キース・アウト
(キースの逸脱)

2005年3月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

2005.03.06

スクールカウンセラー/12人増員し66人に/県教委新年度派遣も26校増


福島民報 3月6日]


 県教委はいじめに遭ったり不登校だったりする児童生徒の心のケアにあたるスクールカウンセラーを新年度、12人増員、派遣校も26校増やす方針を固めた。カウンセラーは66人、派遣校は138校となる。不登校などの発生率の高い中学校を中心に、スクールカウンセリングの一層の充実を図る。

 カウンセラーの内訳は、臨床心理士の有資格者ら正カウンセラー37人、児童生徒の相談業務などに就いた経験を持つ準カウンセラー29人。

 派遣校は小学校8校(今年度比3校減)、中学校114校(同29校増)、高校は今年度と同じ16校。

 県教委によると、今年度のカウンセラー派遣で「子どもの問題状況に改善がみられた」「専門家の的確なアドバイスが役に立った」などの声が寄せられており、学校側から派遣の要望も高いという。

 一方、すべての小中高校への配置が財政的に困難なうえ、カウンセラーは複数の派遣校を担当するため1つの学校に腰を落ち着けて活動できないなどの問題も出ており、今後の体制充実に向けた検討課題となりそうだ。



大した記事ではないが、学校のカウンセリング事情を語る上で採った。

私が問題としたいのは、
すべての小中高校への配置が財政的に困難なうえ、
というくだりである。

では、
財政的に問題がなくなれば、一校一人のカウンセラー配置が可能なのか、という意味である。

スクールカウンセラーの配置が声高に叫ばれた5年以前(たぶん8年ほど前だったと思うが)、一番の問題は、需要に見合うカウンセラーの供給ができないのではないかということだった。

なにしろ当時「臨床心理士」の資格を持つものは全国で600人、しかもそのほとんどが精神科医・大学教授などの正業を持っており、とても学校まで出向いてくれそうにないという状態だった。

したがって当時、各都道府県教委が配置したのは「相談員」と称する元教員・元校長たちで、それなりの経験もノウハウも持っていたが、とてもカウンセラーと言えるようなものではなかった。

それが気がつくと、今や「臨床心理士」だけで全国に8000人もいるという。しかもそれでも足りなくて、福島県では
児童生徒の相談業務などに就いた経験を持つ準カウンセラー
を29人も雇い入れているのだ。
もはや心理職はこの世の花である。

さて、その中身はどうだろう?

正直言うとこの一年、私は勤務校のカウンセラーの悩みを聞くのに忙しく、しばしば仕事に支障を来たしているのだ。

彼は教職員が自分の指導に従わないことが我慢ならない。
彼が必要だという学習会が年に3回しか開かれなかった、それに腹を立てている。
カウンセラーとしての仕事をしに来ているのに来談者がほとんどいないことに、義憤を感じている。

しかし職員からすると、毎回同じような学習会を何回開いてもさっぱり前進するようには見えないのだ。それより、生徒を一人でも救ってくれればよほどありがたいのだが、それもうまくいかない。
生徒との人間関係がうまく結べない。
相談者の話を聞きながら何かを語る、その過程を通じて、彼自身が救われているのではないかと疑われるフシがある。

教頭は、とてつもなく高い時間給を取る彼を遊ばせておくテはないと、何かと職員に圧力をかけ、何らかの相談活動を行わせようと画策するのだが、担任の方は生徒を守るのに必死である。ただでもデリケートな難しい子たちを、変にいじられたくないのだ。

5年前は良かった。
元教員・元校長のやりそうなことは大体想像できたし、必要に応じて無視すればよかった。
しかし「カウンセラー」という肩書きのついた人間が高給を消費しながら学校に常駐するとなると、問題は非常に厄介になる。

市教委も校長も教頭も、そして本当は私たちも、彼を遊ばせておくのは忍びないと思っている。しかし使うこともできないのだ。

確かに優秀なカウンセラーもいるだろう。しかしそれが誰なのかなかなか分からない。
玉石混交の中で、私たちの大切な生徒が石につぶされないよう、私たちは汲々としている。








2005.03.10

戸惑い 2年目も 県内公立高入試 制度改革の中で模索



信濃毎日新聞 3月10日]


 「学力試験を2回に」「個性をじっくりみる試験にして」―。9日、県内公立高校で行われた一般入試(後期選抜)を受けた生徒たちから、変革が進む現在の入試制度に対し、さまざまな要望が上がった。通学区拡大や自己推薦型入試(前期選抜)を導入し、2年目を迎えた県教委の入試制度改革。学力試験や小論文、面接の在り方などで県教委や高校側も模索を続ける中、生徒たちの声からは「自分をもっと広く評価してほしい」(屋代受験の男子)という思いが垣間見えた。

 「少しの面接や小論文で、自分たちの力や夢の違いが分かるのか」。志願倍率が1・36倍の高倍率となった松本県ケ丘(松本市)を受験した南安曇郡豊科町の男子は、自己推薦型入試で同校を受験したものの不合格になった。1年生の時から同校を目指していたが、今回の一般入試では同校の高倍率に戸惑った。高倍率は「通学区拡大の影響」に思えた。最終的には志望を貫いたが、「先生は何も言わず、頼りにならなかった」と口にした。

 学力試験だけで行う高校が大半の一般入試にも注文は少なくない。飯田(飯田市)を受験した飯田市の女子は「一般入試にも面接を取り入れてほしい」と要望。ほかにも「学力試験を2回にして」(長野受験の男子)「高倍率を考えると通学区は狭い方がいい」(東部受験の男子)などの声も出た。

 県教委は2002年度に「受験の選択肢を増やすため」に通学区拡大を決め、「入試制度を多様化するため」に、面接と小論文を中心の自己推薦型入試の導入を決めた。

 初年度は、自己推薦型入試に「評価基準があいまい」「募集枠が少ない」などの不満が出た。一般入試でも「都市部の普通科に志願が集中する」などの問題点が浮き彫りに。県教委は自己推薦型の募集枠拡大など対策を講じ、受験生にも「現状のままでいい」(岡谷工受験の男子)「自己推薦型はあった方が気が楽」(北佐久農受験の女子)との声もある。

 ただ、ことしも自己推薦型には不満が多い。伊那弥生ケ丘(伊那市)受験の男子は「友人が自己推薦型入試に落ちて、ショックで立ち直れないでいる」と険しい表情。松本蟻ケ崎(松本市)に引率できた教員(43)は「自己推薦型では、落ちた子は悩むし、合格した子は『何で受かったのか分からない』と言う。基準があいまいで対策が立てづらい」。

 県教委は昨年と同様、受験生や保護者らにアンケートを行い、改善すべき点があれば入試制度を見直していく方針だ。

全員が納得する入試制度というものはない。

ああすればこちらが反対し、こうすればあちらが反対する。
子どもに聞けば自分が受かることが目標なのだから、自分に都合の良い制度を望むのは当然である。

しかし、さて、では希望の通り
「学力試験を2回に」したり、「個性をじっくりみる試験にして」しまったら、受験生は喜ぶのだろうか?

「試験を2回にする」というのは、つまり1回目の試験で合格者を定員の半数に抑えておくということなのだろうか? そうなると2回目のために、本来は1回の試験で受かったはずの受験生のおよそ半数を落としておかねばならない。
そのとき
友人が自己推薦型入試に落ちて、ショックで立ち直れないでいる」と同じようなことが起こらないだろうか?

あるいは、試験を2度行い、それぞれのよい方の点数で合否を決めるというのか? そうなると全員が2度試験を受けなくてはならない。そんな緊張に耐えていけるのだろうか?


また
「個性をじっくりみる」ためや「自分をもっと広く評価してほしい」 という願いに応えて、試験を9科目に戻し、さらに何週間もかけてさまざまな試験やテストを行うとなると、それを幸せと思う受験生がどれほどいるだろうか?

どうやっても不満を持つ受験生の不満は尽きない。


さらにまた、
最終的には志望を貫いたが、「先生は何も言わず、頼りにならなかった」と口にした。
これは教員には辛い。
そもそも私たちが何も言わなくなったのは、きちんとした物言いが「先生に高校を決められた」「先生に誘導された」という大量の批判を生み出したからだ。

言えば輪切りにしたと言う、言わねば頼りにならないという、一体どうしたらいいのか?



しかしわたしがここで言いたいのは、そうした子どもたちの子どもらしい不満についてではない。

どのよう意図をもって、信濃毎日新聞はこうした発言を集めるのかというということである。

始まって2年目というこの制度に、信濃毎日新聞は反対なのか?
どういう入試制度を良しとしているのか、この記事からはまったく見えてこない。

漂ってくるのは、ただ不満なものがたくさんいる、だから行政は何とかしろ、といった扇動の匂いだけである。





 

2005.03.11

1日20枚は割れすぎ もったいない 大事にしてね


京都新聞 3月10日]


 城陽市教委が今年1月、樹脂製から陶磁器製へ変更した学校給食の食器が、1日平均約20枚のペースで破損していることが10日までに分かった。約2カ月間で、欠けたり割れた食器は約800枚。市教委は「物を大切にする心を育てる」と説明するが、「もったいない」との声も出ている。

 市教委は、家庭的な食事に近づけるため、1月12日からポリプロピレンの樹脂製から陶磁器製の強化磁器食器に切り替えた。

 同食器は、飯用と汁用の茶わん(148グラム)、大皿(278グラム)、小皿(158グラム)の4種類で、単価は400−600円。白色で花柄が施され、子どもからは「前よりもきれいでおいしく食べられる」などの感想も上がっている。

 しかし、小学校一クラスの食器の総重量は、32・36キロと従来(10・6キロ)の約3倍になった。変更後、主に小学校低学年で、子どもが配ぜん中に手を滑らせたり、収納時にかごを落とすなど、毎日約20枚の破損が続いているという。

 市教委は、破損を見越して使用分より1割多い計3万2000枚をあらかじめ購入。割れた食器は、予備と取り換えて対応している。学校給食センターの岡博志所長は「落とすと割れる。物を大事にする心を教えたい」と教育の一環だと説明する。

 一方、市・よりよい学校給食を考える会の中原洋子代表は「強化磁器だから簡単に割れないと聞いていた。そんな多量に破損しているなんてもったいない。急に重い食器に変わり、子どもにかかる負担も大きいのでは」と心配している。



「ポリプロピレンから強化磁器へ」というのは全国的な流れである。
記事では、
家庭的な食事に近づけるためとあるが、とんでもない、始まりは環境ホルモンである。

私の市について言えば2年前、
「県外の某市で環境ホルモンを心配した教育委員会が、食器を樹脂製から強化磁器に変えた」というニュースを見た市議会議員が議会で質問したのが最初だった。
実際どんなやり取りがあったかは分からないが、
「環境ホルモンの疑いのある危険な食器を、市はいつまで使うつもりか?」
といった質問があったのだろう。
市教委事務局はあわてて
「しかるべき調査委員会をつくって善処します」
といった返事をする。
そして市の給食委員会(給食教育担当の教員と栄養士のつくる給食改善のための常設委員会)に「強化磁器に変えるという方向で」調査・答申するように指示する。

約1年の調査審議を行ったうえで給食委員会は

「この食器が適切でしょう」
と答える。
そして全市の食器がいっせいに交換される。

ポリプロピレンが環境ホルモンを発生させ、それが深刻な危険を有するという証拠はない。しかし「疑わしきは罰す」が原則の学校は「危険では?」と問われただけで引かざるを得ないのだ。
しかし一方では当然

「樹脂のどこが危険なのか証明してみろ」
といった樹脂メーカーの猛烈な突き上げも予想されるから
「家庭的な食事に近づけるため」とか、
「物を大事にする心を教えたい」
とか、大して重要でない、しかし一応誰もが納得しそうな理屈を重ねておく。
教育委員会事務局としては議員の圧力に屈して行ったことであるが、議員のせいだとは言えないのだ。


しかし実際に使ってみると・・・・・・

強化磁器だから簡単に割れないと聞いていた。
私もそう聞いた。しかしこれが落とすと簡単に割れる。『簡単に割れない』は「食器どうし軽く当てた程度では割れない」程度の意味だったらしい。

しかも重い。
中学生ですらブウブウ言っているのだから、これを運ぶ小学校1年生など、どうしているのだろう?

さらに
汁椀まで強化磁器なので、汁を入れると熱くて持てない。
したがって私の学校では、机の上に配った汁椀の方に食缶の方から近づいて配ることにしているのだが、小学校ではそれもできまい(中身の入った食缶は食器よりも重い)。
一体どうしているのだろう?

(ついでに言えば、汁物については生徒は冷めるまで待って食べることにしている。熱いうちだと手に持てないし、うっかり口の方を近づけて犬食いしようものなら、唇をやけどしかねないからである。中華料理を食べに行ってレンゲなしに食事をすることを考えてみればいい)

1日20枚は割れすぎ もったいない 大事にしてね
は、ものを粗末に扱う子どもの姿を思い浮かべてのことだろう。
しかし、粗末にする気はなくても、子どもの集まる学校ではそういうことはありうるのだ。








2005.03.13

少人数教育に期待する


[福島民報 3月13日]


1月4日の県知事・県教育長の記者会見で、平成17年度からすべての小中学校全学年に、少人数教育を導入できるよう支援していく、という方針が示された。こうした本県の取り組みは、全国に先駆けての大英断であり、教育関係者のみならず、県民ひとしく歓迎するところであり、何より県内の小中学生にとって、この上ないお年玉になったと思う。

 その方針に沿って県内の各市町村は、この4月から、30人程度学級か少人数指導のいずれかを選択する方向で動いている。厳しい財政下で予算確保が難しいことや、教室整備などの準備期間が短いことなど、課題も少なくはないのだが、この機を逃さずに少人数教育を推進してほしい。

 ところで、昨日合格者発表のあった県立高校の定員についても、その規模の縮小という点では、小中学校と軌を1にしていて、これまた喜ばしいことである。かつて高校教師として、1学級55人、学年10学級の大規模校に、長いこと籍を置いた私にとって、最大で40人、8学級という今日の状況は隔世の感がある。

 小中学校であれ高校であれ、1つの教室で同時に学ぶ児童・生徒の数は、少なければ少ない方がいい。それだけ児童・生徒に教師の目が行き届き、よりきめ細かな、より1人1人を大切にする教育が期待できるからである。

 特に今日のような、家庭や地域の教育力低下の状況にあっては、学校の担う役割はますます大きなものになってきている。そうした中にあって、少人数教育は欠かせない条件整備であり、それが学力の向上を保証する有効な方策であることは、間違いない。

 学力向上については、他にもさまざまな対策が考えられるが、学校で教える主体である教師のあり方が、大きな比重を占めるのは言うまでもないであろう。これまでも教師は、児童・生徒の健全な成長と学力向上のために、労苦をいとわず努めてきたと思う。しかし、雑多な問題を抱えて、その努力が報われていないというのが、現実かもしれない。

 例えば、見学学習で伝承郷を訪れる児童の姿を目にして、気になることがある。落ち着いて人の話を聴けない児童が、かなりいるのだ。これで学ぶことができるのかと心配になる。「読み」・「書き」と並んで、「聴く」ことは学習の第1歩だと思う。

 もともと学校教育は、教師が教え児童・生徒が学ぶという形を基本に成り立つはずである。とすれば、教師は、児童・生徒の主体的学習とか自主性の尊重とかの前に、知識や技能、基本的な生活習慣などを、まず教え込まなければならないと思う。したがって、教師が本気で磨かなければならないのは、教え込む力であると思うが、いかがであろうか。

 少人数教育が推進されたからといって、教師の負担が一気に軽くなるとか、目に見えて学力が向上するわけではないであろう。教育環境がより整備された中で、なお教師には今まで以上に研鑽(けんさん)を積むことが求められよう。その労苦を惜しむわけにはいかない。大切な児童・生徒が目の前にいる限り、教師はその使命を自覚して力を尽くしてほしいと願う。

 今、「心の豊かさ」が求められる時代を迎えている。「物づくり」から「人づくり」へ重心を移す時だと思う。その具体策としての少人数教育に期待したい。(氏家武夫・いわき市暮らしの伝承郷館長)


こういうことが記事になるというのが驚きである。
隔世の感がある。

教師は、児童・生徒の主体的学習とか自主性の尊重とかの前に、知識や技能、基本的な生活習慣などを、まず教え込まなければならないと思う。したがって、教師が本気で磨かなければならないのは、教え込む力であると思うが、いかがであろうか。

私たちにとっていわば当然のことだが、これまで社会の常識ではなかった。
いやそれどころか
「教え込むという教師の態度が、子どもたちの意欲をことごとく殺いできた」といわれ続けてきたはずだった。

◎われわれは「教える」ことよりも「育つ」のを待つ方が効果的であることを知らされた。

◎大人が子どもに対する期待を持ち、むやみな干渉を行なわないかぎり創造過程が進行する。

◎あまりにもわれわれ大人が既成の知識体系を注入することに熱心すぎて、子どもが個々に持っている個性を壊すことになっていないか。

◎子どもの好きと思うことをやらせてやる、そこから個性は開花してくる。

◎私は子どもを育てる、というときに「植物」をイメージする。太陽の熱と土とがあれば、ゆっくりと成長してゆく。(中略)植物の成長を楽しんでみるような態度を身につけると、楽しみが増えてくるように思われる。


以上は、河合隼雄が『子どもと学校』の中で語っていることである。

この記事と比べると、なんと距離の遠いことか!
こうして私たちは再三に渡り、翻弄される。







2005.03.16

英語教育


[中国新聞 3月15日]


 声をそろえて「グッド・モーニング」。全国津々浦々の小学校で、会話などの英語教育が一斉に始まる時代が来るのだろうか

 先週末、文部科学省が小学校の英語教育必修化の是非を、保護者や教員に尋ねた意識調査の結果が公表された。保護者約九千六百人、教員約二千二百人を対象に実施。保護者の71%が賛成し、教員の54%は反対した

 この数字をどう見るか。受験生を抱える家庭や、外資系企業の関係者の中には、身につまされて導入賛成にうなずく向きもあろう。一方、必修化に反対の教員は「小学校では、他の教科をきちんと学ぶべきだ」と回答。「外国語の修得も、日本語の力があってこそ」と、早い時期の導入に慎重な専門家の意見もある

 それはさておき、国際社会の公用語でもある英語に親しむ機会が増えるのは、悪いことではない。文科省の昨年五月の別の調査では、回答した全国約二万二千五百校の公立小のうち、90%近い約一万九千九百校で、何らかの形で英語教育が実施されていた

 中国地方でも、基地の街・岩国市が二〇〇三年度から、市内の全十九校で英会話学習を取り入れている。「英語教育推進特区」の倉敷市は、〇七年度までに、市内の全五十四校で英語教育を開始。「国際観光都市の人材育成を目指す」という

 英語と聞けば肩に力が入る身。「受験英語」に終始したせいだろう。心を通い合わせる会話力が付けば、外国の人との付き合いもより多彩で楽しくなるに違いない。


それはさておき、と言いながら、結局賛成しているじゃないか、
それが最初の感想。

国際社会の公用語でもある英語に親しむ機会が増えるのは、悪いことではない。

確かにその通りだ、ただし他を犠牲にすることがなければの話だが。。

ただ、単純に考えて、週一回の英語教育を行えば、総合的な学習の時間から35時間が吹っ飛び、週2回なら70時間が吹っ飛ぶ。
心を通い合わせる会話力が付けば、
となると週3時間でも心もとないだろう。しかし3時間でも総合的な学習の時間105時間(小学校3・4年)は完全になくなってしまう。
算数や国語を減らしてようやく生み出した105時間、それを英語に振り向ける意味がどれだけあるのだろう?

算数や国語より英語の方が重要だという根拠を示してほしいものである。


受験生を抱える家庭や、外資系企業の関係者の中には、身につまされて導入賛成にうなずく向きもあろう。
外資系企業の関係者(社長のことか?)が英語の堪能人材を望むのは分かる。
しかし「外資系企業」が百万人単位で人間を雇ってくれるとも思わない。
結局、そうした企業が望むのはごく一部のエリートだけなのだ。


ところで、
受験生を抱える家庭は、本気で小学校からの英語を望んでいるのだろうか?

もしそうだととしたら、とんでもなくおめでたい話である。

考えてみるがいい。
あなたの息子は
中学校1年生から高校3年生までの6年間に、トップの子とどれだけ差をつけられたか

そしてもう4年、同じ状態が続けばその差がそれほど広がってしまうのか
小学校3年生から10年間英語を行うというのはそういうことである。
小学校3年から英語を教えてもらえるのはウチの子だけではないのである。









2005.03.17

少年遊びやすく学成り難し!?…日・米・中 高校生意識調査


[読売新聞 3月16日]

 自分の将来に明るい希望を抱いている日本の高校生は全体の24%にとどまり、米国と中国の3か国中、最低だったことが15日、文部科学省所管の教育研究機関の調査で分かった。将来に備えてしっかり準備しようという米・中に対し、日本は「今が楽しければ」という享楽志向が強く、学校以外では勉強しないという割合も際立って高かった。

 ◆「ほとんど勉強しない」 日本45% 米15% 中国8%

 調査は、青少年の意識研究・調査などを行っている財団法人「一ツ橋文芸教育振興会」と「日本青少年研究所」が昨年秋、日・米・中の高校生計約3600人を対象に実施。勉強や生活態度、国に対する意識などを聞いた。

 それによると、自分の将来を「輝いている」と答えた高校生は、米国46%、中国34%に対し、日本は24%。逆に「あまり良くない」(10%)、「だめだろう」(6%)は米・中を大きく上回り、悲観的な見方が強い傾向がみられた。

 また、将来への備えについて尋ねたところ、米・中とも「今からしっかり勉強しておくべき」が多かったが、日本は「若い時は将来のことを思い悩むより、その時を大いに楽しむべき」が半数を超えた。「今一番したい事」も米・中と比べて、「好きなように遊んで暮らす」、「何もしないでのんびり過ごす」が目立ち、「日本の若者が『いかに生きるか』について、明確な理念を持っていないことを示す結果」(同研究所)となった。

 平日に学校以外でほとんど勉強しないという日本の高校生は、1980年度調査の26%から45%に大幅増加。米・中と比べても突出した値になっており、昨年末に公表された国際学力調査結果などでも明らかになった、「学習意欲の低下」が深刻な状況にあることが裏付けられた。

 一方、国に対する誇りを強く持っている高校生は、米・中がいずれも29%だったのに対し、日本は15%にとどまり、米・中の50%前後が「誇らしい」と答えた国旗・国歌についても、日本は「何も感じない」が60%前後を占めた。

 こうした結果について、教育評論家の尾木直樹さんは、「今の高校生たちは学校や社会に居場所が見いだせず、自尊感情も薄いまま、身近で小さな世界に閉じこもっている。極めて深刻な状況だ」と指摘。「スポーツや文学の世界では若い才能も伸びてきている。大人は『今の若者は……』と批判するだけでなく、ボランティア活動などの社会参加を促す仕組みを整備し、彼らを受け入れていくことが重要だ」と提案している。

この深刻な問題に、どうしてこんなオチャラケた表題がつけられるのか・・・
まずそのことに疑問を呈しておこう、そう上で、さて、

・・・・・・・・・・・・・・

平日に学校以外でほとんど勉強しないという日本の高校生は、1980年度調査の26%から45%に大幅増加。
というこの25年間。
その大部分(おそらくその前半23年くらい)は、読売新聞をはじめ全マスコミが「子どもたちは勉強しすぎだ!」「これ以上詰め込んでどうする!」「子どもが勉強で窒息しかかっている」といい続けた年月である。

「そりゃあ、都会の一部の子はそうかも知れんが・・・」と普通の教師が首をかしげている間も、とにかく時間を減らせ、学習内容を減らせと叫び続けていたのはマスコミだった。

その責任を、メディアはどう考えているのか?

「若い時は将来のことを思い悩むより、その時を大いに楽しむべき」

「好きなように遊んで暮らす」「何もしないでのんびり過ごす」
も、
常にマスコミが持ち上げてきた「人間らしい」「自由な」生き方である。
何をいまさら批判的にあつかうのか?
それも答えてほしいものである。

しかしそれにしても、
これだけ無理解な世論を背景に、これだけ勉強しない子どもたちを持ちながら、良くぞこれまで世界最高水準の学力を保ってきたものだ。

われながら、日本の教員の優秀さにはほとほと感心させられる(と、言っておこう)。








2005.03.30

福岡市:教師の指導力向上へ、表彰制度など提言−−協議会まとめ /福岡


[毎日新聞 3月30日]


 福岡市が設置していた「教員の指導力向上等に関する協議会」(前田一昭会長)が29日、協議の最終まとめを発表した。優れた指導力を持つ教員を「スーパーティーチャー」として表彰する制度などさまざまな提言を盛り込んでいる。
 文部科学省が教員の指導力を高めようと全国の自治体に委託して実施し、市では02年7月から協議会形式で取り組んでいた。協議は(1)指導力向上を早急に必要とする教員に対する事業(2)全教員の指導力向上のための指導や研修に関する事業(3)教員に対する表彰などの事業――の3分野にわたって実施。
 優秀教員を「スーパーティーチャー」として認定・表彰する制度は全国でも次第に取り組まれており、福岡市では表彰された教員を海外派遣候補者とすることも検討していくよう提言された。
 一方、原則1年間の特別研修で成果がなく、学校復帰が困難な教員は転職措置、退職勧奨、分限免職を検討するよう厳しい提言も含まれている。市教委では提言内容をさらに精査し、導入を検討する。

スーパーティーチャーには笑ってしまった。
ぜひとも、こちらばかりは「調教師」が表彰されないよう祈る。

さて
 
教員の指導力を高めようという三つの柱
(1)指導力向上を早急に必要とする教員に対する事業
(2)全教員の指導力向上のための指導や研修に関する事業
(3)教員に対する表彰などの事業

この柱の立て方事態に問題はないか?

たとえば、教員を「児童・生徒」に、指導力を「学力」に置き換えた時、人は同じように考えるだろうか?

(1)学力向上を早急に必要とする児童生徒に対する事業
(2)全児童生徒の学力向上のための指導や研修に関する事業
(3)児童生徒に対する表彰などの事業

全児童生徒を対象とした研修はいいにしても、
(1)学力向上を早急に必要な児童生徒だけを選り出して授業を受けさせたり、
(2)学力の高い子を表彰して全体の学力向上に資するようにしよう

といった考えは、普通はしまい。

こういうとき必ず出てくるのは「児童生徒の学習意欲をどう喚起するか」という話だ。
それは教員も同じだろう。

メディアに操られて猫の目のように変わる教育行政。
とにかく子どもの悪い部分は全て学校の問題として、叩いておかなければ損だといった風潮。
教員は自分たちの要求に100%応えるのが当然だと考える一部の保護者たち・・・。

そうしたものを放置したまま、いくら叩いてもいくら表彰しても、先行きは明るくない。

教育というものが価値ある仕事だということ、
そのために努力する教員はすばらしい存在だ
ということ、
そうした思いでで学校や教員を支えることをしなくなった社会。
その中で何ができるのだろう?