キース・アウト (キースの逸脱) 2006年9月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
2006.09.08
新教育の森:第3部・続くわいせつ事件
/中 疲弊する教師
/静岡
[毎日新聞 9月7日]
◇目指す方向、分からない」
◇サービス業と見られ
■学校は閉じた社会
県西部の30歳代公立中教諭は言う。
「子供が怖くて学校に丸投げする保護者がいるように、教師だって何を考えているか分からない生徒は不気味だ」
そのときの対応は、力で服従させるか、かかわりを持たないかの二つ。「まともな生徒には指導もできるが、教組や学校が言う話し合いで解決できる状況ではない」と話す。組合専従の高校教師の一人は「学校は実は世間が思う以上に閉じた力の社会。教師は誰もが一度は生徒を力で支配できる快感におぼれる」と話した。
■多様な生徒
「生徒はほとんどが純真と信じたい」という県教組でさえ「最近は社会性が全くない生徒や、ありすぎる生徒がいる」と話す。多くの教師たちが生徒の性格が多様化してきていると感じているようだ。うつむいたまま問いかけに答えない生徒がいる一方で、集団で地べたに座り込む生徒もいる。公然とキスをする生徒もざらだ。
「正直、どちらが被害者か分からんよ」。当時の捜査幹部は漏らした。今年3月、同市内の中学で、組織的に売春していた疑いで女子生徒9人が補導された。買春容疑で逮捕された男は今のところ14人に上る。警察の調べでは、学習塾経営者や、父親より年長の61歳もいた。月に数回の売春で稼いだ金は洋服やカラオケ代に消えた。1回の売春で数万円を稼いだという。しかし受験期になると後輩に客を引き継ぎすっぱりやめたという。学校は生徒保護の名目で「うちじゃない」と隠した。市教委は取材に「夢でも見たんじゃないの」とうそぶいていた。仲間割れからくる恐喝事件で1人が逮捕されるまで、状況は変わらなかった。
■97%の教師が多忙感
多くの教師が02年の完全週5日制導入後、教師の疲弊が進んだという感想を口にする。県教組による04年の調査では、97%の教師が多忙感に追われ、6割以上が教職を続けるつらさを感じていた。5日間からあふれた仕事は、若手や講師など立場の弱い人間に押し付けられるという。同僚と仕事について話す時間もないとの不満を多くの教師が漏らす一方で、8割もの教師が「現在の教育の目指す方向が分からない」と悩んでいた。
学校や教師をサービス業と見る保護者も増えている。担任への無理な注文、ガムをかみながら行事に参加する母親もいる。その一方、ささいなミスも強く批判される。プライベートな時間でも、8割近くの教師が「教職の重圧を感じる」として自由になれない現状を明らかにしている。冒頭で生徒を不気味に感じた教師は「保護者の問題もあるし、学業もスポーツも個人差が大きく学校教育の範囲を超えてしまっている。マスコミは批判ありきで大変さは理解してくれない。もう疲れた」と頭を抱えた。
教育についてマスメディアが学校よりの記事を書くことはあまりない。しかし、そうした記事がかかれる場合も、私たちは警戒しなくてはならない。
確かに97%の教師が多忙感に追われているのは事実だろうし、6割以上が教職を続けるつらさを感じていたというのも分かる。
なかでも、
8割もの教師が「現在の教育の目指す方向が分からない」悩んでいた。
というのは非常に良く分かる話である。
10年ほど前まで、私たちは「学校のやり方は勉強一辺倒だ」とか、「教師は受験、受験と子どもを追いたてることでどんどん子どもを悪くしている」と責め立てられたものである。変わって「ゆとり教育」や「総合的な学習」がもてはやされ、知識中心の旧態依然とした教育はほとんど嘲笑の的だった。そこから私たちは苦労して総合的な学習に慣れ、すっかり内容の薄くなった教科書をいかに楽しく膨らませるかという問題に取り組んできたのだが、それがどうだ。世間はまたしても私たちをあざ笑うかのように、学力、学力、学力、なのだ。
10数年前、各校すべてに独自のカリキュラムが必要、とのことで必死につくったカリキュラム。今はどこにあるのだろう?
わずか5〜6年前、異常な努力を注ぎ込んだ絶対評価の基準表、今、それについて語る人はほとんどいない。
さて、今、学校は学力問題と不審者対策で猛烈な突き上げを受けている。
そこでは、フィンランドと日本の本質的な違いとかシンガポールや韓国・台湾といった日本より上位の国は日本の目指すべき国々なのかとか、あるいはこれは本当に教員の努力でなんとかなる問題なのかといった本質的なことは話題にならない。
年間2件あるかないかの誘拐殺人よりも、親殺し子殺しのほうが何倍も多く、こちらにこそエネルギーを注ぐべきだということは、あまりにも不謹慎(らくしく)で口に出せない。
とにかく問題なんだからなんとかしろ、それがすべてである。
これでいいのだろうか?
*それにしても、
そのときの対応は、力で服従させるか、かかわりを持たないかの二つ。
そんなことはないだろう。やれることはいくらでもある。
教師は誰もが一度は生徒を力で支配できる快感におぼれる
これも違う。そもそも私などは一度も生徒を力で支配できたためしがない!
5日間からあふれた仕事は、若手や講師など立場の弱い人間に押し付けられるという。
冗談じゃあない。誰に取材すればこんなアホな回答がえられるのか。
まったく見識を疑う。
教育を「サービス」ととらえ、供給する側の学校ではなく、受け手である住民の意向にもとづいて質を向上させようという「教育バウチャー制度」。その導入の可能性について、文部科学省が、有識者による研究会を立ち上げ、検討を進めている。これまでの議論では、国によってさまざまな内容になっており、教育効果の向上についても未知数の部分が多いとされ、評価は定まっていない。
2006.09.14
文科省検討の教育バウチャー、効果は未知数
[朝日新聞 9月13日]
この制度について、自民党総裁選に立候補している安倍官房長官は著書「美しい国へ」で、格差の再生産を防ぐ対策の一つとして期待されるとしている。
教育バウチャーは一般的に、(1)子どものいる家庭が行政からバウチャーと呼ばれる利用券を受け取る(2)公立、私立を問わず、子どもが通いたいと思う学校に利用券を提出する(3)利用券の枚数に応じて、学校側が運営資金を得る――という仕組みとされる。
より多くの子どもを集めた学校ほど資金が潤沢になるため、学校選択制と組み合わせることで学校間に競争原理が働き、教育の質の向上が期待できると考えられている。
文科省が昨年秋に立ち上げた「教育バウチャーに関する研究会」は、米国や英国、ニュージーランド、チリなど諸外国の制度を調査した。それによると、各国いずれも制度が異なり、どのような効果や問題点があるかは今後、さらに検討の必要があるとしている。
バウチャー制度に基づく公費の配分についても、単に子どもの人数だけで決めているわけではないと見ている。例えば、英国は過疎地かどうかという地理的要因や、障害のある子どもに対する経費なども含まれている。
チリでは、導入の結果、公立から私立へ移った子どもの成績向上は一部でみられた。しかし、都市部の私立にとくに富裕層の子どもが集まり、低所得者の子どもは地方の公立にとどまり続ける「階層化」が起きているとの報告があるという。
低所得者に対するバウチャーを導入しているのは、米国のミルウォーキーやクリーブランドなどだ。学力向上の面では、「親の満足度は上がった」という指摘があった。一方、対象者を所得制限で絞っているため、受給できない親から苦情が出たという報告もあるという。
文科省は今後、研究会の議論などを踏まえ、「だれを対象にどんな目的で、どういったタイプのバウチャーなら日本に可能か」という視点で、検討を進める。
まず、問いたいのは
「何で日本がアメリカやイギリスやニュージーランドの真似をして教育のレベルをあげようとせにゃならんのか?」
ということである。
中学校2年生の数学で、日本は5位(46か国中)と成績を下げたが、アメリカは15位、イギリス(スコットランド)は18位、ニュージーランド20位、チリに至っては46か国中40位という成績なのだ。(『IEA国際数学・理科教育調査2003』)
「40ヶ国中日本が14位」(!)ということで全国を震撼させた『PISA(OECD生徒の学習到達度調査)』の「読解力」でもアメリカは18位(イギリス、ニュージーランド、チリは不参加)。日本が真似すべき国ではない。
ちちなみにこの『PISA』の成績、「科学的リテラシー」で日本は2位(アメリカ22位)、「問題解決能力」では日本4位(アメリカ29位)である(いずれも40ヶ国中)。
普通なら「並」か「並」以下人間の真似をして、成績を伸ばそうとする秀才はいない。
しかし国家レベルだと逆転が起こる。
その点で、(最近はニュースにならないが)日本に学び日本的な教育を取り入れようとしてきたアメリカの態度は正しかった。こういう部分でアメリカに学んで欲しいものである。
ところで、学校同士が苛烈な競争にさらされるわけだから、教師にとっては頭の痛いこととなりそうだが、見方を変えれば悪い面ばかりではない。
例えば、学校で問題があっても、そのいくつかは選択者の自己責任としてつき返すことができるからだ。
「この学校を選んでいるんだから、いろいろ文句を言わないの!バウチャー持ってるんだから、イヤなら他の学校に行けば?」
というわけだ。
バウチャーを使った子どもや親にしてもそうだ。自ら選んだ学校に多少の不満があっても、いまさら文句は言えない。言えば自らの選択能力のなさを暴露することになる。その意味で、
学力向上の面では、「親の満足度は上がった」
というのも、心理的によく理解できることである。
また、もうひとつ学校に有利な点は、児童生徒が学校を選ぶ基準となる「学校の質」そのものを守るために、学校が子どもを選択する可能性も生まれてくる。
「部活が強いからこの学校に来たいって言うけど、君がくれば弱くなっちゃうからダメ!」
「学校が安定しているからこの学校に来たいというけど、キミみたいな不良少年が来たら一遍に学校、悪くなっちゃうよ」
ただし、だからと言って私がこの制度に賛成なわけではない。教員が更にたいへんになるのは我慢してもいい。しかし、子どもたちが学区を越えて自由に学校を選び始めると、地域の繋がり、地域コミュニティーというものが決定的に損なわれる。そのことには我慢ならない。その意味では教育バウチャーに限らず、学校の選択制には全て、私は反対である。
学習指導要領の見直しを進めている中央教育審議会は、小学校の国語授業に古文、漢文などの古典を導入する方向で検討中だ。その一方で小学校から英語授業を取り入れる動きが進む。
2006.09.15
古典を学ぼう
[山陰新報 9月14日]
ただ忘れてならないのは、国語力がすべての教科学習のベースになっていることだ。日本語の乱れはもとより、現代っ子がとかく苦手な論理的な物の考え方や、円滑な意思疎通の低下は国語学習の軽視にありはしないか。とりわけ古典は、先人の知恵の宝庫であり、幼少のころから学ぶ機会を増やしたい。
津和野が生んだ文豪・森鴎外は六歳で論語を、七歳で孟子を学んだ。漢文の教養はドイツ語など外国語習得の下地となったばかりか、日本人の魂を揺さぶる名作を生み出した。同郷の先輩に当たる哲学者・西周は豊富な漢文力から「フィロソフィー」を「哲学」と訳したほか、難解な西洋哲学用語を「主観」「客観」「理性」などに邦訳。学問の発展に寄与した。
広島大助教授の加藤徹氏は「漢文の素養」(光文社新書)で「日本がアジア諸国の中でいち早く近代化に成功した主因は、武士や百姓町人の上層部からなる中流実務階層が江戸時代に漢文の素養を身につけたことにある」と記す。中国大陸、朝鮮半島から伝わった漢籍を読破した彼らは、高いレベルの思考能力と行動理論を養い、幕末から明治にかけての日本を近代国家に押し上げた。
山口県萩市の明倫小学校では、明治維新の英傑を生み育てた吉田松陰の言行録「松陰先生のことば」を毎朝、全校で朗唱している。もちろん文語体である。今は難解でも子どもたちの脳裏に刻まれた名言は、人生の節目にきっと役立つに違いない。(末)
小学生に古典を学ばせることについて、一方で反対意見があり他方で賛成意見がある。
メディアの論調というものはそうあるべきだ。その意味でこの記事を紹介する。
ただし、私は古人の名言が人生の節目にきっと役立つに違いないというようなことは期待していない。
大切なことは漢文の素養を基礎においた古典の持つ「日本語のリズム」なのである。したがって意味内容は問わない。理解する必要もない。日本の発音の中に潜む、美しいリズムを感じればいいだけのことである。だから年間に扱う時間も、極めて短時間でいいのだ。
年間35時間の英会話の変わりに、5時間の古典学習。これで十分である。
「こら、くそばばあ。あっち行け」。小学生が教師に暴言を吐いて殴る、ける。13日に発表された文部科学省の調査で、深刻な対教師暴力の実態が改めて浮き彫りになった。一人の児童の暴力が、クラスに荒れた雰囲気をつくり出し、学級崩壊の連鎖を生む。家庭に指導力はなく、暴力の対象になった教師は休職に追い込まれる。暴力でしか自分を表現できなくなった子どもたち。その現状を探った。【高山純二、吉永磨美】
2006.09.16
校内暴力:深刻な対教師暴力の実態浮き彫りに…現状探る
[毎日新聞 9月14日]
給食の時間。小3の男児が壁や友達の机、テレビの台をガンガンとけって回る。周りの児童がはやしたて、男児の勢いは止まらない。教室の後ろでは、別の児童たちがパンをちぎって、ごみ箱に投げ入れる「遊び」に夢中だ。歩きながら給食を食べている児童もいる。
兵庫県内の小学校に勤務する40代の女性教諭は03年10月、学級崩壊したクラスの「応援」に入り、モノをけ散らす男児を廊下に引きずり出した。「何かをけらないと収まらないなら、私をけりなさい」。男児はためらわなかった。手加減もせず、女性教諭のおなかや足を20発以上もけり続ける。担任は別の児童を指導しており、暴行に気がつかない。女性教諭にとっては、児童から受けた初めての暴力を、隣のクラスの男性教諭が助けに来るまで耐え続けた。
3年生は2クラス。04年のクラス替えで、2クラスとも学級崩壊に陥り、さらに05年は下の学年にも「崩壊」が波及した。「指導を聞かない子どもと何度取っ組み合いをしてきたか。みんな(ほかの教師)もやられていた」。保護者会には、荒れている児童の保護者に限って欠席する。家庭での指導はもはや期待できなかった。今年度、女性教諭は耐え切れなくなって休職した。
「すれ違いざま、何もしていないのに『くそばばあ』と言われて……。今も小学生の登下校を見ると、心臓がどきどきする。このまま退職するかも……」
◇ ◇ ◇
教師の名前を呼び捨てにして、「死ね、死ね、死ね」と何度も繰り返す。埼玉県内の50代の女性教諭は、ほんの些細(ささい)な指導をしただけで、まるで幼児がじだんだを踏んでいるような小2男児の様子に戸惑った。教諭自身はまだ暴力を振るわれたことはない。しかし、暴言や児童間暴力は、実感として年々低年齢化が進んでいる。
中国地方の小5男児が授業妨害などの問題行動を繰り返して10日間の出席停止処分を受けるなど、「厳罰化」や「警察との連携強化」を模索する動きが進んでいる。だが、女性教諭は「今の教師は、『子どもと向き合う』こと以外の負担(学校内の事務作業など)が大きくなっている。もっと子どもと向き合う時間と余裕がほしい」と漏らした。
◇毅然と語りかけを
森嶋昭伸・国立教育政策研究所生徒指導研究センター総括研究官の話 少子化、情報化の影響で、子どもたちは感情をぶつけ合い、対処することが苦手になっている。まずは「ゼロトレランス」(寛容度ゼロ指導)のように、当たり前の常識やマナーを子どもや保護者に毅然(きぜん)と語りかけていくことが大切だ。さらに、警察・地域との連携も必要になるだろう。
◇成果主義でひずみ
葉養正明・東京学芸大教授の話 個性重視の半面、競争主義や成果主義が教育現場にも持ち込まれ、そのひずみが子どものストレスとなり、暴力や学級崩壊となって表れ、さらに校内暴力という形で問題が噴き出している。対症療法では解決しない。社会構造のレベルでの問題解決が求められている。
「犬の躾け方」という本を読んだことがある。
その中での印象的な一節。
「犬の躾けは誤ってはいけない。人間は躾け損なっても殺されることはないが、犬は躾け損なって人間を噛むようになれば、殺されるからである」
さて、
「子どもを育てることは犬を育てるのと同じだ」という言葉に嫌悪感を持つのは、たいていは犬を飼ったことのない人だ。犬を飼った経験のある人でも愛犬家と呼ばれるほどの犬好きなら、この言葉に大きく頷いてくれるはずだ。
悪い行いがあったら即座に精一杯の怒りを表して叱る。良い行いがあったらすかさず抱きしめ、愛情ある言葉と表情で喜びを表す。それが犬の躾けの基本
である。
そう考えると、
「何かをけらないと収まらないなら、私をけりなさい」。男児はためらわなかった。手加減もせず、女性教諭のおなかや足を20発以上もけり続ける。
というやり方がいかに間違っているかがわかる。(「何かをけらないと収まらないなら、私を噛みなさい」。犬はためらわなかった。手加減もせず、女性教諭のおなかや足を20回以上も噛み続ける・・・・。)
これが小さな子どもだからいいものの、中学生や高校生だったらどうだろう。間違ったやり方で大人が殺されるのはしかたないが、間違った対応で殺人者にされる子どもは気の毒だ。まだ人生の端緒にある子どもを人殺しにしてはいけない。
こんなときは抱きしめてやればいいのだ。やさしく抱きしめるのではない。息ができないほどぎゅうぎゅうに抱きしめ、相手が疲れて落ち着くまでじっと待っていればいい。その上で聞くべき話があれば聞いてもいい。
いまだに競争主義や成果主義が教育現場にも持ち込まれなどとトボケたことを言う大学教授が社会構造のレベルでの問題解決が求められている。などと大げさなことを言って時間を空費しているうちに、子どもはどんどん悪くなっていってしまう。
子どもを叱るのに無闇に時を過ごすべきではない(ゼロ−トレランス)。子どもを誉めるのにも、時間を空費してはならない。それは当たり前のことだ。
公立小学校の児童による校内暴力が増加の一途をたどっている。文部科学省が実施した「問題行動調査」によると、2005年度の全国の発生件数は2018件で、前年度より128件増えた。3年連続で過去最多を更新しており、極めて深刻な事態だ。
2006.09.17
社説
校内暴力・非行の芽早期に摘み取れ
[琉球新報 9月15日]
暴力行為を防ぐには、社会生活を営む上で規則を守ることがいかに大切であるかを、子どもたちに十分に理解させなければならない。
そのためには家庭の果たす役割が極めて重要だ。すべてを学校任せにするのではなく、家庭でしっかりと善悪のけじめを教え、規範意識を育てる必要がある。
親が、日ごろから子どもに愛情をもって接し、コミュニケーションを密にしていれば、暴力にはけ口を求めることもなくなるはずだ。
調査によると、児童による教員に対する暴力行為は464件で前年度より38%(128件)も増加した。
暴力を繰り返すケースが目立ち、加害児童1人が平均1・8人の教員に暴力を加えているという。
問題を起こした児童に対し、適切な指導がなされず、容易に改善されないという実態が浮かび上がってくる。
05年度の校内暴力は中学が2万3115件、高校は5150件で小中高校合わせて約3万件に上る。前年度に比べると、中学は横ばい、高校は微増だが、小学校の増加が目立つ。
小学校での問題行動が改善されないまま中学に進めば、暴力行為がさらにエスカレートしていく恐れがある。
非行の芽を摘み取るのは早ければ早いほどいい。
問題を起こした児童に対しては、ただ一方的にしかるのではなく、暴力を振るった理由などについてじっくりと話を聞き、それがいけない行為であることを十分に認識させなければならない。
数十年前までは、教員による体罰は日常茶飯事で、悪いことをすれば殴られるのが当たり前だった。それが、児童・生徒にとって一定の抑止力となっていた側面もあるが、そんな野蛮な指導方法は現代社会では到底通用しない。
暴力によって押さえ付ければ、暴力の連鎖を生むだけだ。法的にも道徳的にも決して許されることではない。
文部科学省は、あいまいな指導ではなく規則を厳格に適用する「ゼロ・トレランス(非寛容)」という米国の指導方法を紹介した手引を全国の学校に配布しているが、効果を疑問視する向きもある。
小さな規則違反も見逃さない姿勢も大事だが、なぜ規則を守らないのか理由を突き止め、原因を一つ一つ取り除いていく努力が求められる。
ここに、長年マスコミが私たちを遇してきたやり方の典型がある。
数十年前までは、教員による体罰は日常茶飯事で、悪いことをすれば殴られるのが当たり前だった。それが、児童・生徒にとって一定の抑止力となっていた側面もあるが、そんな野蛮な指導方法は現代社会では到底通用しない。
と古いやり方が否定され、
文部科学省は、あいまいな指導ではなく規則を厳格に適用する「ゼロ・トレランス(非寛容)」という米国の指導方法を紹介した手引を全国の学校に配布しているが、効果を疑問視する向きもある。
と、新しいやり方も否定される。
その上で、どんなやり方が提示されるかというと、
なぜ規則を守らないのか理由を突き止め、原因を一つ一つ取り除いていく努力が求められる。
マスコミ関係者は理性主義者である。
すべての人間の活動には理性的な理由があり、こちらも理性をもってすれば必ず解決できると・・・その意味では19世紀の啓蒙主義者と同じだともいえる。
しかし、規則を破るには大した理由はいらない。
「だっておもしれーんだモン」
「イライラしてたんだヨー」
それに対してどうすればよいのか?
暴力行為を防ぐには、社会生活を営む上で規則を守ることがいかに大切であるかを、子どもたちに十分に理解させなければならない。
しっかりと善悪のけじめを教え、規範意識を育てる必要がある。
いちいちごもっともである。
しかし私たちが知りたいのは、「その方法」なのだ。
どんなふうにして十分に理解させるのか、どんなふうに善悪のけじめを教えるのか、規範意識を育てるのか・・・メディアはそれには答えない。
あれもダメ、これもダメ、
じゃあどうしたらいいんだと問えば、
「そんなことはプロなんだから自分で考えろ」
そんなふうに言われているとしか思えない。
社説[指導力不足教員]
子どもと正常なコミュニケーションがとれなかったり、教員としての知識を著しく欠くなどとして、二〇〇五年度に都道府県などの教育委員会から「指導力不足」と認定された公立学校の教員は五百六人だった。
2006.09.25
社説[指導力不足教員]
不安のない制度刷新を
[沖縄タイムス 9月24日]
二〇〇〇年度の認定制度導入以来最多だった〇四年度の五百六十六人に次いで二年連続で五百人を超え、全教員のほぼ二千人に一人の割合だ。
県内では、県教育委員会が認定を始めた〇三年度が三人、〇四年度が二人、〇五年度は三人だった。
指導力不足が問題化するのは、教員自身の指導力が落ちたことは言うに及ばず、保護者の学校や教員への注文が多くなるなど「社会の目」が厳しくなったためでもあろう。
認定された教員は、研修センターなどで一定期間、研修を受ける。「再チャレンジの場を」という趣旨だが、〇五年度に認定された教員のうち百三人は依願退職した。ほかに六人が分限免職、二人が職員へ転任と計百十一人が教職を離れている。
認定制度は、指導力不足教員の研修によって現場復帰を促す一方、現場からの「排除」という相反する二つの狙いを持っている。
文科省は「研修システムの整備も進んでおり、(認定数の)減少傾向が続くのではないか」と、認定制度の実効が高まっているとの見方だ。
しかし、同制度は判定基準も研修期間も各教委ごとに異なるなどあいまいな現状で、教員全体の質向上につながっているかどうかはなお疑問が残る。
「ダメ教師には辞めていただく」。自民党の安倍晋三・新総裁は著書「美しい国へ」の中でこう記し、教員の質を確保するために、教員免許の更新制度の導入を提唱している。
「年功序列の昇進・給与システムを見直して、やる気と能力のある教員が優遇されるようにしなければならない」とも述べている。
免許更新制度は、現在の終身制から十年更新制に変更するもので、来年の通常国会に提出される予定だ。
しかし、教員の身分喪失におびえながら子どもと向き合う環境は現場教員を委縮させる。教員を目指す若者たちにとっても、将来の不安材料にならないか懸念される。
来年から始まる団塊世代の大量退職に伴い優れた教員を数多く確保しなければならないのに、免許更新制度や給与システムの見直しなどが教職の魅力をも減少させかねない。
こうした動きや時代の変化を踏まえた教員の質向上、制度刷新が求められているといえよう。
教員自身の指導力が落ちたことは言うに及ばず、
これが言うに及ばないことなのか?
指導力が落ちたと言うなら落ちたその理由について一言、考察があるべきだ。指導力不足教員の問題が叫ばれるようになったここ数年、あるいは10年あまりの間に何が起こったのか考えてみる必要がある。
教員採用試験の倍率が極端に下がって、誰でも先生になれるような時代が続いていたのか?
給料などの待遇が悪く、優秀な人間が教員になりたがらないような時代だったからか?
あるいは教員になったあと、皆がノホホンと怠け暮らしていたからか? ここ10年あまりは、社会や保護者が教育に無関心で教員がいいかげんであることを許す時代だったからか?
あるいはまた研修制度が次々と潰れ、一度教員になったら二度と勉強できないようなシステムになっていたか?
もちろんすべて、否である。
この10数年間は、学校がもっとも優秀な人間を集めた時代である。公務員の人気は高まる一方なのに児童・生徒数の減少で採用枠は限りなく少なくなる。その中で教員試験はかつてないほど困難になり、教員志望の中で極めて優秀な人間だけが教員になってきた。
それと同時に、1980年代から始まった学校バッシングは、教師の少しのミスも許さないほどの緊張を強いた。教師が学校でノホホンと暮らしていくには、世間はあまりにも厳しかったはずだ。
それでどうして教師の指導力が落ちるのか?(*注)
昔の教師の方が偉かったと思うなら、20年、30年前に自分がどういう教員に授業を受けていたか思い出してみるがいい。
もちろん当時だって立派な教師はいたが、一部は年中酒臭い息をし、顔を真っ赤にして教室に現れた。
雑談と称して1時間でも2時間でも平気で授業を潰し、延々と自慢話をする教師がいた。
二十年も持ち歩いているかと思うような古いノートを広げ、それを読み上げるだけで一年間の授業を続ける者がいた。
生徒に教科書を読ませ、自分はストーブの近くに椅子を置いて暖まりながら聞いているうちに寝てしまう教員もいた。
竹刀を持ち歩き、ケツバット(どこがバットだ?)とか言ってやたら叩く教師がいた。いや平手だったら、彼らはいくらでも平気で殴った。
夜、酔うと必ず母子家庭の母親に電話を入れてくるヤツがいた。
彼らに比べて現代の教員の質が落ちたなどとは、絶対に言わせない。
偉かったのは昔の教師ではなく、そんな教師の下でも真面目に授業を受け、我慢して勉強していた私たち生徒の方だった。
指導力不足の教員は全教員のほぼ二千人に一人の割合
どんな世界でも2000人に1人くらいは不適格な人間がいるのではないか? 大工さんのような技術職なら、不向きな人間はもっと多いはずだ。しかるの誰も大工の質が落ちたなどとは言わない。
来年から始まる団塊世代の大量退職に伴い優れた教員を数多く確保しなければならないのに、免許更新制度や給与システムの見直しなどが教職の魅力をも減少させかねない。
それは私も心配である。
しかしさらに心配なのは、ほぼ2000人に1999人いる普通あるいはそれ以上の教員たちが、指導力不足、指導力不足と叫ばれて意欲をなくすことである。
* それほど優秀な人材を集めながら、なぜ学力は低下し、児童・生徒の問題は減らないのか、との疑問の向きもあろう。答えは簡単である。学校教育という劇場の登場人物は教員だけではない。そこには児童生徒とその保護者・家族がいる。学校というシステムは基本的に保守的であってほとんど変わらないが、児童生徒、保護者・家族とそれを取り巻く環境は大きく変化する。
10年前はインターネットなどなかった(あったかもしれないが使えるのはほんの一部の人だけだった)。有害サイトだってなかった(あったかもしれないが使えるのはほんの一部の人だけだった)。
子どもが携帯電話を持つなど、誰も考えもしなかった。
大学受験は今よりもずっと難しかった。
夜の繁華街を子どもづれが歩いているということもなかった。
そういうことである。