キース・アウト (キースの逸脱) 2006年6月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
2006.06.02
小中学校教師:「忙し過ぎる」先生
97%が感じる−−業務実態調査 /群馬
[毎日新聞 6月1日]
◇県教委「ゆとり持って指導できる環境を」
◇提出物処理、部活指導で残業/処理できず81%自宅業務/資料や報告書の作成・提出「最も負担」
県教育委員会が31日発表した小中学校教師の業務実態調査で、97%が仕事が「忙しい」と感じていることが分かった。調査結果を受け、県教委の野田伸総務課長は「不要な会議を減らしたり、事務作業を効率化するなどの対策をとって、ゆとりを持って子どもを指導できる環境を作りたい」と話している。教員対象の業務実態調査は全国初という。
同調査は「業務が忙しく、子どもと触れ合う時間が少ない」との声が高まっていることから、民間に委託して実施した。調査期間は2月6〜12日までの1週間。小学校教員2603人、中学校教員1757人にアンケートで回答を求め、調査員を小中学校4校に派遣し、観察調査も実施した。
調査した1週間に「残業をした」と回答したのは93%。この間の時間外勤務は小学校教師の平均が13時間15分(1日当たり2時間39分)、中学校教師が19時間36分(同3時間55分)だった。小学校ではテストの採点や児童からの提出物の処理、教材研究などが主な理由で、中学校では部活動指導、提出物処理が多かった。
時間外勤務のうち、中学校教師の約半数が課外活動に5時間以上をかけていた。「土日も部活動の指導があり、心身が休まず家庭がめちゃくちゃになる」「部活動への責任はあいまいな部分が多い一方、保護者からの期待があり心理的に大きな負担」などの記述回答があった。
また81%が自宅に資料や教材を持ち帰って業務を行ったとし、自宅業務の平均時間は小学校教師が12時間10分、中学校教師が18時間10分に上っていた。小中学校ともに提出物の処理などを自宅に持ち帰るケースが多いという。
一方、「最も負担と感じる業務」は「資料や報告書の作成・提出」が54%で最も多かった。小学校では「給食費の集金や未納の保護者への催促なども担任の仕事になっている」「集金や会計まで担当しており、午後3時までに銀行窓口に行くのも困難」など、事務作業の多さに悲鳴を上げる声もあった。【藤田祐子】
一日3時間55分の時間外勤務、18時間10分の持ち帰り業務というのは今ひとつぴんと来ない。持ち帰る業務を時間外勤務とおなじやり方で計算すると持ち帰り業務も1日平均3時間38分になってしまうからだ。時間外勤務と持ち帰りであわせて7時間半というのは、いくらなんでも平均としては高すぎる。おそらく土日の仕事も入れての数字を計算しそこなったのだろう。
それにしても正規の勤務時間が週40時間であることを考えると、それ以外に働く時間が37時間46分(時間外勤務と持ち帰り仕事の平均)というのはとんでもない数字である。いくら何でも何かの間違いだろう、と思う向きもあるかもしれない。しかし、実はそうでもない。教員の勤務状況については小中高といった校種や都道府県によってかなりの差があり出される数字もまちまちだが、この記事で提示された数字はおおむね私の生活実態にかさなるからだ。もちろんこれだけ働いても超過勤務手当てが出るわけではない。
残業をやってもやらなくても貰えるとの悪名高い教員調整手当て16000円弱があるだけである。
37時間46分の時給はおよそ99円である。
*教職調整額が4パーセントとされたのは、文部省(当時)が昭和41年度に行った調査で1週平均の時間外勤務は小学校1時間20分、中学校2時間30分、平均1時間48分としたことが根拠になっている。つまり超勤の実態に見合う額として4パーセントが割り出された。この時期、部活動がどの程度行われていたかはわからない。しかし当事であってもP TA活動への参加は超過勤務時間の中に含まれてはいなかったろう。
2006.06.04
県立飯山高:フリーターにならないために
「ドラえもん」も題材に授業 /四国
[毎日新聞 6月3日]
◇正社員と生涯賃金の差2億円−−心の支え見つけて
香川県丸亀市の県立飯山高でこのほど、「フリーター・ニートになる前に受けたい授業」があり、総合学科の1年生160人が、進路や将来について考えを深めた。
授業では船橋情報ビジネス専門学校(千葉県)の企画広報室長、鳥居徹也さんが講演。フリーターと正社員では生涯賃金の差が約2億円になることや、健康保険に加入しないで病気になると膨大な医療費がかかることなど、具体例を挙げながらフリーター生活の実態を説明した。生徒たちは「えー」と声を上げながら驚いた様子で興味深そうに聞き入っていた。
鳥居さんは「フリーターにならないためには、自分の心の支えとなる『メンター』を見つけることが大切。友人、先生のほか、アニメや映画の主人公でもいい。家族以外の精神的指導者を探して下さい」と力説。人気アニメ「ドラえもん」の映像を見せながら、主人公・のび太がメンターであるドラえもんとの別れを通して自立していく過程を解説した。
生徒から「部活をしていない人がニートになりやすいのはなぜか」「25歳以上のフリーターはどうして正社員になりにくいのか」などと質問が相次ぎ、鳥居さんが「ひきこもりの人はニートになる確立(ママ)が高い」「会社は若い可能性を求めている」などと答えていた。【矢島弓枝】
ドラえもんはどうでもいいが、
フリーターと正社員では生涯賃金の差が約2億円になることや、健康保険に加入しないで病気になると膨大な医療費がかかることなど、具体例を挙げながらフリーター生活の実態を説明した。
こういう教育はやはり行われておく必要がある。しかも、おそらく高校では遅い。
いうまでもなく2億円が何だ、金が何だ、という言い方もある。しかし2億円持っている人間にはそれを捨てる自由もある。一流高校から一流大学、一流企業に進むことに価値はないが、それだけの実力を持っていれば、どこの高校を選びどの大学へ進みどの企業を選んでもいい、そういう自由が手にはいるのだ。
わが子に「自由でのびのびと育って欲しい」と願うなら、十分な実力をつけてやらなければならない。
フリーターやニートがダメだと言うことではない。あらゆる選択肢の中からそれを選び取るなら良いが、そこに追い込まれるのはかわいそうである。
2006.06.05
補習授業:夏休み期間の10日、全小中学校で開設
−−伊勢崎市教委 /群馬
[毎日新聞 6月3日]
伊勢崎市教育委員会は2日、夏休み期間(7月21日〜8月24日)に、全市立小中学校で10日間の補習授業「伊勢崎勉強塾」を開設すると発表した。児童・生徒の出席は自由だが、市教委は各校8割程度の出席率を見込んでいる。
「ゆとり教育」による学力低下が指摘され、県教委は昨年度、土曜日に補習授業を開く「土曜スクール」の実施を各市町村教委に求めた。ただ、同市教委は「土曜日の出勤は負担が大きい」などと実施に慎重で、土曜スクールに代わる補習として、勉強塾の実施を決めた。教員にとっては出勤日の実施で負担が少ないという。
教科や実施日は各校で決め、教材は市教委独自の「伊勢崎式学習プリント」を活用する。時間は1日1〜2時間程度という。「勉強」の解釈を広げ、通常の授業以外に天体観測やスポーツ、ボランティア実習などの指導も併せて行う考えだ。同市の山口晃教育長は「自由参加だが、担任に勧誘してもらうなどして、参加者を増やしたい」と話している。【杉本修作】
授業時数を増やせば学力が伸びるというものでもないだろうが・・・
児童・生徒の出席は自由
時間は1日1〜2時間
などといった中途半端なことをせず、夏休みをなくしてしまえばいいじゃないか。
暑いというなら全館に冷房を入れればいいだけのこと。なんでそんな簡単なことに気づかないのだろう?
2006.06.06
≪解答乱麻≫生涯学習より家庭
[産経新聞 6月5日]
元東京女子大教授・林道義
いよいよ教育基本法改正についての国会審議が始まった。改正案については言いたいことが山ほどあるが、最も大切な家庭教育の扱いについて疑問がある。
現行法には家庭教育について一言も述べられていないのに対して、政府案でも民主党案でも、家庭教育および幼児期の教育の重要性について明確に述べられている点は一歩前進と言える。
ただし、単に入っているというだけでは、決して十分とは言えない。むしろ重要なのは、どの程度重んじているかという点である。最後の方に付け足しのように入れられたのでは、大切ではないという受け取られ方をされかねないし、そうなってはマイナスの効果を持つこともありうるのである。
実際にどういう扱いをされているかを見てみると、政府案と民主党案では、大きく異なる扱いになっている。
政府案では「第1条 教育の目的」「第2条 教育の目標」「第3条 生涯学習」「第4条 教育の機会均等」が総論に当たる部分である。次いで第5条以下、「義務教育」「学校教育」等と続き、ようやく第10条が「家庭教育」、第11条が「幼児期の教育」となっている。
なぜ「家庭教育」が「義務教育」「学校教育」よりずっと後に出てくるのか、私にはどうしても納得がいかない。
今さら改めて言うまでもないが、家庭教育はすべての教育の基礎である。学校教育も生涯教育も社会教育も、家庭教育において基礎的な人格が形成されていなければ、成り立たないのである。
このことが正しく認識されているならば、「家庭教育」の項目は総論の次、各論の最初に置くのが正当な扱いである。あるいは総論の中に入れてもよいくらいである。
ちなみに民主党案では、前文の冒頭に「心身ともに健やかな人間の育成は、教育の原点である家庭と…によって達成される」と書かれている。家庭教育の重要性を認識した書き出しである。
もっとも、それにしては各論の中では、「第4条 学校教育」「第5条 教員」の次に「第6条 幼児期の教育」が置かれ、第10条として「家庭教育」が置かれているのは、不可解な扱いと言うべきである。前文の正しい認識と首尾一貫するなら、家庭教育がこんなに後ろの方にくるはずがないのだが。
政府案はもっと悪い。「家庭教育」が置かれるべき位置に「生涯学習」が置かれている。確かに、学習は一生続くのが望ましい。しかし学習というものは一生同じ質で行われるものではない。
幼児期の躾(しつけ)や教育が正しくなされていれば、その後の教育もまたうまくいくのである。学校を出てからも一生涯学習し続けるかどうかは各人の自覚と必要性によって決まるのであり、他人や国家が押しつけるべきものではない。
「家庭教育」の大切さはますます認識されるようになっているが、その国民的な認識は改正案に反映していないと言わざるをえない。政府案の第3条は「生涯教育」ではなく、「家庭教育」とすべきである。
◇
【プロフィル】林道義
はやし・みちよし 専攻は深層心理学。著書に『母性の復権』『父性の復権』『家族の復権』の3部作のほか、『フェミニズムの害毒』『家族を蔑む人々』など多数。
論旨は非常に明快である。
家庭教育はすべての教育の基礎である。学校教育も生涯教育も社会教育も、家庭教育において基礎的な人格が形成されていなければ、成り立たないのである。
というのもその通りで、学校教育も社会教育も無法者に十分な能力をつけるような力を持っていない。ある程度、基本的な人格が形成されていないとそれはムリである。
しかしだからといって、教育基本法の第三条、つまり内容の第一に家庭教育を移したところで何ほどの意味があるというのか?
一般に、家の中での出来事は私的領域のことであり、外部から介入すべきではないと みなされている。法律もそうした考え方の範疇にあり、したがって現行教育基本法でも「家庭教育」に踏み込んだ部分はない。
改正案にしても内容を見てみれば、法律が家庭に入り込むことへにどれほどのの躊躇いを持っているかが分かる。
(家庭教育)
第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。《政府案》
(家庭における教育)
第十条 家庭における教育は、教育の原点であり、子どもの基本的な生活習慣、倫理観、自制心、自尊心等の資質の形成に積極的な役割を果たすことを期待される。保護者は、子どもの最善の利益のため、その能力及び資力の範囲内で、その養育及び発達についての第一義的な責任を有する。
2 国及び地方公共団体は、保護者に対して、適切な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、健やかな家庭環境を享受できないすべての子どもに対して、適当な養護、保護及び援助を行わなければならない。《民主党案》
この程度のものだ。
政府案について言えば(家庭教育)の第一項と第二項を見比べるだけでいい。
父母その他の保護者は・・・・・・図るよう努めるものとする。
国及び地方公共団体は・・・・・・講ずるよう努めなければならない。
(他の条文も政府・地方公共団体・学校などについてはほとんどが「ねばならない」である)
民主党案では(教員)第五条と見比べてみよう。
(教員)
第五条 法律に定める学校は、公の性質を有するものであり、その教員は、全体の奉仕者であって、自己の崇高な使命を自覚し、その職責の十全な遂行に努めなければならない。
(家庭における教育)
第十条 家庭における教育は、教育の原点であり、子どもの基本的な生活習慣、倫理観、自制心、自尊心等の資質の形成に積極的な役割を果たすことを期待される。
法律とはそんなものだという話ではない。法律はそのようにあるべきものなのだ。
家庭よしっかりせよ! と叫ぶ点では私も人後に落ちない。しかし教育基本法改正案の、しかも条文の前後で語られるべきものでもないだろう。
2006.06.08
揺れる「動物教育」
◆生き物に親しみ持てる・感染症など不安
[読売新聞 6月8日]
情操教育の主役か、危険な感染症の媒体か――。学校で飼う動物の扱いをめぐり、教育現場が揺れている。学習指導要領でも必要性を強調している「動物教育」だが、その効果を上げるには課題が多い。
昨年、千葉県内の女児が、家庭で飼っていたミドリガメ(ミシシッピアカミミガメ)によると見られるサルモネラ菌で髄膜炎を起こした。いち早く反応したのは厚生労働省。爬虫(はちゅう)類を衛生的に取り扱うよう都道府県などに通達を出した。これを受け、文部科学省が今年2月、小学校などで爬虫類の飼育を「控えるべきである」と全国の教育委員会に通達。その直後には環境省が、ミドリガメが捨てられて在来種の生態系を壊すと懸念し、「遺棄の防止」を求める通達を出した。
3省の通達の谷間で対応に苦慮したのは、ミドリガメを飼う学校だ。「処分しなくてはいけないか」という問い合わせが文科省に相次ぎ、同省は先月18日、都道府県教委の連絡会議で、動物由来の感染症は手洗いの励行などで防げるとしたうえで、〈1〉処分は求めていない〈2〉獣医師と相談して清潔な飼育環境を整えるか、保護者らに引き取ってもらう――と指示した。
動物由来の感染症問題で教育現場が混乱したのは、今回だけではない。
鳥インフルエンザが起きた一昨年にも、専門家が「人に感染するおそれはない」としたにもかかわらず、ニワトリ飼育を中止する学校が続出した。
動物教育に詳しい国立教育政策研究所の鳩貝太郎総括研究官は「教師に科学的知識や飼育の体験がなく、トラブルに対する恐怖心もあって、パニックを起こしがちだ」と分析する。
日本では古くから学校で動物が飼われていたが、一気に広がったのは、1992年の生活科導入がきっかけだ。学習指導要領は、動物飼育を通じ「生き物への親しみを持ち、大切にすることができるようにする」ことを、小学校1、2年生の目標に掲げた。鳩貝さんが2003年に全国の小学校約900校を対象に行った調査によると、動物を飼う学校は9割を占めていた。
しかし、飼育環境を整備するために予算を確保している自治体は少ない。飼育を担当する教師は相談する相手もなく、“孤軍奮闘”を余儀なくされており、こうした現状が感染症などの危険が報告されるたびに起きる混乱の要因になっているという。
鳩貝さんら研究者は4日、教育関係者を集めて都内でシンポジウムを開いた。長年学校の動物にかかわる獣医師の中川美穂子さんは「学校と獣医師の協力態勢を行政が整えることで、教師の知識、体験不足を補える。親も飼育に参加すれば、教師の負担も軽くなる」と関係者の連携を訴えた。
情操教育の主役を支える態勢の充実が急務だ。(松本美奈)
「教師に科学的知識や飼育の体験がなく、トラブルに対する恐怖心もあって、パニックを起こしがちだ」
そんな言われ方をしたら教師も傷つく。勢い「だったら(動物飼育を)やめてやろうじゃねぇか!」という話になりかねない。
私たちが動物飼育及び腰なのは無知でパニックを起こすからではない。科学的知識や飼育の体験のないことが問題なら、私たちはいくらでも勉強した。教員とはもともとそういうこと(勉強)が大好きな人々なのだ。
私たちが及び腰になる理由はただひとつ、ミドリガメや鳥類に問題があることを承知で飼いながら、万が一にも病気が発生したら、マスメディアにどれだけ叩かれるか十二分に承知しているからである。
動物飼育がどれほど子どもたちの人間性を高めるか、私たちは経験的に知っている。しかしそうした効果を犠牲にしても、マスメディアの非難を回避することには意味がある、私たちはそう感じている。秋田小1段時殺害事件を見るまでもなく、日常の生活がズタズタにされることは火を見るよりも明らかだ。
教育はもはや教育学の範疇にはない。子どもが育つかどうかでもない。如何にマスメディア(そしてそれが醸成する世論)に非難されないように立ち回るか、それがテーマだ。
2006.06.09
校務IT化 生徒のため
IT(情報技術)が学校経営を変える。
[読売新聞 6月8日]
まず自分のパソコンを起動し、職員室用の校務支援ソフトを開いて、連絡事項やその日の予定、出張者などを確認する。それが愛知県小牧市の市立光ヶ丘中学校の教職員が出勤して最初にすることだ。
生徒の欠席の連絡を電話で受けた場合は、受けた人がこのソフトで登録する。この出欠記録は、出席簿や、調査書などの原簿となる個々人の指導要録にも反映される。生徒の評価も、いったん打ち込めば、通知表や指導要録にも入力される。
事務連絡や転記作業――学校の教職員が多忙になる原因を解消するための校務支援ソフトは、玉置(たまおき)崇校長(49)が、前任の市立小牧中教頭時代、教育ソフト会社と共同で作り上げた。光ヶ丘中に着任した2004年の秋には、このソフトが市内の全小中学校25校に導入されている。
「ITを使って無駄な時間が省ければ、生徒を育てるための時間に使える。本来の仕事ができるのです」と玉置校長。
◎
もともとの専門は数学だ。教師個人で使うのが極めて珍しかった1984年、教師になって5年目に、自費でパソコンを購入した。「数学の教師なら使えないとな」という意識からだったが、手作業で数時間かかっていた160人分の成績処理を30分で終えることができて、その効果に目を見張った。
授業でも使い始めたが、「同僚からは、別の世界のことのように見られていました」。それでも次々と手作りの教材を開発し、授業で使ううち、パソコンを使った授業では国内で最高水準と評価されるようになった。41歳の若さで教頭に昇任したのも、こうした評価と無縁ではない。
◎
教頭になって実現させたのが、生徒の「いいとこ見つけ」だ。校務支援ソフトに「教師本来の仕事」の一つとして取り込んだ。
「トイレ清掃で、すみずみまで丁寧に掃除していました」「いつも、きちんとあいさつができて、先生もすがすがしい気持ちになります」などと、生徒の良い点に気づいた教職員が、生徒ごとのデータベースに書き込む。
この書き込みを一覧表にして、通知表の一部として生徒に渡す。保護者から「みなさんで我が子を見てもらっていることがわかった」というメールが届くなど、評判がいい。「学校には隠れた情報がたくさんある。それをどう見えるようにし、どう伝えるか」。そう考えているからこそのアイデアだ。
今春からは、このソフトの最初のページの一番上に、学年ごとのその日の入力数と、その学期の総数が表示されるように改良してもらった。常に意識してもらい、入力忘れも防ぐためだ。狙い通り、「いいとこ」は例年の5倍のペースで書き込まれている。
若手教員には毎日、校長あてのメール送信を義務付け、必ず返信。教頭、学年主任らとはメーリングリストで校長の考えや連絡事項を伝える。学校のホームページも毎日更新する仕組みを作った。
ただ、なんでもIT化すればいいわけではない。「無駄な時間が省け、継続でき、教育の質が向上することでなければ使わない。ITは手段であって、目的ではない」と力を込める。
講演依頼が全国から舞い込むが、喜んで引き受ける。「どんどんマネしてもらって、全国の子供たちが元気になればいい」と考えているからだ。(松本英一郎)
「ITを使って無駄な時間が省ければ、生徒を育てるための時間に使える。本来の仕事ができるのです」
しかしこの記事を読んで、「あれ?なんか仕事増えてないか?」と思ったのは私一人ではないだろう。
生徒の欠席の連絡を電話で受けた場合は、受けた人がこのソフトで登録する。
メモ用紙にチャチャと書けばいいものをわざわざコンピュータに打ち込むのは煩わしいことだ。私だったらできるだけ職員室にいないようにする。
「トイレ清掃で、すみずみまで丁寧に掃除していました」「いつも、きちんとあいさつができて、先生もすがすがしい気持ちになります」
これ書くのも、いかにも面倒だ。
案の定書き込みは少なかったようで、結局、
今春からは、このソフトの最初のページの一番上に、学年ごとのその日の入力数と、その学期の総数が表示されるように改良してもらった。常に意識してもらい、入力忘れも防ぐためだ。
何のことはない、カウントをとることで書き込みを強制しなければならない。だから
狙い通り、「いいとこ」は例年の5倍のペースで書き込まれている
ことになる。
しかしそもそも、生徒のよいところなんて言葉で伝えるべきものではないか?
言葉を交わす中で、もっと豊かな情報交換が広がってくるはず。
若手教員には毎日、校長あてのメール送信を義務付け、必ず返信。教頭、学年主任らとはメーリングリストで校長の考えや連絡事項を伝える。
この学校の教職員のコミュニケーションはどうなっているのだろう? 少なくとも校長と一般職はできるだけ言葉を交わさないようにしているみたいに見える。
以上、学校のIT化にまったく乗って行けない年寄り教師の思いである。
2006.06.12
公立校の教員給与、見直し
時間外の導入、能力型も検討
[朝日新聞 6月11日]
文部科学省は、公立学校の教員給与制度を、全面的に見直す方針を固めた。時間外手当の導入や、年功主義をやめて能力・業績を本格的に給与に反映させることなどを検討する。政府の歳出削減に対応すると同時に、教員評価制度と組み合わせメリハリのある処遇で教員の意欲を引き出すのがねらい。まずは今月末から勤務実態把握のため小中学校の教員約6万人を対象にした調査を開始。省内での作業後、財務省などと折衝し、年度内に結論を出す。
見直しの対象は、公立の幼稚園や小、中、高、養護学校などの教員約100万人。
政府の歳出改革に伴い昨年末、教員給与のあり方を検討することが閣議決定された。5月に成立した行革推進法でも、教員給与の見直しについて、08年4月をめどに制度改正することが規定されている。
教員の給与は、74年に施行された人材確保法で一般の公務員より優遇するよう定められている。現状では、「時間外手当」に相当する「教職調整額」(基本給の4%)が、基本給の一部として、校長、教頭を除く全員に毎月支給されている。これを反映して、一般の公務員より、期末手当や退職金、年金などが上積みされている。
単純比較は難しいものの、文科省は年齢や学歴が同一条件なら、一般の地方公務員(行政職)との差は月額で「2%程度」とみている。
文科省は、教員それぞれで異なる残業時間を考えずに一律支給を続ければ、一般公務員との比較で公平性を欠くと判断。教職調整額を廃止して、時間外手当に切り替える方向で検討している。各教員の超過勤務時間を確定する方法として、タイムカードの導入などを想定している。
教員の能力・業績も本格的に評価し、新たな職制の創設や、基本的に4級制となっている給与区分を細分化することなどで、早期昇給の処遇をする仕組みも検討している。
文科省によると、教職調整額の総額は年間約1800億円。時間外手当を導入した場合、広島県の調査をもとに同省が試算すると、合計約3290億円増え、高校や養護学校なども含めると、さらに膨らむ。実際どの程度になるのか、文科省は今月から実施する勤務実態調査で把握する。
今後、歳出額をどの程度削減するのかなどをめぐり、財務省などと厳しい折衝が必要になりそうだ。
この記事の、最後の数行を理解できる人がどれだけいるだろうか?
教職調整額の総額は年間約1800億円。時間外手当を導入した場合、広島県の調査をもとに同省が試算すると、合計約3290億円増え、高校や養護学校なども含めると、さらに膨らむ。
膨らむんだよな。
今後、歳出額をどの程度削減するのかなどをめぐり、財務省などと厳しい折衝が必要になりそうだ。
減るのかァ?
そもそも現代の教員たちが調整手当てを4%と決めた40年前同様、今も1日1時間50分程度の残業で日々を送っていると考えたって歳出は減らないのだ。それが(今月の最初の記事でも分かるように)現代では小学校ですら一日2時間39分、中学校に至っては4時間近い時間外勤務を行っているのである。
これに時間外勤務手当てをつけようというのだから、当然歳出は増える。
教職調整手当ての基準となった1時間48分が本給の4%に相当するなら小学校の時間外労働2時間39分は9.4%にあたる。中学校の3時間55分は実に13.9%にもなってしまう。残業のない夏休みなどを計算に入れても、歳出の増加は膨大になってあたりまえだ。
1800億円から3290億円増える、総額で5000億円を90億円も越えて、高校・養護学校にまで含めるとさらに増えるという。しかしそれだけではすまない。
調整手当てがなくなって残業手当が付くとなると、それまで残業をしなかった人々も一斉に残業を始める。
家に小さな子どもがいたり介護すべき親いたりといった教員たち。どうせ大量の持ち帰り仕事をしてきたのだ、みすみす金になることを知りながら、学校ですべき仕事を持ち帰ることもない。家で仕事をすればこそ、コンピュータや通知票を持ち歩いて時にはデータを盗まれるといった危険も冒してきた。金になる上にデータ流失の恐怖からも逃れられるとなれば、こんないい話はない。子どもや親のことは金さえあれば何とかなる。
そして国や地方公共団体の歳出はさらに膨らんでいく・・・・・。
しかしそんなことがあるはずはない、と私は思っている。これだけ歳出削減をうるさく言っている時代に、教員の収入が徒に増えていくのを黙視するはずはないのだ。
だが、そうだとすると、いったいどうするつもりだろう?
もうひとつ分からないことがある。
年功主義をやめて能力・業績を本格的に給与に反映させる
ということ。教員の能力・業績をどう計るのか?
今はその基本線すら、提示されていない。
2006.06.13
県民の目線を意識して
[岩手日報 6月12日]
教職員を対象に、勤務成績を実際の処遇に反映させようという県教委の方針が、大きな論議を呼んでいる。
この新昇給制度をめぐり、教職員組合が実施した職場投票では、96%までが反対。県教委は当初予定した6月の評価作業着手にこだわらず、教組側と協議を続ける意向を示した。
県議会の議決を経て、新制度実施は「決定済み」との立場を取る県教委にとっては、勇断と言っていいだろう。
2001年に閣議決定された公務員制度改革大綱は、給与決定の前提に「能力と業績に基づく評価」を打ち出した。その考え方において、教職も決して例外とはなり得ない。
現在も、勤務評定は行われているが、ここにきて中教審も、個々の能力を適正に評価して、配置や処遇に反映させる必要性を指摘しているのは、現行の制度が有効に機能していないとの認識が背景にあるだろう。
問題は、教育という職域の特性に照らして、教師個人のどんな能力を、誰が、どのように評価するか。その肝心なところを欠いたまま、6月実施だけが示されるのでは、現場もおいそれと従うわけにはいくまい。
教育とは離れた理屈
かつて教員給与は低く、動機も希薄なままに教師を選ぶ向きを「でもしか先生」(先生にでもなるしかない)などとやゆした時代もある。
優秀な人材を募るべく、1974年に人材確保法が成立。一般職を上回る本俸が保障された上、原則認められない残業代に代わる「教職調整額」が本俸扱いされるようになった。
ところが情勢は一変。昨秋、国の財政制度等審議会が、教員給与の引き下げを求めたのを機に、政府内で優遇措置の見直しが議論され始めたのだ。
文科省は基本的に制度堅持の建前だが、一方では「一律に優遇している」との批判の声に配慮して「メリハリのある給与制度を構築」する方向で検討に入っている。
こうした動きを受けて、県教委は2004年に「教職員の人材育成に関する検討委員会」を設置。昨春まとまった報告は、評価する側と教員との信頼関係を土台として「資質能力に優れる者に相応の処遇を行う」制度の導入を提言している。
惜しむらくは以後、この面で具体的な議論がないまま無為に時が過ぎたことだ。内輪からさえ「唐突」との声が漏れ聞こえる現状で「議会で決定済み」などと、およそ教育とは懸け離れた理屈で制度を正当化しようとした点には猛省が必要だ。
現行制度には課題も
現行の勤務評定の課題について、検討委は▽評価基準が不明確▽被評価者に指導・助言する仕組みが不十分−などと指摘。県教委も「現実的には評価することなく、順番に特別昇給させてきた」と、運営側としての至らなさを露呈するのと引き換えに、改善の必要性を訴える。
教職員の昇給制度改革が、元をたどれば財政論に端を発している点には、あたかも教育が後追いしているような危機感を禁じ得ない。
とはいえ、教育に対する強い期待と表裏一体で、改革への社会的欲求が依然高い現状では、数々の問題が顕在化する現行の評価の仕組みをそのままにすることは決して好ましくない。
新制度の不幸は、県教委が県議会の議決を盾に、当事者としての立場を放棄するかのような態度に出たことだ。教育分野の改革で、評価の手法を筆頭に教育的見地からの理論武装を欠いたのが、教師集団の強い反発を招く要因ではないか。
現場教師の大半が反対という事態は、これが教育不信となって教育行政、さらには学校現場にも跳ね返りかねない点で深刻だ。目的は学校教育の充実。結論を長引かせるのは双方にとって得策ではない。県民の目を意識して、前向きな議論を望む。
遠藤泉
やはり
問題は、教育という職域の特性に照らして、教師個人のどんな能力を、誰が、どのように評価するか。その肝心なところを欠いたまま、6月実施だけが示されるのでは、現場もおいそれと従うわけにはいくまい。
につきる。
教育というのはきわめて職人的な世界であって、そこで問われるのは熟練と才能である。
普通の人ならまじめに一生懸命やっていればいつか一人前の教員になれる(熟練)。しかし(数は少ないが)決定的に才能の欠けた人は、時に何年やってもうまくいかない。気の毒だがそういうこともある。
天才的な教員はたいした努力もなしに落ち着いた活気のあるクラスをつくることがある。
ある種のカリスマ性が、生徒を従わせる。
どんなに怒鳴ってもさっぱり怖くない先生がいる。反対に、一瞥するだけで子どもを凍りつかせる恐ろしい人もいる。
たったひとつの誉め言葉が生徒を天に昇らせる場合もあれば、どんな言葉もくだらないオベンチャラにしかならない人もいる。
こうした人格の差を、評価にどう織り込んで行くのか?
教育はまた、教師と生徒・保護者との関数である。
時に、普通レベルの教員では絶対にコントロールできない生徒がいる。そしてその生徒が優れた組織力を持っていると、学級は乗っ取られる。
小学校のとき不登校だった生徒が中学校入学後も引き続き不登校だったとして、これは中学校の担任の責任だろうか? 逆に、入学以来順調に登校を続けたとして、それはその担任の功績だろうか?
生徒自体が変数であるため教員の技能を計ることは難しい。
また時に、一人の保護者との不和が担任を追い込むことがある。他の全員が支持しても、たった一人が強烈に非難すれば、彼は学級担任をやっていられない。教員の評価は多数決ではない。
こうした働きかける対象(児童・生徒、保護者)の差を、評価にどう織り込んでいくか?
出勤しない、教室へ行かない、誰が聞いても分からない授業しかできない、体罰を繰り返す、セクシャル・ハラスメントを行う、・・・そうした分かりやすい例ならよいが、その他の普通の教員をどう判断していけばよいのか。
それが可能かどうかの検討もなく、とにかくやることだけは決まっていく。
2006.06.14
97校112学級が「崩壊」
埼玉県公立小で過去最多
[朝日新聞 6月13日]
埼玉県内の公立小学校で昨年度、「学級崩壊」となったクラスは97校112学級で、過去最多だった前年度より、さらに1校2学級増えた。県教育局が6月8日発表した。同局は、ベテラン教師の指導法が時代にそぐわなくなっていることや、新人教師の指導力不足、子どもたちの側にも乱暴な言動や集中力のなさが見られることなど、様々な要因が絡み合っていると分析している。
調査は99年から行われている。今年3月末、全小学校823校、1万2936学級を調べた。
県教育局生徒指導室によると、児童が勝手な行動をし、授業が成立しない状態が2、3週間以上続いた場合を「学級崩壊」と定義。崩壊状態の継続が、3カ月未満なのは2学級、3〜6カ月は60学級、7〜9カ月は30学級、10カ月以上は20学級あった。
崩壊の例として最も多いのは、特定の児童が授業中に私語、立ち歩き、けんか、物を壊すなどし、先生の注意で収まらず、授業が進まなくなるもの。同室は「早期に対処しないと慢性化する」としている。
担任教師の経験年数でみると、1〜5年の若手が32人と最も多く、一方、キャリア26〜30年が25人、31年以上が26人とベテランも目立った。
同室は「子どもの精神面の変化に、教師の指導も追いついていない」と分析。ベテラン担任の厳格すぎる指導や、新人担任が特定の児童に手を焼くことが、逆に他の児童から「ひいき」ととられるなどし、反発を招くことがあるという。
一方、学級崩壊の回復に向けた取り組みも進められている。111校で校長や教頭がクラスを巡回、107校で、学内の他の教師など複数の教員で授業をする「チームティーチング」を実施。同局が委嘱した、崩壊防止のための非常勤講師も昨年度、約70校に期間限定で派遣されている。
保護者の姿勢について、58学級が「協力的」、51学級が「普通」、3学級が「非協力的」と回答した。
1万2936学級中112学級、割合にして0.0087。なんだ1%にも満たないじゃないかと言ってはいけない。この0.0087は、クラスに1%弱の狂いが来るということではない。学級崩壊したクラスで、児童はまったく学習していないのだ。それが「ウチの子のクラスだったら!」そう考えただけで保護者は震え上がる。これは統計学の効かない世界なのだ。
さて、この記事の中でもっとも興味のひかれる部分は、
担任教師の経験年数でみると、1〜5年の若手が32人と最も多く、一方、キャリア26〜30年が25人、31年以上が26人とベテランも目立った。
である。
となると、他の経験年数層はどうなっているのが気になる。そこで埼玉県教委のサイトに行って、元になるデータにあたってみた。
すると答えは、こうだ。
1〜5年 6〜10年 11〜15年 16〜20年 21〜25年 26〜30年 31年〜 平成17年度 32人 5人 4人 7人 13人 25人 26人 平成16年度 22人 6人 4人 4人 26人 27人 21人 平成15年度 18人 3人 3人 0人 19人 32人 11人 平成14年度 9人 4人 4人 2人 19人 20人 8人 平成13年度 10人 5人 7人 3人 17人 20人 8人 平成12年度 4人 5人 5人 8人 14人 13人 2人
これをグラフにしてみると次のようになる。
一目瞭然。
この6年間、経験年数「1〜5年」「31年〜」、つまり統計の両端、別の言い方をすれば初任者と超ベテランの層で学級崩壊が飛びぬけて増加しているのだ。6〜20年の層は終始安定しており、かつて主役だった21〜30年の層がやや下がり始めている。全体は、増え続けている。
これはどうしたことだろう? 教員という職人芸の世界では、普通に努力しているだけで技能は着実に伸びてくる。だから初任者が苦労するのは分かるが、超ベテランのクラスが崩壊しやすいとは!
朝日新聞社氏は言う。
ベテラン担任の厳格すぎる指導(中略)が、反発を招くことがあるという。
そうではないだろう。ベテランは必ずしも厳格ではないし、厳格な指導が子どもの暴走を生み出すとも思わない。
仮説はいくらでもできる。
経験年数31年以上の世代は高度成長期最後の採用者だから、そもそもレベルが低いのだ、
といった言い方もできる。
いや、そうではない。超ベテランだからこそ、最初から難しいクラスを任せられている。
それもひとつの答えだろう。
しかし私はもっと単純な原因を考えている。それは
経験年数31年以上の世代は、そもそも人数が多いのではないのか
という可能性である。
そう思ってさまざまな記事を探していたらこういうのがあった。
03年度の小学校教員を年齢別に見ると、20代から30代前半まではそれぞれ200人前後なのに対し、40代後半から50代前半で800人を超え、49歳は1千人を超えている。ベビーブームで採用数が多かったためだ。[朝日新聞 2004.05.15]
ホラ見なさい。人数が5倍なら崩壊学級が5倍あっても不思議はない。
ちなみに経験年数「1〜5年」の教員もかなり人数が多い。
つまり経験が不足しているから学級崩壊をきたしやすいという私の仮説も、正確ではないのだ。
ベテラン担任の厳格すぎる指導や、新人担任が特定の児童に手を焼くことが、逆に他の児童から「ひいき」ととられるなどし、反発を招くことがあるという。
の言葉がむなしい。
私のような素人でも調べられることを、天下の朝日新聞は何をしているのだろう?
文部科学省は、教員の資質向上を目的に導入する「教員免許更新制」を約109万人の現職教員にも適用する方針を固め、中央教育審議会教員養成部会ワーキンググループに報告した。02年の中教審答申では「慎重な検討が必要」と見送られた更新制。現職適用で、教育現場に大きな影響を与えそうだ。【構成・高山純二】
2006.06.19
闘論:教員免許の更新制
[毎日新聞 6月19日]
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◇意欲そぐ排除の発想 鋳型にはめる恐れも−−早大教授・喜多明人氏
反対の理由は主に四つある。更新制は、不適格な教員の排除というマイナス思考の発想だ。教師の多くは勤勉、実直で世界に負けない力を示してきた。不適格教員か、多くの勤勉な教師か。どちらに光を当てるのか、時代の問題認識が問われている。
頑張っている大多数の教員に光を当て、励ましていくことが大切だと思う。更新制は「あなたの教育はもう通用しない」というレッテルを張ることにつながり、決して励ましにはならない。逆に夢や情熱を失い、やる気を失わせることになる。今後の人材確保にもマイナスに作用するはずだ。問題教師には分限制度などで対応できる。
2点目は「いまなぜ必要なのか」という点だ。時代の要請で新しい資質が求められるのはいつの時代も同じだ。90年代後半、教育職員養成審議会が答申したように、教員養成制度の充実と研修制度の強化をすれば、教員の資質向上は図れる。さらに、免許取得の基準をレベルアップする方がはるかに信頼性は高まる。医者や弁護士など専門職は、経験を積めば積むほど力量が高まる。あえて更新制を導入する理由がない。
導入した場合、「誰が適否の判断や研修をするのか」が3点目だ。学校は、誰にも負けない得意分野を持つ個性的な教員たちで構成されていることが大切。いろんな教員がいるから、多様な子どもたちや保護者に対応できる。例えば、テレビドラマの「金八先生」のような子どもや保護者とも渡り合える熟練教諭を誰が評価し、どう指導するのか。約30年間、大学で教職課程に携わってきた私も、熟練教諭の評価・指導には二の足を踏んでしまう。
4点目は、画一的な教員が増える恐れがあることだ。教員は自由な雰囲気の中で最大限の力が発揮できる。その雰囲気、環境を作り出すのが教育行政の役割だ。合格しなければ更新できない制度は教師を鋳型にはめる可能性がある。
そもそも教員は現場で育っていくものだ。子ども、保護者、教員、住民の4者が一つの共同体の中でもまれて高めあっていくべきだ。更新制の具体的なイメージがつかめないが、子どもらと向き合うことのない講習よりも、校内研修を充実させる方が教師の資質向上に有効だ。
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◇「刷新」で自信回復を 価値観広げる契機に−−都教職員研修センター教授・甲田充彦氏
02年の答申は不適格教員の排除の論理が強かったので、制度化が見送られた。今回は同じ更新制でも「排除」ではなく、「刷新(リニューアル)」が中心の概念。信頼される教育を担っていくためには、更新制による刷新が必要だ。
社会の変化に伴い、子どもや保護者、そして教育そのものが変化している。一方で、一部教員による不適切な行為で教員全体がバッシングに遭い、自信を失っている状況もある。刷新し、変化に対応することが公教育を担う自信と誇りを取り戻すことにつながる。
多くの教員は誠実で現代的な課題を的確にとらえて対応している。しかし、そうではない教員がいることも事実だ。授業研究もせず、生徒理解も進まない。学習指導要領さえもとん着しない教員がいる。指導力不足と認定された教員は00年度の65人から04年度の566人に増加している。潜在的な課題のある教員は、この10倍はいるのではないか。
多くの教員は「一部教員のためになぜ?」「命を預かる医師でも更新制はない」と思うだろうが、教員の公共性や子どもへの強い影響力をかんがみ、多少の負担増は仕方がないと考えてほしい。医師やほかの公職と比べても意味がない。
何よりも子どもの能力を個性に応じて伸ばしていくことに寄与するはずだ。「教員の養成は現場でやるものだ。更新講習では無理」と批判もあるだろう。学校の魅力は、基本の上に多様な価値・指導力を発揮してくれる先生がいることだ。同じような先生ばかりではつまらない。更新制での講習が、教員それぞれの弱点を知る機会となり、多様な価値観を持つ一つのきっかけになってくれればと期待している。
更新性の狙いが排除ではなく刷新である以上、客観性を確保することが重要。校長らの恣意(しい)的な業績評価や意見具申で更新できないことがあったら問題だ。また、不適格者には、既存の分限制度などを適用すればいい。もっとも、講習さえもないがしろにする人は結果として教壇に立てないだろう。
民間人校長・教員が登用できるなど教育も規制緩和が進められている。教育の活性化と信頼性を高めるため、規制緩和の動きとも両立できる制度だと思う。
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■人物略歴
◇きた・あきと
早大教育学部卒。立正大専任講師などを経て現職。文学博士。専攻は教育学。56歳。
■人物略歴
◇こうだ・みつひこ
東京教育大卒。都教育庁体育健康指導課長、都立竹早高校長などを経て現職。60歳。
最近の教育制度への提案はどれも具体的なイメージがわかず、捉えがたい。
時間外労働時間が増えているにもかかわらず、調整手当てをやめて残業手当に変えることで歳出を減らすという不思議。
自己申告の目標とその達成度で計る教員評価を、給与に連動するという不思議・・・。
民間人校長の成果も検証されていない段階で、教頭にまで民間人を入れるという不思議。
(教育のド素人に授業改善や生徒指導へのアドバイスを受けなければならない一般教員の屈辱。一度も授業をしたこともなく非行少年と渡り合ったこともないのに、有効な職員指導をしなければならない民間人教頭の恐怖)。
現在私たちが持っている教育のシステムは
世界でもっとも勉強せず、
(国際数学・理科教育動向調査の2003年調査=TIMSS2003 参加46か国中最低の1時間)
世界でもっともテレビを見る
(同1位の2.7時間)
日本の中学校2年生に、
世界第5位(数学)第6位(理科)の学力をつけることのできるとんでもなくすばらしいシステムなのだ。
これより上位の国々は、シンガポール・台湾・韓国など、名うての受験中心主義国ばかり。学力は学校外の学習塾でつけられている。
おまけにこのシステム、世界最高水準に安上がりである
(文部科学省「教育指標の国際比較」17年度版 GNP費で調査した35か国中最低)。
こうした成果の一翼は、確実に日本の優秀な教員の献身的な努力が担っている。
教員免許の更新制度がどんなものになるか分からないが、喜多明人教授の言うように教員の
夢や情熱を失い、やる気を失わせること
にならないことを切に願う。
軽度発達障害の児童生徒に、適切な指導を行う「特別支援教育」が来年度から全国の小中学校に適用されるのを前に、校内や学校と家庭、専門家との連絡調整役となる特別支援教育コーディネーターの養成研修が各地で開かれている。
2006.06.22
「軽度発達障害」早期対応へ
[毎日新聞 6月22日]
来年度中に、全国すべての小中学校へのコーディネーター配置を目指しているが、依然として課題も少なくない。
特別支援教育は「学校教育法」が改正されるのに伴い、来年度から本格的に実施される。LD(学習障害)やADHD(注意欠陥・多動性障害)、高機能自閉症などの軽度発達障害児も対象となる。
こうした児童生徒の指導を充実させるため、今月6日に行われた東京都教委のコーディネーター養成研修の2回目の講座では、「保護者への啓発を進めながら連携をしていくことが大切だ」「コーディネーターにお任せ状態になってはいけない」などの声が上がった。
区市町村教委から推薦を受けた約50人の教員が、「校内支援体制の構築」をテーマに九つの班に分かれて協議を行った。教員たちは、10月まで計10回の研修を受けた後、それぞれの市町村で行われる伝達研修で講師役を務める。
特別支援教育では、従来の「特殊教育」では対象外だった通常学級に在籍する軽度発達障害の子供も含めて、それぞれ状況に応じた個別指導計画を作成し、教育をしていくことになる。
しかし、「担任が軽度発達障害の子に気づいても、そのことを保護者に納得させることができずに、一人で悩みを抱え込んでしまう教員が多い」と、都教育庁義務教育心身障害教育指導課の田島忍・指導主事は、教育現場での不安を代弁する。
田島さんは養護学校の教員だった05年度にコーディネーターとなり、通常学校の校内研修に講師役として参加した。軽度発達障害の子に対する教育は、早期発見・対応が重要だが、わが子が特別な扱いを受けることに抵抗を持つ保護者が壁となり、専門家の意見を聞けずにいると言う声を耳にしてきた。
こうした子供を、学校全体でサポートするため、特別支援教育では校内委員会を設置し、個別指導計画を作成して教育することを掲げている。文科省特別支援教育課の調査によると、05年の特別支援教育コーディネーターの配置率は公立小中学校で77・9%、校内委員会の設置率は87・8%に上っている。しかし、個別指導計画の作成率は28・9%にとどまっており、現場での教育体制がまだ整っていないことが浮き彫りとなった。
小貫悟・明星大学助教授(臨床心理学)は、「特別支援教育には、保護者の理解・協力が不可欠。個別指導計画を通して、保護者と話し合いをしていくことが重要」と指摘している。(保井隆之)
学校の組織を考えるとき、従業員20人〜30人程度の零細企業を思い浮かべるといいいのかもしれない。外見上も、確かにそれっぽい。
人数が人数だから警備上の問題が生まれても、あらたに警備員を雇うということはない。昨日の経理係が同時に警備係長となり、自警団をつくってパトロールをする。
親会社から「ぜひプロジェクトチームをつくって新製品を開発して欲しい」という素晴しい話があっても、従業員を増やすことがないから工場長をリーダーに営業から二人、工場から三人、経理から一人と人間を選び出し、仕事の合間を縫って何とか会議をやっている。とにかく日常の仕事は目いっぱいあるのだから、プロジェクトの仕事は片手間にやるしかない・・・。それですばらしい新製品ができるかどうかは疑わしい。
文科省特別支援教育課の調査によると、05年の特別支援教育コーディネーターの配置率は公立小中学校で77・9%、校内委員会の設置率は87・8%に上っている。
その意味は、何時間かの講習を受けて特別支援教育コーディネーターの資格を持った教頭・教務主任・特別支援学級担任あるいは一般の職員のいる学校が77・9%ある、ということだ。新たに人員が増やされたわけではない。
その人を中心に教務・養護教諭・特別支援学級担任・支援を必要とする児童生徒の担任で、「校内委員会」を組織した学校が87.8%である。新たに人間を入れたというのではなく、本来の仕事を山ほど抱えた人に新たな仕事と新たな組織を与えた・・・だから
個別指導計画の作成率は28・9%にとどまって
いる。
それぞれ自分の仕事に忙しいく、個別指導計画までなかなか手が回らない。そもそも委員会を取る時間さえない。委員会のメンバーはすでに学年会のメンバーとして、授業研究メンバーとして、あるいは防災委員会のメンバーとしてさらには生徒指導委員会、給食指導委員会、清掃指導委員会など各種委員会・係に二重三重どころか六重ないし七重に登録済みなのである(ひとり平均で6〜7の係に所属し、そのうち2〜3の係で主任をやっている。それが普通の教員の姿である)。
特別支援教育を必要とする児童・生徒の多くは、特別支援学級ではなく普通学級でこそ成長が期待される。しかし現実にそうした子どもがひとりいるだけでクラス全体がかき回される例は少なくない。したがってコーディネーターを中心とする校内組織は絶対に必要なのだが・・・それなりの人員配置をしなければ、それは絵に描いた餅に過ぎない。
小中学校の給食費滞納が、広島県内の自治体で広がっている。特に経済的に支払えるのに払わないモラル低下が深刻だ。呉市が今春から、長期滞納者の支払い督促を簡易裁判所に申し立てる法的手続きに乗り出したのも、その改善策だ。「食育」の場である給食の意味を損なう無責任さを放っておいては、行政の公平さも保てない。
2006.06.26
社説「給食費滞納 払える家庭が払わない」
[中国新聞 6月26日]
滞納が目立つのはここ十年だ。呉市の場合も市小学校校長会が三年前、「学校側の徴収は限度」と市教委に対策を求めていた。未徴収分は教員が立て替えたり、食材を切り詰めてきた。ただ学校が保護者から強制取り立てもできず、教育現場の支障になってきた。
今回、三カ月以上の滞納者五十世帯のうち、学校対応が難しい十一世帯を市職員が戸別訪問。再三の督促に応じない二世帯を申し立て、一世帯も近く手続きする。応じなければ給料を差し押さえる。
確かに額面でいえば多くはない。呉市の調査では、二〇〇四年度の滞納は小中二十二校で五十八世帯、計九十万円だった。しかし問題は義務感のなさだろう。
滞納の理由に驚く。「義務教育だから払わなくていい」という思い違い、「車ローンやペット美容の支払いで給食費を払えない」...。そもそも払う気がない。
もし、不況や離職などによる困窮世帯なら、就学支援も受けられる。その対象でもない。身勝手や安易すぎる言い逃れのまん延をただすのが法的手続きである。
広島市も本年度中に詳しい実態調査をして対応策を検討する。滞納問題が全国に広がる中、政令市では仙台市が一年半前から三十世帯の法的措置をした。狙いは公平さの担保だ。法的措置であっても徴収する姿勢を持っていないと、行政運営への市民理解と信頼がなくなる。呉市の意図にも重なる。
心配なのは、子どもへの影響の有無だ。仮に親の滞納が本人や他の子どもに知れたら、心が傷ついたり、いじめに遭ったりしないか。呉市も絶対に情報が漏れないよう指示する。あくまで親の意識改革を迫る措置と受け止めたい。
「給食」は単に「食事の提供」ではない。食事を介して、食べ物のバランスや自分の命が多くの動植物に支えられていることなどを学ぶ意味もあろう。
そうした食育を通じ、家庭での「食卓力」やだんらんを取り戻すことにもつながらないか。滞納で親が給食に関心を向けないでいれば、そんな教育効果もなくなる。
教員の多くは自分が高尚な仕事についているという一種の誇りがあるので、金の督促といった下賎な仕事は嫌いである。
保護者とはもっと大切な話・・・その子の将来とか学習とか、あるいは人間関係とか・・・話したいことは山ほどあるから、そこに金の話を出して関係をギクシャクさせるのは真っ平だ、そういった気持ちもある。
給食で自分が儲けているわけではないのに「お金を払ってください」と、お願いするのは本当にかつらい。
仮に親の滞納が本人や他の子どもに知れたら、心が傷ついたり、いじめに遭ったりしないか。
まさかそれだけでいじめに合うとは思わないが、毎月自分だけに渡される(督促状の入った)封筒、あるいは何も悪いことはしてないのにしばしば担任からかかってくるナゾの電話、そういったものに不信感を持ち、やがて事実に突き当たる子どもも少なくないだろう。その時の気持ちを考えると、暗澹たるものがある。
その通り。
給食費滞納を嘆くこの記事の内容は、実に常識的なものである。
しかし一方、教育ニュースのマニアである私のような人間には、給食費を払わない側の気持ちも分かる。
そもそも憲法が保護者の義務としている教育の場で、なぜ親が金を払わなければならないのか。われわれは納税者であって大変な額の税金を政府に納めている。その税金を使ってなぜ給食を無償にしないのか。そうした税金の多くは無能な教師の給与に吸収され、わが子の利益にはさっぱり回ってこないのだ。
更にいえば、給食の会計というのは実に分からない。収支明細は出てくるがあんなものは当てにならないのであって、他の公務員の例から考えても、リベートとか賄賂とかは当然疑われていい。警察が駐車違反を民間委託して自らの天下り先を生み出したように、教職員たちももしかしたら食材納入業者に天下り先を面倒見てもらっているのかもしれない。担任が何度も電話してきて妙に熱心なのも、業者との癒着を疑うだけの十分な理由になりそうなものだ。
そのあたりがはっきりしない限り、払えという方が無理だ。大抵の公務員は悪いことをしている。我々だけが正直に給食費を払うのは馬鹿げたことではないか・・・
そう考える親がいても不思議はないような気がする。毎日のニュースを見ている限りは。
教員免許に有効期限を設ける免許更新制が導入される見通しとなった。中央教育審議会の教員養成部会が答申案をまとめ、七月に中教審が正式に答申する。来年の通常国会に制度改正案が提出される見込みだ。
2006.06.30
論説 : 教員免許更新/資質向上につながるのか
[山陰中央新報 6月29日]
免許更新制は、終身有効とされている免許の有効期限を十年とし、大学などが行う講習を受けて修了認定されれば更新される仕組み。現職教員にも適用する。
しかし指導能力不足の教員排除という当初の狙いは大きく後退し、時代の変化を踏まえた資質能力の「刷新」という観点からの導入となった。無理やり理屈をこねたとの感は否めない。
もともと現職教員への適用については、免許を得た時点で想定していなかった身分の喪失という不利益を伴うため困難とされ、四年前に中教審が導入を見送ったいきさつがある。それを再び蒸し返す異例の展開となったのは、自民党などからの政治的圧力があったためだ。制度の中身より、政治的なつじつま合わせを優先したというところだろう。
更新のための講習は最低、三十時間。期限が切れる前の二年間に受ければいいとしているが、そうでなくても多忙が問題になっている教員に、それだけの負担を課す価値があるとも思えない。
講習の内容には教科の指導力のほか、使命感や教育的愛情、社会性や対人関係能力などが挙げられている。だが使命感や教育的愛情について、たった数時間で「修了認定」するのには無理がある。更新制の狙いについても「排除」ではないというが、使命感や愛情を客観的評価などできるわけもない。運用次第で、体のいい排除の手段ともなりかねないし、現場を委縮させる恐れもある。
もちろん、学ぶ意欲の低下や学習障害児の増加など時代の変化に応じられる力をつける努力は必要だ。しかし、それには免許更新などという資格制度でなく、既存の十年研修などを状況の変化に即応させていけばいいことだろう。
子どもとの対応に問題があるかどうかチェックをしたいのなら、日常の仕事の状況を見る方がずっと理にかなっている。変化の激しい時代である。教員の質を、十年に一度の更新講習のハードルで担保しようとしたところで実効はあがるまい。不適格教員の排除のためなら、既に各都道府県教育委員会に設けられている人事管理システムや分限制度を、きちんと機能させればいいだけの話だ。
教員バッシングが厳しさを増す中での導入というのも気になる。先に成立した行政改革推進法では教員数削減と給与の優遇策見直しが盛り込まれた。
家庭の教育力が低下し、親による学校への無理難題など対応する事柄も増えている。そんな中で給与が下がる上に、免許の有効期限も十年と切られるのでは、教職に魅力を感じる優秀な若者が減るのでは、と心配だ。
志願者が減れば、教員の質は悪化せざるを得ない。団塊の世代引退に伴い教員の大量採用時代がやってくるが、国際的にも評価されている日本の教育の質を下支えしてきた教員志願倍率の高さを維持できるのか。後悔しても取り返しはつかない。
前にも扱った内容なので最後の数行が気に入ったので採っておく。
家庭の教育力が低下し、親による学校への無理難題など対応する事柄も増えている。そんな中で給与が下がる上に、免許の有効期限も十年と切られるのでは、教職に魅力を感じる優秀な若者が減るのでは、と心配だ。
志願者が減れば、教員の質は悪化せざるを得ない。団塊の世代引退に伴い教員の大量採用時代がやってくるが、国際的にも評価されている日本の教育の質を下支えしてきた教員志願倍率の高さを維持できるのか。
後悔しても取り返しはつかない。
メディアは言わないだけで、分かってはいるのだ。
男女とも同じ部屋で身体検査を受けさせているのは小1で16.2%あることが30日、文部科学省の調査でわかった。調査は05年度時点で、小学校から高校までのすべての公立学校を対象に初めて調べた。
2006.06.30
男女同室の身体検査、小1で16%
文科省「別々に」
[朝日新聞 6月30日]
調査結果によると、内科検診などの身体検査を男女一緒に同じ部屋で行っているのは、小1で小学校全体の16.2%。ただし、高学年になるほど減り、小4で0.5%、小5でゼロだった。
水泳の時の男女一緒の着替えは小1で44.8%。小4では3.7%、小6で0.1%だった。ただ、多くは「タオルなどを使ってうまく着替えられる」としている。
文科省は「子どもの心身の発達には個人差があり、羞恥心(しゅうちしん)を感じる子もいるはずだ」と指摘。原則として男女別々にするよう都道府県教委などを通じて呼びかける。
小学校の身体検査で男女を別にしない理由は大したものではない。
男女別にした場合、保健室の外に出した児童をどう扱ったらよいのか、
という問題である。
担任は保健室の中で養護教諭とともに児童を並べたり記録をとったりしている。したがって外は半数の児童だけになるのだが、これが静に黙って座っているというわけにはいかないこどもたちなのだ。他のクラスが授業中だということで遠慮してくれるわけでもない。うっかりすれば大騒ぎどころか喧嘩まで始まってしまい、場合によっては危険ですらある。
さて、そうした危険を回避し、しかも子どもの羞恥心を守るにはどうしたらよいか。
簡単なことだ。そのための人員を1人雇えばいいだけのこと。しかしそんなことは絶対にないだろう。
「子どもの心身の発達には個人差があり、羞恥心(しゅうちしん)を感じる子もいるはずだ」
そうした考えを優先するなら、運動会のかけっこでドベになる恥ずかしさからも子どもを守ってやらなければならないだろう。指名されて応えられない恥ずかしさからも、守ってやらなければならない。偏差値の低い高校に進むような恥ずかしさからも救ってやらなければならない・・・。こどもに少しでも恥ずかしい思いをさせるようなことは、すべて廃止しなければならない。
「子どもの心身の発達には個人差があり、羞恥心(しゅうちしん)を感じる子もいるはずだ」
からである。