キース・アウト
(キースの逸脱)

2008年6月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。
















 



2008.06.06

子供の将来「授業時間増では不十分」保護者2割


産経新聞 6月5日]


 小中学生の保護者の2割が新学習指導要領が示した授業時間数増では不十分と考えていることが5日、日本PTA全国協議会の調査で分かった。協議会の赤田英博会長は「所得格差が指摘される中、子供の将来を考え学力を上げたいと危機感を持つ親が増えているようだ」とみている。
 昨年11〜12月に中2と小5の保護者計4800人を対象に調査し、81%から回答を得た。
 3月告示の小中学校の新指導要領が主要教科の授業時間を約1割増やしたのに対し「この程度の増加でよい」と答えた小5の保護者は49%、中2が47%と半数近くを占めた。しかし「より増やした方がよい」と不満を示した保護者も小5で20%、中2は23%いた。
 「現行程度でよい」としたのは小5が25%、中2が23%。「今より減らした方がよい」は、いずれもわずか1%にとどまった。




 一日の新聞のすべての記事に目を通し、全文を読みきる人は稀だろう。現実には特殊な職業につく人たちだけだ。
 たいていの人は見出しにざっと目を通し、興味ある記事のみを選び出してじっくりと読む。見出しの言葉は社会の動向を示すものとして頭の中に刻み込まれるだけだ。
 上の記事について言えば、
子供の将来「授業時間増では不十分」 保護者2割
つまり
時間増だけでは不十分であって、それ以外に何らかの手を打たねばならないと考える保護者2割もいるという意味だとして頭に入れる。
しかし記事の内容はまったく別なのだ。

アンケートで2割の保護者が答えたのは、授業時数を「より増やした方がよい」という項目なのである。けっして
子供の将来「授業時間増では不十分」
といった話ではない。

さらに
「この程度の増加でよい」(小学校で49%、中学校が47%)
「現行程度でよい」(小学校25%、中学校が23%)
「より増やした方がよい」(小学校で20%、中学校は23%)
「今より減らした方がよい」(いずれも1%)
のというアンケート結果から、
小中学生の保護者の2割が新学習指導要領が示した授業時間数増では不十分と考えていることが5日、日本PTA全国協議会の調査で分かった
という記事を書くのは、数値の読み取りとしては、いかにも異常である。普通は数値の最も大きいものについて書く、それが常識というものである。

4月に行われた全国学力学習状況調査では、この手の問題がかなり多く出され、PISA (OECD生徒の学習到達度調査)でも類似の問題が出されたはずである。

私は、日本人の学力は落ちていないと思っていた。しかし
天下の産経新聞記者がこうした読み取りしかできないとしたら、確かに日本の学力は地に落ちたというしかない。

しかも学校が必死で学力を上げる努力をしているというのに、天下の公器である大新聞がこの程度の記事を書き、しかもNIE(Newspaper in Education(教育に新聞を)運動を推進しようとする。

恐ろしいことである。






 



2008.06.08

急増する燃え尽き教師:1(新井肇教授)


朝日新聞 6月7日]


 戦場なみのストレスの職。
 学校現場の環境が変わり、困難の度が増しています。
    *
 精神疾患での休職は10年で3倍。
 理想に燃えて無理をしがちです。
 理想に燃え、エネルギッシュに教壇に立っていた先生が、いつしか表情をなくし、やる気も失(う)せ、やがて学校から消えていく。そんな「バーンアウト」(燃え尽き症候群)に陥る教師が急増している、と兵庫教育大大学院の新井肇教授(56)は警鐘を鳴らします。良心的な教師ほど燃え尽きるという悲劇を、どう防げばいいのでしょうか。
 ここもまた 戦場なるか ひくことを せざりしともの 過労死をきく
 関西の公立中学校の元女性教諭が在職中につくった歌です。彼女も生徒と真摯(しんし)に向き合った末に、定年まで3年を残して教壇を去りました。
 近年、極度の心身の疲弊と仕事への意欲、他者への思いやりの喪失をきたす「バーンアウト」=キーワード(1)=に陥る教師が急増しています。それは文部科学省が調査した病気休職者の推移=同(2)=をみても明らかです。
 背景には学校現場の環境の変化があります。いじめ、不登校、校内暴力などに加え、ネット犯罪や児童虐待など新たな問題が教師の前に立ちはだかっています。家庭の教育力低下に伴い、本来家庭で行われるべきしつけまで要請され、行政による管理強化、保護者からの過大な要求とも相まって、教師にとって困難の度は増しつつあります。
    *
 もともと、教師はストレスを抱え込む宿命を背負わされているといえます。
 なぜか。東大の佐藤学教授(教育学)は、教職の持つ特性を次のように指摘しています。
 ひとつは授業中に私語が起きる、堂々と寝るなど、目の前の子どもたちから自分の授業への評価がじかに返ってくる「再帰性」。二つ目は教える相手が変われば以前はうまくいっていた態度、技術が必ずしも通用しない「不確実性」。前の学校では生徒から人望のあった教師が、転勤後に攻撃の的となる例も少なくありません。三つ目は数量化できない仕事はゴールが見えず、プライベートな領域にまで際限なく仕事が入り込んでくる「無境界性」です。
 そのため、国際労働機関(ILO)がかつて指摘したように「教師は戦場なみのストレスにさらされている」のです。
    *
 教師に一般的に共通する性格も、バーンアウトに陥りやすい個性と重なるところが多くあります。心理学の分野では、バーンアウトに陥りやすい人の特徴として(1)ひたむきで仕事熱心(2)妥協を嫌う完璧(かんぺき)主義(3)理想主義などを挙げています。
 子どもに熱心にかかわる、理想に燃え責任感のある性格は本来、教師に最も求められるものです。ところが、こうしたタイプの人がバーンアウトを引き起こす可能性が高いところに、悲劇があるといえます。
 理想のタイプゆえに無理を重ね、あるとき突然モーターが焼き切れるように仕事が続けられなくなるのです。
 私が相談にかかわった40代の高校の女性教諭は、家出、不登校、自殺未遂など生徒の指導に追われるうち円形脱毛症になり、次いで生理不順になっても意に介さず働きました。突発性難聴になって初めて医者にかかり、「あんた、死ぬ気か」と言われました。
 彼女は「顕著な身体症状が出てよかった。症状が出ず仕事を続けていたら、どうなっていたかわからなかった」と述懐しています。
 次回、教師をバーンアウトから救う対処法を考えます。
    ◇
 新井肇(あらい・はじめ) 兵庫教育大大学院教授。埼玉県立熊谷高校、同小川高校定時制教諭などを経て06年から現職。専門は生徒指導、学校カウンセリング。著書に「教師崩壊―バーンアウト症候群克服のために」(すずさわ書店)、「青少年のための自殺予防マニュアル」(金剛出版、共著)など。
 《記者から》
 子どもたちの問題行動の質が変わってきている、と新井教授は言います。教師が生徒指導で注意しても、正面からの反抗はなく、「チッ」と舌打ちされたり「シカト」されたり。投げたボールが返ってこずコミュニケーションが成立しない。これがボディーブローのように効く。特に長い経験から確固たる教育観を築いたベテラン教師ほど戸惑いは大きく、燃え尽きの危険性が高いそうです。四半世紀前、私が学校にいた時代とは、まるで違う空気が流れているようです。(大出公二)
 ◆キーワード
 (1)バーンアウト 医師や看護師、教師など人を相手にする専門職に特有のストレス。70年代半ば、米国で提唱された。仕事に精魂を傾けるなかで消耗し、自己嫌悪や無力感に陥り、仕事を続けられなくなる状態をさす。単なる疲労と異なり、強い幻滅感を覚えることに特徴がある。
 (2)病気休職者の推移 06年度の全国公立学校教職員の病気休職者のうち、精神疾患による休職者は4675人で全体の61.1%を占め、過去最高だった前年度を数・割合とも更新した。病休者は過去10年間増加傾向にあるが、精神疾患の休職者の増加率はそれを上回る。96年度の1385人に比べ3倍を超え、病休者全体に占める割合は36.5%から大幅増となり、「燃え尽きる教師」の急増を示唆している。



 これはもう何度も言われてきたことで、いまさら話題にするまでもないことだ。

 小さな頃から「先生」にあこがれ、厳しい受験勉強に耐え、つぶしの利かない教育学部を出てやっと教師になったというのに、年端も行かないガキに翻弄され、保護者にボロボロに叩かれ、病気になって潰れていく。町に出ても子どもの姿に怯える、最後に勤めた学校のある町には足も踏み入れられない。

 不登校になって学校に行けない子どももかわいそうだが、すべてを失ってしまう大人だって可愛そうなのだ。


 しかし、大人の方はまったく顧慮されない。

 

 





 



2008.06.21

小中校統廃合を促進
35年ぶり基準改定、検討要請へ


朝日新聞 6月16日]


 少子化が進み、公立小中学校がこれ以上小規模化するのを防ぐため、文部科学省は統廃合を促進する方針を固めた。16日に開かれる中央教育審議会(文科相の諮問機関)の分科会に、具体的な検討を要請する。中教審で異論が出なければ、公立校の規模に関する国の基準が35年ぶりに見直されることになる。
 文科省は教育上、学校にはある程度の人数が必要と判断。中教審には(1)具体的な規模の目安(2)地域が受け入れやすい統廃合のやり方(3)隣の学校が遠く統廃合が困難な地域では、一部の授業や学校行事を共同で行う方策――などの検討を求める。
 学校統廃合をめぐっては、1956(昭和31)年に当時の文部省が1校12〜18学級、通学距離は小学校4キロ、中学校6キロ以内との基準を示し、地方自治体に推進を求めた。しかし、無理な統廃合で地域間の対立や通学に困る子どもが生まれたため、小規模校も容認する通知を73年に出し、立場を事実上修正した。
 小中学生の数は80年代以降、減り続けている。公立校に通う小学生は81年(1182万人)から07年(701万人)、中学生は86年(589万人)から07年(333万人)でそれぞれ4割減。一方、公立学校数は同じ期間で小学校9%減、中学校3%減にとどまる。
 このため、1校あたりの学級数は減少気味だ。07年現在で12学級未満なのは、中学校で10年前より7ポイント増の55%。少人数学級が広がる小学校でも10年前とほぼ同じ50%。少子化により、小規模校は今後も増える見通しだ。
 統廃合の取り組みは、人口の社会的な増減もあるため地域差が大きい。積極的に進める地域がある一方、この四半世紀で、小学校では神奈川、沖縄、千葉、埼玉、愛知、大阪などで、中学校では滋賀、千葉、埼玉、茨城、広島などで学校数がむしろ増えた。(中井大助)



 政府は、いわゆる「骨太方針2006」で「教職員の自然減を上回る削減」を、「骨太方針2007」で、教員給与の削減を決めた。しかし人数も給与も下げ、なおかつ教育水準を上げるという、誰が考えてもムチャな方針を押し切ることもできないため、今度は小中学校の統廃合という方針を打ち出したのだ。

 二つの学校をひとつにすれば、校長・教頭・事務・養護教諭といった、一校一人の職で人数が半減にできる。また、例えばA小学校の20人1年生とB小学校の20人の1年生が統合されても、クラスは40人学級ひとつでいいから、担任さえも削減できる。
小規模校の統廃合は教育財政再建の、魔法の杖なのである。
 
 こうした魔法の杖は、政府が言い出すまでもなく、すでに各地の地方公共団体でふるわれている。たとえば秋田市は「秋田市小・中学校の適正配置等について(提言書)」
という報告書を作成し、
「多様な個性を持つ児童生徒が出会い、切磋琢磨し、その中で社会性や協調性を培いながら、望ましい人間関係を築いていくことができるような規模が望ましい。」「人間関係が固定化されず、成長の機会が得られるように、クラス替えが可能であることが望ましい。」といった中規模校の利点を挙げ、統廃合への意欲を見せている。

 確かに、秋田市を始めとする秋田県全体は全国有数の小規模校乱立状態で、
12学級未満の小学校は全282校中220校、78%(全国平均52.1%)。
12学級未満の中学校は134校中実に106校、79%(全国平均は61%)もある。

 (平成19年度全国学力学習状況調査。上の記事との数字の差がどこから生まれるのかは分からない)

 だが待て、同じ全国学力学習状況調査で、小中とも全国一位に輝いたのはどこの県だったのか。
 その秋田県の高学力を、教育再生会議はどう分析したのか

 
野依座長は視察後、「少人数教育で大変成果が出ている」と感想を述べた。さらに「規模が小さいと理想的な取り組みができる。子供たちに向き合う時間を作るのが教育の基本だ」と話した。
 
 秋田県が日本一なら、世界一はフィンランドである。
 そのフィンランドは、
 生徒数50人以下の学校が40%にものぼり、生徒数500人以上の学校はわずか3%。しかもその小さな学校に校長、教員、専門科目教員の他に、看護士、学校心理学士、特殊教員(授業中の生徒を観察し、教員に助言したり、自分が別個に授業についていけない生徒やグループの面倒をみる)、学校アシスタント(生徒数が大きい学級にアシスタントを入れる)など、大量の職員を入れているのだ。
 日本一と世界一の共通点はここにある。
 ポイントは少人数学級ではない。少人数学校とTT(チーム・ティーチング)の維持が高学力の決め手なのだ。

 政府も秋田県も学力向上の決め手を手放そうとしている。
 教育条件として学力低下を起動させながら、教員を締め上げることで低下分を補い、さらに高い学力をつけさせようというのだからすさまじい執念である。
 しかしそうして締め上げられた教員も意欲を失う。

 日本の教育を崩壊させるのは、いまや政府なのである。
 

 




 



2008.06.21

中学教諭が指を挟まれ切断、堺の中学


産経新聞 6月19日]


 堺市立登美丘中学校(堺市東区)で、教室に戻ろうとしなかった男子生徒らを注意した保健体育科の40代の女性教諭が、生徒の閉めたドアに挟まれて、指を切断する大けがを負っていたことが19日、分かった。
 市教育委員会によると、女性教諭は今月12日午後1時55分ごろ、授業開始が迫っていたため、校舎2階の非常階段の踊り場で遊んでいた男子生徒3人に対して教室に戻るよう注意した。
 しかし、生徒らが従わなかったため、あきらめて非常階段のドアを開けて校舎内に戻ろうとしたところ、生徒の1人が「ばばあ、どっか行け」と言いながら後ろからドアを強く押して閉め、教諭の右手人さし指が挟まれた。すぐに救急車で病院に運ばれたが、指を切断しており、縫合手術を行ったという。市教委は「生徒に『けがをさせよう』という悪意はなかったため、口頭で注意した」と話している。


 もはや教師と児童・生徒の身分差は定まっている。
 そもそも
非常階段の踊り場で遊んでいた男子生徒3人に対して教室に戻るよう注意した。しかし、生徒らが従わなかったため、あきらめて
生徒の1人が「ばばあ、どっか行け」と言いながら後ろからドアを強く押して閉め、

といった時点で、教師としての尊厳も人間としての誇りもないようなものだが、それにしても、
指一本切断されても口頭注意しかないとなると、教員の存在とは何なのかと本当に切なくなる。

公僕とはそこまで卑屈でなければならないものなのか、
子どもというのはそこまで大切にされなければならないものなのか、
そして、
そのように育てられる子どもの未来と、そうした子どもで満たされる日本の未来は、美しく輝かしいものとなっていくのだろうか?

 そんなことは絶対にないと思うし、私の考え方は決して偏ったものではないと思うのだが、しかしどう見ても世の中は“児童生徒には一片の苦労もさせず、針で指先をさす程度の痛みも味あわせず、教師の努力のみで素晴らしい未来を約束”させようとしているように見える。

 そのためにも、
お子様がいかに偉大で尊重すべきものか、今のうちに教員に叩き込んでおかねばならないのだろう。そう考えれば教員の指一本など、たいした問題ではないのかもしれない。






 



2008.06.22

【秋葉原通り魔事件】
「酒鬼薔薇」世代、教育の落とし穴


産経新聞 6月21日]


 秋葉原の無差別殺傷事件で殺人容疑で再逮捕された派遣社員、加藤智大(ともひろ)容疑者(25)は、神戸連続児童殺傷事件の容疑者の元少年と同年齢の「酒鬼薔薇(さかきばら)世代」。10年前、教育現場では神戸事件を受け、「心の教育」が問われながら、ナイフを使った少年の事件が相次ぎ、突然「キレる」子供の問題が深刻化した。家庭や学校のしつけ・指導力低下が顕著になり、識者からは「挫折に弱い」「過保護」など、この世代が受けた教育の弊害を指摘する声もある。(鵜野光博)

■「実体験」希薄
 「ヤンキー先生」の通称がある参院議員の義家弘介氏は、平成11年から務めた北星学園余市高校で、加藤容疑者と同世代の生徒を受け持った。
 「幼少期から『個人の自主性が大切』『校則はいけない』『詰め込みは悪』という教育にどっぷりとつかった世代」と振り返る。
 昭和50年代に吹き荒れた校内暴力で管理教育や体罰が問題となり、反動から校則をなくそうという動きも出た時代。埼玉県立所沢高校で平成9〜10年、入学式ボイコットの騒ぎを起こした生徒も同じ世代だ。
 学習内容を大幅削減した「ゆとり教育」の学習指導要領改定が行われたのもこの時期。義家氏は「勉強ができる、できないは子供にとって切実な実体験。それが『できなくてもいい』という教師によってぼやかされ、努力の大切さという当たり前のことも教えられていなかった」という。
 生まれた年に「ファミコン」が登場したこの世代。欠けている実体験を補うため、義家氏はイベントなどを生徒にやらせ、失敗を経験させるという教育を繰り返した。「みんな『何とかなる』と思っているが、現実は何ともならない。悔しがらせることで現実を教える教育を、高校でやらなければならなかった」

■「いい子」の虚像
 「子供たちはなぜ暴力に走るのか」などの著書がある評論家の芹沢俊介氏は、加藤容疑者が携帯電話サイトの掲示板に「親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り」「俺(おれ)が書いた作文とかは全部親の検閲が入ってたっけ」などと書き込んでいたことに注目する
「小中学校で周りから高く評価されても、『それは自分じゃない』というギャップに苦しんだのだろう。教育熱心な家族の中で架空の『いい子』にされ、加藤容疑者は存在論的に“殺された”のではないか」
 芹沢氏は「それが仕事や人間関係でうまくいかないことに対する強い被害者感情の基になっている」と指摘。「被害者感情は、何かのきっかけがあれば即座に攻撃性に転化する。家庭と社会で2度殺された思いだったのではないか」
 また、「プロ教師の会」を主宰する日本教育大学院大教授の河上亮一氏は「家族でも友人関係の中でもいいが、ありのままの自分を受け入れてくれるホームグラウンドがあるかどうかが重要だ」と話す。
 「ホームグラウンドがあることを前提に、社会に出れば思うままにならないこともあることを、言い聞かせて育てる。加藤容疑者にはホームグラウンドがなかったのでは」

 ■「自立」履き違え
 平成10年1月、栃木県黒磯市(現那須塩原市)の中学校で、当時13歳の男子生徒が女性教師をナイフで刺殺し、翌月には東京・亀戸で、パトロール中の警官が15歳の少年にナイフで襲われた。「キレる少年」は社会問題に。これも加藤容疑者らと同世代だ。
 明星大教授の高橋史朗氏は、事件を起こした少年らに共通する点として「知能指数は低くないが、対人関係能力と自己制御能力という『心の知能指数』が低い」とし、「教科の基礎基本は考えても、人間として社会人としての基礎基本という観点が教育界から抜け落ちていた」と話す。
 「自尊感情や他人の痛みが分かる心が育っていない。他と切り離された『個』の自立を重視し、他者とのつながりの中で生かされている自分を発見し、社会に参画する力を育てることをやってこなかった」
 「勝ち組はみんな死んでしまえ」という加藤容疑者の書き込みについて、河上氏は「いい大学を出て、一流企業に就職するのが幸せで『勝ち組』だという価値観が、若い人を追い詰めている」とみる。
 「少子化で大学進学も容易になり、みんなが夢をみられる半面、成功できるのは相変わらず少数だけ。この現実がより厳しくのしかかるのが、加藤容疑者の世代ではないか」と河上氏は話している。



 幼少期から『個人の自主性が大切』『校則はいけない』『詰め込みは悪』という教育にどっぷりとつかった世代
 管理教育や体罰が問題となり、反動から校則をなくそうという動きも出た時代
 学習内容を大幅削減した「ゆとり教育」の学習指導要領改定が行われたのもこの時期。

 これらはそうかもしれないが、いずれの問題についても、教員が主体的に取り組んだことは一度もなかった。

 
教育基本法に描かれた人間像(平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民)に向かって子どもを練り上げていくのが教育だと思っていた私たちに「個性こそ大事だ、一人ひとり違っていていいのだ、勉強ができることに価値はない」と言い続けたのは、マスコミが先で評論家が後押しをし、文科省が制度化して学校に強制した。そういうものだった。

 私たちが自らの拠りどころである校則をなくせと言うはずもないし、制度的に指導要領を作るのも私たちではない。総合的な学習の大切さは分かっても、まったく新しいことをするのはかなり気の重いことだった。しかしそうした苦い薬を、私たちは飲み続けたのだ。
 いまさら、マスコミにこの世代が受けた教育の弊害などと言われたくない


「教科の基礎基本は考えても、人間として社会人としての基礎基本という観点が教育界から抜け落ちていた」
「他と切り離された『個』の自立を重視し、他者とのつながりの中で生かされている自分を発見し、社会に参画する力を育てることをやってこなかった」


 いわゆる「識者」たちは、教育をどのようなものと心得ているのか?
 人間として社会人としての基礎基本、社会に参画する力は、児童会や生徒会、運動会や修学旅行といった学校行事、各種学年行事や学級行事を通じて体験的に学んでいくものである。

 例えば、阪神大震災の直後にたくさんの自治的組織が作られ、それぞれが有効に機能した背景には、日本人が小学校から延々と続けてきた係活動や行事運営の蓄積がある。日本人は役さえ与えられれば、その枠の中をしっかり埋め、責任をもって仕事をする術を心得ている。それは日本の学校教育が作り上げてきた成果なのだ。

 しかしそれを行事精選、学習時間の確保といって、一気に切り捨てようとしてきたのもマスコミや「識者」である。その火付けの本人から、
人間として社会人としての基礎基本という観点が教育界から抜け落ちていたと言われるのは屈辱以外の何ものでもない。
 
 これだけ多様な子どもたちを世界最低の予算で教育し、現在もなお先進国中トップクラスの学力と、世界有数の平和で安全な国として支えているのは学校の力によるものである。
 その学校の足を引っ張り潰そうとするマスコミや識者は、日本の将来にどのような未来像を描いているのか。
 
 
 



 



2008.06.28

東京っ子の問題解決能力 「見通す力」不足
産経新聞 6月27日]


 日常生活や学校生活の具体的な場面での問題解決能力を問う都教育委員会の小中学生向け学力テストの結果が26日公表され、「問題解決に向けた見通しを持つ力」が低いことが分かった。

 テストは、各教科で身につけた知識や思考力が「問題場面」で総合的に働くか調べるため、都教委が今年1月、都内の小学5年と中学2年を対象に独自に実施。「問題解決能力」を多角的に検証するため、「問題を発見する力」「見通す力」「適用・応用する力」「意思決定する力」「表現する力」の5項目で評価した。

 小5では影踏み遊びの図を示し、太陽の位置から人の影のでき方を判断する問題や、中2では近所で買い物するときの自転車利用についての会話文を読ませて、主張をどれだけ理解したかを聞く問題などが出された。

 平均正答率は小5が59・8%、中2が56・3%。5項目のうち「見通す力」は中2で16・6%と極端に低く、小5でも「適用・応用する力」に次いで54・9%と2番目に低かった。

 合わせて実施された学習意識調査で「身の回りのことを自分でしようとしている」と回答した小5の平均正答率は62・9%で、「しない」と回答した44%を大幅に上回った。




 別の新聞(6/27毎日新聞)は問題例として
 料金設定の異なる3カ所の駐車場の中から家族旅行で利用した最も安い時間帯を答える問題
をあげている。加えて、
 影踏み遊びの図を示し、太陽の位置から人の影のでき方を判断する問題や、中2では近所で買い物するときの自転車利用についての会話文を読ませて、主張をどれだけ理解したかを聞く問題など
である。

 これは東京っ子だからどうといった問題ではないだろう。
要するに、家族旅行だの影踏みだの買い物だのといった「生活実感」のない子にはできないのだ。

 ところで、東京都教委が小5・中2を対象として1月に行った07年度学力テストは文科省が小6・中3を対象に4月に行った全国学力学習状況調査と同様、日本の学力低下を示唆したPISA(OECD生徒の学習到達度調査)のテスト内容に準拠したものである。

 裏を返せば、日本の学力が低下したと言うのは、読み書き計算の力が落ちたということではなく、こうした「生活実感を伴った計算や国語力」に問題が生じているということである(昨年度の全国学力学習状況調査で「基礎学力はおおむね良好だが応用力に問題がある」というのも同じ意味で、読み書き計算は良いが生活実感をともなった問題はできない)。

 このことは上の記事の 
合わせて実施された学習意識調査で「身の回りのことを自分でしようとしている」と回答した小5の平均正答率は62・9%で、「しない」と回答した44%を大幅に上回った。
とも完全に符合する。
 
 さて、そうなると日本としてまず取り組まなければならないのは、保護者も子どももできるだけ早く家に帰し「生活」をさせることであろう。
 現代の日本社会は保護者も多忙だから学校で何とかして欲しいとなれば、学校ができるのはその「生活実感」を擬似的・集約的に体験させることしかない。幸いなことに、その仕組みはある。生活科と総合的な学習の時間である。
 
 まとめるとこうなる
 PISA(OECD生徒の学習到達度調査)、全国学力学習状況調査、東京都学力テストの成績を上げるために必要なことは、授業時間を減らして子どもが家で過ごす時間を増やすとともに、学校では計算ドリルなど基礎基本に関わる学習時間を多少減らしてでも、生活科や総合的な学習の時間にかける時数をふやすことだ。
 
 残念なことに、事情も知らぬマス・メディア世論に押され、文科省は必要なことと正反対の方法で、「学力」を上げようとしている。信じられないほどバカらしいことである。