キース・アウト
(キースの逸脱)

2006年3月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

 

2006.03.03

勉強冷めた日本 米中韓7割超…高校生意識調査


読売新聞 3月2日]


 日米中韓の4か国の中で、日本の高校生は学校の成績や進学への関心度が最も低いという実態が1日、文部科学省所管の教育研究機関による意識調査で明らかになった。

 米中韓では「勉強ができる生徒」を志向する傾向が強いのに対し、日本の高校生が最もなりたいと思うのは「クラスの人気者」。もっぱら漫画や携帯電話に関心が向けられているという傾向も表れており、“勉強離れ”が際だつ結果となっている。

 ◆「成績良くなること大事」33%

調査は青少年の意識研究などを行う財団法人「日本青少年研究所」と「一ツ橋文芸教育振興会」が昨年秋、日米中韓の高校1〜3年生計約7200人を対象に実施した。

どんなタイプの生徒になりたいか(複数回答、%)
選択肢(抜粋) 日本 米国 中国 韓国
勉強がよくできる生徒 40.5 83.3 79.5 67.4
リーダーシップの強い生徒 15.7 54.1 53.0 48.7
クラスのみんなに好かれる生徒 48.4 21.6 66.2 41.4
先生に好かれる生徒 13.9 3.8 49.9 35.8
正義感の強い生徒 25.7 32.7 54.5 35.8
 それによると、「現在、大事にしていること」(複数回答)として、「成績が良くなること」を挙げたのは、米国74・3%、中国75・8%、韓国73・8%に対し、日本は最下位の33・2%。「希望の大学に入ること」も、米国53・8%、中国76・4%、韓国78・0%に対し、日本はわずか29・3%だった。

 「いい大学に入れるよう頑張りたいか」という問いに、「全くそう思う」と回答した生徒は、中国64・1%、韓国61・2%、米国30・2%で、日本は最下位の25・8%。また、「どんなタイプの生徒になりたいか」を尋ねたところ、米中韓は「勉強がよくできる生徒」が67・4〜83・3%を占めたが、日本は「クラスのみんなに好かれる生徒」が48・4%でトップだった。

 逆に日本の高校生が他の3か国に比べ、「非常に関心がある」と回答した割合が高かった項目は、漫画やドラマなどの「大衆文化」(62・1%)、「携帯電話や携帯メール」(50・3%)、ファッションやショッピングなどの「流行」(40・2%)など。米中韓でいずれも50%前後だった「家族」は、日本では32・4%にとどまった。

 調査を担当した日本青少年研究所の千石保所長は「未来志向の米中韓に対し、日本の高校生は現在志向が顕著で、『勉強しても、良い将来が待っているとは限らない』と冷めた意識を持っている」と指摘している。

 ◆脱受験戦争の果て/努力の価値低下

 日本では長年、受験戦争や学歴至上主義からの脱却を図るべきだと言われてきた。その主張通りに社会が変わってきたとも受け取れる今回の調査結果に、逆に危機感を募らせる識者も少なくない。

 「国家の品格」の著者で数学者の藤原正彦さん(62)は、調査結果について、「一言で言えば、日本の子どもはバカだということではないか」と話した。将来に希望を持てない「希望格差社会」の問題を指摘する東京学芸大教授の山田昌弘さん(48)も「努力することに価値を見いださない傾向は労働意欲の低下につながり、少子高齢社会を支えられなくなる」と危惧(きぐ)する。

 なぜこうなったのか。藤原さんは「個性の尊重ばかりを唱え、子どもに苦しい思いをさせてはいけないという『子ども中心主義』が信奉されてきたこと」を第一の理由に挙げる。

 戦後の日本は高度経済成長を達成した反面、受験戦争の過熱やいじめといった社会問題を抱えた。1980年代には、中曽根内閣の臨時教育審議会が「学歴社会の弊害の是正」などを答申。これを受けて文科省はその後、「ゆとり教育」への転換を図り、経済界も、学歴に偏らない採用基準の多様化などを進めた。

 だが、2003年の国際学力調査で、日本は「読解力」が前回の8位から14位、「数学的応用力」は1位から6位に下がるなど低迷。子どもの学力不足がクローズアップされ、文科省は「ゆとり教育」の見直しを余儀なくされている。

 藤原さんは、こうした経緯に加え、「いつリストラされるか分からない不安定な今の社会で、『勉強してもしようがない』という気持ちが植え付けられてしまった」と指摘。山田さんも「勉強に希望を託せない社会システムに問題がある」と強調している。



10年とは言わない、つい7〜8年前まで、日本は世界最高レベルの受験大国だった、
熱心なマスメディア・ウォッチャーなら誰でもそう思うはずだ。
子どもたちは過当な競争に曝され、一日数時間という塾通いに耐えていた・・・とメディアは言っていた。

そんな情報の中で、
個性の尊重ばかりを唱え、子どもに苦しい思いをさせてはいけないという『子ども中心主義』
は、これも読売新聞も含めたマス・メディアが声高に叫んできたことだ。


現場の教師はそう思っていなかった。目の前にいる子供たちは、教師の期待するほどにはサッパリ勉強してくれなかったからだ。そしてテレビや新聞が垂れ流す情報に苦しんでいた。

1980年代には、中曽根内閣の臨時教育審議会が「学歴社会の弊害の是正」などを答申。これを受けて文科省はその後、「ゆとり教育」への転換を図り、経済界も、学歴に偏らない採用基準の多様化などを進めた。
それも違う。審議会や文科省の罪は非常に小さい。
文科省は行政府の一部である。そうである以上、世論に従わなくてはならない。その世論をつくっているのが読売新聞をはじめとするマス・メディアなのである。

自ら世論をつくり、その通りになると立場を変えて世論に従った社会を批判する
なんとも気楽な商売である。

その間、
犠牲になっていくのは、メディアが愛してやまない子どもたちだというのに・・・。








 

 

2006.03.04

「子供にどう自信をつけるか」


紀伊民報 3月3日]


 「頑張れ頑張れ、と言ってくれるけど、どう頑張っていいか分からない」と言う子がいる。

 ▽県教委は昨年10月、小学4年生以上と中学校の全学年を対象に、学力診断テストを実施したが、その中から約1割を選び生活実態や学習態度の調査をした。その分析結果が先日出た(本紙3月1日付)。それを見て少し考えさせられた。

 ▽「自分はやればできる人間だと思うか」という問いに、小学生で「思わない」「どちらかというと思わない」を合わせると、約2割の子が自分に対して否定的だ。中学生になると、教科内容が難しくなってくるので3割弱と率が上がる。

 ▽自信のない子にどう自信を植え付けていくか。学校の教師と親が、その子の力を注意深く分析して、得意なものを見つけ出す。それを根気強く励ましながら伸ばす努力をする以外にないだろう。「自分でもやればできる」という意欲は、まず自分の力を意識させることから始まる。

 ▽財団法人日本青少年研究所が行った、日本、米国、中国、韓国の4カ国高校生の意識比較調査でも「今の希望」で「成績が良くなる」を挙げたのは、中国76%、米国、韓国が74%、日本が33%のお粗末さである。

 ▽意欲のなさは高校生だけの問題ではない。先に挙げた県教委の報告とどこかでつながっている。「自分で自分を鍛えていく」という、日本の教育の原点が問われているようだ。(香)

この記事を書いた人は、何歳ぐらいで、どういう経歴を経てきた人なのだろう? ご自身に一定年齢以上のお子さんがいるのだろうか?
つまり親として、あるいは教師として、
その子の力を注意深く分析して、得意なものを見つけ出す。それを根気強く励ましながら伸ばす努力をする以外にないだろう。
そういうことを、してきた人だろうか、とういことである。

確かに、子どもを注意深く見つめていれば、その子の得意ものは見えてくる。
野球が得意だとか、絵が得意だとか、テレビゲームが得意だとか・・・。
あるいはもっと分析的に考えて、記憶力がよいとか、音感がよいとか、運動神経がよいとかそういうことである。

ただしそれはエジソンの母が風変わりな息子の中に発見した偉大な才能のようなものではなく、たいていの場合「他には何の取り得もないが、強いて言えばそんなところかなあ」といった程度のものだろう。
それが普通の人間というものである。


サッカーのゴン中山のようにミカン山と実家の間を平気で何往復もしたとか、コンピュータの開発者フォン・ノイマンのように一度目を通した文章はすべて暗記していたとか、アインシュタインのようにサッパリ勉強はできないのに数学だけは異常に成績がよかったとか、そういうことだったらそれを根気強く励ましながら伸ばす努力をすることも意味がある。しかし平凡な子どもの平凡な運動能力や音感を励ましながら伸ばしてどうなるというのか?


普通の子は天才を持っていない。だから普通の子なのだ。そしてそうである以上、何らかの力をつけて社会に出ていくしかない。そう考えると私たちのなすべきことは分かってくる。

親や教師がすべきことは子どもに得意なものをつくってやることだ。
探すことではない。

親と教師と子ども本人が手を携え、ともに努力しながら、その子の得意技、個性、能力をつくっていくことだ。

「自分でもやればできる」という意欲は、まず自分の力を意識させることから始まる。

そうではない。「自分でもやればできる」という意欲は、力をつけてもらい、「やって、できた」という体験の中からしか生まれてこない。
そんな当たり前のことがなぜ分からないのか?


理由は簡単である。分からないのではない、言いたくないのだ。
学校の教師と親が・・・それを根気強く励ましながら伸ばす努力をする以外にないだろう。
まず努力すべきは学校の教師で、次が親。そして子ども本人はほとんど努力しなくても自信のもてる社会、それがメディアの願いだからだ。

問に王道を築こうという妄想









 

 

2006.03.06

子供は「早寝・早起き・朝ごはん」…文科省が支援

読売新聞 3月6日]


 子供の夜更かしや食生活の乱れをなくそうと、文部科学省は4月から、「早寝・早起き・朝ごはん」を合言葉に、朝のラジオ体操や学校での早朝読書会など、子供の生活リズムを改善させる様々な地域活動の支援・推進に乗り出す。

 具体的には、親子での早朝ゴミ拾いやラジオ体操、始業前10分間にパズルやクイズを解く「頭ほぐし運動」など、地域や学校が独自に実施する取り組みについて、文科省がその効果を検証したり、フォーラムを通じて全国に紹介したりする。2006年度予算案に1億3000万円を計上している。

 2月28日には、活動の推進母体として、日本PTA全国協議会、全国商工会連合会、全国ラジオ体操連盟など30団体による全国協議会発起人会を設置した。4月24日に全国協議会の初会合を開く。

 文科省の調査では、朝食を食べないことがある小学生は15%、中学生は22%に上る。国立教育政策研究所の03年度調査では、朝食を「毎日食べる」小学5年生は、「全く食べない」か「ほとんど食べない」子供より、国語・算数のテストで平均1割以上得点が高い傾向にあるという。


これをかわいい記事と見るか恐ろしい記事と見るか、はたまた頼もしい記事と見るかは、見解の分かれるところであろう。
いずれにしろ、
「早寝・早起き・朝ごはん」という、家庭教育の根幹からして、政府が面倒をみようと決めた
のだ。

活動の推進母体として、日本PTA全国協議会・・・
とあるから親(P)と教員(T)が手を携えて行うべきことに見えるが、そもそも親(P)がアテにできないから始まるこの事業、結局は日ごろから「指導力不足」とバカにしてきた教員をアテにするしかないだろう。

さらに、私たちにとっては困ったことには、これが教員としての仕事なら、手当てだ代休だといった話に発展する可能性があるのに、PTA活動となると(名目上は教員が勝手に入っている任意団体の仕事だから)無制限に使われることになる。なかなかシンドイことである。

学校のスリム化、子どもを学校から引き戻せといった

自立的な家庭教育重視の考え方は、もう、どこにもない。









 

 

2006.03.07

民間人教頭なりやすく 文科省、
今春から資格要件緩和


朝日新聞 3月6日]


 文部科学省は、さまざまな経験を持つ民間人を学校教育の現場に登用するため、これまでは校長職に認めていた資格要件の緩和を教頭についても適用することを決めた。3月中に学校教育法の施行規則を改正し、今春から導入する方針だ。

 いまの制度では、教頭になるためには、(1)教員免許状を持ち、「教育に関する職」に5年以上就いている(2)教員免許状の有無にかかわらず、「教育に関する職」に10年以上就いている、のいずれかを満たす必要があった。

 義務教育のあり方について審議を進めてきた中央教育審議会義務教育特別部会は、昨年10月の答申の中で、学校現場に対する信頼を取り戻す一策として、「教頭については、民間企業などで培った経営感覚を生かすことが期待される民間人を登用できるよう、資格要件を緩和することが適当だ」と提言した。

 これを受け文科省は、民間人を校長に登用する場合と同様、教員免許がなく、「教職に関する職」に就いた経験がない人でも、任命権者が認めた場合には教頭に迎えることができるよう制度を改める。

 文科省によると、校長の資格要件緩和は00年度から実施された。05年4月1日現在、民間人から校長に登用された人の数は92人(前年比16人増)となっている。



重要なのは、民間人を入れるということではない。
民間企業などで培った経営感覚を生かして・・・・何をさせるかということである。
民間人を登用すればそれで事足りるというものではない。

2003年5月27日の朝日新聞に次のような記事がある。

 「民間人校長を呼ぶことのみが対応策になるようでは困る」「教頭の仕事量が多すぎる」「もっと、ヒト、モノ、カネの裁量権を」――。全国各地の公立校に赴任した民間人校長13人が26日、河村建夫文部科学副大臣と東京都内で懇談し、なかなか変わらない教育委員会のやり方に注文をつけた。

○ 13人が副大臣と懇談会

 懇談は、広島県尾道市の小学校で民間人校長が自殺したことをきっかけに文科省が呼びかけ、開いた。民間人校長は4月現在で、26都道府県・市で56人いる。今回は1年以上の経験を持つ東京都や埼玉県、大阪府などの校長が集まった。

 課題として意見が相次いだのは、「民間人校長に何を求めているのか、教育委員会に聞いても反応がない」「民間人校長を呼ぶ側の教委も具体的な目標を立てる必要がある」などだった。民間人校長を導入すれば教育改革が進むという考えをやめてほしい、という声だ。

 民間人校長により、学校運営が効率的に進むという意見に対しては、「教委がマネジメントの効率化を考えなければいけない」との注文がついた。

 「教頭はあまりにも忙しい。1日に30件近い問い合わせがあり、追いまくられている」(高校)という指摘や、文科省に対して、「教育行政を考える人たちは本当に現場を知っているのか。文科省の人たちも現場を経験するべきだ」とする声もあった。


民間人校長に何を求めているのか、教育委員会に聞いても反応がない
民間人校長を呼ぶ側の教委も具体的な目標を立てる必要がある
民間人校長を導入すれば教育改革が進むという考えをやめてほしい

すでに3年前、民間人校長がこうした声を上げていたにもかかわらず、こんどは
学校現場に対する信頼を取り戻す一策として、民間人教頭を登用しようという。

中央教育審議会義務教育特別部会は、国民の声を代表する機関である。行政である文科省はその通りにするだろう。
そして彼らが門戸を広げようとしている教頭という仕事は、
あまりにも忙しい。1日に30件近い問い合わせがあり、追いまくられている
という状況なのである。
理念を語っていればいい校長とは異なり、実務部隊の小隊長である教頭は常に猛烈なストレスに曝されている。

願わくばこの無謀な計画に乗る人がいませぬよう。
民間人が教頭になるのは、教員が銀行の支店長となるのと同じくらい愚かなことなのだから。








 

 

2006.03.9

教員評価/なあなあになっては困る


東奥日報 3月7日]

 教師の新しい評価制度がまとまった。一言でいうと「一方向から双方向へ」という内容だ。教師の質を高めるためというが、本人への「評価の開示」が前提では厳格な評価を下せるものなのか。甘くならないか。

 学級をまとめられない。不登校やいじめに対処できない。学習指導に問題がある。自分を抑制できず、子どもに暴力をふるう−そんな教員が依然多い。
 県教育長の諮問機関である教員の評価システム調査検討委員会がまとめた「教職員の人材育成・評価制度」は、勤務実績を考査する従来の評価制度を大きく転換させるものだ。
 一年間のサイクルで、教職員が個人目標を立てて、取り組みを自己評価する「目標管理」と、校長や教頭らが意欲、能力、実績を評価する「業績評価」の二つが柱となっている。
 対象は校長、教頭、事務長を含むほぼすべての教職員。客観性と公正性を保つため、評価者を複数にし、評価の基準や方法を学ぶ研修会を開く方針だ。将来的には人事異動などにも反映させるという。

 県教委は二○○七年度から本格的に実施する意向だが、少なくても以下の点に十分配慮してほしい。

 第一は、評価内容を開示することで、「なあなあ主義」に陥り、評価が甘くならないよう指導と助言を徹底すべきだ。
 学校改革が思うように進まなかったのは、身内意識が強く、外部の批判に耳を傾けず、問題教師への対応が甘かったからではなかったか。同じ轍(てつ)を踏んではならない。
 新制度は「評価者が評価するのみの一方的な仕組み」を改め、評価に当たっては「被評価者の理解を得られるように努め、資質の向上を図る」というものだ。校長と教頭が評価、評価内容を開示することで双方向的な評価になると言う。
 趣旨は分かるが、うまくいくだろうか。評価は一方的だからこそ、ある真実を示すとも言えないだろうか。
 試行した学校で行ったアンケートでは「開示によって、人間関係に悪影響を及ぼす懸念がある」「制度の定着状況を踏まえるべきである」と、効果を疑問視する声も上がっている。

 第二は、外部評価である。校長など管理職の評価には、教職員や保護者の意見も参考にすべきだという提案には賛成だ。
 千葉県は学校評価委員会に年間の評価計画や進行状況を公表、連携して学校改善につなげている。参考にしてほしい。
 新制度が目指すのは、能力開発型の人事評価制度だが、その場合、能力と業績に応じた賃金体系が基本となる。
 だが報告は、評価結果を給与に反映させることが考えられるとしながらも、国や県人事委員会などの動向を見極めながら検討するとしている。消極的な姿勢なのが気にかかる。

 教員に最も必要な能力は、子どもが好きなことではないか。評価制度は、子どもの成長を助け、励まし、力を貸すことに心から喜びを感じられる教員に光を当てるものであるべきだ。上ばかりをうかがう「ヒラメ教師」はいらない。昔の評価制度に逆戻りさせてはならない。



 リンクをつけてもらっている義理もあるので言うが、東奥日報の教育記事のレベルは高い。しかし具体的な取材という意味では、まだまだ甘い。
 教員評価を記事にしたいなら、実際に書かれたものを(もしそれがなければ、自分でやって)見ればいいのだ。この評価の方法には、なあなあ主義とは別の問題が見えてくるはずである。

まず、
一年間のサイクルで、教職員が個人目標を立てて、取り組みを自己評価する「目標管理」と、校長や教頭らが意欲、能力、実績を評価する「業績評価」の二つが柱となっている。
ここにひとつの誤解がある。
記者は前半の『教職員が個人目標を立てて、取り組みを自己評価する「目標管理」』と後半の『校長や教頭らが意欲、能力、実績を評価する「業績評価」』の間に敷居があるように思っているようだが、実はそうではない。前者と後者は完全にシンクロしているのだ。

具体的に言うと、
「目標管理」の部分では年度当初4〜5個の目標を書く。例えば「学級通信を毎日出す」「すべての書類を締め切りの三日以前に出す」「不登校生徒に対して、週2回以上の家庭訪問を繰り返す」とかいった書き方になる。
もしこの段階で「不登校の生徒を登校できるようにする」といった無謀な目標を立てる教員がいたら(めったにそんな人はいないと思うが)校長が面接の上で目標を下げさせる。あるいは逆に目標が低すぎる場合、さらにあるいは「お前にはもっと大事な問題があるだろう」と言いたい時には、それに従って目標変更を迫る。そしてその上で、目標達成のための努力をさせるのだ。

それらの項目(つまり「学級通信を毎日出す」「すべての書類を締め切りの三日以前に出す」「不登校生徒に対して、週2回以上の家庭訪問を繰り返す」といった目標)に従って、中間報告、最終報告を行う。意外に早く達成されるということもあるから、状況によっては目標を変更してもよい。

そして一年が終わったとき(ココが大事なのだが)、
校長や教頭が
「教員の目標管理に対して」、一項目ずつ

意欲、能力、実績を評価する
のである。
先の例に従えば、「学級通信を毎日出す」を達成できたか、それを意欲・能力・実績として評価する。

教員が自ら挙げた目標を、
達成しようとしたか、
達成するだけの能力があったか、
そして実際に達成できたかを、評価するのである。


つまりこのやり方は、教員の能力そのものをはかるものではない。自己申告した目標に対する評価をするだけのことなのだ。
したがって「なあなあ主義」にもなりにくい。一年をかけた後、その人が達成できそうな目標だけを設定すればよいだけだからである。

今行おうとしている教員評価がこういうものである以上、そこに外部評価を入れたり賃金体系と連動することはムリだろう。それらを行うためには、評価の基準が外部になければならないからだ

評価基準を教員自身の内部におくこの評価方法の、今後を見て行きたい。








 

 

2006.03.14

進学も“格差社会”


読売新聞 3月14日]


 家庭の所得によって、子どもの進学への期待や習い事にかける費用に格差が出ていることが、「こども未来財団」(東京都港区)の調査で明らかになった。

 調査は昨年10月、20〜44歳の既婚男女約2400人に行い、回答者の家庭所得を年収「200万円未満」から「1000万円以上」まで6分類した。

 1000万円以上の家庭では89%が子どもに大学・大学院進学を希望しているのに対し、200万〜400万円未満は44%、400万〜600万円未満は60%。200万円未満の家庭では30%が「特に希望はない」と答えた。

 第1子に習い事をさせる割合や平均月謝額も所得に“比例”。1000万円以上の家庭の79%が習い事をさせ、約2万7000円の月謝を払っているのに対し、400万〜600万円未満と200万〜400万円未満の家庭では、それぞれ52%、約1万2000円と38%、約9600円だった。調査にかかわったお茶の水女子大の坂本佳鶴恵教授(社会学)は「子どもの教育費は『かかる』というよりも『かける』ということが明確に表れた。所得差が教育格差につながりかねない。子育て世帯への教育費の支援が今後の課題になる」と話している。


「小学校1年生の通知票は親の成績」という言い方がある。
特殊な例を除き、算数の宿題をちょっと見てやるとか、親がやるべきことをきちんとやっていれば自ずと成績はよくなっていく、小学校の一年生なんてその程度のものだ、という意味である。

ところで、
小学校1年生の子どもの「個性」といったら、人は何を考えるのだろうか? まさか数学に才能があるとか絵画の天分を持っているとか、そういったことにはならないだろう。わがままだ、おとなしい、恥ずかしがり屋だとかいった違いはあるにしても、「個性」といった強いものは、ほとんど見つからない。

しかし「個性」を「その子が生まれながら持っていて、他と区別されるような、特別な資産」と置き換えると、さまざまなものが見えてくる。

例えば、お勉強ができる、ずば抜けて高い運動能力を持っている、それもいい。教育に熱心な親を持っている、親に財産があるのも資産の中に含まれるだろう。

もう平準の規格品のような子どもをつくる教育はやめよう、これからは子どもの個性を伸ばす時代だ!
とマスメディアが叫んだときから、勉強のできる子、親に金のある子が圧倒的に有利な時代が始まった。
個性の時代というのはそういうものである。

読売新聞よ、何がいまさら問題なのか?








 

 

2006.03.27

<中教審>小学校高学年で平均週1回の英語教育を提言


毎日新聞 3月27日]


 中央教育審議会の外国語専門部会は27日、小学校で英語の必修化を求めた報告をまとめた。アジア各国で小学校段階の必修化が相次ぐ中、英語コミュニケーション能力の育成が不可欠として高学年(5〜6年)で平均週1回(年間35単位時間)の英語教育を行うよう提言した。実施時期や授業時間数などは今後、中教審教育課程部会が検討し、早ければ06年度にも行われる学習指導要領改訂で盛り込まれ、08年度にも実施の見通し。
 報告によると、英語活動は全国の公立小の9割以上で取り組んでいるが、活動内容や時間数は統一されていない。グローバル化が進む中、中学・高校での英語学習の素地をつくる必要があるほか、構造改革特区などで教科として英語を学ぶ動きも広がっている。このため、機会均等の観点から必修化の検討が必要だとした。
 高学年は道徳などと同じ学習項目の「領域」か、総合的な学習で行い、教科としても今後検討するよう提言。低中学年は従来通り、特別活動や総合的学習などで行うよう求めた。
 現在、主に学級担任が英語活動を担当していることから、英語指導能力を高めるための研修や教員養成課程の見直し、外国語指導助手や英語に堪能な人材の確保なども課題に上がっている。アジアではタイが96年に小学1年生から英語を必修化し、韓国が97年、中国が01年に段階的に必修化を開始した。【長尾真輔】


まず立場からはっきりさせておくが、
私は小学校で行う英語教育には反対である。
主な理由を列挙すれば、

  1. 生きていく上で英語会話が必要となる人間は極めて限定的である。
  2. 英語学習の前に行っておくべきことが相当にある。そして、
  3. 週1時間程度の学習で何ができるのか。

子どもが小さければ小さいほど外国語の習得は容易である。それは事実だろう。しかしなぜそうなのか、理由については十分解明されているわけではない。
もしかしたら、日本語が入るべき脳の空間に、外国語が入っているだけなのかもしれない
のだ。

一般にバイリンガルを強制される国、一国に複数の言語が使用される国には、文学が育ちにくいと言われている。バイリンガルはプア・リンガルだという言い方もある。
それが事実だとしたら、小さなうちから外国語を習わせることは、子どもにとって必ずしも有利とはいえないだろう。

アジアではタイが96年に小学1年生から英語を必修化し、韓国が97年、中国が01年に段階的に必修化を開始した。
その結果何が起こるか、十分に他国の動静を見極めてから動いたって遅くはないのはないか。現時点においても、私のようにまったく英語に無関係に生きている人間もいれば、優秀な通訳を介してさほど不自由をせずに外国と付き合っている人もいる。本当に英語が必要なら、公教育とは別に、自分で学び直せばいいのだ。

考えてみればいい。

中高合わせて6年間の英語学習で、あなたはどれほどの英語力をつけたか。
それがあと2年延びていば外国人と会話できるほどに上達していただろうか? 
それとも苦しみが二年延びただけだったろうか?

英語を8年間学んでいれば、あなたの現在の生活はもっと豊かになっていたのだろうか?
日常的に外国人と話すような生活を送っていただろうか?


子どもたちには英語の前にやるべきことがある。