キース・アウト (キースの逸脱) 2011年6月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
東日本大震災から間もなく3か月を迎えます。死者・行方不明者は約2万4,000人に上り、学校関係者(幼児・児童・生徒・学生や教職員)の死者も、判明しているだけで約580人と阪神・淡路大震災を上回る(5月20日現在)など、甚大な被害をもたらしました。そんななか、教育関係者の間で改めて注目されているのが、新しい学習指導要領)が目指すものです。 新指導要領は、世間では「ゆとり教育」を改めて「学力向上」を第一にしたものだ、といったような表面的な理解が横行していますが、実際にはそんな単純なものではありません。文科省は、「確かな学力」「豊かな心」「健やかな体」という、知・徳・体をバランスよく育てることで「生きる力」を育み、「知的基盤社会」と言われる21世紀に、国際的にも大いに活躍してもらおうとするものだと説明しています。実は、この「生きる力」の育成という大目標は、「ゆとり教育」の時代から変わっていません。 ただ、これまでは現場の先生であっても、キャッチフレーズを≪建前≫として受け止める向きがなかったとは言えません。キャッチフレーズの解釈をめぐって混 乱が起こることもしばしばでした。今回の「基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、表現することにより、さまざまな問題に積極 的に対応し、解決する力」(「確かな学力」の説明)というのも、ちょっと抽象的でわかりにくいですよね。 しかし、次のような説明なら、どうでしょうか。「臨機応変に判断し、行動できる人」(北城恪太郎・経済同友会終身幹事)、「力を合わせれば、想定外のことも乗り越えられる力」(五十嵐俊子・東京都日野市立平山小学校長)、「子どもたちを自立させる教育」(藤原和博・大阪府知事特別顧問)……。いずれも、震災後に開催された中央教育審議会などの会合で、委員が語った言葉です。 また、「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性」(「豊かな心」)というのも、避難所で協力し合ったり、全国からボランティアに駆け付けたりした人たちの姿を思い浮かべれば、より具体的に感じられると思います。 新指導要領は、ようやく今年から小学校で本格的に始まったばかりです。今回の震災も教訓に、毎日の授業をはじめとした教育活動の中で、学校でいっそうの工夫をしてもらう必要があります。それにはもちろん、文科省も言うように、家庭や地域の連携と協力が欠かせません。 「生きる力の育成」は全指導要領の目玉ではあったが今回の新指導要領の目玉ではなかったはずだ。 震災でその必要性が再認識されたからといって、あたかも新指導要領でそれが強調されていたかのように語るのは我田引水である。 そもそも「臨機応変に判断し、行動できる人」「力を合わせれば、想定外のことも乗り越えられる力」「子どもたちを自立させる教育」は、震災後に初めて出てきたものではなく、古くから日本の教育で重視されてきたものである。学校は教科教育(国語・数学・英語など)と体育(身体測定など各種保健行事や体育行事)をのぞくすべての教育活動でこうした力をつけようとしてきた。それを特別活動という。 入学式や始業式などの儀式的活動、音楽会や文化祭などの学芸的行事、旅行行事、児童生徒会活動、クラブ活動、部活動・・・その他ありとあらゆる活動を通して学校は協力・共同・互助・秩序・自己犠牲・弱者救済などを教えてきた。 日本の子どもは幼稚園から高校卒業まで一体何百回整列させられてきたか。ものを受け取るには必ず並ばなければならないとか、人が話をはじめたらきちんと聞きなさいとか、与えられた責任を明確にし、やらなければならないことはきちんと果たしなさいとか、学校教育の場で何千回、身をもって教育されてきたか。 災害からの避難はこうするのだと何十回も練習してきたではないか。弱い者を守りなさいと耳にタコができるほど教えられてきたではないか、言ってもどうしようもないときがある、黙って耐えるべきは耐えろと何度も教えられてきたではないか、それは全部学校で学んできたことだ。 確かに、明治以前に遡れば学校以外にもそれらを教えてくれる地域共同体があった。しかし戦後、私たちは丁寧にそれを潰してきた。そして秩序や社会性は学校でしか学べなくなった。少なくとも組織的にそれをやっているのは学校だけである。 新指導要領の裏にあるのはそうした行事を精選しろという含みである。震災があった以上さすがに避難訓練まで減らせとは言わないだろうが、新指導要領で求めているのは特別活動を効率よくまとめ、もっと数学や国語をやれということなのだ。 確かに新指導要領には、 「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性」(「豊かな心」)という文言は残されている。 しかし時間的裏づけのない教育などないも同じだ。 あと20年効した傾向が続けば、私たちが戦後60年もかけて守ってきた 避難所で協力し合ったり、全国からボランティアに駆け付けたりした人たちの姿 といったものはなくなるだろう。 そしてそのとき大きな災害が起きたとすれば、私たちが見るのは阪神淡路あるいは東日本に見た日本人の姿ではないはずだ。 そこにあるのは日本のハイチ、日本のニューオ−リンズ、そして日本の四川である。それは間違いない。 むろんその時、優秀な教員たちによって日本は世界一の学力を誇っているに違いないのだが。 担任教諭から体罰を受けたと因縁をつけて福岡市南区の市立中学校から金銭を脅し取ろうとしたとして、福岡・南署は、当時同中3年だった男子生徒の 母親(46)と知人の男(29)の2人について、恐喝未遂容疑で逮捕状を取って行方を追っている。学校に非常識な要求や苦情を繰り返す保護者は「モンス ターペアレント」と呼ばれて社会問題化しているが刑事事件に発展するのは異例。 容疑では、3月上旬、男子生徒が昨年10月に担任教諭から平手打ちをされたことに因縁をつけて「誠意を見せろ」などと言って中学から金銭を脅し取ろうとしたとしている。 同署によると、男子生徒は昨年10月、校内で騒いで担任教諭に注意されたことに腹を立て、教諭の腹をけるなどした後、教諭から平手打ちされた。母親は男子生徒が病院で診察を受けたなどと学校側に抗議。学校側は診療費などとして1万数千円を支払っていた。 さらに、男子生徒は今年2月下旬にも他の生徒をけるなどして軽傷を負わせるトラブルを起こした。教諭が母親に注意したところ、母親は知人の男を 伴って学校側に抗議。昨年10月に平手打ちされた件も持ち出して金銭の支払いを要求していたという。男子生徒は今春、同中を卒業している。【川島紘一】 これはそもそも「モンスター・ペアレント」の問題なのだろうか? マスコミはしばしば子ども同士の恐喝をイジメというし、子ども同士のケンカもイジメだと言ったりする。そうすることで世間の耳目を集めて記事を売りまくり、しかし現実の問題を複雑化する。恐喝は恐喝、ケンカはケンカ、イジメはイジメと分けて考えれば分かりやすいものを、いっしょにしてしまうから訳が分からなくなる。 同様にこの福岡の事件も、警察の容疑事実の通り単純な恐喝未遂事件である。 校内で騒いで担任教諭に注意されたことに腹を立て、教諭の腹をけるなどした後、教諭から平手打ちされた。 常識的に考えればそうとうに悪いクソガキの不良行為だが、現代ではたとえどんなに子どもが悪くても(たとえ殺されそうになっても)教師は生徒に手を上げてはいけないという不文律があるから、「平手打ちをされた」その一点で金をせしめることができる、そう考えた保護者がいただけのことである。 本物の「モンスター・ペアレント」は金など要求しない。 彼らは学校のわずかなミスも許さず、ひたすらその一点をついて「担任を代えろ」とか「息子の同級生を転校させろ」とかおよそ応えられないことばかりを要求し続ける。その尋常でないこだわりや、状況を無視し続ける強靭さ、そして問題の出口の見えなさや目的のわからなさが、学校にとってモンスターなのである。 謝罪要求や金銭要求があればむしろ楽である。少なくとも理解不能ではない。 そうした単純な事件であるにも関わらず、モンスターペアレントをからませることでマスコミは記事に精彩を与え、さらに売りまくる。そして肝心のモンスターペアレント問題は、さらに複雑になるのだ。 *ところで、学校が保護者を訴えるなどとんでもないことだと言い放った尾木ママは、今回の事件をどうみるのだろう。かつては一応の教育評論家だった尾木直樹も、今や尾木ママと呼ばれる教育キャラになり果ててしまった。売れるためなら何でもするというマスコミの世界に、どっぷりと漬かり、腐ってしまったのだ。(参考→http://www5a.biglobe.ne.jp/~superT/kiethout2011/kieth1103b.htm#i2)
「先生がいじめる」という表現を子どもから聞くようになったのは、いつごろからだったでしょうか。多分、登校拒否をする子どもが全国的に増え続けるようになってかちだと思います。先生が指導することは絶対で、子どもが反論することを受け入れないのが学校です。そこに異議申し立てをする子どもたちが出現し、学校へ行くことを拒否し始めたのです。 「先生がいじめる」と初めて聞いた時、とても新鮮な印象を受けました。先生と生徒は人間としては対等なんだ。それなのに先生が自分勝手なルールをつくって、子どもを怒ったり、罰を与えたりするのはおかしい―という強い主張が込められていました。 今回の電話相談の子どもは給食指導が厳しい先生の下で苦しんでいました。 主食、おかず、牛乳またはスープを順に食べる「三角食べ」で、全員が残さず食べるというルールを先生が強いていたのです。その子は、苦手なおかずが出た時には、途中で食事が止まってしまいます。目ざとく見つけた先生が席に来て、机をたたいて「早く食べなさい」と叱りつけます。叱責されクラス中から注目されると食べ物がのどを通らなくなり、吐き気をもよおして頭の中が真っ白になるといいます。 小学生の子どもたちは長年、あちこちの教室で給食指導に苦しんでいます。子どもが嫌がる食品には、その子がアレルギーを起こす食物が含まれている場合があり、無理強いはしない方が賢明―と栄養士さんから聞いたことがあります。人間の本能的な防衛反応を給食指導という教育の名の下に追い詰めるのは愚かなことです。給食の強制が原因で拒食状態に陥った子どもの相談を受けることがしばしばあります。せめて食事くらいは学校教育の枠組みから外し、気楽に楽しく食べさせてやりたいものです。 (内田 良子:うちだ・りょうこ 心理カウンセラー) これほど無知で無能な人が心理カウンセラーを名乗り、地方紙とはいえマスコミ上に発言の場を持ち、その上原稿料まで手に入れているかと思うとまったく腹が立つ。 聞きかじりの知識とわずかな経験と、ウィキペディアの記述だけでつくりあげたようなこの文から、ある種の影響を受ける人がいるかもしれないと思うとそれだけでぞっとする。許しがたいことである。 と、以上毒づいておいて・・・ 指導を受けることを「先生がいじめる」と表現する子どもをとても新鮮と評価し始めたら学校は成り立たない。 子どもが、 「先生は宿題を出してボクをいじめる」「逆上がりができるようになれと言ってボクをいじめる」「児童会の仕事をしろと言ってボクをいじめる」と言い始めたらどうするのか。 これは難癖でもなんでもない。実際に宿題や体育や児童生徒会で嫌な思いをしている子はたくさんいるのだ。それをイジメと言うか言わないかだけである。給食指導をイジメと解釈する子は、当然ほかの「いやなこと」もイジメと表現するだろう。 内田女史はそうしたこともすべて認めていく覚悟はあるのか。 教師というのは因業なことに、子どもの前にハードルを置くことが仕事である。たし算というハードル、九九というハードル、漢字というハードル、子どもたちは欲していないのに次々とハードルを置いては跳べという、それが私たちの仕事だ。 その一つひとつを「先生がいじめる」といって排除するなら、子どもは成長できない。 もしかしたら彼女は、「給食ぐらいは気楽に、しかし勉強はがんばってほしい」という「ご都合」主義者かもしれない。だが私に言わせれば、数学や国語ができることよりも、さまざまな食品が美味しく食べられることの方がよほど幸せなのだ。 内田女史を含め、給食を食べさせることに批判的な人々は、学校給食の実際を見たことがないのではないかと、私は疑っている。 例えば小学校の一年生など、ものの食べ方がものすごく下手で、注意していなければおかずもスープも牛乳も終わり白米だけが残っているといったことも日常茶飯である。真っ白いご飯をじっと見つめ、「食べられない・・・」と切なく呟く。私だって食べられない。 「三角食べ」はそうした事態を避けるための一番簡単な方法なのだ。給食の間中教室を回り、一人ひとりの食べ方を監視するより、「三角に順番に食べるんだよ」と言ってやればほとんどの子が苦もなく完食できる。ただそれだけのことなのだ。 せめて食事くらいは学校教育の枠組みから外し、気楽に楽しく食べさせてやりたいものです。 などと悠長なことを言っていると給食はガンガン捨てられてしまう。嫌いなもの食べ悪いものはいっさい手をつけず、食べやすいものだけを口に入れればいいのだから、下膳の際の食缶は残菜で溢れかえる。その上で子どもたちは、元気よく「ただいまあ、お腹すいたぁ」と家に帰り間食をする。 それでいいのだろうか。 高学年や中学生になると、今度はダイエットのために食べ物を捨て始める。 子どもが嫌がる食品には、その子がアレルギーを起こす食物が含まれている場合があり、無理強いはしない方が賢明 などとのんきに構えていると子どもに必要な栄養はまったく摂取できなくなってしまうのだ。 先生と生徒は人間としては対等なんだ。それなのに先生が自分勝手なルールをつくって、子どもを怒ったり、罰を与えたりするのはおかしい そんな馬鹿なことはない。対等だったら私たちは子どもを教育する根拠を失う。私たちは最初から教育者と被教育者であり、学校に給食があり、食育基本法(2005)があって食育の義務を負っている限り、よく計算されて必要な栄養やカロリーが盛り込まれた給食をきちんと食べさせることをやめないだろう。 日本の教員は極めて優秀だから、必ずやり遂げてしまう。 ただし・・・ 私はその反面で、内田女史に賛成してもいいとも思っている。 なんといっても給食指導は面倒なのだ。給食に限らず「指導」というものは必ず教師と子どもを対立に追い込む。したがって、やらなくていいものならひとつでも減らしていきたい。 給食はたいへんな補助金を使って行っているものである(でなければ一食300円程度であんなすばらしい食事は提供できない)。税金で賄っている給食を子どもガンガン捨てるようでは納税者に申し訳ができないだろう。 だから内山女史はこう言うべきなのだ。 人間の本能的な防衛反応を給食指導という教育の名の下に追い詰めるのは愚かなことです。給食の強制が原因で拒食状態に陥った子どもの相談を受けることがしばしばあります。せめて食事くらいは学校教育の枠組みから外し、気楽に楽しく食べさせてやりたいものです。 そのためには食育基本法を見直して学校から切り離し、給食もやめてすべての家庭がお弁当を持たせるようにすべきなのです。 私は給食指導なんて面倒だからほんとうはしたくない。しかし食育基本法の見直しはともかく、給食をやめて弁当をと公言し、毎日の弁当作りなどまっぴらだと思っている全国数百万のお母様たちを敵に回すよりはましだ。 だからしかたなく、黙々と給食指導にはげむのだ。 |