キース・アウト
(キースの逸脱)

2002年12月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2002.12.14

<学力テスト>学力の低下傾向を裏付け 
10教科で前回下回る


[毎日新聞12月13日]


 

 文部科学省は13日、全国の小学5、6年生約21万人と中学生約24万人を対象に実施した「学力テスト」(教育課程実施状況調査)の結果を公表した。94年から3年間かけて実施した前回調査と同一の問題では、46%の問題の正答率が前回を下回り、小5〜中3の延べ23教科のうち社会、数学を中心に10教科で前回を下回る問題が過半数に達した。明確に傾向が出ないのは10教科で、成績が前回を上回ったと見られるのは3教科だけだった。子供の学力の低下傾向が指摘されてきたが、国の調査でそれが初めて裏づけられた。 

 同省は結果を厳しく受け止め、学ぶ意欲の向上策などを検討する。

 調査は今年1〜2月、無作為抽出した小学5、6年生に4教科(国語、算数、社会、理科)、中学1〜3年生に5教科(国語、数学、社会、理科、英語)のテストをした。前回は小学校が94、95年、中学校は95、96年に実施した。

 教員が普通に指導した場合に予想される正答率をあらかじめ設定し、これと各問題の正答率を比較したところ、中1、中2の理科と中3の英語を除く20教科は、過半数の問題の正答率が予想を上回るか、予想と同程度だった。このため、同省は20教科については学習指導要領の目標が「おおむね良好」に達成されたと判断した。

 しかし、全体(1921問)の約3分の1を占める前回調査との共通問題では、46%で正答率が前回を下回った。前回を上回ったのは25%にとどまり、29%は前回と変わらなかった。特に小5、小6と中1、中2の算数・数学と社会、中2の理科、中1の英語の計10教科は過半数の問題の正答率が前回に及ばなかった。

 調査対象は前回、今回とも旧学習指導要領(小学校は92年、中学校は93年に導入)で勉強した子供で、これらの教科では同じ教育課程で学んだ子供たちの学力が、この8〜6年間で低下したことになる。

 一方、中3の国語と英語、小6の理科では、過半数の問題で正答率が前回より上昇した。ほかの10教科では前回より正答率が上昇した問題も下落した問題も半数を超えず、はっきりした傾向は読み取れなかった。

 算数では、小5の「7−0・14÷0・7」(正解は6・8)の正答率が31・4%(前回39・1%)、半径の分かっている円の面積を求める問題も53・3%(同69・1%)と、基礎的な問題で低下傾向が目立った。小6の社会では「学問のすすめ」の中の一文を示し、六つの選択肢から福沢諭吉を選ばせる問題の正答率が56・6%(同76・2%)に低下した。

 文科省は結果を詳細に分析して指導に役立てるが、これまで「実態は把握されていない」としてきた学力低下が明確になったことで対応を迫られそうだ。 【澤圭一郎】

       ◇            ◇

 13日に公表された小中学生の学力テストの結果で、6〜8年前の前回テストで出題されたのと同一の問題で正答率が低下していることが分かり、懸念されていた子供たちの「学力低下」が裏づけられた。しかし、テストの対象は前回も今回も、今年3月まで実施された同じ学習指導要領で学んだ子供で、「ゆとり」を重視した学習指導要領のせいで学力が低下したとはいえない。今回の結果を詳細に分析し、低下の原因を特定することが、文科省に求められる。

 今回のテストと同時に実施された子供たちへのアンケートでは「勉強が好き」という子が小学生で4割、中学生で2割を切るなど、学習意欲の低さが目立つ。これが学力低下に結びついているとの指摘は分かりやすい。

 しかし、学校の授業がつまらない、分からないといった理由のほかにも、学習意欲を低下させる要因はたくさんある。社会には「勉強してもいいことがない」という気分が強まり、「無理して勉強させることはない」という親も多い。

 今回低下したのはペーパーテストで測定できる「知識・理解」を中心とする学力で、表現力や意欲といった広い意味の「学力」がどうなっているは分からない。なぜ、算数・数学と社会で低下傾向が強いのかもはっきりしない。

 学力向上の処方せんは、これらの原因を解明したうえで示されなければならない。「ゆとり」重視のカリキュラムで学力が落ちたからといって、「学習内容を増やせ」というのは短絡で、問題の解決にはならない。 【澤圭一郎】




今日の学力論争はおおむね「学力の低下→ゆとり教育の見直し」という流れを取る中で、「ゆとり教育」の推進派であったマスコミの立場を忘れず、
「ゆとり」重視のカリキュラムで学力が落ちたからといって、「学習内容を増やせ」というのは短絡で、問題の解決にはならない
と語る態度は立派である。
澤圭一郎という人はときどきおもしろいことを言う。

ただし「学習内容を減らせ」「子どもにゆとりを」という考え方は当分息を吹き返さないだろう。
 今回低下したのはペーパーテストで測定できる「知識・理解」を中心とする学力で、表現力や意欲といった広い意味の「学力」がどうなっているは分からない。
などと叫んでみてもムダである。

意欲についてはすでに自ら
同時に実施された子供たちへのアンケートでは「勉強が好き」という子が小学生で4割、中学生で2割を切るなど、学習意欲の低さが目立つ。
と書いている。

表現力についても同様である。
表現すべきものがないのに何の表現力だろう?

確かに、学力は低下した。
この8〜6年を越えるはるか以前から低下し続けてきた。
マスコミが「ゆとりを!」「ゆとりを!!」と叫んでいる時期にも低下し続けていた。
・・・それはみんなが知っていることだ。


ニーチェの『ツァラトストラはかく語りき』の中の有名な一節「神は死んだ」には続く言葉がある。
「私たちが殺してしまったのだ」
である。

これに模して言えばこうだ。

学力は死んだ。マスコミが殺してしまったのだ。







2002.12.15

全国学力調査どう生かすかが大事

[沖縄タイムス12月15日]




 子どもの学力が落ちているのは確かだろう。だからといって、すぐにも「ゆとり教育」を軌道修正し、何が何でもと学力向上対策を進めるわけにはいくまい。

 どこにつまずきがあるのか、意欲はどうなっているか、環境づくりや指導のあり方など多様な視点からの見直しを求めたい。
 文部科学省が、全国の小、中学生四十五万人に今春行った学力調査の結果を公表した。

 一九九四年から九六年にかけた前回調査との共通問題では、半数近くで正答率が落ちている。上回ったのは中三国語など三教科だけ。算数・数学や社会を中心に十教科が下回り、学力低下を浮き彫りにしている。

 これまでも子どもの学力の低下傾向が言われてきたが、調査結果はそれを裏付ける形となった。

 ゆとり教育が進み、この四月からの新学習指導要領の導入で、授業時間数や学習内容も減っている。父母から学力低下を心配する声も上がっており、今回の結果を受けて「ゆとり批判」がさらに高まる恐れも否めない。

 しかし、調査は、ゆとりを重視する新指導要領のスタート前に行われたもので直接には結びつかない。だが、これからの教育実践に生かすには、きめ細かな分析で問題点を解明することが迫られる。

 文科省が「おおむね良好」と楽観的に評価しているのも解せない。問題ごとに自ら想定した正答率と照らし合わせたものだが、もっと現実を直視すべきではないか。

 その意味で、テストと一緒に実施している子どもや教師へのアンケート結果と重ね合わせて点検する必要があろう。

 小、中学生とも八割以上が「勉強は大切だ」と思っているのに、「勉強が好き」と答えたのは小学生が約四割、中学生は二割にとどまる。学年が上がるに連れ勉強嫌いは増えている。

 また小、中学生とも一割近くが、学校の授業以外にまったく勉強しないとするなど、子どもたちの学習意欲の低さも看過できない。

 それらの背景にいったい何があるのか、きちんと分析し明らかにすることが大切だ。

 一方で、理解が不十分な子どもへの教師による授業の合間や放課後の指導が効果をあげているという。前から指摘されているが、子ども一人ひとりの個性に応じての学力を高める教育のありようが問われる。

 文科省は今後も調査を続けるという。結果をきちんと検証し、長い目で今後の教育施策に生かすべきだ。





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2002.12.15

社説=学力「低下」 広い視点でとらえたい

[信濃毎日新聞12月15日]




 文部科学省の全国学力調査で、小中学生の正答率が全般に下がっていることが分かった。悲観的なとらえ方に陥らず、提起された問題を広い視点で分析する必要がある。

 小学五年から中学三年まで、全国二十四万人余を対象に実施した。五学年で延べ二十三教科の出題のうち、約三割が前回(一九九四―九六年)と同一である。

 それらを比較したところ、46%で正答率が低下し、25%で上昇、残りは同程度だった。学力低下傾向を示す材料と受け取ることはできる。多角的に検討していきたい。

 しかも苦手な様子は、算数・数学や社会で顕著だ。例えば円の面積を出せない小学生、三角形の合同条件や方程式に戸惑う中学生が少なくない。半面、小六の理科のように好転した一部教科もある。

 結果を受け、あれこれ解釈が広がり、学力論議がますます盛んになるだろう。気を付けたいのはデータの独り歩きや“木を見て森を見ない”ごとくの運び方である。

 調査は一―二月に、旧学習指導要領の下で行われた。知識の詰め込みや受験競争の過熱を反省した「ゆとり教育」への移行期にあったとしても、完全週五日制などを柱とする新学習指導要領に切り替わったのはこの四月だ。

 調査の主眼も、旧指導要領がどう定着したか、どこが適切でなかったか―といった点である。ゆとり教育の影響を調べることではない。

 学力問題をめぐる国民の関心は高い。保護者らの懸念も理解できる。といって今度の結果をもって、ゆとり路線を否定するのは乱暴すぎる。

 もう一つ重要なのは、新学習指導要領の基軸である「生きる力」に関してだ。以前に比べ、子供たちは地域産業の現場体験や職人らを講師に招くなどの活動を通じ、視野を豊かにしつつある。

 地球環境との関係でいえば、身近に切実に考える姿は親たちにもお手本になる。そうした部分は見えにくい「学力」であり、ペーパーテストだけで測るのは難しい。

 むしろ今回見逃せないのは、一定の学習意欲があるのに、学校以外での勉強時間が極めて短いことや、学年が上がるにつれて授業の理解度が低くなる実態である。

 物があふれ、情報は過剰なほどの時代だ。日々の学習が将来どう役立ち、どんな幸せをもたらすか。子供たちへの動機づけと個別の指導のあり方が、一段と問われている。


昨日書いたことを訂正するのは不本意だが、私はここ数日の間にあった何かを見落としているのかもしれない。

新聞がこぞって「ゆとり教育」を擁護するような記事を書くとなると何か警戒しなければならない。

もしかしたら文部科学省は「ゆとり教育」の見直しでも発表するのだろうか?
解せないことである。









2002.12.16

斜面=勉強することの「動機付けの」解明を

[信濃毎日新聞12月16日]




過去長らく、最高の就職先と衆目が一致していた銀行まで、今は揺れが激しい時代だ。いい学校へ進んで、いい会社へ―といった大人世代の感覚だけでは、子供を勉強に向かわせるのは難しい

学力低下が盛んに言われ、文部科学省の全国学力調査で一層勢いを増した。大いに論じる必要はあるにしても、問題は理解力の高い、低いに限らない。重要なのは学ぼうとする意欲ではないか。生まれた時から豊かな社会の子供たちに、勉強の苦労を乗り越えさせなくてはならない

勉強の「勉」はもともと、全力を傾けて何かに立ち向かうことを意味する。「強」は無理にさせる、強いることでもある。たとえ嫌なことではあっても、とにかく取り組んでみる…。それが勉強である以上、いっとき耐える底力を必要とする。そして、こらえた後になし遂げた喜びが励みとなっていく

学校の建物の多くは見違えるほど立派になった。専門教育を受けた教師が教壇に立つ。街の書店には学習参考書がずらりと並ぶ。学習塾も競い合う。家には勉強部屋がある。子供たちの学ぶ環境は、かつてないほどよく整った。それでも学力低下が事実ならば、どうしてか理解に苦しむ

解明してほしい一つは、勉強することの「動機づけ」だ。なぜ勉強しないといけないのか―。だれしもが抱く疑問に対し、現代の子供たちにふさわしい答えを用意する。子供たちが本来備えている好奇心、探求心に応える方策である。大人の力も試されている。



信濃毎日新聞がこういった書き方までするとなると尋常ではない。
生まれた時から豊かな社会の子供たちに、勉強の苦労を乗り越えさせなくてはならない
その当然な事がわからなかったのがマスコミだった。

子どもが勉強をしないのは、教師が「わかる授業」「楽しい授業」をして来なかったからだ。
それが今日まで一貫したマスコミの主張だったはずだ。
それが
勉強の苦労を乗り越えさせなくてはならないとは!

おまけに
学校の建物の多くは見違えるほど立派になった。専門教育を受けた教師が教壇に立つ。と教師まで持ち上げてみせる(「専門教育は受けたが、立派かどうかは別だ」といった含みはあるにしても)。
いったい何があったのだろう・


ただし文章がお粗末なのは相変わらずで、
解明してほしい一つは、勉強することの「動機づけ」だ。なぜ勉強しないといけないのか―。だれしもが抱く疑問に対し、現代の子供たちにふさわしい答えを用意する。子供たちが本来備えている好奇心、探求心に応える方策である。
と、誰が誰に解明してほしいのか、それさえもはっきりしない。

そして、常に偉そうに教育を語ってきたアナタがなぜ解明しようとしないのか、そこを聞きたい。










2002.12.24

<ゆとり教育を追う>生徒4分の3 「相対」を支持

[朝日新聞12月23日]



 ●生徒4分の3 「相対」を支持
     ――もし君たちが中学生なら、絶対評価、相対評価のどちらがいい?

 栃木県の県立高で理科を教える先生(37)が3年生約40人にこんなアンケートをした。

来春入試から、進学校とされる県立高の多くが、学力試験をより重視し、調査書(内申書)の比重を下げる。その背景には、「絶対評価による調査書では中学校間の格差が出やすく、公正さを欠く」との判断が高校側にある。

 生徒の反応は、3対1で相対評価がいいという声が多かった。「競争原理が働かないと人はだらける」と理由を書く生徒もいた。

 先生自身は「評価法より、少人数指導の拡大など授業形態を変える方がいい」と考えている。


 ●頑張り示せぬ子どもは不利

 今年度から全国一斉に導入された絶対評価。中学では、授業中の意欲や態度などを細かに観察したうえで、通知表の成績を出すようになった。考え方としては、全員に「5」をつけることもできるが、ペーパーテストがよく出来るだけでは「5」が付かない。

 東京に住む女性(47)は中学2年の次女が口にした言葉が忘れられない。
 「毎日気が抜けない。いつでもどこでも、がんばっているふりをしなくちゃ」。1学期、英語の成績は「3」だった。英検3級を持ち、テストでも高い点数を取っていただけに、親子の落胆は大きかった。

 「5」が付いた子との違いは「がんばり」の示し方の差だったのか。「力はあるのにうまくアピールできない生徒が不利になる」


 ●泣かすような通知表いらぬ

 福岡県の公立中に通う3年生の母親(47)も同様の意見だ。1学期の中間、期末テストは95点前後。通知表は「3」。終業式の日、子どもは帰宅するなりテーブルに顔を伏せ、無言だった。「子どもを泣かすような通知表はいらない、という気持ちはぬぐえない」

 東京の多摩地区で暮らす女性(53)は毎月、地元の教育委員会の会議を傍聴している。学校の様々な問題を市民の目で見つめたいとの気持ちからだ。

 「成人したわが子2人が通ったころに比べ学校は窮屈な場になっている」。4年間の傍聴を通じて痛感することの一つ。成績評価にしても、それ自体が目的になり、過大なエネルギーを注いでいると映る。「手間ひま掛けて学校嫌い、勉強嫌いの子を増やしている気がする」



天下の朝日新聞である(いや、朝日だからこうなるということなのかもしれないが)。

私は英語の評価基準については詳しく確認していないが、テストで95点を取りながら評定が「3」というのは非常に特殊な場合だけだ。


国立教育政策研究所の報告(全国の小中学校教員はこの報告を軸に評価規準をつくっている)によれば、英語の評価の観点は以下の通りである。

@コミュニケーションへの関心・意欲・態度
A表現の能力
B理解の能力
C言語や文化についての知識・理解

このうち@については、
「コミュニケーションに関心をもち,積極的に言語活動を行い,コミュニケーションを図ろうとする。」

Aについては
「初歩的な外国語を用いて,自分の考えや気持ちなど伝えたいことを話したり,書いたりして表現する。」

B「初歩的な外国語を聞いたり,読んだりして,話し手や書き手の意向や具体的な内容など相手が伝えようとすることを理解する。」

C「初歩的な外国語の学習を通して,言語やその運用についての知識を身に付けるとともにその背景にある文化などを理解している。」
と、その趣旨が説明されている。


これを「おおむね満足できる」程度に達成していれば「3」、それ以上の場合には各校の規準に従って「4」や「5」がつけられる。
考え方としては至極真っ当と思うがどうか?


朝日が取り上げた生徒は英検3級だったり、中3の二回のテストがいずれも95点という、ほとんどエリートに近い子である。
こうした生徒が「3」しか取れないとしたら、それは

@において言語活動を拒否したり、

Aにおいて話したり書いたりすることをしなかったり、あるいは

Bにおいて理解したことを言葉や文で表現することを拒否したといった


そういう生徒だということである

そうした子でもテストさえできれば、「4」や「5」を与えるべきだというのが朝日の主張らしい

「毎日気が抜けない。いつでもどこでも、がんばっているふりをしなくちゃ」
とトボケたことを言うこの少女、
実は「な〜んにも頑張っていなかった」のである。

「力はあるのにうまくアピールできない生徒が不利になる」
というが、英語を「しゃべらない」「聞き取らない」「書かない」「使わない」・・・そういう生徒の「力」とは何なのだろう?



そもそもこうした親子が実在するかどうかさえ疑わしい、と私は思っている。

また
ペーパーテストがよく出来るだけでは「5」が付かない。(これも誤解であるが)
マスコミは、もともとそれが良くて絶対評価を支持したのではなかったのか?
そういう疑問もある。










2002.12.27

教員のストレス深刻 
精神疾患で休職最多 公立小中高 11%増

[西日本新聞12月26日]





 二〇〇一年度にうつ病などの精神性疾患で休職した公立小中高校の教員は前年度より11%増え、過去最多の二千五百三人だったことが二十五日、文部科学省のまとめで分かった。懲戒などの処分を受けた教員総数は三千九百八十四人で過去最多だった一九九九年度の四千九百三十七人についで二番目に多かった。

■わいせつ処分は122人

 精神性疾患による休職の増加は、学級崩壊や校内暴力がエスカレートする一方、勤務内容が多様化・複雑化し、管理強化も進むなかで、教員がストレスを高めている実態を浮き彫りにした形。文科省は「公務員全体で増加傾向にあるが、教員は子どもに接する仕事であり、早期に発見して対応していきたい」と話している。

 九州・山口では、精神性疾患により休職した教員は三百六十六人で前年度比七人の減だった。

 また、全国で処分された教員のうち、わいせつ行為は過去最多だった〇〇年度の百四十一人に次ぐ百二十二人。やや減少したことで、文科省は「わいせつ行為は原則、懲戒免職と教委を指導していることで抑止効果が出た」としているが、教員の深刻なモラル低下状態は続いている。

 交通事故による処分は、千九百三十一人(前年度比百七十人増)と過去最多。うち飲酒運転(酒酔い、酒気帯び運転)は百二人。体罰で処分を受けたのは四百二十四人(同四人減)だった。

 九州・山口で処分された教員は四百十二人で、前年度より五十二人も増えた。うち、地方公務員法上の懲戒処分による免職は十五人、停職二十五人、減給三十人、戒告五十三人。訓告は二百八十九人。処分の理由は、わいせつ行為が十六人、体罰は五十四人だった。

■先生の忙しさ増した

教育問題に詳しい小児科医毛利子来さんの話

 日の丸・君が代の強制や、教員評価が本格化した二、三年前から教員の悲鳴が増えてきた。教育委員会や校長らからさまざまな指示を受け、夜遅くまで学校に残ったり、家に仕事を持ち帰ったりして、やたら忙しい。精神性疾患にかかる先生はまじめな人が多い。もう少し自由に仕事をさせてあげればいいのに、周囲が許さない。のんびりした雰囲気が学校になくなり、本当に気の毒だ。「先生が話を聞いてくれない」と訴える子どもも多い。完全学校週五日制で平日勤務がきつくなった今春から、この傾向はさらに強まっている。



小児科医の毛利子来さんという方、存じ上げないがある種の偏向のある方なのだろう。そしてその偏向は、あまた教育を語る人たちの中から「この人」を選んだ新聞の偏向でもある。

西日本新聞(そしてこの記事を配信した元のメディア)は、今日の教員の大変さを
「日の丸・君が代の強制や、教員評価が本格化」「学校五日制」との関係でみているということだ。
「教育委員会や校長らからさまざまな指示を受け」るから大変なのであって、教委や校長が自粛すればそれで自由になれる考えている・・・・・・・・
底が浅いのではない。最初から結論がきまっているのだ。


教員が大変なのは生徒が言うことをきかなくなったからだ。

そうした子どものあり方を、マスメディアが助長したからだといってもいい。
かつて修行の場であった学校に「自由」という概念を過剰に持ち込み、何事も生徒の自主性において行うよう煽ったからである。

それと同時に、メディアは国民の依存心にも激しく働きかけた。
子どもが勉強しないのは「先生が分かりやすく楽しい授業をしないから」であって、子どもが努力を厭うからではない。
子どもが問題行動を起すのは、校則が厳しかったり学校が管理的であったりするからであって家庭や子ども本人が悪いわけではない。

学び場としての学校の状況はますます悪くなっているというのに、責任ばかりが増加していく。
「教育委員会や校長らからさまざまな指示を・・・」の指示の中味は、その大部分が教員への責任追及に対する対応なのだ。

以下の記事を読むがいい。

職員室がストレス「崩壊」 広島県東部で休職突出[中国新聞2002.12.24

■福山市の小学校、教諭15人中6人療養・半年で担任4人交代

 福山市内のある小学校で、教諭十五人のうち六人が長期療養という事態が続いている。うち一クラスでは半年間で担任が四人入れ替わる異常さ。新学習指導要領の実施、ゆとり教育、総合的学習導入 と教育現場に「変革」の波が押し寄せる中、うまく対応できずにストレスから心を病む教師たち。「学級崩壊」ならぬ「学校崩壊」ともいえる現実が、少しずつ市内の教育現場に漂い始めている。(東海右佐衛門直柄)

 「もう、説明のつかない状態。考えられないことです」。同校の校長は、黙しがちに打ち明ける。

 異常が起き始めたのは六月。一人の三年生担当教諭が心の病から休職。すぐに教員免許を持つ臨時教諭を後継に採用したものの、二週間で「クラス運営が難しい」と辞めた。再び六月下旬に別の臨時教諭を配置したが、十月中旬に辞職。通算四人目となる現在の担任も十二月初旬から体調を崩し事実上、療養中だ。

 このクラスだけでない。同校ではこの半年間の間に、三、四、五年、障害児学級の計六人の担任が治療入院や精神疾患などで長期休職。臨時教諭で対応したものの、うち四人が辞めた。理由は「原因不明の熱が続く」「体がだるい」などで、ストレスを訴える声が多いという。


 保護者、不安の声
 保護者からは「担任がころころ変わって、子どもがかわいそう」「臨時の先生に通知表を書かれても困る」と不安や怒りの声が渦巻く。校長はこうした声に、「先生たちのストレスを見落としていたのかもしれない。コミュニケーションが不足しがちだった。子どもたちに申し訳ない」と述べるにとどまる。


 どうしてこんな異常事態になったのか

 考えられる理由の一つが、教育改革により、現場の環境が一変したことだ。今春からの完全週五日制のもとカリキュラムは削減された一方、新たに導入された総合的学習では教科書もなく、周到な下準備と工夫が個々の教諭に求められるようになった。


 「事務作業に忙殺」

 さらに、市立東朋中などで昨年発覚した授業時間短縮問題の「余波」だ。福山市教委は、この問題で文部科学省から是正指導をうけた。このため、本年度から「シラバス」(授業計画)の作成を全市立小・中・高校に義務付け、各学年・教科ごとに授業内容を示し、進度と評価基準を明確化させている。各校の研究内容を他校や市教委がチェックする「公開研究授業」も市内全校で導入。少人数指導制も進み、学力などに課題があるとされてきた市内公立教育の「改革」が急テンポで進みつつある。

 市内の別の小学校教諭は話す。「今年になって計画書と報告書の作成ばかり。パソコンに向かう事務作業に忙殺され、以前のように児童たちと話もできない。これが子どものためなのか分からず、ストレスと徒労感ばかり募る」。一方、市教委指導課は「授業できちんと子どもと向かい合い、計画性を持ってもらうために、さまざまな取り組みをしている。教師の事務作業の負担は大きくなっているだろうが、教務主任など一部だけのはず」と述べる。

 教育内容と環境の激変。上からのプレッシャー。そして、「職員室」という狭い世界でのさまざまな人間関係のもつれから、教師たちの心の歯車が連鎖的にずれ始めたのではないか、と見る向きもある。


 管理職向け研修も

 県が十月末に実施した調査では、一カ月以上休職している教諭二百三人のうち、福山教育事務所管内は七十二人と最多。広島市の四十五人を大きく上回るなど県東部に異常な偏りがみられる。単に「一つの学校だけの問題」でない実態が浮き彫りになっている。

福山市教委学事課は「教育改革が進む中で、教諭がストレスを抱えやすい環境になっていることは把握している。他の学校でも同様の事態が起こる素地がある」と述べ、年明けにも、公立校全校の管理職にメンタルヘルスケア研修をするという。




教員評価が本格化した二、三年前から教員の悲鳴が増えてきた。
冗談じゃなあい。

悲鳴なら、20年以上も前から上げている。










2002.12.28

先生の心の病・「ゆとり」奪った文科省

[琉球新報12月27日]



 「先生の心の病」が増え続けている。二〇〇一年度に精神性疾患で休職した公立の小中高校の教員は、前年度に比べ11%増えて約二千五百人となり、過去最高を更新したことが、文部科学省のまとめで分かった。病気休職者全体の48%を占め、ほぼ二人に一人の割合というから深刻だ。

「学級崩壊や不登校への対応に追われている上、職場の管理強化も進み、ストレスが強まっている」と訴える教員は少なくない。ストレスはまじめな先生ほど強く感じているとみられ、事態を放置すれば学級崩壊どころか、教育崩壊につながりかねない。

 問題は、文科省がこうした事態をどう受け止めているかだ。

 教員の精神性疾患が増え続ける大きな要因に「管理強化がある」と受け止めていればいいが、どうもそうではなさそうである。それは、教育委員会が教員を「指導力不足」と判定するための「人事管理システム」をつくったり、夏休みの研修計画書を事前に提出するよう義務付け、個々の判断での研修を認めないようにする傾向にあることなどからもうかがえる。

 教育問題に詳しい小児科医の毛利子来(たねき)さんは「日の丸・君が代の強制や、教員評価が本格化した二、三年前から教員の悲鳴が増えてきた」とみる。教育委員会や校長らからさまざまな指示を受け、夜遅くまで学校に残ったり、家に仕事を持ち帰ったりして、やたら忙しい。「もう少し自由に仕事をさせてあげればいいのに、周囲が許さない。のんびりした雰囲気が学校になくなり、本当に気の毒だ」と話す。

 本来、個々の教員の指導力というのは、自由な空気の中ではぐくまれるのではないのか。がんじがらめでは効果的な授業ができないし、子供たちの能力も思うように引き出せないだろう。そもそも「ゆとり教育」を唱える文科省が、教員から「ゆとり」を奪うのはおかしい。心の病を持つ先生が増えれば、最も影響を受けるのは子供たちである。



昨日の西日本新聞に比べればずっとマシである。
「学級崩壊や不登校への対応に追われている上、職場の管理強化も進み、ストレスが強まっている」と訴える教員は少なくない。
は、まったくその通りだ。


教育委員会が教員を「指導力不足」と判定するための「人事管理システム」をつくったり、夏休みの研修計画書を事前に提出するよう義務付け、個々の判断での研修を認めないようにする傾向にあること。
それが原因の一つであると考えるのは、それも正しい。

しかし
そうした管理的傾向が深まる原因をどう考えるのか
それについてはまったく触れていない。


文科省の役人だって自ら面倒を背負い込むことは嫌に違いない。
自らの施策が教員の忙しさをさらに増やし、教員の反発や意欲の減退を招くかもしれない、と考えると気も重くなるというものだ。
しかしそうした面倒を押しても管理しなければならないと考えた、それはなぜか。


簡単に言えば、世論がそれを望んだからである。

指導力不足の教員を炙り出し処分せよ。

何をしてるか分からない自宅研修に箍を設けよ。

児童・生徒に学力がついているか、一時間一時間についていちいち明確にせよ。

子どもたちの通知票や内申書の評定を、全て説明可能なものにせよ。

楽しく分かりやすい授業を行った上で学力はつけよ。しかし子どもを勉強漬けにしてはいけない。

子どもの発言権と自由を広範に認めよ、しかしいじめや犯罪は封じ込めよ。

学校は常にだれもが自由に入り込めるようにせよ。その上で不審者の侵入は確実に抑えよ。

・・・・・・・・・・・・・・・
それが可能であるかどうかは、どうでもいいことである。

正義を行うのに、可能不可能を言ってはいけない。
難しいからやめましょうでは正義の実現はない。

そのために犠牲になるものがあったとしても(犠牲になるものが、例え児童・生徒そのものであっても)、正義は果たされなければならない。

世論はそう叫ぶ。
いや、正確に言えばメディアがそう叫び、世論として世界を支配する(実際、普通の保護者にとって、説明責任なんて大した問題ではないのだが)。


本来、個々の教員の指導力というのは、自由な空気の中ではぐくまれるのではないのか。がんじがらめでは効果的な授業ができないし、子供たちの能力も思うように引き出せないだろう。
いままでメディアがこういった言い方をする例は稀である。
しかしそれもすぐに忘れるだろう。

こうした言葉が生きるのは、教員以外の何者か(この場合は文部科学省)を批判している間だけのことだからである。