親の目に、絶対評価「1」はどう映るだろうか。

この事実はまた、絶対評価の現実的な意味も指し示す。簡単に言えば、教師は本気で親と喧嘩をする覚悟をしていない限り、絶対に「1」はつけない、ということである。「2」だってつけるのを躊躇う。
とにかく学校に来てわけも分からない「学習」を続けているのだから、少なくとも授業放棄や妨害をしない限り、その子は努力していると認めることができる。したがって、
すべての子どもが「3」以上の評価をもらうことはほぼ確実である。

このような評価にどのような意味があるのであろうか。


神戸新聞は「入試制度を激変させない限り、絶対評価での選抜は不可能だ」と書く。私もその通りだと思う。しかし「入試制度の激変」とはなにか。神戸新聞は暗に示すだけで記事にはしないが、その結論は明らかだ。一学区一高校あるいは抽選入試、つまり現行の小中学校と同じように高校選択の自由を完全になくしてしまう方法。そしてすべての校高名を同じにしてしまう(日本全国すべての大学を東大にしてしまうように)方法、それくらいしか考えられないのだ。

さらに
評価の『二重性』を招く懸念が強い」
「同時に塾の基準が入試を左右すほか、私学への生徒流出も加速させることになりはしないか」という疑念ももっともである。全くその通りになろう。

そしてそれはメディア自身がここ20年、強烈に望んで今まさに実現し様としていることなのだ。

*私は評価なんてテスト点だけでもいいと思っている。大切なのは学校なんて人生のほんの一部であり、
学業成績も人間の一つの面に過ぎないことを教えることだ。勉強のでき不出来しか表示しない相対評価は、その意味ではむしろ歓迎すべきのもなのだ










「学校行きたくない!」 先生も85%

神戸新聞10月12日]



兵庫県内の小・中・養護学校に勤める教職員の85%が「学校に行きたくない」と思ったことがあり、4人に一人は頻繁にそう思っている―。
こんな結果が11日、兵庫教職員組合(桂仲二郎委員長、約三千人)の調査から分かった。手のかかる子どもが増え、一学級の人数を多いと感じる教職員が半数を占め、子どもとの関係に疲れる姿が浮き彫りになっている。


 調査は今年六、七月に実施。県内から二千人の回答を得た。

 「学校に行きたくないと思ったことがあるか」との問いに五八・六%が「たまにある」と回答。「よくある」(22.2%)「毎日」(4.3%)と合わせると85.1%で、二年前の調査から3.1ポイント増えた。理由は「気力減退、ストレス」「疲労、病気」「忙しすぎる」などが多かった。

 また約80%が「(職場が)忙しい」と考え、「ゆとりがある」と答えたのはわずか1.1%。「手のかかる子が増えた」(46%)「一学級の人数が多い」(45%)などの原因を挙げている。

 兵庫教組は「学級崩壊などの子どもの変化に、現状の職場環境では対応できない。そのストレスが『学校に行きたくない』という思いにつながる」と分析している。

1989年9月21日、朝日新聞は大都市部の中学校2年生のうち、学校がいやになって「一日以上休んだことのある」生徒が17%、「遅刻・早退をしたことがある」生徒を含めると25%、、休まないが「いくのがいやになった」と思う生徒を含めると70%という数字を挙げ、「不登校予備軍70%」という記事を打ち出した。

教師の方は実に85%である。どうでもいいけど、もっとセンセーショナルな扱いをしてもらえないだろうかネ。








2000.10.18


もう「相対評価」「絶対評価」の話にはウンザリしている。しかしメディアは相変わらずにぎやか。
したがって今回は熊本日日新聞の社説「絶対評価 一層重くなる教師の責任 」信濃毎日新聞の社説「学習の評価 頑張りにこたえる形で」からの抜粋だけで話を進める。

 まず熊本日日新聞
 評価方法の全面転換は戦後初めて。クラス内のランク付けを排し、一人ひとりを大切にする評価へ転換する足掛かりとなる。一歩前進であり、教育現場では歓迎されるだろう。

まずここが違う。
第一、見出しに「一層重くなる教師の責任」と書きながら、「教育現場で歓迎される」と考える頭の構造が私には分からない。しかしここは我慢して先に進もう。世の中には何の見返りもなしに責任が重くなることだけを喜ぶ人もいるのかもしれん。

 また、相対評価は集団での位置づけが明らかになるという利点はある。だが、一次方程式が解けず「1」の評価の子どもが、その後努力して解けるようになったとしても、全体のレベルが上がれば評価はそのままである。

これも違う。

 なぜなら一次方程式の評価は一度しかしないからだ。
小学校2年生の時掛け算九九が覚えられず「1」をもらった子が、
その後努力して4年生までにすらすらできるようになっても「5」はもらえない。
それは当たり前ではないか。

 ただ、絶対評価にも教師の主観に左右されがちという短所がある。報告では、絶対評価への転換をいいながら、到達度を測る基準については先送りされ、見えないままである。
 評価基準に厳密な客観性を求めすぎると、全国の学校で画一化が進むという弊害を招きかねない。現場の運用に一層の工夫が必要となるだろう。

基準はつくればいいのかつくらない方がいいのか、いったいどっちなんだ。
「ある程度の客観性」などという曖昧さがつくる「客観性のなさ」について、キミは無知なのか?

 絶対評価を実効あるものにするためには、教師が評価の趣旨を理解し、学習目標をしっかりと定めて授業を展開する力量と責任が求められる。
そこが問題なのだ。

キミたちの考える「絶対評価」は個人の到達目標を、40人いれば40通り考えるということだ。
つまりその中には
「この子は一次方程式の応用問題を解くことができなくてもいい。一番簡単な方程式が解けるようになれば『5』」
といった教師が一方的に設定する「到達目標」が存在しなければならないということだ。
どう思う?

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つぎに信濃毎日新聞

 大転換ともいえる方針を文相の諮問機関、教育課程審議会が打ち出した。集団の中での順位に基づく「相対評価」から一人ひとりの到達度をみる「絶対評価」へ重心を移そうとの提言である。同意できる考え方だ。着実に進めたい。

 審議会は今後、幅広く意見を聴き、年内に答申を出す予定だ。基本的な方向に異論はないものの、なお詰めなくてはならない点が幾つか挙げられる。

なるほど、
 まず、評価の難しさである。子供たちの理解がどの程度深まったのか、的確につかむのは容易でない。それぞれの努力を大切にできる半面、教員の主観に左右されやすい短所も備えている。
 どうすれば、より信頼感を伴うものにしていけるか、突っ込んだ論議が求められる。基準となる目標を具体的に設定することも前提になる。

「突っ込んだ議論が求められる」
それはないだろう。
「こんなモン良くない。だけどボクは考えるのが面倒くさいから、対応策は誰か考えてくれ」
メディアの態度はいつもこうだ。文句は言うが対案は示さない。誰かが対案を出せばまた文句を言う。まるでダダッ子だ。

 第二に、指導要録のうち学習の意欲や態度などをみる「観点別評価」の問題である。審議会はこれを維持する方針だ。子供たちが教師の顔色をうかがうようになり、息苦しさを生んでいるとの見方もあるだけに、十分な検討が要る。
 意欲や態度といった点を適切に評価できるのか、疑問は大きい。絶対評価は教師の負担を増す。この際、観点別評価はなくすことも考えるべきではないか。

「意欲や態度といった点を適切に評価できるのか」これは絶対評価反対派の基本的考え方じゃないか。オイ、どっちなんだ。賛成か?反対か?

 第三は、高校入試との関連だ。内申書をどうするか、が問題になる。審議会は絶対評価とするか、相対評価とするかを都道府県教委の判断にゆだねるとした。合否の判定には順位付けが避けにくいとしても、中途半端な印象を受ける。

 むしろ絶対評価を軸に試験の在り方を再考したい。上からの順位に応じて合否を決めるのでなく、一定の水準を満たしているかどうかを問う―。そんな観点から、議論が深まることを望む。
結局一定の水準を満たしていれば合格!
つまり水準以上が3人しかいなかったら、1高校の生徒数3もOK。
五万人いたら生徒数5万人の学校にしてしまうというワケね。
すごいぜ!

長野県は田中康夫氏が新知事となる。
信濃毎日新聞との間で、綿密な協議を願いたい。







2000.10.28

教師所見欄一つに統合―公立高入試の内申書開示にらみ改定、来春から県教委

[山梨日日新聞 10月28日]



 山梨県教委は二十六日までに、来春の公立高入試から、出願時に中学校側が高校側に提出する生徒の内申書(調査書)の様式を一部改定することを決めた。

二○○二年度から完全実施される新しい学習指導要領への対応と、全国的に進む内申書の全面開示に備えるのが目的。同要領で新設された「総合的な学習の時間」の評価欄を設けるほか、「行動」や「特別活動」など、これまで三つあった、教師が文章で記入する所見欄を一つに統合する。

内申書の開示では、県教委は「教師の主観が入りやすく、開示すると生徒と教師の信頼関係を損ねる恐れがある」として「行動の記録の所見」欄は非開示としてきた。県教委は「所見欄を統一することで客観的な調査書が作成でき、全面開示にも対応できる」としているが、高校現場からは内申書の形がい化につながる恐れを指摘する声も出ている。

(中略)

 中学校の現場では「行動の記録の所見」欄では「受験資料のため、生徒の良い面だけを書く」(東八代郡内の男性教師)のが通例だが、「特別活動の記録の実績及び所見」欄と内容を書き分けなければならないため、「行動の記録の所見」欄では「落ち着きがない」など、マイナスとなる部分を表現に気を使いながら記入するケースがあったという。

 同課は「所見欄を少なくして教師の主観が入る余地を減らすことで、より客観的な調査書が作成できる。『校外活動の記録』も新設したことで生徒のプラス面を重視して評価する調査書となり、全面開示した場合でも生徒や父母の誤解を招くことが少なくなる」と説明している。

 一方で、ある県立高の進路指導担当者は「良い面ばかり記入されると、受験生の情報が正しく高校側に伝わらない恐れが出てくる」と指摘。県教委関係者は「今後は入試時以外で、中学と高校間での交流や情報交換が重要になってくる」と分析している。

この記事から学ぶことは多い。

まず最初は内申書に対する学校の事情と新しい内申書の趣旨
  1. 内申書の所見欄は、どこの県でも同じように最大限気を配り、「良い面しか書かない」ようになっていること。
  2. 所見欄がいくつもあったため書くことがなくなってしまい(ウン、学校で良い面をサッパリ見せない子もいる)、結局マイナス面にまで踏みこまなければならない場合があったこと。
  3. 所見欄の統合が、そうした「気を使いながらも書いていたマイナス面の表記」を一掃するのが目的であること。
ある。


第二に、内申書における客観とか主観とかいうものは、一般のそれとはかなり違っているということ。

所見欄が多いとついついマイナス面も書かなくてはいけないので「所見欄を少なくして教師の主観が入る余地を減らすことで、より客観的な調査書が作成できる」と山梨県教委は説明する。すると、主観というのは「教師の見た生徒のマイナス面のこと」であり、客観というのは「生徒のプラス面のこと」ということになってしまう。

山梨県教委はバカか? と思わせるような発言であるが、実はそうではない。

県教委は、
「内申書から教師の主観を廃せ」というメディアの主張の本質を深く検討した結果、それは結局「悪いことは書くな」という意味に過ぎず、したがってこのように返答します
そう言っているのだ。

これまでメディアが主張してきた客観性重視ということはそういうことである。
点数という客観的なもので子どもを分けてはいけない。しかし教師の主観で評価してもいけない。とにかくその子が希望するなら、その高校に入れるよう最大限の便宜を図れ。
そういうことである。

しかし地方自治体に予算があり、高校に定員がある以上、希望者の全入なんて夢ですらない。

高校が
「内申書の形がい化につながる恐れ」を指摘したり、「良い面ばかり記入されると、受験生の情報が正しく高校側に伝わらない恐れが出てくる」と語るのはもっともである。そんな内申書を当てにして学級編成をしたものなら、

あるクラスはリーダーが5人もいるのに別のクラスはゼロ、非行傾向の強い生徒が12人もいるクラスとゼロのクラス。不登校の傾向を持つ子が5人もいたかと思えば、別のクラスは全く心配がない。

そんな恐ろしいクラス分けになってしまう。


山梨県教委関係者は「今後は入試時以外で、中学と高校間での交流や情報交換が重要になってくる」と分析しているという。もちろんこの意味は分かるだろう。
もう内申書に何も書けないのだから、今度は密室でじかに話し合おう、ということである。
そうしなければ学級編成なんてできないからだ。

しかし遠からずこのことも発覚してメディアの餌食になるだろう。「不透明な入試判定・・・・・密室の中高連絡会議発覚」なんてね。

メディアの人々は平準化された学級編成なんてちっとも望んでいない。一クラスに非行少年が12人も集まって大きな問題でも起こしてくれれば、それはそれで新鮮なニュースが取れるというものだ。