キース・アウト
(キースの逸脱)

2005年10月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

 

2005.10.06

先生の理想は20−25人学級、「目が行き届きます」

読売新聞 10月6日]


 小・中学校の教員が理想的だと考える1クラスの児童生徒数は、「21〜25人」であることが6日、山崎博敏・広島大大学院教授(教育学)らの研究グループの調査で分かった。

 特に学習指導面では、子どもの少ないクラスを受け持つ教師ほど、「順調」と感じる割合が高いという結果も出ている。グループは今後、児童生徒の学力テストを実施し、学級規模と実際に身についた学力との関係についても調査する方針。

 調査は昨年12月、「7人以下」から「36人以上」まで7段階の規模のクラスを受け持つ国公私立小・中学校の教員約6400人を対象に実施した。実際のクラス規模で多いのは小学校が「31〜35人」(19・3%)、中学校は「36〜40人」(33・7%)だった。

 それによると、12人以下のクラスを受け持つ教員の大半は「学級規模が小さすぎる」と回答、逆に31人以上では「大きすぎる」が目立った。理想の規模として最も多く挙げられたのは「21〜25人」。この規模で実際に授業をしている教員の89・5%も「適正規模」と答えていた。

 「分からないことがあると、子どもはよく質問をする」「教員は子ども一人一人の学習状況によく目が行き届く」といった学習面では、担当する学級の規模が小さい教員ほど順調と感じる割合が高かった。ただ、同時に実施した校長調査では、「学校行事」や「部活の成績」については少人数より20〜30人前後のクラスの「充実度」が高く、生徒指導や学校生活では、ある程度人数が多い方が効果的な面もあることがうかがえる結果だった。


 理想は20−25人というのは覚えておいてほしい数字である。教員たちは、これ以上少なくする必要はない、と言っている。なぜか?
 実は授業と言うのは全員が参加しているように見えて、本当のところは数人が全体を振り回しているそれはあたかも一頭の先導獣が方向を変え、その一頭を追う数頭があって始めて群れが動くようなものだ。
具体的に言えば、誰かが素晴しい意見を出し、それを支持する数人が出て初めて授業はダイナミックに動いていく。それなのに生徒数が15人を切ると、先導の一人はいても続く数名がいなくなってしまう。「素晴しい考えだね」と言ってその後が続かないのだ。ずいぶん貧弱な授業と気まずい沈黙が続くことになる。
 私はかつて12人と言う少人数のクラスを受け持ったことがある。しかしまったくダメだった。人数は減らせばいいというものではない。
 そしてここに、学校で友と一緒に学ぶ意味が見えてくる。

 今後何百年もたち、ITなどによって一人で学ぶ環境ができたとしても、子どもたちが一箇所に集まって学ぶ学校のかたちは決してなくならないだろう。そう思う理由がまさにこれなのである。







 

 

2005.10.06

幼児生活調査:子どもの遊び相手
「母親」が81%

毎日新聞 10月6日]


 少子化が進み、子どもの「おかあさんといっしょ」度が高まっていることが、ベネッセコーポレーション(岡山市)の調査でわかった。子どもの遊び相手を尋ねたところ、「母親」という回答が81%に上り、きょうだいや友達を大きく上回った。調査結果を分析した白梅学園大学の無藤隆学長(発達心理学)は「子どもの数が減ったことに加え、親が子どもの安全を気遣っているからだろう」と見ている。

 調査は今年3月、東京、神奈川、千葉、埼玉の1都3県に住む1歳半から6歳の子どもを持つ2980人の保護者を対象に実施。95年と00年に行った同様の調査回答と比較した。

 「子どもが一緒に遊ぶ人」(複数回答)のうち、「友だち」は47%、「きょうだい」は50%と、10年間でそれぞれ約10ポイント減少した。逆に、95年に55%だった「母親」は、00年に69%、今回は81%と目立って増えている。

 子どものきょうだい数別に比較したところ、1人っ子以外の子どもでも母親と遊ぶことが多くなっていた。無藤さんは「数少ない子どもを大切に育てる、少子化時代の育児の表れ」とみる。

 父親の育児参加については大きな変化が見られず、「子どもと一緒に室内で遊ぶ」は33%、「子どもと一緒に外で遊ぶ」は2%と、いずれも前回よりやや減少した。

数少ない子どもを大切に育てる

私はこの部分にかすかな違和感を感じる。全体として、子どもは大切に育てられるようになってきているのだろうか?

しかしところで、子どもが友だちやきょうだいとではなく、母親とのみ遊ぶ時代は良い時代だろうか?
日曜日の公園には親子で遊ぶ家族の姿がたくさん見える。なぜあの子たちは大人としか遊ばないのだろう?
私はなんとなく寒々としたものを感じるときがある。







 

 

2005.10.06

<学校制度アンケ>
学校教育に「不満」の保護者43%も


毎日新聞 10月6日]


 内閣府は6日、学校制度に関して保護者を対象に実施したアンケートの結果を発表した。現在の学校教育に「不満」と回答した保護者は43%に上り、「満足」が13%にとどまったほか、文部科学省が取り組む「ゆとり教育」に対し6割以上が「見直すべきだ」と答えるなど、政府の文部政策に対し厳しい結果となった。
 調査は9月、内閣府規制改革・民間開放推進室が教育改革に保護者の意見を反映させようと、野村総合研究所のモニター登録のうち、全国の小中高校生の保護者3620人を対象にインターネットで実施。1270人から回答を得た。
 調査結果によると、学校教育の満足度は「非常に不満」と「不満」を合わせて43%。子どもが習う教員への満足度については、「満足」(27%)と「不満」(28%)がきっ抗。「不満」と回答した人の理由(複数回答可)は、「指導力不足」70%▽「学習以外での対応力不足」52%▽「責任感の欠如」49%――の順だった。
 また、「どちらが学力向上に優れているか」の質問には、「学習塾・予備校」と回答した保護者が70%だったのに対し、「学校」はわずか4%。ゆとり教育については「見直すべきだ」が62%で、「継続すべきだ」は5%にとどまった。
 ただ、調査方法がインターネット上だったことから、文科省教育課程企画室は「母集団に偏りがあり、手法に疑問がある」と疑問を呈したうえで、「文科省のアンケートでは、学校への満足度が70%に上っており、今回の内閣府の調査の結果については中身を十分に精査したい」と話している。
【坂口裕彦】
 ▽加藤幸次・上智大名誉教授(学校教育学)の話 「ゆとり教育」は本来、「ゆとりと充実」を目指していたが、いつのまにか授業時間や学習量が減ることばかりが注目され、親からの信頼を失った。学校は子どもによく分かる授業、楽しい授業を構築することで信頼を勝ち取るしかない。



 文明というのは本来個人がやってきたことを機械や他人に代わってもらうシステムである。別の言い方をすれば、必然的に人間を依存的、幼児的にしていく。
 人にとってある事柄が満足か不満足かは、その人の欲求との関数であろう。欲求が高ければ高いほど事柄の値に関わらず「不満足度」は増加する。欲求が低ければ満足度は高まるはずだ。
 最初から「学校はこの程度ができて十分だ」と思っている人には満足な学校でも、「学校は教育に関して万能でなければならない」と信じる人々にとってはまったく不満足となる。

「指導力不足」70%▽「学習以外での対応力不足」52%、
「どちらが学力向上に優れているか」の質問には、「学習塾・予備校」と回答した保護者が70%


つまり
学力向上の上に「学習以外での対応力不足」も求めるとなると、学校はまったく当てにならなくなる。
その欲求に答えるために、
学校は子どもによく分かる授業、楽しい授業を構築することで信頼を勝ち取るしかない。
といわれても教員は戸惑うばかりである。

授業時間を減らしたのは私たちではないし、学習量を減らしたのも違う。ましてやそれらの部分にのみ注目させたのも私たちではなかったはずだ。
ゆとり教育は誰よりもメディアがお先棒担ぎだった。都会の、一部の学習過剰な子を立てて「心がゆがむ」「非行の原因」「不登校の元凶」だと煽ったのはメディアだった。特に私たちのような地方の教員は、どうも見ても学習不足の子を目の前にして、何でゆとりが必要なのか首を傾げていたのに……。

 現場教師(特に中学校の現場)は総合的な学習なんて大嫌いだった。にもかかわらず夢の教育として盛んに煽り立てたのもメディアだった。

 ゆとり教育の一部分、授業時数の削減や内容の削減について、やれ学力低下だ、世界トップから滑り落ちただのと煽り立てたのもメディアだった。私たちが騒いだのではない。

 にもかかわらずそうした問題の一切を教員の努力によって回復せよと言われて、果たしてそれでやる気が出るものなのだろうか?

 とにかく学校と教員を叩き、
 この国の学校教育に残ったただひとつの財産―教員の職業に対する誇りと自負ーこれを完膚なきまでに潰さない限り、何も始まらないと人々は考えているらしい。






 

 

2005.10.12

休日は動物のエサ抜きも…大阪府内の小中学校

読売新聞 10月11日]


 学校で飼育される動物に対する休日の取り扱いについて、大阪府教委が所管する42市町村教委にアンケートしたところ、半数を超える市町村で、休日にエサを与えていない学校があることが11日わかった。

 「休みの前日に多めにエサをやる」学校が目立つが、動物にエサを分けて食べる習性はあるはずもない。学校での動物飼育は、〈心の教育〉の一環。学校での事件が相次いだことを受け、「心の再生」を府民運動に広げる構えの府は、教育現場で浮かび上がったずさんな命の取り扱いに困惑している。

 アンケートは8月下旬、大阪市を除く42市町村に呼びかけた。その結果、約9割にあたる小学校658と中学校8でウサギやニワトリなどを飼育。土、日、祝日の飼育状況は、21市町村が「休日の前にエサや水を多めにやる」「前日に対応する」と回答し、2市町は「特になし」「原則なし」で、こうした市町村では、多くの学校が動物を休日に放置していることがわかった。

 国は、学習指導要領で、「動物の変化や成長の様子に関心を持ち、生命に気づき、大切にすること」(1、2年の生活科)と学習内容を定め、教師用の手引書にも「責任感や自尊心を育て、命あるものを大切にする心の育成につなげる」と意義を説いている。

 全国的には、予算を組んで獣医師が児童に飼育の仕方を教えたり、動物の診察をしたりするなど、「動物に優しい」自治体が増えてきたが、府内では、東大阪市など一部で、獣医師がボランティアとして行っているだけだ。

 府教委の辻村隆史・小中学校課長は「教職員に休日出勤をお願いするのは難しく、学校ごとに地域や保護者との連携を深めて対応してもらうしかない。そのためにも、教諭向けの研修を増やしたい」としている。


大阪府教委も余計なことを、と言ってはいけないだろうが・・・・・・。
動物にエサを分けて食べる習性はあるはずもない。
それはそうだが、
動物にはどんなに多くても与えたエサをすべて一日で食べてしまう、そういう習性もないのではないか。 
「休みの前日に多めにエサをやる」でも十分と思うが、世間は許してくれないらしい。

教職員に休日出勤をお願いするのは難しく

こんな書き方で教委がいかに教員に甘いかを強調しているのかもしれないが、そもそも「教職員」と「地域や保護者」以外にエサを与える人間はいないものなのか?

なぜ子どもが当番制で学校に来てはいけないのだろう?

大阪府では子どもや保護者に負担をかけることは一切しないという不文律でもあるのだろうか? それとも都会ならではの特別な事情でもあるのだろうか?

結局、学校のすべての問題は
教諭向けの研修を増やしたいというところに落ち着く。
とにかく何らかの形で教員が重荷を背負わなければ誰も納得しない。研修を受けたところで、休日にエサを運ぶ人間が現れるわけでもない。否、研修によって自主的に休日出勤を行う教員を育てようということなのかもしれない。






 

 

2005.10.14

懲戒処分:女子生徒の体触る、
県立高・男性教諭を処分−−県教委 /島根


毎日新聞 10月13日]


 県教委は12日、教育委員会を開き、県西部の県立高に勤務する50歳代の男性教諭を生徒の体を触ったとして懲戒処分にすることを決めた。処分の内容は生徒の心情に配慮して公表しないという。
 県教委高校教育課によると、教諭は今年4月ごろから7月にかけて、休み時間などに女子生徒の頭や背中などを数回触った。7月に生徒が両親に話し、母親が学校に連絡して分かった。教諭は7月下旬から研修名目で自宅謹慎中。生徒は一時、精神的に不安定な状態になったが、現在は落ち着いているという。
 同課が事情を聴いた際、教諭は「激励やスキンシップのつもりだった」と触ったことを認め、反省しているという。同課は「わいせつな目的ではないようだが、生徒の受け止め方を考え、セクハラに当たると判断した」とし、委員会も同様の結論に至った。


やれやれ・・・・・・。
頭や背中を触られたくらいで
精神的に不安定な状態になったとは!
と、そうは言ってはいけないのだろう。

私はしばしば遠慮もせずに女の子の頭を撫でることがある。経験的に、中学生であってもそれを喜ぶ瞬間があることを知っているからだ。

小さい子が頭を撫でられて「いいこ、いいこ」と言われると気持ちいいように、中学生だって心地よい。大人だって、気もちよい。男の子だっていい。

私は自分より背の高い男子を捕まえて、ヘッドロックで頭を固め、髪の毛をかき混ぜるように「いいこ、いいこ」してやる。これでけっこう友情が深まったようなつもりでいたが・・・・・・

もう、やめとこ。








 

 

2005.10.15

二学期制:北区が来年度から導入
−−全小中学校と幼稚園 /東京


毎日新聞 10月14日]


 北区教育委員会は来年度から、区立のすべての小、中学校57校と幼稚園7園で二学期制を導入することを決めた。02年度から実施されている学校完全週5日制や、学習内容を削減した新学習指導要領の影響で子供たちの「学力低下」が懸念されており、授業時間の確保が狙い。都内では足立、渋谷、墨田の3区と、武蔵村山、羽村の2市で全面実施している。
 北区では03、04年度に合わせて7小中学校で試験導入した。始業式や終業式、定期テストなどが減ることで年間授業時間を20時間以上増やすことができたという。同区の二学期制は10月の秋休みをはさみ、前期、後期に分ける。春、夏、冬の休みは通常どおり。


20時間といえば5時間授業で4日間、6時間授業でいえばわずか3日と2時間である。その程度の増加が望みだったら、なぜ夏休みを減らすとか別の方法を考えないのか?
4日の授業は定期テスト1回分に足る、十分中身のある内容なのだろうか? 
年3回の通知票を2回に減らし、例えば4月の学習の不備を9月に知らせ、わずか数日間の「秋休み」に、「さあ、その部分の復習を十分してきましょう」というのが正しい策なのか?
年5回の定期考査が4回になれば、生徒の負担はほぼ2割り増しになる。生徒にそうした負担を押し付けても、生み出さなければならない20時間・・・・・・。

3学期制という、日本の風土に実にマッチした制度を根本的に覆して生み出す4日間。

増えた20時間にはそういう意味がある。大変な犠牲を払って獲得した20時間をどう使うか、教師の責任は重い(てなことにならなければいいのだが)。


参考

2学期制の後期始まる 桑名の小中幼、初日から全日授業

 【三重県】本年度から2学期制を取り入れている桑名市と木曽岬町の小中学校と幼稚園で11日、「後期」が始まった。始業式に続き、初日から給食などのある全日授業となったが、同市教育委員会などでは「特に混乱はなかった」としている。

 2学期制は、体育の日を含む10月第2週の週末で前期と後期に分割。3学期制では学期末に半日授業などが組まれるが、2学期制は基本的に全日授業としており、年間の授業時間が増えるほか、きめ細かな学習計画が組めるという。

 後期を迎えたのは小学校29校、中学校10校と幼稚園25園。子どもたちは3連休をはさんで新たな気持ちで勉学に取り組んだ。

 同市筒尾の陵成中では、新学期開始の節目に福島県の通信制高校サポート校「はぐるまの家」で和太鼓に取り組む少年らを招き、演奏会を開いた。勇壮なばちさばきに、全校生徒の約570人と保護者約100人が聴き入ったほか、生徒代表が太鼓の手ほどきを受けた。

 同市教委では夏休み中に教諭対象の2学期制アンケートをしたが、前期途中だったため長所や短所をあぶり出すことができなかった。近く、保護者などを対象に調査し、来年度の軌道修正に着手する予定だ。 (西山 和宏)
(中日新聞) - 10月12日11時48分更新
3学期制では学期末に半日授業などが組まれるが、2学期制は基本的に全日授業としており、
だったら、3学期制のまま、半日授業を止めるという発想はないのだろうか?
実に分からない話である。







 

 

2005.10.16

修学旅行の参加認めず 徳島市の公立中、
「素行不良」と女子10人


徳島新聞 10月16日]

 徳島市内の公立中学校が今月中旬に予定している二年生の修学旅行で、学校側が素行不良とされる女子生徒約十人に「生活態度を改善しなければ同行させられない」と通告していたことが、十五日分かった。通告された生徒のうち少なくとも六人は参加を見送った。残る生徒のうち参加希望者については参加する方向で話し合っている。保護者の間では、学校側の対応をめぐって賛否が分かれている。

 この中学校によると、修学旅行は今月中旬に三泊四日の日程で、九州方面を訪れる予定。二年生には、家を出ても学校に来なかったり、登校しても授業に出ず校内をうろついたりするなど、教師の指導に耳を貸さない女子生徒が約十人いるという。学校側は今年四月から、これらの生徒と保護者に「正常に授業を受けるとともに、教師の指導に従わなければ修学旅行には参加させられない」と通告し、話し合いを続けてきた。

 これまでのところ、少なくとも六人は、参加見送りを学校側に伝えている。残る生徒は参加を希望していて、生活態度の改善を条件に、参加を認めるかどうかを検討しているという。

 一部生徒の修学旅行参加を認めない理由について、同校の校長は「五月に県内中学校の修学旅行中に転落死亡事故が起こり、学校側の危機管理が厳しく問われている。もちろん全員参加させたいが、生徒が教師の指示に従えなければ、県外に連れて行くのは安全面で問題がある」と説明する。

 これに対し、保護者の間には「もし事故が起こった場合、誰が責任を取るのか。団体行動できない生徒が参加すれば、他の生徒たちが迷惑を被る。学校側の言い分も分かる」という声がある一方、「修学旅行も授業の一環。例えどんなに素行不良の生徒であっても、子供を排除する考え方には問題があるのでは」と、学校側の対応を疑問視する意見もある。

 徳島大学大学開放実践センターの猿田真嗣助教授(教育行政)は「危機管理の一環として事故を防ぐという主張も理解できるし、その他の生徒の気持ちも考慮しなければならない。しかし、修学旅行に参加させないというのは、子供の学習権を制約する行為で、公共教育機関としては適切ではない。学ぶ権利は子供の側にある」と指摘している。



賛否を問うたときにそれが99対1の比であっても、「ああいう意見もあればこういう意見もある」といった書き方をしてもいいものだろうか?
保護者の間では、学校側の対応をめぐって賛否が分かれている。
と書かれれば、普通の読者は賛否相半ばしていると読む。しかし私は普通の保護者にそれほどもの分かりの良い人がいるとは思えないのだ。

普通の親だったら、否、教員の私であっても、
自分の子が事件に巻き込まれる危険を犯してまで、他人の子どもが修学旅行に行く権利を守ろうとは思わない。
たとえその子たちが自粛して数日間を過ごしてくれたにしても、引率する先生たちの注意がそちらに傾けば、わが子の注がれるべきそれが散漫になる。その中でウチの子が事故にでもあったら、誰がどう責任を取ってくれるのか。

それにもかかわらずこの学校には、素行不良少女の権利を守ろうとする保護者が相当数いる。とんでもなく素晴しい学校である。
そしてそんな素晴しい保護者に恵まれながら
家を出ても学校に来なかったり、登校しても授業に出ず校内をうろついたりするなど、教師の指導に耳を貸さない女子生徒が約十人いるとなると本当にわけが分からない。

わけが分からないといえば、猿田真嗣助教授
学校の主張もわかる、他の生徒の気持ちも分かる。しかしそれらを全部勘案しても
修学旅行に参加させないというのは、子供の学習権を制約する行為で、公共教育機関としては適切ではない。
とは!

学校というものはどんな危険な子にも他と同じ権利を与え、なおかつ安全を守らなければならないものらしい。それに失敗したときは、いかなる責任もすべて学校にあるのだ。


なんとも、凄まじい!






 

 

2005.10.22

「開かれた学校」HPが落とし穴 ネット殺害予告

河北新報 10月21日]

 丑田祐輔容疑者(23)は女児の学校のホームページ(HP)に女児の氏名が掲載されているのを見つけ、標的にした。防犯上、HPから児童、生徒の氏名や写真を削除する学校が増えている中、今回の事件で、HPの匿名化を強化したいという学校関係者は少なくなく、学校の主役の子どもが学校のHPから消え去る懸念も強まっている。

 女児の学校は、HPに児童名を載せる場合は通常、イニシャルにとどめているが、今回は「チェックミス」(校長)で実名を掲載した。学校は落ち度を認め、女児に謝罪する意向を示している。HPは書き込みのあった9月16日に閉鎖され、校長は「情報を発信して開かれた学校にしたかったが、閉じざるを得なかった」と
話している。

 学校HPは学校活動の広告塔で、「開かれた学校」の象徴と言っていい。市教委も「善行をした児童、生徒の名前を載せることなどは本来、教育的に好ましい」(教育センター)と考えている。

 しかし、HPは不特定多数に閲覧される「宿命」を負い、HPに名前や写真の載った子どもが犯罪者に狙われる被害が後を絶たない。「学校は子どもを危害に遭わせないことが最優先。こういう事件が続けば、必然的にHPの匿名化は進む」(小学校教諭)という。

 危機管理コンサルタント会社「クライシスインテリジェンス」(東京)の浅利真代表も「学校はネットに安易に個人情報を出すべきでない。教育者は性悪説も念頭に置きながら『開かれた学校』の在り方を考えるべきだ」とHPの匿名化もやむを得ないとする立場だ。

 市教委も2003年度、「児童、生徒の個人情報を発信する場合、著作権や肖像権の保護に十分留意し、児童、生徒と保護者の同意を得る」との要綱をまとめ、各校に通達した。

 HPの匿名化進行は学校の過度な抑制を生み、市内の小学校のHPでは児童の顔が判別できないように目の部分をモザイク処理したり、後ろ姿を撮影したりする写真が目立つ。

 学校関係者は「ゾッとする異様な感じで、子どもたちのはつらつとした学校生活を伝えるHPの本来の姿が失われた」と指摘。市教委幹部は「個人情報の取り扱いについては、どこの学校も苦慮している」と明かす。

 教育センターの糟谷文夫所長は「難しい問題で簡単には答えが出ない」と断った上で、「児童の氏名も写真もないHPは開設の本来の趣旨に反しており、閉鎖的なものに後退しないよう取り組む」と述べている。





開かれた学校と安全な学校づくりは必ずしも矛盾しないというが、現実にはあちこちでぶつかりあってしまう。
それは当たり前で、究極の「安全な学校」はアメリカに見るような閉鎖系の校舎、そして保護者による直接の登下校、そこまで行ってやっと一息つけるものだからである。

現代の学校は神経質になっているから、瞬く間にサイトの匿名化が進むだろう。身を守るにはそれしかないとしたら当然そうなる。

さて、ところで地方新聞に見るような「○○小学校○年 ○○○○さん」といった記事。あれは今後どうなっていくのだろう? テレビの報道はどうなるのか? 各種コンクールの受賞作品の展示についてはどうなっていくのか?

恐ろしいことだが、日本中のすべてから、人間の名前が消えていく日はそう遠くないのかもしれない。

参考

ネットに小4女児殺害予告
専門学校生を脅迫で逮捕
[共同通信 10月20日]

 仙台南署は20日までに、インターネットの掲示板に小学4年女子児童の殺害を予告する書き込みをしたとして、脅迫の疑いで東京都江東区白河、専門学校生丑田祐輔容疑者(23)を逮捕した。

調べでは、丑田容疑者は9月16日、ネットの掲示板に「仙台市太白区内の小学4年女子児童をナイフで切り裂いて殺す。10月30日まで絶対やり遂げる」などと書き込み、脅迫した疑い。

丑田容疑者は8人が殺害された大阪の校内児童殺傷事件を挙げ「記録を抜かないといけないので9人以上処刑する」などと書いていた。







 

 

2005.10.22

公立小中学校教職員 給与優遇見直し指摘 財政審

産経新聞 10月21日]



一般行政職の11%高
文科省「専門性が高い」

 全国平均の公立小中学校の教職員の月額給料が地方公務員の一般行政職と比較して11%高いことが、二十日開かれた財政制度等審議会(財務相の諮問機関)に財務省が提出した資料で明らかになった。また、給料に時間外手当に相当する教職調整額が組み入れられているため、給料が支給基準となる年金、退職金もかさ上げされている。財政審は「教職員は相当の優遇が一生涯続いている」(西室泰三分科会長)と指摘、教職員給与優遇を定めている人材確保法の廃止も含め給与のあり方を見直すべきだとの見解を示している。
 教職員給与は、人材確保と学校教育水準の維持を目的に、昭和四十九年に施行された人材確保法で、一般の公務員より優遇措置を講じる必要があると定められている。教職員給与はこの特別措置法に基づき、4−6%割り増しで支給され、給料部分に時間外手当の代わりに教職調整額4%が上積みされる仕組みになっている。
 財務省が示した公立小中学校教職員の全国平均の月額給料をみると、十五年度は三十九万九千八百四十二円(平均年齢四十三歳)と、一般行政職の三十五万八千八百五十二円(同四二・四歳)よりも11%高い。
 十六年度は三十九万六千七百十二円(同四三・三歳)と実額ベースで十五年度より減ってはいるものの、一般行政職の三十五万六千六百七十九円(同四二・六歳)に比べ11%高いままで格差は縮まっていない。
 この日記者会見した西室分科会長はこうした月額給料の優遇は年金や退職金のかさ上げにつながっていると指摘。「十五年度の教職員OBの月当たりの年金支給額は二十四万四千円で一般行政職OBの二十二万五千円より一割ほど高い。校長は二十六万三千円と国家公務員の事務次官クラスの二十四万六千円よりも多い」と事例を列挙した。
 こうした優遇批判に対し、文部科学省は「期末手当など諸手当を含めた給与ベースでみると、一般行政職との格差は4%程度でそれほど高くない。教職員はいわば専門性の高い職業で一般行政職とは一線を画すべきで、人材確保法は維持すべきだ」と反論している。




 給与が高い低いという前に、今後日本の教育をどういう方向に進めていくのか、国民に真剣に問いかけ考えていく必要があるだろう。
人材確保と学校教育水準の維持を目的に施行された人材確保法を廃するということは、教員はさして優秀な人間でなくてもいい、学校の教育水準が下がってもいい、ということに他ならない
からである。

 私たち教職員の給与が一般の公務員よりいいのは、超過勤務手当てと引き換えの教職調整手当および人材確保法による義務教育等教員特別手当のためである。それらが本給として扱われるので年金に加算されそこが問題である、という話は初めて聞いた。

 教職調整手当は本給の4%。残業をしてもまったくしなくても4%というのでめっぽう悪く言われるが、一般に家庭に用事のある兼業主婦教員でない限り、7時前に帰宅する例はまれである。その最低限の7時帰宅にしても1日2時間の超勤。月40時間余の残業ということになる。本給を30万円と考えればその4%は12000円、40時間で割れば時給300円である。
 もちろんそれは最低レベルであって、部活動や資源回収などのPTA活動、生徒指導に関する家庭訪問等を入れると、月100時間を下回る教員はまずいない。早く帰る兼業主婦教員にしても、他の教員が学校でやっている仕事を持ち帰って家でやっているのだから結果は同じである。
そうなると12000円÷100時間=120円(/時間)。
日本のどこの世界に、時給120円で働いている人間がいるだろう?

 また、特別手当の方は4%〜6%となっているが、私の場合3.7%ほどである(どうしてだ?)。潤沢とはいえないが、ないよりはましとはいえる。

 しかし全体として調整手当てをなくし、普通の超過勤務手当てに振り替えてしまえば、仮に他の公務員同様「計算された額の半分しか支給されない」という実態があっても、大幅な増収となるだろう。我々には悪くない話しかもしれない。

 つまり問題となるのは現実の収入の増減ではない。

問題なのは、もはや教員だからといって優遇されるべき時代は終わったというその考え方自体

である。

 正直言って、国民に覚悟があれば、私はそれでもいいと思う。

 アメリカもイギリスも教員給与の安さが、初等教育を潰してしまった。
 アメリカなどでは初等教育における女性教員の割合が95%を超えて、もはや男子一生の仕事ではないとみなされるまでになっている。それというのもアメリカの教員には安い給与の見返りに、4時には帰宅して家事ができるというメリットがあるからである。

 そうして国民教育に見切りをつけても、アメリカは困らない。高等教育おいて産学共同体を編成し、世界中から優秀な人材を集めてその力で経済発展を果たすという独自の道を歩んでいるからである。

 同様に、
日本も1千700万人に及ぶ日本人の児童・生徒に金をつぎ込むより、わずか数百人のエリート学生・研究者に金をつぎ込んだ方が絶対に割安
である。
 そしてそれが日本人である必要もない。
 東大・京大に優秀なインド人や中国人・韓国人を引き寄せ、その研究成果を掠め取れば、今以上の経済発展は十分望めるはずである。

 教員を普通の、あるいはそれ以下の職業にしてしまう。その上で多くを望まない、それはそれでひとつの選択のしかただ。

校長は二十六万三千円と国家公務員の事務次官クラスの二十四万六千円よりも多いそれは事実である。しかし事務次官の退職金は約7700万円。多くは天下りで退職後も高額所得を得る。教員は現役時代の掛け金が高いため年金は多めだが、校長でも退職金は2900万円前後である。事務次官と校長を比較するなら、退職金も次官並みにしておくべきと思うが、どうか。








 

 

2005.10.25

「国際学力調査」
上位のフィンランド、学校に権限移譲


朝日新聞 10月21日]



昨年12月に公表された国際学力調査(PISA2003)でクローズアップされた日本の学力低下問題。その調査で上位になったフィンランドの教育庁が今月10、11の両日、「フィンランドが好成績を修めた要因」と題する国際セミナーをヘルシンキで開催した。セミナーで成功の要因として強調された「現場への思い切った権限移譲」は、日本も教育改革のゴールに据える。一方で、学力テストの方法などは日本と正反対の路線だ。セミナーを紹介しつつ、フィンランドと日本の教育システムを比較してみた。

    ◆

 「フィンランドでは、教科書も授業メソッドも学校が選ぶ」

 30カ国以上から集まった約130人の参加者に、フィンランド教育庁のリッタ・ランポーラ氏は同国の教育システムが「地方自治体と学校への信頼」で成り立っていることを強調した。

 フィンランドで教育の分権化が始まったのは85年ごろから。日本の学習指導要領にあたる国のカリキュラムは、70年には義務教育段階で約650ページの厚さがあったが、94年には100ページほどまで削られてガイドライン的なものになった。自治体と学校は、このカリキュラムに基づいて、自前の「指導要領」をそれぞれ作っている。

 セミナーの一環として行われた学校訪問で、「学校の自治」の象徴的な事例に出会った。

 ヘルシンキ市内にある「アラビア基礎学校」は新興住宅街にある小中一貫校。約300人の子どもが学ぶ。

 4年生を受け持つミッコ・アウティオ先生が見せてくれた1週間の時間割りには、教科が書き込まれていない「×」印が11カ所もある。週間授業時数の約4割を占める。「この×印のコマは、児童の理解状況に応じてやりたい教科を弾力的にはめ込む。明日は、英語を3時間連続でやることになると思う」とアウティオ先生は話した。最近は、こうした柔軟な時間割りを導入する教師が急速に増えているという。

 また、80年代後半には今も英国で行われているような学校査察制度を廃止した。その代わりに、学校の状況を把握するために全国学力テストを導入している。ただ、日本が来年度以降に導入するような学年全員を対象とするものではなく、一定数を抽出して実施し、その結果も全国平均を公表するだけだ。全数調査をしない理由について、ランポーラ氏は「地区によっては教育困難校もある。条件が違うのに学校をランク付けしたくない」と、過度な学校間競争を避けていると説明した。

◇悩める日本、読解力向上の手本に

 PISA2003で特に日本が振るわなかったのが「読解力」。日本は経済協力開発機構(OECD)加盟国の平均並みの14位で、フィンランドは1位だった。国語だけでなく、他の教科の記述式問題の弱さも課題となっており、文部科学省は、フィンランドが進めた国家プロジェクトを手本に「読解力向上プログラム」を策定中だ。

 フィンランド政府が01〜04年に実施したプロジェクトは、「ルク・スオミ(読み書きするフィンランド)」。この中では、すべての教科を通じた読解力の改善や、学校と公共図書館の連携などが掲げられた。

 フィンランドで読解力が重視される背景には、大学入試の内容も影響しているようだ。大学に進学するための「資格試験」で必修の国語の試験で課されるのは2本の小論文。数学や一般教養の問題でも知識だけを問うのではなく、自分の考えをまとめて表現することが重視される。

 「アラビア基礎学校」でアウティオ先生が作った生物のテストを見せてもらうと、穴埋め問題はほとんどなく、記述式の問題が大半だ。「児童は書くのをおっくうがるが、どれだけ理解したかを知るには書くことが一番だ」と話す。

 中学1年生に国語を教えるマルケッタ・マケラ先生も月に一度は近くの図書館に生徒を連れて行く。「読むこと、書くことがすべての教科の基礎。創造的な内容や論理的な文章を繰り返し書かせている」という。

 文科省もフィンランドの成功を踏まえ、教科を超えて読解力の向上を目指そうとしている。そこで、策定中のプログラムの原案では、対象は国語だけでなく、理科や社会、美術、音楽まで及ぶ。

 例えば、中3の社会。テキストは、「社員募集」「男性社員募集」と書かれた二つの社員募集広告を並べて、どちらが新しい広告かを生徒に考えさせる内容だ。男女雇用機会均等法という言葉を教えるのではなく、資料からその意義を探る狙いになっている。



学力の国際比較というとIEAによる「国際数学・理科教育動向調査の2003年調査(TIMSS2003)」が有名だが、その結果日本より上位だったのがいずれも選別教育・受験教育に熱心な国々だったため、こちらの方はさっぱり話題にならない。その代わりいつまでも問題とされるのは国際学力調査(PISA2003)一位のフィンランドである。

確かにフィンランドの教育は様々な面で日本と対照的である。その様々な面のうち、何を引っ張ってきて参照するかは、それぞれの恣意だろう。

 上の記事によれば朝日新聞は「権限委譲」と「記述式の入試と学習」を採った。
かつて別のマスメディアは教員資格に大学院卒を規定するような「教員の質の高さ」を挙げた。そして私は、
生徒数50人以下の学校が40%にものぼり、生徒数500人以上の学校はわずか3%
という小さな規模の学校に
校長、教員、専門科目教員の他に、看護士、学校心理学士、特殊教員、学校アシスタントなど、大量の職員を入れるという教員の潤沢さを挙げた(それを支える教育予算の高さも挙げた)。7月5日

ついでに言えば、

フィンランドは小学校の1年生の学習につぃて行けそうにない子を、小学校に挙げない就学猶予のある国

である。

入学してからも授業について行けなければすぐに補習クラスに入れて特別の学習を受ける国

でもある。そして

保護者たちがそれを権利として受け入れ、積極的に利用しようとする国

でもある(と、聞いた)。
したがって(PISA2003)のこまかな分析を見ても、
フィンランドの際立った特徴のひとつは、低レベルの子が極めて少ない、ということになる。

そこには「どんな危険な子でも修学旅行につれていくべきだ」といった無闇な平等主義を振りかざす国とは、根本的な違いがある。

フィンランドの教員の給与は民間企業よりも安い。にも関わらず大学院まで出た学生が教職を目指すのは、かつての日本と同様、フィンランドでは教員に高い社会的地位が与えられているからである。教員の意欲を社会が支えている。

そうした一切を無視して、学校裁量と記述式に原因を帰す。
国民に何の犠牲も苦痛も求めず、ただ文部科学省と学校・教員をいじるだけで事態をコペルニクス的に転換しようとする人々。

私がメディアを一切信用しない背景には、そういうものがある。








 

 

2005.10.31

ナガサキ通信:ある中学生の逮捕 /長崎

毎日新聞 10月31日]



 長崎市内の中学3年生の男子生徒(15)が担任教師に暴行を加えたとして今月14日、傷害容疑で逮捕された。なぜ逮捕なのか。事件の一報に接したときの率直な思いだ。
 男子生徒はクラスの仲間が合唱コンクールの練習をしている際、携帯電話で音楽を聴いていた。担任が注意をして携帯を取り上げようとした際、男子生徒は担任に殴り掛かり、同級生が止めた。それでも担任に頭突きをしたという。生徒は荷物を持って学校を出ていった。
 学校は警察に通報。「生徒が外に飛び出したので何かあってはいけないと思った」と市教委は説明する。教師らの心配をよそに生徒は自宅にそのまま帰り、自室にいた。父親も在宅していた。そこに、警察が来て生徒の身柄を確保、生徒は抵抗することもなく警察署に連れていかれた。
 一方、学校では担任が病院へ行き、顔や指に1週間のけがの診断書が出る。このため、生徒は傷害容疑で通常逮捕された。学校での生徒の暴力は警察に通報するよう市教委が学校を指導していた。
 県警少年課は「学校から通報があり、対応した。学校で指導出来る範囲を越えたと判断した」と説明。「この子を放っておくと再び誤りを行う。ぴしゃっと反省させた上で本人の将来のために更生させる必要を感じた」
 関係者の話では、生徒の反抗的な態度が際だってきたのは、3年生になってから。それまで所属していた運動部を退部に追い込まれてからだ。気持ちを抑えきれずに担任教師に手を出したことやガラスを割ったことがあった。一方で同級生とは打ち解け、友人は多かったという。
 生徒は現在、少年鑑別所で家庭裁判所の調査、処分を待つ。26日、同級生を中心に27人の友人から励ましの手紙が男子生徒に届いた。男子生徒は返事を出すつもりだという。
 「教師は一生懸命やってくれた。逮捕は仕方がなかった」と言う親もいる。だが、学校関係者や父母の中には「この生徒をうまく指導する教師もいた。違うやり方があったはずだ」との声もある。
 市教委は「逮捕を願ったわけではない」と強調する。「戻ってきたら、いつでも受け入れる態勢にある」とも。当然のことだろう。
 「(男子生徒が)合唱コンクールに出られなかったので、戻ったらもう一度みんなで歌おう」。手紙を出した友人らの思いが家庭裁判所に届き、男子生徒が教室に戻れることを願う。“切り捨て”や“排除”では教育が死んでしまう。



 先日の修学旅行の話と同じ、「どんな子どもであっても学校の枠の中で何とかしろ」といいう流れの記事である。

それまで所属していた運動部を退部に追い込まれ
とあれば、真面目で一生懸命やってきた子が何かの不条理によって追い出されたといった印象になるが、果たしてどうか。
気持ちを抑えきれずに担任教師に手を出したことやガラスを割った
と、そこまでしなければならないほどひどい仕打ちを受けていたとしたら、そのことも記事にしなければフェアではないだろう。

さらに、
一方で同級生とは打ち解け、友人は多かったという。
いかにも良い子だが、そこまでクラスや友人に溶け込んでいる子が、なぜ合唱コンクールの練習の最中に携帯電話で音楽を聞いていられるのか? 
合唱コンクールに出られなかったので、戻ったらもう一度みんなで歌おうそんなふうに言ってくれる仲間の中で、なぜ彼一人は練習に参加せずにいられるのか? 返す返すも不思議な少年である。


私は
「生徒が外に飛び出したので何かあってはいけないと思った」という市教委の説明に、ある程度の説得力を感じる。少年が札付きのワルでない限り、クラス全体の前で教師に対して暴力を振るった普通の子が学校を飛び出したらそれこそ心配である。自分のしたことの大きさに怯えて何をするか分からないからだ。
そして
学校で指導出来る範囲を越えたと判断したという警察側の説明も分かる。
学校と警察の両者の判断がすれ違った。

しかしこれとは違う見方もできる。
それはこの少年が記事にあるようなある程度抑制の効いた子ではなく、
担任教師に手を出したことやガラスを割ったことがあったも記事にある程度の軽いものではなかった場合である。
もしかした再三の暴力にまったく打つ手を失った学校が、警察との間でできレースを行ったのかもしれないということだ。

警察はこう言う。「今後どのような些細な暴力でも、起こった場合はすぐに通報してください。その上で必ず病院に行って診断書を出してもらうように」。
もちろんこういう方針は市教委了承の上で行われるから、当然
学校での生徒の暴力は警察に通報するよう市教委が学校を指導していたとなる。そして計画通り、彼には厳しいお灸がすえられる。
もちろんその場合、
「生徒が外に飛び出したので何かあってはいけないと思った」というのは単なるマスコミ向けの言葉でしかない。この子は札付きのワルでしたとは口が裂けても言えないからだ。

しかしそれにしても、
毎日新聞の説に従えば、

学校というところは教師がいくら殴られても、公共の財産であるガラスを何枚割られても、じっと辛抱強くいつまでも指導し続けなければならないところ
ということになるが、それでいいのだろうか?

この生徒をうまく指導する教師もいたというが、この学校全体としては少年の指導に成功しているとは言いがたい。
「この子を放っておくと再び誤りを行う。ぴしゃっと反省させた上で本人の将来のために更生させる必要を感じた」
という警察の判断が正しいとしたら、あと半年、誠実だが機能しない学校の生徒指導に任せておくことは、この子にとって大きな損失となる。
それでいいのだろうか?

 いずれにしろこうした記事が続くと、学校は問題を校内だけで抱え込もうとするだろう。そのときになって、「学校は問題を抱え込まず、警察・児童相談所などと相談しながら・・・」とは書かないことだ。