キース・アウト
(キースの逸脱)

2007年2月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。
















 

 

2007.02.02

いじめ深刻な実態...自殺41件中14件で確認


読売新聞 2月2日]


 文部科学省は1999年度以降に自殺した児童・生徒のうち、いじめを受けていた事実が確認された14件について、その内容を公表した。
 ◆仲間外れや格闘技強要
 これまで「いじめ自殺」と判断されなかったケースの中に、深刻ないじめがあった実態が初めて明らかになった。
 文科省は個人情報保護の必要があるとして、学年と性別、自殺の時期しか公表していないが、読売新聞の取材で14件中13件の事例が特定された。
 14件のいじめは、「自殺の主な原因」(3件)、「他の原因も考えられるため、自殺の一因にとどまる」(6件)、「自殺のあった時点ではすでに解決するなどしていたため、原因とまではいえない」(5件)に分類されているが、その内容に大差はない。
 まず、「主な原因」の3件を見ると、堺市の高1女子(1999年10月自殺)は、体育祭で体操隊形に移動する際、「とおせんぼ」をされていた。北海道滝川市の小6女子(2005年9月に自殺を図り、その後死亡)は仲間外れや言葉によるいじめを受け、愛媛県今治市の中1男子(06年8月自殺)は、「貧乏」などと言葉や歌でからかわれたほか、消しゴムのカスを投げつけられていた。
 「自殺の一因」とされたケースでは、千葉県市原市の中3女子(00年10月同)が、小学校の時から「くさい」「ばい菌」と言われ、「死ね」と落書きされていた。兵庫県宝塚市の小4男子(01年6月同)は身体的特徴をからかうあだ名で呼ばれていた。大阪府泉大津市の中2男子(02年11月同)は、格闘技ごっこを無理やりやらされたほか、登校時に友人を自転車で迎えに行き、自分は走らされていたという。
 「自殺の原因ではない」と判断された事例を見ても、例えば、神奈川県相模原市の中2男子(04年9月同)は、肩を押されたり悪口を言われたりするいじめを受けていた。
 今回の調査は、99年度以降に自殺との関係が指摘された計41件について、教育委員会の当時の資料などをもとに再度調べたもの。文科省は自殺の背景を正確に把握するため、今年度分の調査から、教師の報告だけでなく、子供へのアンケートなども行う方針だ。
 森田洋司・大阪樟蔭女子大学長(教育社会学)は「自殺の原因をはっきりさせるのは難しいが、複眼的な調査方法で、いじめの事実を浮かび上がらせることが大切だ」と話している。(村井正美)


 非常に重苦しい記事である。

 10年以前の大河内君自殺事件・鹿川君自殺事件はともに暴力と恐喝という二重のいじめによって自殺したものであり、「ああ、これだけやられれば自殺するかも知れんな」と納得させるものがあった。謎は少年である加害者たちが、そして鹿川君の場合は教師が、なぜあれほど残酷なことができたかという点に凝縮し、その他についてはさほど難しい話ではなかった。

 今回文部科学省が発表した事例は明らかに違う。
体育祭で体操隊形に移動する際、「とおせんぼ」をされていた。
仲間外れや言葉によるいじめを受け、
「貧乏」などと言葉や歌でからかわれたほか、消しゴムのカスを投げつけられていた。

 こうした表現からは、鹿川君たちが受けてきた暴力や恐喝の凄まじさが微塵も感じられない。

 ここに書かれたことは典型的な一部で、同様のことが繰り返されていたとしても、私たちの常識は「ああ、これだけやられれば自殺するかも知れんな」とは呟かないのだ。

 昨年暮れの一連のいじめ自殺事件でも、各市町村教委や学校が必死に探していたのがこの「子どもの自死を納得させるだけ十分な、それほど残酷ないじめの事実」である。それが見つからないばかりに「事実が見つからない」と言い続け、マス・メディアに叩かれ続けた。

 しかし関係者はもっと早く悟るべきだった。私たちの常識にかなうような事実などなくてもいい。今や子どもたちは、(私たちの常識からすれば)非常に軽い事実によって自死していく、そのことを前提に考えるべきだったのである。

 深刻化したのはいじめではない。簡単なからかいや暴力と言えるかどうか分からないような接触によっても自殺してしまうという、子どもの状況そのものなのだ。








 

 

2007.02.02

中2男子が飛び降り自殺
=部活で疎外、いじめ受ける−千葉


時事通信 2月2日]



 千葉県松戸市教育委員会は2日、同市立中学2年の男子生徒(14)が1日に市内で飛び降り自殺したと発表した。市教委は、いじめが背景にある可能性もあるとみて調べている。
 市教委によると、生徒は1日、学校を休み、午後3時45分ごろ、自宅とは別の市内のマンションから飛び降り死亡した。
 生徒は1月31日、校内で、同学年の生徒7人とともに別の男子生徒(14)をいじめ、殴るなどして肩の骨を折るけがを負わせた。放課後、教諭がいじめた8人を個別に呼んで反省させ、けがを負わせた生徒に謝罪させた。
 中学校の校長によると、自殺した生徒も昨年春以降、吹奏楽部の活動中に疎外されるいじめを受け、顧問に退部の相談をしていたという。 


時事通信には確たる信念がある。
子どもはいじめの被害者のときのみ、自殺する。

記者は思う。
いじめの加害者として指導されたことは、この男子生徒の自殺とは何の関係もないはずだ。
いじめの加害者が死ぬことなどありえないのだ。

では、なぜ彼は死んだのか・・・
そして校長の言葉を思い出す。

自殺した生徒も昨年春以降、吹奏楽部の活動中に疎外されるいじめを受け、顧問に退部の相談をしていた

ああやっぱりこの子はいじめられていた、そう安心して、記者はタイトルを書く。

中2男子が飛び降り自殺=部活で疎外、いじめ受ける−千葉

複雑なはずの自殺事件が、普通のいじめ被害者自殺事件になってしまう。
やりきれないな。やはり・・・。








 

 

2007.02.04

中2自殺で松戸市教委が教諭聴取...担任女性は寝込む


読売新聞 2月4日]



千葉県松戸市で同級生への集団暴行をとがめられた市立中学2年の男子生徒(14)が自殺した問題で、松戸市教委は3日、暴行があった1月31日の放課後に男子生徒の指導にあたった同校の教諭の事情聴取を始めた。市教委はこれまで、学校側の指導について「問題はなかった」との見解を示してきたが、改めて行き過ぎた指導がなかったかどうか調べる。市教委などによると、男子生徒を指導したのは男女4人の教諭。この日に聴取したのは50歳代の生徒指導主任の男性教諭で、約2時間半にわたり指導内容などを確認した。

 市教委は今後、学年主任の男性教諭らの聴取も進めることにしているが、このうち男子生徒の担任の40歳代の女性教諭は、ショックで寝込んでおり、事情を聞ける状態ではないという。




ちょっと読むと教員が4人がかりでひとりを指導したようにも読めるがそうではない。加害者が8人もいたので4人がかりで指導しなければ仕切れなかったのである。

事件自体について扱っていなかったので、あらためて記事を載せておくが、事件は次のようなものだった。

中2男子が飛び降り自殺=前日生徒同士トラブル−負傷させ謝罪・千葉
2月2日17時1分配信 時事通信

千葉県松戸市教育委員会は2日、同市立中学2年の男子生徒(14)が1日にマンションから飛び降り、死亡したと発表した。前日、ほかの生徒にけがを負わせるトラブルがあり、市教委は自殺とみて詳しい状況を調べている。
 松戸東署も自殺とみて、動機を調べている。
 市教委によると、生徒は1日、学校を休み、午後3時45分ごろ、市内にある自宅とは別のマンションから飛び降り、死亡した。
 生徒は1月31日、校内で、同学年の生徒7人とともに、ふざけ半分からエスカレートし、別の男子生徒(14)を殴るなどして転倒させ、肩の骨を折るけがを負わせた。放課後、教諭がいじめとみて、個別に呼んで反省させ、謝罪させた。被害者の生徒は自殺現場のマンションに住んでいた。 
最終更新:2月2日23時1分



















時事通信は一貫して指導された事件は重大なものではないと考えているため、加害者たちの言葉をそのまま引用して
ふざけ半分からエスカレートしてというという点を強調しているが、

毎日新聞はさらに軽い表現で、
生徒ら8人は1月31日の昼休みに、1人の生徒を殴ったり、足をかけるなどして転倒させた。(2月2日)となり、転倒した生徒がけがをした事実も伝えていない。

産経新聞は
男子生徒は自殺前日の1月31日昼、学校内で、同級生7人とともに別の同級生に暴行を加え、左肩骨折の重傷を負わせていた。
朝日新聞は

生徒は死亡前日の1月31日、同学年の他の生徒7人とともに、この同級生を殴ったり足をかけたりして、肩の骨を折るけがを負わせていた。
読売新聞は
男子生徒は1月31日、同級生の男子(14)を集団で暴行して重傷を負わせたとして学校の指導を受けていた。
ということで、ともにいじめという言葉は微妙に避けられている。

しかし全部合わせると、
自殺した生徒を含む8人が殴ったり蹴ったりして転倒させた生徒が左肩を骨折するという重傷を負ったことになるこの事件、これが重大ないじめでないとしたら「いじめ」の定義は今よりずっと難しくなるだろう。

 文科省のいじめの定義が変わり「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」となり、「一方的に」や「継続的」「深刻な」といった、いじめを限定してとらえかねない表現は削除された。1月19日付 毎日新聞

 裏を返すと、
当該児童生徒が精神的に苦痛を感じていなければ、8人に取り囲まれて殴り倒され骨折しても、それはいじめではないという意味だったのだろうか?
 メディアがこの事件を、トラブルだ、ふざけだ、暴行だと表現する意味を問いたい。


さて、
 それとは別に、今回の事件で明らかになった重大な問題は、
学校が「いじめ」だと判断して指導すると子どもが自殺するかも知れないということである。

 放置すれば被害者が自殺し、指導すれば加害者が自殺する。出席停止がどうのこうのと言っている場合ではなくなった。

 私は、「いじめが自殺の主因だ」といったきわめて重大な認定には十分時間をかけるべきだと思っている。それだけに岐阜の事件での学校のすばやすぎる対応には疑問を持っていたが、あの事件で、学校にいじめの加害者と断定された4人の少女のうち、一人でも自殺していたらどうなっていただろう?
何がいじめかという問題とともに、もう一度考えたいことである。









 

 

2007.02.10

前橋市:小学校高学年で教科担任制、
国・算・理・社の4科目−−市教委 /群馬



毎日新聞 2月09日]



 前橋市教育委員会は8日、07年度から市内全小学校の5、6年を対象に、国語、算数、理科、社会の4科目で教科担任制を導入することを明らかにした。それぞれの教員が専門分野や得意科目を教えることで、児童の学力や学習意欲の向上を目指す。市教委によると、全市的な取り組みは県内初という。
 これまで小学校では、担任教諭が音楽などの科目を除き、全教科を教えるのが通常だった。しかし、学習内容が比較的高度になる高学年では、専門的知識が求められるとして、東京都品川区や仙台市などで基礎科目の教科担任制を導入している。児童が複数の教員から指導を受けることで(1)相性の善しあしが緩和された(2)複数の目によって個々の児童への理解が深まった−−などの効果が指摘されている。また、学習面以外にもさまざまな成果が報告されており、前橋市教委も導入を決めた。
 同市の教科担任制では、原則として同学年のクラス担任が教科を分担し合う。ただ、1学年1クラスの学校もあり、個別の運用については各校の裁量によるとしている。低・中学年については「子どもの発達段階では、一人の担任が全学習に責任を負う方が望ましい」とし、当面は高学年のみで実施する考えだ。【杉本修作】



 どうか・・・この記事を読んだアホな議員が「これはすばらしい! ぜひウチの町でも!」などと意気込んで教育委員会を突き上げ、それに抵抗できなくなった教委が、「各学校、5・6年生は教科担任制にするように」などという、馬鹿げたお達しを下すことがありませぬように・・・。

 前橋市や仙台市がどのようなやり方をしているか分からないが、
東京都品川区についていえば国語・社会・算数・理科の4人の教員を揃えられる小学校、つまり1学年4クラス以上の学校は全40校中1〜2校しかない(大井第一か立会あたりか?)。3クラスの学校でさえ6校程度しかないはずである。それはそうだ。1学年4クラスとなれば最低でも121人必要である(120人だと40人学級3クラスに編成されてしまう)。1学年121人となると1校726人の大校である。世の中にそんなにあるものではない。

 さて、仮に1学年4クラスの学校をつくったとしても、
5・6年生に等しく国・社・算・理の専門教員を配するのは容易ではないだろう。なぜなら小学校の教員が同時に持っている免許がこの4教科に限定される必然性はどこにもないからだ。中学校家庭科を持っている教員もいれば、体育の教員である人もいる。小学校の免許しか持っていない人だっている。それらをすべて低学年にまわし、高学年を4教科の教員で固める。もちろん高学年に向かない教員は、国語だろうが算数だろうが最初から低学年に入れておくのが前提だ。

 しかし、そうやって4教科の教員をきちんと学年に配しても、どうしようもないことがある。それは教科の指導時数である。
 指導要領によると小学校6年生の時数は、国語175時間、社会100時間、算数150時間、理科95時間である。教科担任制にすると1組で国語をやっている時間に2組で社会を行い、3組が算数、4組が理科となる。それを順次入れ替えていくわけだが、そうした時間が95時間過ぎたところで問題が発生する。
 
理科の授業はすべて終わったのに、他の教科が終わっていないのだ。しかたがないので理科の担当者は1組・2組・3組とクラスを代わりながら何もしない時間を過ごす。・・・やがて101時間目になり社会科教師が暇になる。さらに50時間が過ぎ、算数教師が授業を終えるが、国語はまだ25時間も残っているので、国語教師が授業をし終えるまで、他の三人は遊んでいる。
 もっとも教師の方はいくらでも仕事があるから自分の暇をうまく利用するだろうが、困るのは子どもである。教師が授業をしない時間、彼らは何をしているのだろう?

 さらによく考えてみるとこの方法、理科で85時間、社会科で75時間、国語で25時間、計185時間、子どもたちは遊びながらも余計に学校にいることになるのだ。
 185時間と言えば1日6時間授業として、31日。
夏休み全部を潰しても追いつかない。授業が終わらない(現今の夏休みを40日と計算しても、その中には土日の休みが10日以上含まれているので、実際の夏休みは30日以下である)。

 前橋市や仙台市、東京都には私には考えもつかないすばらしい方法があるのかもしれない。
でなければ、まやかしがある。










 

 

2007.02.11

指導力不足教員の認定や研修を義務づけ
全国基準作成へ



朝日新聞 2月10日]



 文部科学省は、これまで各都道府県・政令指定都市の教育委員会がそれぞれ仕組みを定めていた「指導力不足教員」の認定や研修について、国としての基準を定める。9日あった自民党の教育再生特命委員会で、今国会に提出予定の教育公務員特例法の改正案の骨子を示し、了承された。
 授業を成立させられないなど指導力に欠ける教員については、人事権がある都道府県と指定市の教委すべてで認定や研修を行っている。05年度は全国で506人が「指導力不足」と認定され、このうち342人が研修を受けている。
 しかし、認定の基準については、「児童または生徒の心を理解する能力や意欲に欠ける」(宮城県)といった6項目の基準を定めている教委もあれば、「児童生徒を適切に指導できない」(愛知県)と抽象的な表現にとどめる教委もある。また、認定後の研修の内容も、研修期間の上限が「1年」(京都府)だったり、「上限なし」(佐賀県)だったりと、ばらばらの状態だ。
 文科省はこれまで、指導力不足対策について「任命権者である教委が決めること」という姿勢だった。しかし、政府の教育再生会議が対応の厳格化を求めたこともあり、全国統一の基準が必要と判断した。具体的な基準は、法改正を教委に通知する際に明記するなどして示すという。
 骨子では、このほか、教員免許更新制が導入された際には、(1)指導力不足で研修中の教員は、研修終了まで免許を更新しない(2)研修でも改善が見られない場合は、分限処分などによって学校現場から排除する――などの方針も示している。



 小中高の教員はおよそ97万人いるから05年の指導力不足認定506人で計算するとおよそ0.0051%、約1940人に1人という計算になる。まさかそんなに少なくはないだろうと、誰しも感じるに違いない。

 実は、指導がうまくいくかどうかということは、地域や児童生徒などの指導の対象と教員の能力との関数であるから、状況によってかなりの差が出てくる。例えば学校に対する要求の高すぎる地区では、そうした要求に応えきれないのだから当然指導力不足教員が多くなる。また落ち着いた学校で教鞭をとっているのと、いわゆる“荒れた”学校で授業を行なうのとでは、当然定着できる学力にも差が出てくるだろう。それは必ずしも教員の教育力の差ではない。

 しかし何といっても
指導力不足教員の数はその都道府県の予算規模によって決まる
のである。教育予算が少なければ少ないほど、その県の指導力不足教員の数は少なくなる。予算が潤沢であれば、指導力不足教員はどうしても増えてくる。
 それは以下のような事情による。

 あるひとりの教員を「指導力不足」と認定した場合、それを教育活動からはずし研修を受けさせなければならない。その研修期間の間、児童生徒が何もせずに待たされるというようなことがあってはならない。
 これが2〜3日の研修だったら、校内の教員で何とかやりくりするものの、半年、1年となれば代わりの教員を入れないわけには行かない。都道府県としては新たに一人雇うことになるのである。
 つまり
ひとりを指導力不足と認定するだけで数百万円の支出が新たに発生する。したがって貧乏県では指導力不足であっても何とかごまかして校内にとどめ、校長教頭など総動員してでも頑張ってもらわなくてはならなくなるのだ。
 公表された資料によると、指導力不足教員がゼロないし数人という県がいくつもあるが、これらはほとんどが教育予算を抑えていると考えてよい。


 では、実際に「指導力不足」と認定してよい教員はどれくらいいるかということになるのだが、これに関する資料はない。私は1%ほどではないかと思っている。私の同僚で厳しい人が3〜5%と言っていたが、5%=20人に1人はやはり多すぎるのではないかと思う。極端に言えば優秀な教員上位20%くらいを念頭に、あとは力不足だから指導力不足教員だと言うこともできるが、言っても意味のないことだから最低限に絞って「1〜3%くらいだ」程度のしておいたほうが無難である。

それにしても1〜3%、人数にすると9700人〜29000人余が指導力不足教員と考えると、今、研修を受けている人数がいかに少ないかが分かるだろう。

 
 政府の教育再生会議が対応の厳格化を求めたこともあり、全国統一の基準が必要と判断した

 それはいいとして、この基準によって1〜3万人が炙り出されたとしよう、そしてこの指導力不足教員の研修のためにやはり1万〜3万人の講師を雇い入れる。そのすべてを年間150万円程度の時間給教師で抑えたにしても、総額150億円〜450億円である。これだけの額を誰が出すのか。
 しかも1年の研修で全員無事現場に戻るとは限らないし、新たな指導力不足教員が現れないとも限らない(きっと出てくるだろう)。そもそも年収150万円で働いてくれる時間給講師を3万人も集められるのか、それも疑問である(*)。

 さらに加えて、10年ごとに約10万人ずつが受ける免許更新のための研修費用も入れると、大変な金額になるはずである。こうした問題を、どうクリアしていくつもりなのか。

 全教員に研修を受けさせ指導力不足教員には更に研修を受けさせる、そのための数百億円があるのなら、もっと有効な使い道があるはずなのだが・・・。

*こうした時間給講師の手配は、国や都道府県がしてくれるわけではない。通勤の関係上、勤務校のきわめて近くから探さなければならないから、普通は指導力不足教員を出すことになった学校の校長が行う。
 しかし産休補助や少人数加配などで大量の講師を雇っている現状で、さらに教員免許を持ちながら家にいて、薄給で1年間働いてもいいという人間を探すのは容易ではない。
 それが見つからなかったらどうだろう(たぶん見つからない)。
 校長はそれを見越して、指導力不足教員を出さないよう努力する。つまり報告をサボるか、誤魔化すしかないところへ追い込まれる。未履修問題と同じで、校長たちは処分覚悟で、冒険に出るのだ。


















 

 

2007.02.13

<学校教育法改正>副校長、主幹ポスト新設へ
文科省



毎日新聞 2月13日]



文部科学省は13日、今国会に提出する学校教育法の改正案で、大規模校などを念頭に、新たな管理職として副校長や主幹を小中高校に新設する方針を固めた。同日の自民党教育再生特命委員会で素案を提示した。現在の教頭や教務主任より権限を強化し、校長の学校運営方針の徹底や責任の明確化を図るのが狙い。



 東京都の主幹選考試験の競争率はわずか1.1倍である。
平成18年1月の公式発表文書
を見ると、
「小学校・中学校は、
16年度から19年度まで、平均的に配置する」とあるのに、
同年10月の文書では
「小学校・中学校は、
16年度から20年度まで、平均的に配置する」
となっているから、計画が狂って1年先延ばしにしたのだろう。
とにかく応募者が少ない。たった20数万円の差で、あんな激務はしたくないということかもしれない。

「教員だって人の子、金と地位で釣れば踊るさ」といった舐めた考えに立った政策は失敗する。

 昇任試験といった制度をなくし、校長の推薦制度にでも変えない限り、今後主幹はおろか教頭・校長のなり手も少なくなっていく。
 東京で非常にうまく行ったから全国に広めようという話ならまだわかる。しかし先進的な地域で失敗したものを、なぜ全国に広めようとするのか。

 おりしも沖縄では次のようなこともが記事になっていた。


教頭受験者減 教育庁「次以降回復」 
団塊あおり・40代後半教員手薄 管理職敬遠・学校の窓口役多忙


 県立高校の教頭試験受験者が年々、減少している。二〇〇七年度は七十四人(合格者二十五人)。過去九年間でピーク時の一九九九年度の百五十八人(同)の半分以下になった。県教育庁によると、受験者の多くを占める四十代後半の教員数が団塊世代の大量採用のあおりで採用時に少なかったのが要因。また「管理職志向が減った」と教員の意識変化を指摘する声もある。受験者減は質の高い管理職確保に影響が出る可能性がある。同庁は「今が減少のピーク。来年度以降は回復する」と教員人口層が再び厚くなる四十代前半の世代の受験に期待を寄せている。(沖縄タイムス 12日)





















 

 

2007.02.14

教育再生会議:県教育長が苦言
「現場の意見聞いてない」 /神奈川



朝日新聞 2月14日]



政府の教育再生会議の第1次報告について、県教育委員会の引地孝一教育長は13日、定例記者会見で「報告は法律改正まで視野に入れながら拙速な議論を進め、大きな影響を受ける教育現場の意見をまったく聞いていない」と苦言を呈した。
 全国都道府県教育長協議会と全国都道府県教育委員長協議会が同日、同会議に提言や批判の意見を表明したことに関連して発言した。
 引地教育長は特に、社会での専門的な知識や経験がある人を例外的に採用する「特別免許制度」での採用を「全体の2割確保する」とした再生会議の提案について「『とにかく今の公教育は駄目』だとして、なぜ2割を特別免許で採用するのか根拠が分かりにくい」と批判した。
 全国で年間約2万人の教員採用があると試算して、4000人が教員資格がないまま採用されることになるという。引地教育長は「免許制を前提に更新制度導入を訴える再生会議が、教育資格のない人を2割も入れるのは納得できる話ではない」と指摘した。
 さらに、「公教育を非難するだけでなく現場で頑張っている先生を支援するような議論をしてほしい」と訴えた。【稲田佳代】



 特別免許というのは本来、高校の看護科に看護士を、農業科に農業指導員を雇い入れようとする、そんな使い方をするために設けられたものである。
 民間企業の管理職を公民の教員に採用したり、柔道の専門家を体育の柔道単元だけのための時間講師として雇う例はあっても、これだけ大々的に受け入れる姿勢を示したことはない。

 今回は毎年4000人というとんでもない数だから、看護科や農業科、公民科で埋め尽くすことはできないだろう。どうしても高校の普通科および小中学校で引き受けざるを得ない。
 
この人たちは、教員養成課程でいずれも必須の「教育原理」や「教育心理学」「カウンセリング」やその教科の「教科教育法」を学ばなかった人たちである。
 教育再生会議の提案は、教員をやる上でそうしたものは必要ない、ということである。


 現在も薄給に耐えながら講師を続け毎年教員採用試験を受けている先生たち、官民を問わず学校外でがんばって試験に向かっている人生粋の教員志望。それから現在教員養成大学で教員を夢見て努力している学生、他の学科の学習をしながら重ねて教職課程の授業を受けてる若者たち、そうした大量の人々をあざ笑うかのような制度でもある。
 現職教員に対しても、
「専門知識さえあればオマエたちの仕事はできるんじゃ、バカヤロー」
 というかのようなこの提案・・・。

 一方で「やる気のある先生にはがんばってもらいたい」といいながらこの仕打ちでは、再生会議は学校の息の根を止めるために召集されたとしか思えない。
 なにを考えているのだ?







 

 

2007.02.16

ランチ売れない商店街「つらい」
岩手県庁「有給休息」廃止で昼休み短縮


河北新報 2月15日]



盛岡市の岩手県庁周辺の商店街が、ランチタイムの売り上げ減に悲鳴を上げている。公務員優遇批判を受けて全国的に始まった有給休息時間の廃止を機に、1月から昼休みが45分間に短縮され、県職員が外食を控えるようになったことが響いた。「地域への配慮がない」として商店街が14日、休息時間復活を県に陳情する異例の事態に発展した。

 岩手県は、先行して廃止した国にならい、昼に15分、午後3時に15分あった有給休息時間を1月に全廃。昼休みは正規の休憩時間(正午―午後零時45分)だけになり、「外で昼食を取る時間がなくなった」と、庁内で販売される弁当などで済ませる職員が急増している。

 近くの合同庁舎などに勤務する職員や臨時職員も含め、県庁付近には約2600人の職員がいる。官庁城下町として、職員の懐を頼りにしてきた内丸地区で影響は特に深刻だ。

 飲食店50店以上が加盟する内丸第2町内会が1月に行ったアンケートでは、「影響が出ている」とした店舗が62%。そのうち27%は「売り上げが50%以上減った」と回答した。観光客にも人気で、行列ができる店と知られる、じゃじゃ麺の白龍(ぱいろん)は「昼にお客さんは2回転したのが1回転になり、行列もできなくなった」と嘆く。

 町内会の飲食店関係者約30人は14日、大挙して県庁を訪れ、川窪俊広総務部長に「昼休み1時間」復活を求めた。「生きるか死ぬかの大切な15分だ」と食ってかかるシーンもあった。

 これに先立ち、盛岡市商店街連合会も県に休息時間復活の要望書を提出した。県庁近くにあって約1000人が勤める盛岡市役所も、早ければ4月から休息時間廃止を検討していることから、連合会は市にも要望書を出した。町内会も16日に市役所に陳情活動を行う。

 他県では、4月から休息時間を廃止する群馬のように、勤務終了時間を15分遅らせる代わりに昼休みを1時間にする工夫もみられる。川窪部長は陳情に「職員の要望も聞き、昼休みを45分間としたが、今後は地域の皆さんのご意見も参考にしたい」と答えるにとどまった。

 優遇批判が強い公務員の待遇見直しが民業圧迫を招くという皮肉な結果に、連合会の吉田完爾会長は「臨機応変の対応ができないのはいかにもお役所的」と話している。

[有給休息時間の廃止] 公務員には1日30分の有給の休息時間が認められてきた。無給の休憩時間とは異なり、仕事をしなくても給与支払いの対象だった。公務員優遇批判の中で国が昨年7月に全廃し、地方自治体でも廃止が進む。東北では6県のうち秋田、福島が岩手と同様に1月に廃止。青森、宮城は4月廃止予定。山形は検討中。




「生きるか死ぬかの大切な15分だ」と食ってかかるシーンも

食ってかかられた県庁職員も気の毒だ。もともと減らしたくて減らした15分ではない。
「臨機応変の対応ができないのはいかにもお役所的」
と言うなら、
「自分の儲けのためならなんでもするというのはいかにも民間企業的」
であろう。
 
他県では、4月から休息時間を廃止する群馬のように、勤務終了時間を15分遅らせる代わりに昼休みを1時間にする工夫もみられる。
ここのあたりが、河北新報の落としたいところだと思うが、
勤務時間が15分後ろに延びれば、迎えに行けた保育園に迎えにいけなくなるということもある。間に合っても忙しさはハンパではない。事故の心配も考えれば、県庁職員にとっても
「生きるか死ぬかの大切な15分だ」
である。

この話は学校にも来ていているが、中学校ならまだしも、小学校の場合はとてもではないが昼休みを45分にするわけにはいかない(配膳から昼食、下膳までだとどうしても1時間はかかる)。そこで退勤時間を後ろに15分延ばすという方向で話が進められているのだが、これに猛反対し、戦々恐々としているのは、一般職員ではなく、校長たちでなのある。
なぜなら、現在
職員の勤務時間については非常に曖昧にしてあるから学校が成り立っていると言う面があるからである。
これをきちんと正し、地方公務員である教員の優遇措置をはずしたらどうなるのか?

答えは簡単だ。都道府県教委が、
有給の時間に休むとは何事かと言えば職員は無給の時間には働かないと言うだけである。

想像してみるがいい。
お昼の時報がなると同時に、職員は一斉に車で外食に出てしまい、帰ってこない。残った数百人の児童生徒の給食を、校長教頭という管理職が、二人だけですべて面倒見る(小学校1年生も含めて)のだ。管理職だけでなく保護者だって震え上がるだろう。


私は公務員は優遇されるべきだと思っている。優遇された上で厳しい監視を受け、
優秀な人間が優秀な政治を行うようにしておいたほうが、最終的に私たちの利益になると思う。まともな人間だったら公務員や教員にはならないという時代が、幸せな時代とは限らないだろう。

公務員の優遇政策は見直せ、というのは正義である。世の中にはたくさんの正義があるが、「その正義を本気で守ったときに私たちは幸せになるのだろうか」ということは、常に考えておかねばならない。



*しかしこう言う場合、公務員を民間並みに引き下げるのではなく、民間を公務員並みに引き上げるという発想はないのだろうか? 安全管理や仕事の効率から言って、もう少し休憩を取りながら働いたほうがずっといいと思うのだが・・・。




 

 

2007.02.19

英国の子供は「最も不幸せ」=先進国でランキング最下位−ユニセフ調査


時事通信 2月19日]



 英国は子供が育つのに先進諸国で最悪の国−。国連児童基金(ユニセフ)がこのほど公表した報告書で、このような結果が明らかになり、英国人にショックを与えている。
 報告書は経済協力開発機構(OECD)加盟21カ国を対象に、子供の福祉にかかわる6つの要素について分析して指数化、国別比較した。英国は「家族・友人関係」「飲酒や麻薬の危険度」「幸福度」の3項目で最低の評価を受け、総合ランキング最下位に。上位はトップのオランダのほか、北欧のスウェーデン、デンマークなどが占めた。日本など一部の国はデータ不十分で、順位付けされていない。
 


 イギリスよ泣くことはない。
 遠いアジアの東の果てで、お前に倣って教育改革を行おうとしている国が、あるのだから。





 

 

2007.02.24

教員免許の更新制
「資質向上」と「不適格排除」



参詣新聞 2月23日]



 教員免許更新制を協議する中教審の合同部会=今月14日、東京都千代田区(撮影・慶田久幸)
 教員免許の更新制が実現しそうだ。中央教育審議会(中教審)では教員の資質向上を目的に答申されたが、教育再生会議では、指導力不足教員の排除を主眼として提言に盛り込まれた。3月初めにも教員免許法の改正案が国会に提出される見込みだ。(社会部 慶田久幸)

 戦前、教員資格は師範学校卒業者にほぼ限定されていた。このため「閉鎖的」「学校教育が統制されてしまった」との批判が上がり、多様な資質を持った人材を得ようという狙いから教員免許制は導入された。
 平成16年度は全国の大学の78.7%に当たる554大学に教職課程を設置、短大や大学院、専攻科なども含めた全卒業生の約18.2%、約11万3000人が教員免許を取得した。
 一度取得すれば無期限だった教員免許に導入される予定の更新制は、有効期限を10年間に限定し、更新には30時間程度の講習が義務付けられる。その背景には指導力不足とされる教員の存在がある。

 文部科学省によると、17年度に「指導力不足教員」と認定されたのは506人(うち新規採用者246人)。このうち486人が研修を受けたが、現場復帰できたのはわずか116人(ほかに18年度の研修者が144人)にすぎず、公立学校不信の一因になっている。
 更新制は、18年7月の中教審答申では教員が「自信と誇りを持って教壇に立つ前向きな制度」として、資質向上に主眼が置かれていた。
 だが、教育再生会議が19年1月に出した第1次報告では「指導力不足教員の認定を明確化」させ、厳格な受講修了認定と分限制度を活用して「不適格教員に免許を持たせない仕組み」として利用するよう提言している。
 この提言を受け、今月14日から再開された中教審の初等中等教育、教育制度両分科会の合同会議で教員免許法案の審議が行われている。
 文科省は21日、両分科会に対し、管理職や優秀教員の受講を免除する一方、指導力不足と認定され研修中の教員の免許は効力を停止させる▽分限処分を受けたときは免許の効力を失う▽災害などやむを得ない場合は有効期間を延長できる−などとする内容の骨子案を示した。

 これに対し、教育現場からは運用面での不安を指摘する声も上がっている。中教審の高橋秀美委員(全日本中学校長会長)は、「受講のために教室を離れることが増えるので、離島や山間部の学校では参加する教員も残った教員も負担が大きい」と話す。「講習では教員の適性は判断できない」「資質向上に役立つ内容ある講習ができるのか」といった指摘もある。

 今国会の法案提出期限が3月13日に迫っていることから、中教審では細部は詰めず、具体的な内容、方法は法改正後に省令などで示すことになりそうだ。
 20日に発表された国公立大学の志願者数によると、教員養成系学部が前年より約5700人少ない4万7000人弱、倍率も4.4倍(前年4.9倍)と低下した。「最短10年で免許を取り上げられるようでは、教員志望者はさらに減少する」(教育関係者)との見方もあり、更新制が期待どおりの成果を挙げるかどうかは未知数だ。


 小中高校の教員はおよそ97万人。指導力不足の認定を受けた教員が500人とすると、97万分の500、すなわち0.05%の指導力不足教員を排除するために毎年9万7000人が30時間の講習を受ける。その延べ時間は9万7000×30=
291万時間。これだけの時間が毎年自習になるのだ。
 そしてこの研修を支えるための費用は・・・
 それだけの価値ある制度なのだろうか?

(ちなみに、現在でも初任者研修、5年経験者研修、10年経験者研修という制度があり、10年経験者研修は年間に35日、およそ200時間の研修が義務付けられている。そのうち120時間ほどが校内研修で80時間が外に出ての研修である。企業や商店で働く社会体験研修は、児童・生徒を自習にしたくない教員が土日に消化して何とか対応してくれているが、そこに30時間が加算されるのはなんとも辛い。20年目研修というのはないが、それを受ける頃には40代になっていて、この時期にダメなものはだめだろう。次の10年目研修のときは50代である。普通は若い教員を教える側に回っている。この人たちに教える内容を30時間も考えなければならない都道府県教委こそ気の毒である)。






 

 

2007.02.24

大阪府教委、「免許なし教員」採用へ
専門性重視で



産経新聞 2月23日]



 大阪府教委が、教員免許をもっていない社会人に教員採用試験の受験を認める方向で検討を始めたことが分かった。合格者には「特別免許状」を授与し、教員として採用する。早ければ平成20年度にも実施する。
 団塊世代の大量退職が始まることから、優秀な人材の確保が急務となっており、教員免許がなくても高い専門性をもつ社会人に門戸を開くことにした。工科高校での採用を検討している。
 「免許なし教員」の採用は、昭和63年の教育職員免許法の改正で可能になった。奈良県や香川県などに続き、京都府も昨夏の採用試験から導入するなど全国的に徐々に増加。教育再生会議の第1次報告でも特別免許状制度の積極的な活用が盛り込まれている。
 府教委は「教員免許に値するような専門的な知識や技能をもった人材を登用することで、学校現場の活性化や専門性の高い教育の実現につなげたい」としている。受験資格などの詳細は、今後つめていく。


この記事はこれでいい。
特別免許の教員の採用に関して、
団塊世代の大量退職が始まることから、優秀な人材の確保が急務となっており、教員免許がなくても高い専門性をもつ社会人に門戸を開くことにした。
そういってくれれば致し方ない対応として引き下がれる。
教員免許をもっていない社会人に教員採用試験の受験を認める
と、免許をもっていない社会人であろうが新卒大学生だろうが講師だろうが、皆スタートラインを同じにすると言うなら分からないではない。

それを
(教員がバカだから)免許を持った人間の枠を削って、免許を持たない社会人を優先的に入れるというから癇に障るのだ。

工科高校での採用を検討している。
もちろん納得のできる線だ。小学校教師としての高い専門性を持った(免許を持たない)社会人など、そう簡単に探せるわけはないのだから。


 もうひとつ。
 工業高校の教員の新規採用枠など、そんなに大きなものではない。さらに金属加工の専門家が欲しいのに電気の専門家が応募してきても採用はできないはずだ。そうなると大阪府は団塊世代の大量退職を教職未経験の新規採用だけで埋めるのだろうか?
 同じ日の産経新聞の記事には17年度に「指導力不足教員」と認定されたのは506人(うち新規採用者246人)とある、つまり新規採用者を大量に入れるということは、指導力不足教員を大量に背負い込むことと同義なのである。そんな危険を冒すよりもっとよい方法がある。

 実は
団塊世代の大量退職が始まるには、ひとつの思い込みがある。
 それは
団塊の世代は人数が巨大だから、教員も多いだろうという思い込みだ。

 確かに、大阪府や東京都近郊では教員数のピークは団塊世代と重なっているが、地方の学校では教員数のピークは別のところ(私の県では40代半ば)にある。なぜなら、団塊の世代が就職し始めた1970年前後は、高度成長の真っ只中で人口の都市集中がピークに達した時期だからである。大都市の周辺に次々巨大なベッドタウンができ始め(例えば多摩ニュータウン第一次募集が1971年)、それにつれて次々と小中学校がつくられた。そうした都会での動きに応じて、教員の大量採用があったのだ。

 しかし人口の供給側である地方では教員の採用が抑えられ、この時期、地方の教員養成大学を出て都会に流れる教員も少なくなかった。川崎市が議員のスカウト団を結成して地方の大学に教員の誘致運動を仕掛けたのも、この頃のことだったと思う。


 さて、平成不況の10数年間は教員採用試験も冬の時代だった。競争率が20倍〜30倍となり、
学校は30台半ば以下に、ものすごく優秀なメンバーを揃えることができた。ところがこのメンバーの出身地を見ると千差万別、山口県だの秋田県だの、大阪だ東京だとあちこちの出身者が混ざり合っているのである。それは当たり前で、彼らにしてみれば出身県の採用試験だけではとても合格は覚束ず、全国区で採用試験を受けまくっていたのである。

 今私の県には
かなりの数の阪神地方出身者がいる。彼らはもともとが優秀な上に、私たちの県で大切に育てた至宝のような人々である。大阪府が即戦力で能力が保障された彼らに、目を向けないわけはない。

 医師や看護士で起こったことが教員でも起こる。
 
優秀な教員の、都会への集中と地方での教員不足である。





 



 

 

2007.02.28

高校履修不足:黙認した校長は子どもいじめるのと同じ
...県教育委員長が批判 /山形



毎日新聞 2月28日]



「未履修を黙認した校長は悪いことと知りながら、ガキ大将と同調して1人をいじめる子供と同じ。いじめを止めることはできない」――。県議会2月定例会が27日開かれ、初の代表質問に臨んだ石坂公成・教育委員長は、教育再生に向けて痛烈な批判を展開した。
 石坂委員長は、県内の教育問題の中で、最も憂慮しているのは必修科目の未履修問題とし「入試に出ない科目を教えることは時間の無駄と考え、なるべく多くの生徒を良い大学に入れることだけが目的になっている」と懸念を表明。「有名な進学校でもやっていることだから、うちもやろうと考えた校長もいたのではないか。しかし、それは悪いことと知りながら、1人の子供をいじめることと共通した判断ではないか。教育委員会としては教育者の猛省を促す」と語った。
 また、文部科学省が県教委に出す通達についても「現場にそぐわないものもあると感じており、教育委員会の責任において文科省の了承を取り付け、現場で実施可能なものとする」と話した。【辻本貴洋】2月28日毎日新聞朝刊



これは切ない。
県教育委員長と言えば県立高校のトップである。その直接の上司から未履修を
黙認した校長は子どもいじめるのと同じ
と言われた校長先生たちの心中いかばかりかと思う。

真剣な受験生たちは授業も含めれば毎日10数時間という勉強に耐えている。目指す大学に一歩でも近づこうと骨身を削っているのである。その
受験生に対して受験に必要のない教科まで履修せよと言う指導要領の方が間違っている。受験生を目の前にして未履修を認めざるを得なかった校長たちは、むしろ受験生の側に立っていたはずだ。

文部科学省が県教委に出す通達についても「現場にそぐわないものもあると感じており、教育委員会の責任において文科省の了承を取り付け、現場で実施可能なものとする」と話した。
その最たるものが世界史必修を定めた学習指導要領ではなかったのか。
法令違反なのだから学校長は甘んじて処分を受けるべきである。しかしそれはいじめとは同じではない。