中教審が学習指導要領の改定に向けた事実上の答申案をまとめた。小学校は算数を6年間で142時間増とするなど主要5教科で1割程度授業時数を増やし、中学は理科、外国語(英語)を3割増とするなど必修教科の時間数を増やす。その一方で「総合的な学習の時間」(総合学習)は小中ともに週1時間削減することを盛り込んでいる。
学力低下への批判はこの間、授業時数と教科内容を削減し、総合学習を新設した「ゆとり教育」に向けられてきた。今回の改定もそれを反映したものといえよう。
しかし、改定案には授業時数を増やすことによって学力が確実に向上することの根拠は示されていない。学力向上の特効薬になるかは不透明である。
学力低下には指導方法、家庭環境など、さまざまな要因があろう。子どもの学ぶ意欲の低下を懸念する声も教育現場からは聞こえる。
主要教科の授業を増やせば、学力が身に付くという単純なものではない。子どもたちが興味を持つことができるような授業でなければ、授業時数の増加は子どもたちにとって苦痛でしかないだろう。そうならないようにするための手だてが必要だ。教師の多くは熱意を持ち、指導力も高いといわれている。それでも学力が低下しているのは、40人学級などクラスの規模も影響している面もあろう。
授業についていけない子どもにも、きめ細かな指導ができるようにしなければ、学力の底上げは果たせない。30人学級の実現なども併せて実施する必要がある。
授業時数が増えれば、それだけ教師の負担も増すことから、中教審の答申案は教員定数の改善など教育条件の整備も求めている。
しかしながら、教員増員計画は公務員削減の政府方針に逆行することから2006年度の予算折衝で一蹴(いっしゅう)された。約7100人の増員を要求した08年度概算要求も批判を浴び、実現は困難視されている。
教師が力量を発揮するためには、適正な人員配置を検討することが必要である。
「ゆとり教育」は自ら学び、考える「生きる力」がキーワードだった。今回の改定では読解力、表現力を高める指導をすべての教科で重視する「言語力」の育成を掲げている。
「生きる力」「言語力」のいずれも、子どもたちにとって必要なものである。両方を教育現場に浸透させて成果を挙げることが求められる。そのためには教育現場をより活性化させるため、政府がさまざまな施策を実施し、後押しすることが必要である。
教育現場への支援策なしには、改定は単なる時間数の見直しに終わる可能性も否定できない。
11月1日の新聞各紙は、教育現場支持の一辺倒等という感じだった。
【「ゆとり」転換】 実態の見極めが足りぬ (高知新聞)
中教審まとめ/現場の声を反映させたい (神戸新聞)
先生を増やすことも必要/「ゆとり教育」修正 (東奥日報)
その内容も、高知新聞が、
PISAでは日本の「学校外」での学習時間の短さも浮き彫りとなっている。学力の責任は学校にのみ押し付けるものではない。学ぶ意欲の低下など、根源的な問題の改善策も示されていないようでは現場は混乱するばかりだ。と言えば、
神戸新聞は、
そもそも、授業時間数の増加が学力向上に直結するのか。さらに、先ごろ公表された「全国学力テスト」では、心配されるほどの学力低下は見られず、以前から指摘されてきた応用力や読解力不足があらためて浮き彫りとなったと語り、日本の教育予算は先進国の中では低いレベルにある。授業時間数の増加で現場にしわ寄せがいかないためにも、一定の教員増が検討されてもいい。とも言う。
東奥日報は
子どもと向き合う時間を確保するには、増えている事務作業などから教師を解放する必要がある。
答申案は文科省の教員増員計画と足並みをそろえた形になっている。教員の定数増を実現してもらいたいだ。
琉球新報に
教師の多くは熱意を持ち、指導力も高いといわれている。
などと言われると、なんともテレてしまいそうになる。
さて、もう一度確認しておこう。まず、
PISAでは日本の「学校外」での学習時間の短さも浮き彫りとなっている。
についてだ。
文部科学省の報告書にある日本の子どもたちの家庭学習の状況はこうである。
「通常の授業以外の宿題や自分の勉強をする時間について、わが国の生徒は週当たり平均6.5時間で、OECD平均の8.9時間より短い。また、数学の宿題や自分の勉強をする時間については、わが国の生徒は週当たり平均2.4時間で、OECD平均の3.1時間より短い。」(3.学習の背景)
TIMSS2003の調査では対象45か国中、日本の子どもが「宿題をする時間」はわずか1時間で世界最下位、テレビを見る時間は2.7時間で1位である。
日本の教育予算は先進国の中では低いレベルにある。
も深刻である。
「教育指標の国際比較」(平成18年版)によると、国民総生産(DGP)に対する学校教育費の比率は調査30ヶ国中29位。神戸新聞では「トルコも先進国」ということになっているらしいが、それを入れなければドベである。(注:韓国も低いが、圧倒的な私費負担がそれを補い、トップクラスの教育費となっている)
教育大国と言われるフィンランドはGDPの5.9%。日本のそれ(3.5%)よりはるかに多い。その差2.4%は日本のGDPで計算すると約1兆9000億円。日本の国家予算およそ80兆円から考えると、どれほどフィンランドが教育に金をかけているかが知れる。
日本の教育予算は先進国の中では低いレベルにある。
などという呑気な話ではないだろう。
世界でもっとも宿題をせず、最もテレビを見る子どもたちを相手に、ブービー賞の学校教育費でトップクラスの成績をあげているのだから、教師の多くは熱意を持ち、指導力も高いといわれているのは当然だろう。
これが、「地に落ちた日本の学校教育」の現状なのである。
2007.11.11
個人情報:松戸市、また紛失
金ケ作小教諭ハードディスク、通知票下書きなど
/千葉
[毎日新聞 11月11日]
市教委によると、ハードディスクは私物で、昨年担任した6年生28人と、今年担任している5年生31人の教科ごとの観点別評価、通知票所見の下書き、昨年のサッカーや陸上などの部活動参加児童の氏名などが入っていた。10月25日ごろ、教室内で紛失したらしい。
また、女性教諭(52)は10月25〜28日の間、教室の段ボール箱に入れた私物のノートパソコン1台がなくなったという。個人情報は入っていなかったという。
学校は10日、臨時保護者会を開いて、関係児童の保護者に謝罪。市教委は「7月の反省が教諭一人一人にまで行き届かなかったことを重く受け止め、指導の徹底を図るよう努める」としている。【長谷川力】
これほど厳しく指摘されながら、いつまでたっても同じことが繰り返される。
市教委は「7月の反省が教諭一人一人にまで行き届かなかったことを重く受け止め、指導の徹底を図るよう努める」
というが、それでいいのだろうか?
例えば、特定の機種の飛行機で、繰り返し操縦士が同じ計器の見落としをしたとなると、まず疑うべきは、「計器自体の形状や配置が、ミスを引き起こしやすいものであった」という可能性である。
同じ場所で同じ種類の交通事故が続くとしたら、その場所の地形や道路状況、あるいは風景といったものに、何らかの原因があると考えるのがスジである。
だれも、個人の自覚で乗り越えようとは考えない。それが科学だ。
さて、
これほど厳しく指摘されながら、いつまでたっても同じことが繰り返されるのはなぜか。
それをいつまでも反省の深さのせいにしているからなくならないのだ。
それだけは言える。
2007.11.14
子ども観:揺れる大人の「子ども観」
尾木・法政大教授ら全国アンケート /東京
[毎日新聞 11月13日]
◇「少年犯罪増えた」8割...厳罰化賛成に傾く
大人は、自分の子を大切に考える一方、他人の子供には厳しい視線を送っている――。教育評論家で法政大教授の尾木直樹さんらによる「大人の『子ども観』」調査で、こんな結果が出た。尾木さんは「子供への愛情は失われていないが、少年犯罪の報道で子供が悪くなったというムードが形成されており、『子ども観』が揺れている」と指摘している。
調査は昨年8〜12月、尾木さんが開いた全国の講演会参加者1500人にアンケートを配布して実施、952人(64%)から回答を得た。回答者は、女性が70%だった。
「『よい子』と聞いてイメージする子供は?」という質問では、「あいさつがよくできる」がトップで57%。「勉強がよくできる」はわずか3%だった。「あなたにとって子供とは」と問うと「宝もの」や「希望」が挙がり、学力とは関係なく、大人の子供への愛情が強いことがうかがえる。
一方、「子供たちの様子で不愉快に感じる場面は?」と聞くと、「夜コンビニの前で座り込んでいる」が42%でトップ。「少年犯罪が増えたと感じるか?」の質問には、「増えた」が80%に達した。「少年が事件を起こした場合、成人より重く処罰すべきか?」の質問では、「賛成」「同じにすべき」が合わせて46%を占めた。
文部科学省が昨年、生徒指導の報告書に取り入れた「ゼロトレランス」(アメリカで実施している細部にまで罰則を定め、厳密な処分を下す指導方針)については、賛成が33%と3分の1を占めた。
尾木さんは「社会全体が『力の論理』『厳罰主義』に傾斜しているが、教育は厳罰化を進めればいいわけでなく、子どもとの信頼関係が重要。今後は、子育ての実践を積み上げ、親に優れた実例を紹介していく必要がある」と話している。【三木幸治】
私が子どものころ、新宿の東口にはビニル袋を口に当てシンナーを吸っている若者が大勢いたし、夜の街には激しくクラクションを鳴らし数十台のバイクを連ねて暴れまわる棒族がいた。国道で彼らに取り囲まれると前後で激しく蛇行され、実際に車に当たることはなかったが、足でけるしぐさをされたり、大きな日の丸でフロントガラスを覆われたりもした。
田舎の町にもチョーランと呼ばれるロングコートのように長い学生服を引きずったリーゼントの兄ちゃんがウロウロしていたし、その周辺には今、血をすったばかりのドラキュラの花嫁みたいな唇をした金髪のネエちゃんがウロウロしていた。たぶん高校生だが平気でタバコ吸っていた。
学校に行けばしばしば校舎の壁に大きな落書きがあり、タバコの吸殻があちこちに落ちていた。それは全部卒業生のものだといううわさだった。母たちが、中学校ではトイレのドアや便器がぼろぼろにされ、特に男子トイレでは用も足せなくなっていると話していた。中学校というのはとても恐ろしいところだと思っていた。
子どもたちは、今よりもずっと悪かった。
少なくとも、悪い子たちの悪さは現在の比ではなかったと思うがどうだろう?
尾木は子供への愛情は失われていないが、少年犯罪の報道で子供が悪くなったというムードが形成されており、『子ども観』が揺れていと指摘している。
この指摘に対し、毎日新聞記者はどのように答えたのだろう?
現代の子どもたちは絶望的なまでに凶悪になっていると報道することに、どういう意味があるのだろう。
尾木はまた、社会全体が『力の論理』『厳罰主義』に傾斜しているが、教育は厳罰化を進めればいいわけでなく、子どもとの信頼関係が重要。今後は、子育ての実践を積み上げ、親に優れた実例を紹介していく必要があると話している。
しかし「信頼」「信頼」と繰り返すなら、尾木直樹もそろそろ普通の人間が40人の子どもと、絶対的な信頼関係を築く、誰にでもできる方法を発表すべきだ。
それが分からないばかりに現場では、教師が子どもや保護者に跪くことで、「信頼」という恩寵を授けてもらうしかなくなっている。なぜなら、それが一番簡単な信頼獲得の方法だからだ。
2007.11.14
教員の負担減を検討
週内にも事務削減PT発足
−文科省
[産経新聞 11月13日]
PTは、全国連合小学校長会や全国都道府県教育長協議会など6団体から推薦されたメンバーで構成。文科省が行う調査・統計や照会事務、地方教委と重複する調査などについて縮減、精選できるものを検討する。月内にも具体策を提言する予定。
文科省は来年度から3年間で約2万1000人の教員定数増を要求しているが、財務省は財政難を理由に難色を示している。
文科省の教員の勤務実態調査によると、平均して1日10〜25分程度事務作業に充てている。
渡海紀三朗文科相は「自分たちでできる努力を行い、必要なものは要求していきたい」としている。
記事を読めばたいていの人は「ふざけるな」と思うだろう。
平均して1日10〜25分程度の事務作業が負担で、子どもとのふれあいができないなど、教員の甘えとしか思えない。
普通の企業だったら25分の仕事など、サービス残業で当然行うべき当たり前の業務である。それを「25分減らさなければ、子どもと触れ合えない」というのでは、まるで児童・生徒を人質にとっているような話だ。
なんとも教員とは卑怯な人間だ。
私だってそう思う。
さて、文科省の教員勤務実態調査だが、これによると、たしかに事務作業は平均して1日10〜25分程度である。
しかしそれ以外に、授業準備が1時間9分、成績処理が33分といったものがある。こういうものは事務処理に入らない。会議打ち合わせ(31分)も、朝の業務(33分)も、言われてみれば確かに事務処理ではない。生徒指導(1時間21分)も事務作業ではない(以上、いずれも小学校)。
そしてはたと気がつく、要するに言い方が悪かったのだ。
「授業以外にやることが多すぎる」
そう言えば、6時間4分もあれこれやっている様子が多少はわかってもらえるかもしれない。
教員の給与は引き算だが、仕事は常に足し算である。
かつてはコンピュータ教育もエイズ教育もキャリア教育もなかった。不審者対策も総合的な学習もなく、教師はずっと余裕をもって子どもに当たっていたのだ。
自分たちでできる努力にも限界がある。
2007.11.14
「教職員の増員必要ない」財政審の意見書原案
[朝日新聞 11月13日]
意見書は財政審が19日にまとめるが、財務省が作成に深くかかわり、予算編成に向けた同省の考え方が実質的に示される。
文科省は夏の概算要求で、教職員が子供と向き合う時間を増やす必要があるとして、08年度からの3年で教員を増員するよう求めた。だが、財務省は、06年7月に閣議決定した「骨太の方針06」で、「教職員の定数については5年間で1万人程度の純減を確保する」と定めたことを根拠に、難色を示してきた。
意見書の原案は、子供の減少に伴い児童生徒1人当たりの教職員数は増加しているなどとして、「現状でも対応可能だ」と指摘。授業以外で、教師の事務作業の負担が重くなっているとして、校長や教頭の組織運営力強化やIT(情報技術)化の推進などを求めている。
このほか原案は、揮発油税(ガソリン税)など道路特定財源の上乗せ税率について「維持が不可欠」と結論づけた。また、地方公務員の給与水準の引き下げや、在日米軍の駐留経費負担(思いやり予算)の削減、08年度の診療報酬改定で薬価改定分を除いた「本体部分」を引き下げることなども、盛り込んでいる。
政府に振る袖がないことは知っている。だから「教員の増員は必要と思うがとにかく金がない、我慢してくれ」と言ってくれれば、なんとか我慢もしようがある。
それを「必要な状況にない」というから私たちは傷つく。
授業以外で、教師の事務作業の負担が重くなっているとして、校長や教頭の組織運営力強化やIT(情報技術)化の推進などを求めている。
要するに校長や教頭がバカで組織運営力が不足し、教員がバカでIT化が進まないから事務作業の負担が増えているのだと、そんな言い方をされて素直になれという方が無理だ。
世界最低の教育予算と世界でもっとも家庭学習をしない子ども前にしながら、それでも世界屈指の学力を維持しているのは、教師のおかげかもしれない。その教師の意欲を根本から挫いて、それで日本の教育に未来はあるのか?
2007.11.16
いじめ認知12万5千件=定義広げ6倍、
自殺6人−06年度問題行動調査
・文科省
[時事通信 11月15日]
新たな定義では、従来の「自分より弱い者」や「継続的に」などの文言、受けた側の苦痛の深刻さを示す表現をなくした。調査では児童らへのアンケートや面接も併用し、国立と私立を新たに対象とした。
いじめの件数は小学校6万件、中学5万1000件、高校1万2000件で、学年別では中1の2万4000件が最多。いじめがあると回答したのは2万2000校で全体の55%だった。
具体的には「冷やかし、からかい」が最も多く、初めて調べた「パソコンや携帯によるひぼう中傷」が、中高を中心に4800件(4%)あった。
都道府県別の認知件数(1000人当たり)は、熊本県が50件で最多。福井県(36件)、岐阜県(30件)と続いた。少ないのは鳥取県(2件)など。
一方、自殺者は小中高で計171人。自殺当時の状況について「家庭不和」「進路問題」などから複数選択で回答を求めたところ、中学5人、高校1人のケースでいじめを挙げた。うち中学の4人ではいじめの項目のみを選択した。
これまでの「いじめ」の定義は次のようなものであった。
この調査において、「いじめ」とは、「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」とする。 なお、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと。 |
それが、
|
何が違うのか?
まず「自分より弱い者に対して一方的に」が消えた。つまり「いじめ」の対象者は必ずしも弱いものではなくてもいいし、相互的であってもよい。そのことを「一定の人間関係のある者」と言う。
また「継続的」が消え、1回、2回といった行為であっても「いじめ」と認定することがはっきりと示された。
さらに「相手が深刻な苦痛を感じているもの」が「精神的な苦痛を感じているもの」に書き換えられ、深刻か否かを問わなくなった。
そして最も重要な改定点は、以前は付記といった形で書かれていた「いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」を一番最初におき、被害者の主観優先を徹底することを指示している点である
その結果がいじめ認知12万5千件=定義広げ6倍である。
例えば、クラスの仲良しグループの中にトラブルが生じ、一人が別の一人を罵る(当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けた)。その結果、罵られた一人が「傷つけられた」と感じたら(精神的な苦痛を感じている)、それは「いじめ」なのである。罵りの原因が何であろうと問わない、たとえその子自身が悪事を働いた結果だったとしても、その子の主観が尊重される。
「そんな馬鹿な話は・・・」と言ってはいけない。現在私たちが「いじめ事件」として扱っている問題の相当数が、こうした事件なのである。
年がら年中クラスを荒らしている暴れん坊がたまたま反撃を食らってショックを受け、「明日からは学校に行けない」と言ったりする。
10年以上前なら私たちも冷ややかで、「しばらくお灸を据えられた方がいい」などと言ってのんびり眺めていたものである。それが10年来、保護者の求めもあって放置できなくなった。そして今回の定義の変更である。
今や彼は立派な被害者であり、反撃した方が加害者である。
これまで、こうした事例については市教委にさえ報告しなかった。「一方的」でも「継続的」でもなく、しばしば「自分より弱いもの」でもなかったからである。しかしこうした事例もこれからは報告の対象となる。
それらを全部まとめても6倍というのは、私にはむしろ少ないように思う。
2007.11.17
<いじめ>名大高女生徒の自殺、いじめが一因だった
[毎日新聞 11月16日]
同理事らによると、この女子生徒は1年生だった04年9月から不登校になり、学校は11月に保護者から「いじめがあった」と指摘を受けた。事情を聴いたところ、生徒側はある同級生に▽「なんで(私以外の)別の子と一緒に帰るの」と言われて苦痛に感じた▽あいさつをしても無視された−−などと訴えた。一方、同級生は「仲良くなりたくて声をかけた」「あいさつに気づかなかった」と、いじめの意図を否定したという。
女子生徒はその後も休学を続け、昨年8月25日に自殺した。
学校側は調査時点では「交友関係を作る上で生じた行き違い」と判断。同級生は「嫌な思いをさせてごめんなさい」などと、女子生徒に謝罪の手紙を送っていた。生徒側は学校にも謝罪を求め、メールなどでやりとりしていたという。
学校側は、友人関係で感じた苦痛などが自殺に影響したとして「生徒の心の苦しみに十分寄り添えなかった」と反省。文科省が今年1月にいじめの判断・定義を「いじめられた児童生徒の立場に立って行う」などと改めたのを受け、同省に報告したという。
植田健男・同高校長は「このような結果をまねいたことは非常に残念。亡くなった生徒のご冥福をお祈りし、再発防止に努めたい」とのコメントを出した。
同校は1947年設立の付属中学に併設する形で50年に開校した共学の中高一貫校。現在の生徒数は高校356人、中学239人。【安達一正】
2006年は年末にいじめ=自殺事件の報道が相次ぎ、いじめが一因とされた6人についてはほとんどが周知のものはずだったが、1件まったくノー・マークのものがった。それがこの名大付属高校事件である。だから改めて記事となった。
さて、06年年末のいじめ=自殺事件は、そのほとんどが「まず自殺があって、そのあといじめの事実が注目された」という形のものであった。したがって当事者の一方が亡くなっているため、「いじめ」の事実関係を明らかにするのは非常に困難だった。
しかし名大付属事件は違う。「いじめ」のあと不登校の期間があり、その間に調査が行き届いたため、自殺につながる「いじめ」の実相が分かったという点で、これは極めてまれな例である。
名大理事も「交友関係の行き違いの要素が大きいとみられるが、保護者からいじめとの指摘があり、文科省のいじめの定義に従って報告した」と、極めて明快に報告までのいきさつを説明している。理事の言うとおり、新しい定義に照らし合わせればこれは明らかにいじめ=自殺事件なのだ。
加害者側は「仲良くなりたくて声をかけた」「あいさつに気づかなかった」と、いじめの意図を否定したというが、それはだめだろう。被害者の主観を優先する新定義によれば、彼女は立派な加害者であり、友だちを死に追いやった罪は一生背負っていかなければならない。
私たち教師の側にも意識変革が必要となる。
人が嫌がりそうなことは一切口にしてはいけない、挨拶をされたら必ず返すなど、周囲への気配りもおろそかにはできない。総じて、常に誰かを傷つけていないか、いつも細心の注意を払いながら生活しなければならない、そういうことも子どもに伝え、それができるように育てなければならないだろう。
ただでも神経質な子ども同士の交際を、さらに神経質に、さらに深刻できめの細かなものにしなければならない。
そうした指導は必然的に人との「付き合い嫌い」を生み出すだろう。
しかしそれも避けなければならない。
本当に難しい時代になった。
2007.11.18
不登校:いたずら疑い教諭が事情聴取、
女子生徒が不登校に−−唐津の中学
/佐賀
[毎日新聞 11月17日]
市教委や学校側によると、問題のいたずらは生徒の上履きに画びょうを入れる手口で、今年5月29日の放課後に起きた。
学年主任の男性教諭が同30、31の両日、関与が疑われた3年女子3人から約2時間、事情を聴いたが、うち1人の生徒が6月18日から登校しなくなった。この生徒はいたずらをしていないと主張している。
市教委や学校が生徒の保護者から話を聞いたところ、教諭に事情を聴かれた約1週間後から「先生が怖い」と話し始め、動悸や不眠症状が出るようになったという。
市教委によると、教諭はこの生徒に対し「被害者の考え次第では、警察が入ってくることもあり得る。知っていることを正直に話し、学校の中で解決しよう」と話したという。しかし、保護者側の説明では、教諭に「しらばっくれるな」と言われたともいい、双方の説明が食い違っている。
市教委は「『警察』という言葉を使うなど、教諭に行き過ぎがあった」と、非を認めている。教諭は保護者に謝罪したが、生徒本人とはまだ面会できていないという。学校側は「一日も早く学校に復帰できるよう、本人と保護者の信頼を回復したい」と話している。【姜弘修】
この報道で本当に腹が立つのは、生徒の上履きに画びょうを入れるという行為が「いたずら」と表現されていることである。
同様の行為で画びょうを入れられた側が不登校になったとしても、毎日新聞は「いたずら」と言っただろうか?
それとも
毎日新聞社の定義では、こうした行為の
被害者が不登校になった場合は「深刻ないじめ」で、
加害者または加害を疑われ者の方が不登校になった場合は「いたずら」
といった社内の用語規定がある
のだろうか?
真意を尋ねたいところである。
さて、今月は学校の今後のあり方について、いろいろ示唆を与えられる事件が多かったが、この記事から学ぶことも多い。
たとえば「被害者の考え次第では、警察が入ってくることもあり得る」といった社会常識を教えることも、相手に威圧を与える可能性がある以上は言ってはいけない、ということである。
『警察』という言葉は、子どもに恐怖感を与えることもあるので、例えば小学校4年生の社会科学習で学ぶといった特別な場合を除いては、使うべきではないということだ。
ましてや校内の暴力事件や窃盗で警察に通報するなどといったことは「あってはならない」ことに属すると思う。校内で殺人や深刻な「いじめ」あるいは自殺があった場合も、その都度協議するにしても、すぐに警察に言うようなことは厳に慎むべきだろう。
「しらばっくれるな」といった乱暴な言い方にも注意すべきである。「しらっばっくれますな」とか「しらばっくださいますな」とか、いくらでも丁寧な言い方はある。
そもそも生徒の上履きに画びょうを入れる程度のことを、目くじらを立てて調べたからいけなかったのかもしれない。
さて、今後深刻ないじめ事件がおきたとき、毎日新聞が「学校の調査が生ぬるい」とか「初期対応が遅すぎる」とか、「いじめの認識が薄すぎる」とか、あるいは「学校は、本気で被害者の立場に立って考えていたのか」とか「いじめは犯罪であると教えていないのか」とか、そういったふざけたことを言わないかどうか、注意深く見ていこう。
2007.11.19
大学進学に資格テスト、教育再生会議が検討
[読売新聞 11月19日]
受験生の負担増につながるとして、一部委員からは慎重意見も根強く、年末の第3次報告に向けて大きな議論を呼びそうだ。
「高卒学力テスト」は、高校生の学力低下の問題や昨年に全国各地で相次いだ高校の必修科目の未履修問題などを受け、生徒の学力水準や履修状況をチェックするのが狙いだ。
制度設計の素案によれば〈1〉国公私立や選抜方法を問わず、大学進学を希望する人は必ず受験〈2〉受験科目は、必修科目から保健体育、芸術などを除いた国語、地理歴史、公民、数学、理科、外国語〈3〉全科目の合格者に大学進学資格を付与――などが主な柱。難易度は「高等学校卒業程度認定試験」(旧・大学入学資格検定)を想定しているという。
センター試験と何が違うのか?
ちょっと考えただけでは分からないが、
要するに推薦入試・AO入試、いわゆる一芸入試といった多様な入試の道をふさぐということ
である。
これらの入試合格者の中には必修科目から保健体育、芸術などを除いた国語、地理歴史、公民、数学、理科、外国語では、十分な得点を上げられないものが少なからずいる。なぜならこれらの新しい入試制度は、教科のみで行われてきた以前の入試の弊害を、克服するために生まれてきた形態だからだ。
この生徒たちはもう大学へはいけない。
しかし一方、
大学側から見るとこの多様な入試形態は、学生を集めるための恰好の方策だった。
特に定員割れを予想できるような大学で、とにかく学生に来てほしいとなると、多少学力が低かろうが何であろうが、とにかく受験してもらわなければならない。それがこの「高卒学力テスト」によって、一定水準以下の学力の生徒が大学入試を受けられなくなる。
そうとなると、大学はどうなるだろうか?
今年5月、再生会議は子育てに関する保護者向けの緊急提言の取りまとめを見送った。
学校だけをいじっていればいいものを、家庭にまで手を伸ばしたので世間の反発を食らったのだ。
今回は総ての大学を敵に回そうとしている。5月の轍を踏まないようにしてもらいたいものである。
2007.11.20
校長や教頭から自主降格、過去最多の84人
[産経新聞 11月19日]
調査結果によると、制度を利用した主な理由として最も多かったのは「健康上の問題」で44人、「職務上の問題」が29人、「家庭の事情」が10人などとなっている。
教頭以外の降任は「校長から一般教員」が8人、「主幹相当から一般教員」が14人、「校長から教頭」はいなかった。
東京都内の小学校長は「学校経営は教員や子供の監督・指導だけでなく、教育委員会や保護者の注文も多く管理職は本当に大変だ。その割に待遇も一般教員とたいして変わらない」と打ち明ける。
東京都では昨年度16人が制度を利用し、うち15人が教頭からの降任だった。
都教育委員会によると降任理由として「健康を害した」と「気力の減退」の複合理由としたのが10人以上いたという。
神奈川県では13人が降任したが、うち9人は同県が独自に設置している「総括教諭」からだった。総括教諭は、厳密には管理職ではないが、教務主任や学年主任など管理的な職務を担当する。
同県教委は、理由として「体調が悪い」ことを挙げる人が多い一方、「もっと教壇に立ちたい」と希望する人もいたとしている。
文科省の行った教員勤務実態調査によると、教頭の平均勤務時間は1日約12時間で、校長や一般教員より1〜2時間長かった。
6月に成立した改正学校教育法では、管理職を補佐する「主幹教諭」や他の教員への指導・助言を行う「指導教諭」を設置できるようにした。
だが、「主幹」など新しい管理職を先行して設置している東京都の場合、仕事がハードな割に待遇が十分でないとして希望者が少なく、充足率は3分の2程度しかないのが現状だ。
まだ私が十分若かったころ、とても尊敬していた30代の先輩に「校長になりたいですか?」と尋ねたことがある。非常に優秀で教育に情熱を傾けていた人なので、当然「なりたいとは思わない」という答えが返ってくるものと思い込んでいた。ところが意外なことに、答えは「なりたい」だった。そして次の言葉が新鮮だった。
「だって、自分の教育理念を十分に展開しようと思ったら校長になるしかないでしょ?」
私はその日から、出世するのも案外悪くないのかもしれないと思うようになった。しかしそれも昔の話である。
現代の校長というのは理念を展開する人ではない。生活の大半は外部との対応に追われ校内をじっくりと見ることもできない。
「地域に開かれた学校づくり」という理念は、具体的には代表者たる学校長の無限の地域参加という形をとる。さまざまな地区行事に夜となく昼となく、土日もなく参加することを求められる。かつては婉曲にもたらされた地域の要望もいきなり校長本人のところに寄せられるようになる。
担任も一度も相談されたことのない問題が、いきなり校長の電話に入る。地域や保護者の要望は教育委員会経由でもたらされることも多いから、それへの対応にも追われる。
かつては大局を見ていればよかった職が、瑣末なことにまみれる。
教頭(副校長)・主幹という職がたいへんだから忌避されるのではない。その先に夢があれば人は十分に耐えられる。
しかし夢も希望もなく、苦労の先が果てしない苦労だと感じれば、あえてそれに立ち向かおうとは誰も思わないのだ。
2007.11.21
高卒学力テストに慎重論 教育再生会議「センター試験で担保」
[産経新聞 11月21日]
原則として学習指導要領上の必修科目を試験科目とする高卒学力テストは、大学生になるための最低限の学力の有無を確認できる一方で、特定分野が不得手な生徒の進学が困難になる可能性もある。入学者減少に対する大学側の反発も予想される。
分科会では「成績管理は高校側の問題だ」「大学入試センター試験と2つの試験が必要となれば、受験生の負担増になる」と否定的な意見が続出。テストの難易度設定や高等学校卒業程度認定試験(旧大検)との兼ね合いの問題もあり、教育再生会議が12月にもまとめる第3次報告にテスト導入を盛り込むのは難しい状況だ。
つい二日くらい前、私は「高卒学力テスト」についてこう書いた。
今年5月、再生会議は子育てに関する保護者向けの緊急提言の取りまとめを見送った。 学校だけをいじっていればいいものを、家庭にまで手を伸ばしたので世間の反発を食らったのだ。 今回は総ての大学を敵に回そうとしている。5月の轍を踏まないようにしてもらいたいものである。 |
それがたった二日で、この体たらくである。
最近のコマーシャルを真似るとこうなる。
↓
「いきなりかい!?」
入学者減少に対する大学側の反発も予想される。
「予想される」だけでやめるんかい?
2つの試験が必要となれば、受験生の負担増になる
子どもに負担をかけたらいけないんか?
結局、
子どもに無理をさせず、社会に負担をかけず、学校の力だけで学力を上げればいい、ダメなら叩けばいい、という教育改革の方向は全く変化しない
のだ。
小泉内閣も安倍内閣も「骨太の改革」という言葉を好んで使ったが、教育改革だけは「骨なし改革」でいくらしい。
2007.11.29
<東国原知事>「徴兵制あってしかるべき」
[毎日新聞 11月29日]
この会合は、県内のさまざまな業種の人たちと知事が意見を交換する「県民ブレーン座談会」。この日は11回目で、建設業界の12人が出席した。
建設技術者を養成する全寮制の県立施設の話題が出た際、知事は「個人的な意見」と断ったうえで「徴兵制があってしかるべき。若者が1年か2年くらい自衛隊に入ってもいいのではないか」と述べた。【種市房子】
すべての20歳の男女が自衛隊にはいるため、どれほどの費用がかかるか考えたことがあるのだろうかか? 今の日本のどこにそんな金があるのか?
資金の裏づけのない政治の話は、たんなる与太話である。
さて、それにしてもなぜ徴兵制なのだろう? 自衛隊なのか?
現在の日本には広くあまねく広がった、特別な教育機関がる。義務教育学校がそれである。何も自衛隊や徴兵制に頼らなくても、
いまあるこの「学校」を軍隊並の厳しいものにしさえすればいい
それだけのことである。
それには一銭の金も要らない。ただ指導要領を買い換えるだけでいいのだ。
それを言い出さないのは結局、東国原知事が若者にはある時期、規律を重んじる機関で教育することが重要だなどとは、本気で思っていないからである。