2008.04.05
文部科学省は、小学校の英語活動の概要を発表
[読売新聞 4月4日]
文部科学省は3日、2011年度から小学5、6年で必修化される小学校の英語活動の概要を発表した。同省作成の教材「英語ノート」(試作版)で計285の単語と、中学1年レベルの50の表現を教え、6年生終了時点で英語を使って遊んだり、自己紹介できたりすることを目指す。
文法や単語の書き取りは教えない。英語を教えた経験のない教師にも配慮し、ヒアリング用CDや「スピーチ指導」のポイントなどを解説した指導資料も導入する。
単語285、50表現学ぶ
小学校の英語活動は年間35コマ(1コマ45分間)実施される。5、6年ともにレッスンを9ずつに分けて「話す・聞く」を中心に授業を進め、「書く・読む」には踏み込まない。
「英語ノート」には「CDを聞く」「友達の前で発表する」といった活動が多く盛り込まれ、5年生の「レッスン1」では「世界のこんにちはを知ろう」として、英語の「Hello」だけでなく、中国語、フランス語、ロシア語などの「こんにちは」をCDによる音声と文字で紹介する。5年生ではその後、ビンゴゲームなどの遊びを通じ、疑問形や否定形も学ばせる。
6年生の場合、「レッスン1」でアルファベットを学び、道案内やオリジナルの英語劇作りなど難易度を上げながら、最終レッスンでは「I want to be a teacher.(私は教師になりたいです)」などと自分の表現で将来の夢を語れるようにする。
教師向けの指導資料では、「冒頭のあいさつ(5分)」「前回の復習(15分)」など45分間の授業をどう進めるか詳細なタイムスケジュールを示し、「指導上の留意点」「カードを見せながら児童に質問する」などの指導方法についても分刻みで明記した。教材を使用するかどうかは各学校の判断に任せるとしているが、同省では来年度までに、全小学校に250万部を配布、11年度の授業開始に向けて準備を進めてもらいたい考え。
[解説]教え方に工夫を
3年後に導入される小学校の英語活動の教材や指導用資料を、文部科学省がこの時期、授業のタイムスケジュールにまで踏み込んで作成したのは「総合学習」の苦い教訓があるからだ。
「ゆとり教育」の目玉として2002年度から始まった総合学習は当初、「教師の独自性を重視する」として授業の進め方を教師個人に任せた結果、現場の混乱を招き、ほかの教科の補習に充てられるなど、本来の目的が果たせなかった。
小学校での英語活動は現在、全公立小の97%が何らかの形で実施しているが、教科書がなく、ほとんどの教師が体系的に英語を教えた経験がないという点で状況が似ている。教師の間に不安が広がっていることを考えると、国として教材を整備するのは当然だろう。しかし今回の教材には、子供の発達度合いによっては難易度の高い内容もある。無理に教え込むことで英語嫌いが生まれれば逆効果になる。教育の質を維持しながら子供一人一人に合った授業を進めるには、現場も、そして文科省もさらなる工夫を重ねることが必要だろう。(社会部 村井正美)
これだけ学力向上が叫ばれる中で、毎週1時間の授業時間を裂いてビンゴゲームをやることの是非は別とする。
「英語ノート」の内容についても、現物を見てから考えよう。
今、私が考えたいのは次の文いついてである。
教育の質を維持しながら子供一人一人に合った授業を進めるには、現場も、そして文科省もさらなる工夫を重ねることが必要だろう。
村井記者の独創ではない。一般によく言われる言い方だが、そもそも同時に30人に以上の子どもを前にして、一人の担任が「教育の質を維持しながら子供一人一人に合った授業を進める」ことが可能なのか。
一人ひとりの状況を見て適切なアドバイスをするのに、一人1分しかかけなかったとしてもそれだけで30分である。1授業時間は45分だから、あっという間に三分の二が費やされることになる。しかもそれぞれの子どもの立場に立ってみると、1分間アドバイスを受けただけで、後29分間は半ば捨て置かれるのだ。最初に指導を受けた子は残りの29分を練習に費やせばいいが、最後に受ける子は29分も無駄な時間を送ることになる。
いや、そんなわけには行かないだろう、だからこそ現場も、そして文科省もさらなる工夫を重ねることが必要だといっているのだ。
そう言うかもしれない。しかしそれは文科省や教師の工夫で、なんとかなるものなのだろうか?
昔の教師は30人の一人一人に合わせるなどということは考えもしなかった。「合わせる」のは子どものほうであって教師ではない。だから一斉授業が可能だった。
「30人の一斉授業で、教育の質を維持しながら子供一人一人に合った授業」という、文を読んだだけでも不可能なことを、どう具体的にやっていけばいいのか。村井記者の、そして世の人々の考えを伺ってみたいものだ。
2008.04.05
<通知表>横浜市立中で記載ミス
「計算力を向上させ魔性」
[毎日新聞 4月10日]
横浜市港北区の市立新田中学校(示野章子校長)で今年3月、1年生の学年末通知表で「計算力を向上させ魔性(ましょう)」などの記載ミスが見つかり、生徒58人に訂正版を配布していたことが分かった。教諭3人がパソコンで作った元データからコピーする際に誤った。学校側は3月末に保護者の指摘で気づいて謝罪したが、「魔性」と誤記載された女子生徒の父親は「誰でも間違いはあるが、ミスを見過ごした学校全体に不信感を抱く」と批判している。
同校は昨秋に前期分、今年3月には学年末分の通知表を作成して生徒に配布。学年末分は前期の成績を再掲載する欄があった。
市教育委員会によると、数学の男性教諭は女子生徒1人について、前期分で「魔性」と記載し、配布前に同僚の指摘で修正したが、元データは修正しなかったため、学年末の再掲欄で誤った。「不快な思いをさせて申し訳ない。前期で直したので間違っていないと思い込んだ」と話しているという。
英語の女性教諭2人は観点別評価欄で、前期成績の「ABBA」を、学年末は「ABAB」などと再掲。通知表とは異なる順番で元データを作成していたのに学年末はそのままコピーしたため、当時の1年生212人全員の記載順を間違えた。うち58人は訂正が必要となった。
市教委は「成績には影響ないが、チェック体制が甘かった」と話し、指導主事が学校訪問の際に注意を呼びかけて再発防止を図る。【野口由紀】
なんとも余裕のない話である。
基本的に「その程度、許せや」といった話かと思うが、許せないとなればまた別の方策を練るしかないだろう。
市教委は「成績には影響ないが、チェック体制が甘かった」と話し、指導主事が学校訪問の際に注意を呼びかけて再発防止を図る。
というが、それで収まるほど根の浅い問題ではないだろう。
教員はしばしば子どもに手渡す直前まで通知表を書いている。
説明責任の時代だから、「なぜウチの子は『2』なの?」と問われても答えられるだけ厳密な評価をしなければならない。かといって勉強の苦手な子が「1」「1」「1」「1」・・・・とならないよう、適度の工夫もしなければならない。そう考えると、通知表の下処理だけで膨大な時間がかかってしまうのだ。
所見欄も厄介である。特にコンピュータを使い始めてからは入る文字が手書きの2倍にもなり、そうなるとやたら話しかけたい教員はいくらでも書き込んでしまう。
私は、終業式の日の朝の7時までかかってようやく書き終えたことがあり、以来懲りて手書きに戻した(このときは午前3時ごろ、もうだめかと思った)。
当日の朝までかかって貼り付けて出すようではミスも出ようというものである。早めにやればいいのは重々承知だが、その時期にはその時期でやっておくべき仕事がある。授業だって毎日あるのだ。
ではどうすればいいのか。
答えは簡単である。教師の人数を増やして、その時期に授業を肩代わりもらうか、逆に通知表のチェックをしてもらうかすればいいのだ。
たったそれだけのことである。安全や確実性のためにはコストがかかる。しかしそれにもかかわらず予算不足で人員増加が望めないというのなら・・・
それはそれであきらめればいいのだ。
「計算力を向上させ魔性(ましょう)」が何ほどのことか。
「ABBA」を、学年末は「ABAB」、AとBの数は同じだし、違っていたところで、Bの項目に真剣に手を入れてくる家族が、世の中にいくつあるのか?
もともと目くじらを立てるほどのことではないと思うがどうか?
世の中、寛容というものはなくなってしまったのだろうか?
2008.04.14
都立高副校長はツライ!?
残業が全国平均の2、3倍
[産経新聞 4月13日]
都立高校の副校長の平均残業時間が、勤務日で3時間19分、休日出勤時の業務時間も3時間5分にのぼり、全国の高校教員平均の2、3倍に達していることが、都教育委員会の調査で分かった。
総合的な学習の導入で地域との連携が深まり、窓口役の副校長に業務が集中していることなどが要因。都教委は、副校長をサポートする教員の育成を急ぐなど対応策を検討している。
副校長の残業の内容をみると、報告書の作成が70分と最多。休日出勤時の業務内容は、地域行事や会合への出席など「外部対応」が平均約1時間半と半分を占めていた。
公立小中高校・特別支援学校の副校長になるための管理職試験の倍率は、平成12年には4・5倍だったのが、19年には2倍にまで下降。都教委によると、副校長の責任の重さや多忙さが不人気の要因の一つになっているという。
副校長(教頭)の仕事は昔から楽ではなかった。
基本的には事務屋だが、普通の教員は事務処理を主たる仕事としていないから、急に教頭になっても戸惑うばかりである。学校の隅々まで知っていて危険箇所を修理して回る姿は決してエリートっぽくは見えず、何かあれば真っ先に責任を問われる。
学校内でただ一人の中間管理職で、上川は押さえられ下からは突き上げられる。ろくなものではない。その職だけを考えたら、全く魅力のないものなのだ。
しかしそんな副校長(教頭)職にも成り手があったのは、ひとえにその先の校長職に魅力があったからである。
校長になればそれにふさわしい尊敬が与えられる、校長になれば十全に己の教育論を実践に移すことができる、校長になれば保護者全員に号令しよりよい教育ができる・・・・、人それぞれではあっても、確かにそれは魅力ある職だった。
だが、今はどうだろうか?
現代の校長は高所大所から学校を見ているというわけには行かない。保護者からのクレームはいきなり校長室に飛び込むから、学校の隅々まで理解していなければならない。「それについては知りません」「聞いていません」と絶対に言えないからである。
隅々まで知っているということは瑣末なことに心が奪われているということである。とても教育論などというレベルではない。今日一日、学校で起こったことのすべてを了解し、いちいち判断し、指示を与える。そして絶対に間違ってはならず、間違えば(場合によっては)首が飛ぶ。
小説「ぼっちゃん」の時代には、村の校長と警察署長と村長は同じ給料をもらっていた。いわば明治の村方三役である。しかし、現在、市長と校長が同じ給料だと思う人はいないだろう。地位もぐっと下がって、今や地域や保護者のパシリである。
人はどんなに苦しくともその先に夢があれば耐えられる。昔の副校長(教頭)は、だから耐えられた。今の副校長(教頭)はだから成り手がいない。
東京都ではいまだに主幹教諭が充足できない。
校長・副校長を本人の意思による試験制度でまかなおうとすれば、いつかきっと空位の時代が来るだろう。
2008.04.19
教室の子どものけが、先生の過失責任認めず
最高裁
[朝日新聞 4月18日]
小学校の教室で児童が同級生にけがを負わせた場合、同じ教室でほかの児童に対応していた担任の先生の責任は問えるのか。けがをした女児と両親が千葉市を相手に損害賠償を求めた訴訟の上告審判決で最高裁第二小法廷(中川了滋裁判長)は18日、「担任に過失はなかった」として、市の責任を認めなかった。
判決によると、02年5月、千葉市内の市立小学校の3年生の教室の後方で、男児がほこりを払うためにベストを振り回したところ、女児の右目にファスナーが当たった。女児はけがを負ったが、担任は当時、教壇近くの自席で4、5人の児童らと話していて事故に気づかなかった。
二審・東京高裁判決は「担任は、教室全体の観察を怠った過失がある」として、千葉市に約86万円の支払いを命じた。しかし、第二小法廷はこれを破棄。「担任は他の児童から忘れ物の申告などを受けており、ベストを振り回した男児は日常的に特に注意が必要な児童でもなかった」と述べ、危険を予測できなかったと結論づけた。
原告と男児の親との間の訴訟では、約86万円の支払いが確定している。最高裁は83年に、放課後に「居残り学習」をしていたときに、児童が飛ばした画びょうつきの紙飛行機が別の児童の目に当たったケースの訴訟でも、担任の責任を否定している
普通の人たちはこの記事をどう読むのだろうか?
そんなことは当然だろうと思うのか、親の心を理解しない不当な判決と思うのか、私はむしろ、その方に興味がある。
教員としての感想は簡単である。
30人ほどもいる教室の、こちらで起こっていることのために、あちらのできごとに目が行き届かなかった、それが教師の過失ということになっていたら大変なことだった。まずは胸をなでおろすことができる。
しかしまったく問題がないわけでもないだろう。
ベストを振り回した男児は日常的に特に注意が必要な児童でもなかった
となると、日常的に特に注意が必要な児童が教室にいる場合、担任は不断にその子を観察し続けなければならない、それができなければ、東京高裁の判決の通り「担任は、教室全体の観察を怠った過失がある」ということになってしまうからだ。
現在の学校には、きちんと席についていられない子や乱暴な子は数%の割合で確実に存在する。しかもほこりを払うためにベストを振り回したなどという、日常の一瞬のできごとでは、普通にしていたら防ぎようがない。
解決策は二つしかない。
特に注意が必要な児童は隔離して他の児童生徒の安全を図るか、教室内に常時監視してくれる別の職員を置くかである(刑務所の作業風景のように)。
しかしいずれにしろ職員の増員なしにはできないことであり、現在の財政状況からいえば可能性はゼロに近い。
私たちはただ教室内で緊張しながら、彼らの一挙手一投足に注意を向け、一朝事故があったときには、馘首覚悟で事態に立ち向かうしかない。
教職は今やきわめて危険な仕事となってきた。
2008.04.24
全国学力テスト 福沢諭吉の身長、「全然明るい」は正しい?
[産経新聞 4月23日]
■実生活での活用力クッキリ
「全然明るい」は正しい? 福沢諭吉の身長は? −。小6と中3の児童生徒を対象に22日に行われた全国学力テストでは、学力を実生活に活用する力を意識した出題傾向が強まった。文部科学省は昨年と出題の領域や分量に大きな変更はないとしたが、基本的な知識を問う「A問題」で学校生活を題材にした出題が目立ち、PISA(OECDによる学習到達度調査)型の学力を求める姿勢が一層浮き彫りになった。
算数・数学では小6のA問題で、「約150平方センチ」の面積について(1)切手(2)年賀はがき(3)教科書の表紙(4)教室の床−の選択肢から選ぶ四択問題を出題(正解は(2))。センチメートルという単位について肌身で理解しているかを調べた。
中3のB問題(活用)では、「明治期の文豪、樋口一葉の身長が140センチ台であることが判明した」との新聞記事を引き合いに、慶応義塾創設者の福沢諭吉の身長を出題。上腕骨の長さから身長を推定する数式を活用させつつ、数学が意外な“謎”を解いてくれる一面をアピールした。
国語では、中3のB問題で、若者の間では肯定表現として使われることが多い「全然」の使い方に関するリポートを出題。「全然明るい」という表現の賛否について、いずれかの立場に立たせて理由を説明させる約100字の“ミニ小論文で言葉に対する感度をはかった。
一方、前回誤答が多かった問題の類題も。昨年の小6算数では「底辺×高さ」の公式で求められる平行四辺形の面積について、斜辺の数値など不要な情報を加えつつ、別の長方形の面積と比較させると、正答率が18%と低かった。今回は底辺、高さのほかに斜辺の数値を示す単純な問題で、理解の正確さを調べた。
文科省によると、四十数年前の全国調査や近年の抽出調査と同一の問題が全教科で計25問出題されており、結果が注目されそうだ。
◇
今回の全国学力テストを専門家に分析してもらった。
《国語》宮川俊彦・国語作文教育研究所所長「言語理解力や言語表現力の習得を目指す狙いが一層鮮明になった。椋鳩十の『母グマ子グマ』など広範で多元的な力を見る題材が登場。課題文の質は良化した。ただ、長文の割に設問数が少なく生かし切れていない。全般的に日常生活に関する出題に偏り、哲学や思想の領域は不十分。分析力や論理力は把握できない。国際比較調査を意識したのだろうが、国語は各国の教育の根幹であり、独自の基軸が打ち出されてよい。学テはまだ過渡期。出題に工夫を重ねてほしい」
《算数・数学》坪田耕三・筑波大教授「問題の読み取りにハードな部分はあるが、全体的によく吟味されている。小学校では前年も出された平行四辺形の面積で、条件を増やして自ら判断する力を試すなど、問題が若干改善された。数学では新学習指導要領で小学校に移行される内容が多い印象も受ける。知識中心のA問題でも、算数でランドセルなど身の回りの物の重さが問われるなど、教科書では解けない問題が多い。立体造形や作図など、実践的な要素を取り込むといった授業改善の方向を示唆した問題だ」
全国学力・学習状況調査も2年目を迎え、だいぶ方向が見えてきた。
教科書では解けない問題が多い
まさにその通りだが、
教科書というのは文部科学省が定めた学習指導要領に準拠したものであり、その意味では
教科書では解けない問題が多いというのは
文科省の言うとおりの勉強をしていては、B問題は絶対にできるようにならない、ということである。
恐ろしいことだが、それが事実なのだ。
ではどのようにしたらB問題は解けるようになるのか。
全国学力・学習状況調査の問題はそうした疑問に明確な方向性を示す。
計算ドリルや漢字練習などやっていても意味がないのだ。
学校においては生活科と総合的な学習の時間の充実、そして児童生徒会やクラブといった特別活動の徹底がB問題への架け橋となる。
単位について肌身で理解しているかを調べられたり全般的に日常生活に関する出題に偏った問題が出される以上、家庭においては学習塾をやめさせ、家事や家業の一部を行わせる(お手伝いといったレベルではいけない)ことがB問題への近道となるはずだ。家においても学校の学習者であるような現在の姿を改め、真の生活者にしていかなければならない。
それを行って初めて、「文化祭に使うベニヤ板や釘の数」「富士五湖めぐり」(中学校数学B)「インタビューのしかた」や「図書館だよりの読み取り」(小学校国語B)といった問題はできるようになる。
世論に押され、マスコミに叩かれ、文科省は迷走を始めたとしか思えない。
子どもにゆとりを与えるために授業時数をへらした(ゆとりを与えたかったら時数を増やし、ゆっくりと学習させればよかったのに)のと同じように、総合的な学習の時間や特別活動によって伸びる力を伸ばすために、それらの時間を減らすという、とんでもない誤謬を犯し始めている。
しかも77億円もの税金を投入して行っているのだ。
2008.04.29
志望高校名を記入の書類 燃え残りが見つかる 箕輪中
[信濃新聞 4月28日]
上伊那郡箕輪町の箕輪中学校(北原秀樹校長)を今春卒業した生徒の氏名と志望校名が記された書類や成績表の写しの一部が、伊那市内の畑で見つかっていたことが27日までに分かった。校長の指示で処分のため校外に持ち出した教職員が焼却した際、燃え残ったとみられる。学校側は集会や文書などで生徒や保護者に謝罪、北原校長は「再発防止に努める」としている。
同校によると、見つかった書類は生徒の氏名と志望校をまとめた書類や、担任交代の際に生徒指導の参考にするため使った過去の成績表の写しなど。処分のため持ち帰った教職員が3月29日、実家の畑で焼却、完全に燃えたと思っていたという。
町教委によると、町は機密文書を処理する際に学校にも日時を伝えているが、すべて持ち込むような指示はしていないという。同校によると、昨年は町の処理に持ち込んだが、今年は、1月末に処理があったばかりで当分予定がなかったため、校長の判断で独自に処理したとしている。
畑で燃え残しとは、なんともローカル色豊かな話である。
夕日を背に、畑の真ん中で焚き火をする老教師………しかし、それが燃え残しをつくって全国ニュースとなると呑気では済まされない。
さて、このニュースを見て首を傾げた人も少なくないだろう。
なぜシュレッターを使わなかったのか、
あるいは、なぜ学校の焼却炉を使わなかったのか、
さらにその二つがダメなら、機密文書の処理業者に任せれば簡単に済む話なのに。
しかし学校はそのいずれもがダメなのである。普通の企業が当然のように行っていても、公務員には許されないことがある。
シュレッターにかけた紙は繊維が裁断されているために再生がきかない。したがって環境リサイクルを推進する立場にある官公庁や学校には、シュレッターそのものがない(少なくとも私の周辺ではそうだ)。
焼却炉はダイオキシンが問題となった10年ほど前にいっせいに撤去されてしまった(ものを燃やせば、それがどんなものであっても青酸カリの数百倍の毒性を持つダイオキシンが発生する、とのことだったが、火事現場で消防士が次々と亡くなったという話が聞こえてこないのはなぜだろう?)。
聖域なき構造改革の時代にあっては、機密文書の処理業者など、夢のまた夢、である。
しかたないので役所が定期的に集めて、厳重管理の上で焼却処分にしたり業者に引き渡したりしている。しかしそれとて緊縮財政の中では、年数回というきわめて非現実的な対応しかできないのだ。
今年は、1月末に処理があったばかりで当分予定がなかったため
年度末の3月に、どれほど大量の機密書類が廃棄されるのかといったことに関して、役所はあまり興味を示さない。しかし学校は1ページに一人でも児童の名前があればそれは機密扱いだといった徹底した個人情報保護の立場をとっているので、吐き出される書類は半端ではないのだ。
非現実的なきまりを作れば、かならずどこかにひずみが生まれる。
校長の指示で処分のため校外に持ち出した教職員が焼却したという反則は、そこから生まれた。
もちろん誉められたことではないが、いつまでもマンパワーに頼っていれば必ず同じことが起こるだろう。
それにしても、私の子どものころは、どこの学校を志望しているかなど秘密でもなんでもなかった。ギスギスした時代になったものだ。