キース・アウト
(キースの逸脱)


2001年1月

by   キース・T・沢木











 



2001.01.12


新世紀の課題 学力低下 基礎・基本の反復を

[中国新聞1月8日]


 大学、産業界、あるいは教育現場に子供たちの「学力低下」を心配する声が高まってきた。初閣議で、森喜朗首相は来る国会を教育改革国会にしたいと教育関連法案の成立へ意欲を示したが、学力低下問題への対応を避けては通れない。

 昨年末、国際教育到達度評価学会(JEA)が公表した「国際数学・理科教育調査」では、日本の中学生の数学は東アジアの参加国で最下位。数学と理科が好きな生徒の比率は参加三十七カ国・地域のビリから二番目という情けなさ。

 文部科学省は一九八〇以来、授業についていけない児童生徒への対策に「ゆとり路線」を導入した。履修内容の削減を進め、約三割の時間減になった。それでさえ学力不足が心配なのに、二〇〇二年には義務教育で新学習指導要領が実施され、授業時間で二割、内容で三割がカットになる。慶応大の戸瀬信之教授によると、中学三年の数学と理科の年間授業数は百五十八時間となり、米国の二百九十五時間の半分だという。ゆとり教育による学習削減が原因と指摘する「学力低下論」が台頭し、「学級崩壊」もその弊害と言われるのも分からぬではない。

 町村信孝文部科学相は年初会見で「ゆとり教育」を堅持すると述べたが、八〇年以来の改革の試みから思ったようには基礎学力がついていない。文部科学省は「学力低下」の現実を認めて、批判にこたえる具体策を提示する責任がある。

 中央教育審議会(中教審)が採っている学力対策は「読み・書き・計算」などの知識・技能を身につけさせる「基礎・基本の徹底」である。これに異論はない。従来の教育に欠けた「考え」「判断し」「行動する」力や意欲を含めて学力ととらえる新学力観も間違っていないと思う。記憶偏重、知識の断片を評価し、考える子を育てられなかった旧学力に比べて、新世紀を生きる力にふさわしい。

 でも、国民の不安が拭(ぬぐ)えないのは何が、どこまでが、備えるべき基礎学力なのかが見えてこないからだ。文部科学省は児童生徒が習得すべき過不足ない分野と範囲を国際社会を参考に、国民に明示してほしい。基礎・基本の徹底をどう教えるかの具体策も示す時だろう。評論家の加藤周一さんも義務教育は国語と数学が必須で、他の科目は選択でいいと言う。授業時間の配分を「読み・書き・計算」に厚くすることを考えてはどうだろうか。不十分なら学習内容、時間の復活も考慮しよう。

 ただ、基礎・基本の徹底は多様なカリキュラムの充実と並行させる必要がある。「一方的に教え込む」と敬遠されて来た反復練習を中教審が肯定したのは妥当だろうが、個人差を考慮する必要があるからである。

 もっとも、教育改革が成功するか否かのかぎは大学入試が握っている。教育改革国民会議の最終報告や中教審がいかに崇高な理念を掲げようと、改善されつつあるとはいえ知識の量、偏差値に固執する有力大学が存在し、私大まで「センター試験」に相乗りする現実がある限りは、改革は絵に描いた餅(もち)に終るかもしれない。

 私は以上の記事についてかなり長い文を書いた。そしてすべてを破棄した。読めば読むほど分からなくなる記事で、著しく意欲を失ったからだ。もし博学の士があってこれを読み、文意を理解したなら教えてほしい。

  1. 記者は学力の低下を心配しているようだが記憶偏重、知識の断片を評価し、考える子を育てられなかった旧学力が低下したしたことを嘆いているのか、従来の教育に欠けた「考え」「判断し」「行動する」力や意欲を含めて学力ととらえる新学力が低下したことを嘆いているのか、どちらだろう。
  2. 昨年末、国際教育到達度評価学会(JEA)が公表した「国際数学・理科教育調査」では、日本の中学生の数学は東アジアの参加国で最下位。数学と理科が好きな生徒の比率は参加三十七カ国・地域のビリから二番目という情けなさだそうだが、東アジアの参加4カ国(シンガポール・韓国・香港・日本)は世界ランキングの上位を独占していた。つまり東アジア最下位というのは世界第4位なのだ。アメリカ・イギリス・イタリアといった有名先進国はすべて日本のはるか下にいる。記者はそれでも不足だというのだろうか? まさかかつての植民地、半植民地に負けたというのが「情けな」いんじゃないだろうな。(参考:http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/index.htm
  3. 文部科学省は一九八〇以来、授業についていけない児童生徒への対策に「ゆとり路線」を導入したと言うが、記者は本気でそう思っているのだろうか。授業についていけない生徒がいれば、もっと手間ひまをかけるというのが常識的な発想で、時数・内容を減らせば分かるようになるなんて、誰も考えなかったはずだが。
  4. 大学、産業界、あるいは教育現場に子供たちの「学力低下」を心配する声が高まってきたそうである。しかし私たち現場教師は10年以上前から学力の低下を心配してきた。小学校で7割、中学校で5割、高校で3割の子どもしか授業が理解できていないという、いわゆる「七五三問題」はわれわれにとって長い間抱えてきた重要問題である。したがって教育現場に子供たちの「学力低下」を心配する声が高まってきた、というのは間違いである。昨今の学力問題はこれとは異なり、大学および産業界の心配なのだ。ところで、なぜ大学や産業界は小学生の「読み書き・計算」を心配するようになったのだろう?
さっぱり分からない話だ。

国際教育到達度評価学会はJEAではなく、IEA(The International Association for the Evaluation of Educational Achievement)であるという指摘を受けた(2001年1月)。
そうしたミスも、この記事のお粗末さを示すものとして、訂正せず残しておく。
(もっともこれを書いた当時、このミスに気づかなかった私も相当にお粗末だったが)。
古い記事についてはサーバーから落とそうかと迷った時期もあるが、1年たった今も見てくれる方があってうれしい。
感謝している。






[コラム]天地人「成人式が・・・」

[東奥日報 1月10日]




 成人式がいつごろから騒々しくなったのか、つまびらかではないが、今年もそんな風景があちこちであったよう。

 県知事の祝辞に「帰れ、帰れ」のやじ。知事は「静かにしろ」と一喝、「出て行け」と怒鳴る(高知)。会場で酒盛りをしていたグループが、壇上であいさつする市長に向かってクラッカーを鳴らす(高松)。ざわつきが収まらず業を煮やした市長が、あいさつ途中で式辞を書いた紙を投げ捨てる(埼玉・深谷)。

 度が過ぎる若者たちの態度と切れる大人。何ともザラザラした気分にさせられる。県内はどうか。本紙を読んだ限りでは、大して騒ぎもなく、それぞれが新成人の門出を祝ったよう。一部には一升瓶を片手に大声を上げたり、酔ってからむグループもあったようだが。

 このごろの成人式、どうもいい話を聞かない。むろん若者たちのマナーもある。携帯電話と私語、それにアルコールか。けれど、それだけでなく式のありようが、もうそぐわないようにも思う。大人たちが意識しなくても、彼らはどこか押し付けがましさを感じていないか。行政が金を出しても運営は新成人に任せるとか、発想を変えてはどうか。

 若者たちにも一言。青春の真ん中にいると、時間は無限のように思える。けれど、いずれ振り向く時も来る。とすれば今、周りと自分の関係を確かめたり、立ち止まって考えることも大事なこと。老婆心ながら、こんな言葉を贈りたい。「盛年、重ねて来らず…歳月は人を待たず」(陶淵明)。


新成人は何様か!
彼らの無作法を怒らないとしたら正義も何もない。人は場に応じた態度を取るべきだということは当然のことと思っていた。しかし彼らを一喝すれば、それは「切れた大人」ということになるのだそうだ。
高知県知事や高松市長は、教師に怒られて頭に血を昇らせナイフを振り回すようなアホな少年と同じなのだ。
そんな馬鹿なことがあるか!

なにがむろん若者たちのマナーもあるだ。
それがすべてではないか。

大人たちが意識しなくても、彼らはどこか押し付けがましさを感じていないか
・・・・・オイ、オイ、私たちは毎日意識して勉強や作業を押し付けているぞ。企業も社会全体も、はっきりとさまざまな行為を押し付けているはずだ。
それがもう時代にそぐわないとしたら、メディアは若者にどんな世界を用意するというのだ。

行政が金を出しても運営は新成人に任せるとか、発想を変えてはどうか。

佐賀市は昨年同じ発想でアドバイザーを公募したが応募さえなかったというではないか(キース・アウト2000年12月号)。
それはそうだ。企画を立て万事手配を済ませ、収支の明細を作るといった面倒な仕事を果たしても絶対に誉められることのない仕事を進んでやろうとする人間など、どこにもいるはずはない。どうしようもない連中を排除しない限り、みんなの喜ぶ成人式など、もはや存在しないのだ。
それとも何か?
行政は一切の口出しをせず、領収書も取らず、自由に子どもに金を使わせるべきだとでもいうのか?
そのとき、新成人がビルの屋上から金をばら撒いて、派手に成人式を祝っても一切の文句はいわないことだ。



 


2001.01.31

24日ごろ更新したはずの記事が消えてしまった。
諸所の事情により、この世のどこにも存在しなくなってしまったのだ。私の頭の中にも。

今月はそもそもまったくのニュース枯れでさっぱり書く気になれなかったのだが、それを無理して作った記事がなくなってしまうとこのページ全体が寂しくなってしまう。

したがってたいした記事ではないが、次のニュースを拾う。

悩める教師浮き彫り いじめ、不登校、少年事件…
 日教組の教研集会閉幕

[西日本新聞2001年01月31日]


 いじめ、不登校や相次ぐ少年事件など、教育現場の深刻な課題をどう解決するのか。新世紀の学校改革をいかに進めていくのか。東京都内で開かれていた日教組の教育研究全国集会が三十日、四日間の日程を終えて閉幕した。日教組としてはちょうど五十回目の節目となった今回の教研集会。折しも森喜朗首相が推進する「教育改革」が動きだそうとする中、全国から集まった教師たちは、教育政策にも及ぶ幅広い論議を交わした。新しい時代の教育には、何が大切なのか。


奉仕強制には疑問

 「荒れを現場で考えよう、というより、高みから日本人たれと言ってるだけのようだ」。特別分科会「子ども参画と学校改革」では、森首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の最終答申に、小中高校への奉仕活動導入が明記されたことに疑問が提起され、既に行われている「体験学習」とどう関連づけるかが議論された。

 奉仕の強制には「(問題行動に)上からの圧力だけで対処しようとしている」と、その危うさを指摘する声が上がるとともに、「自発的なボランティアと押しつけられる奉仕活動は異なる」として、地域に学ぶ「体験学習」を子どもの自主的な選択を確保しながら進めていくことの重要性が確認された。

 ただ、参加教師のなかからは「子どもと一緒につくっていかないといけないが、いまの学校現場で果たして子どもときちんと向き合っているのか」という自省も漏れた。


車座になって談議

 いじめ、不登校問題などをめぐっては、「自治的諸活動と生活指導」分科会で、教師ではなく、生徒自身が他の生徒の相談役になり一定の成果をあげた事例が紹介された。

 「学校に来ないことも認める」(大分県)「学校、教師の価値観を押しつけず、生徒の気持ちを尊重する」(鹿児島県)など、学校の枠にはめる前に、子どもにとって居心地のいい場所づくりを検討するべきだという意見も出された。

 別の分科会。「学校づくりに子どもがどう参画するか」をテーマに、子ども、親、教師が車座になって談議した。

 いじめについて、ある子どもは「先生は怒るだけで何の解決にもならなかった」と発言。教師側からは「(子どもからの)サインが見えず悩んだ」「いじめはなくならないと思う」と、迷いが打ち明けられた。

 率直なやり取りから浮き上がるのは、現実対応の困難さ。それでも参加者からは「こうした話し合いが学校であってもいい」と、前向きの声が聞かれた。


現場から積み上げ

 1951年、「教え子を再び戦場に送るな」をスローガンに始まった日教組の教研集会。この半世紀、文部省との対立を経ながら、「平和」「落ちこぼれ」「子どもの権利条約」など、時代に沿ったテーマを追求してきた。日教組としては「現場からの教育改善に一定の力を果たしてきた」と総括する。

 今集会では、「子どもの声を軸に、保護者・地域住民との対話と協力による学校改革に全力を挙げる」とする大会アピールを採択。政府が検討するトップダウン式の教育改革に対し、現場からの積み上げを模索する姿勢を鮮明にした。

 ただ、そのためには、参加教師の意見にもあったように、教師が子どもと同じ目線に立ち、自らの「仮面を外す」意識改革が必要なようだ。


私は日教組に対しては否定的でない。また、さまざまな教育問題の原因を、教師の資質に一元化するような考え方にいつも抵抗してきた。
したがって組合批判も教師批判もしたくないのだが、時々、両者ともに理解できなくなるときがある。

上の記事はまさにそういうものだ。

なぜ、奉仕活動がいけないのか。
なぜ、 「自発的なボランティアと押しつけられる奉仕活動は異なる」などという、マスコミめいた考え方しかできないのか。
そもそも生徒が望みもしない数学や国語を上からの強制として与え続けてきた教師が、いまさら何をためらうのか。私には理解できない。

子どもの自発性に期待し、本人がその気になるまで待つなんてことはもう何十年もやってきた。
しかしボランティア活動に自ら参加し続ける子の比率が、そうでない子の比率を上回ることは、ついぞなかったではないか。

体育でバレーボールを構成されることによって一部の子はバレーボールの楽しさを知る。
美術でレタリングを強制的に学習させられて初めて、デザイン化された文字の美しさを知る子がでる。
学校教育の基礎にはそうしたことに対する期待が常にあった。

だったら強制的な奉仕活動によって、ボランティア活動の必要性や喜びを知る生徒が出ることを期待して、積極的に強制すればいいだけのことじゃないか、と私は思う。

 「学校に来ないことも認める」(大分県)「学校、教師の価値観を押しつけず、生徒の気持ちを尊重する」(鹿児島県)など、学校の枠にはめる前に、子どもにとって居心地のいい場所づくりを検討するべきだという意見も出された。
などという言い方にも私はウンザリする。
不登校の民間団体を主宰する富田富士夫は「不登校児にとって一番苦痛なことは、学校が集団生活を強制する場だからである」と言っている。私もそう思う。現代の多くの子どもたちにとって、真に苦痛なのは「私的」な空間が侵害されることである。したがって、居心地の良い場というのはまさに「集団生活をしない場」なのである。
教師はそれを実現できるのか?

また別のある子にとって、苦痛の種は言うまでもなく勉強である。
教師はそれを学校から排除しうるのか?

いや、そもそもこんなアホな話が教研集会の結論だたどということが、本当にあるのだろうか?

私はこれまで、教育研究集会の全国大会に出席したことはない。
西日本新聞が書いたような形で本当に話し合いが行われたかどうか、実際に見に行かなくてはならないだろう。