キース・アウト![]() 2018年 3月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
文京区内の公立小に通う小6男児の母親(50)は、体育の時間に真冬でも半袖、半ズボンとされていることに疑問を感じてきた。さらに今冬は、厳しい冷え込みの日もあったにもかかわらず、半袖の下に肌着を身につけるのもだめ、との指導を受け、さらに疑問が膨らんだ。 「体感温度は一人一人違う。個人の判断で自由にさせてくれればいいのに」 世田谷区の小学4年の女児(10)は「今季一番の冷え込み」とされた日、耐えられず「半袖の体操服の上に、トレーナーを着させてほしい」と担任の教諭に訴えた。女児の通う学校では、トレーナーの着用を認めるかどうかは担任の判断に委ねている。女児の必死の訴えにもかかわらず、結局、担任は認めなかった。 そもそも冬の体育の服装について指針や取り決めがあるのか。都教育委員会に確認すると、冬も半袖、半ズボンに、と推奨しているわけではないという。その上で、薄着の利点に「動きやすい」ことをあげる。文部科学省も国としての基準はなく、各教育現場の判断だと説明する。 大手制服メーカーの菅公学生服(岡山市)が、「小学校の冬の体育」をテーマに、小学生の子どもがいる全国の保護者600人を対象に調査(2015年)したところ、体操服にジャージー(長袖、長ズボン)上下があるのは全体の3割未満と少数派だった。ジャージーの必要性については「あったほうがいい」「どちらかと言えばあったほうがいい」を合わせると約6割に上った。「ジャージーがなくて困っていること」では「冬はないと寒い」とする回答が最も多かった。 では真冬に無理にでも薄着にする効果はあるのか。国立成育医療研究センター(世田谷区)の森臨太郎・政策科学研究部長に尋ねると、薄着の方が健康上良いとする検証結果はなく「健康に良いのかどうかはわからない」との答え。ただ、一定レベルのストレスがないと心身が鍛えられないため「無理しない範囲で薄着で過ごすことは理にかなってはいると思う」という。 一方、一律の「半袖・半ズボン」ルールに異議を唱え、行動を起こした父親もいる。 認定NPO法人フローレンスの駒崎弘樹代表理事は、都内の小学校に通う小1の長女から、学校の持久走大会では半袖、半ズボンの体操着で走らなければならないと聞き、病弱な子や障害のある子も一律の服装とされていることに疑問を持った。 話を聞いたその日に学校に電話した。駒崎さんが「なぜ半袖、半ズボン強制なのか」と聞くと、電話を受けた教諭は「なぜ、ということはないが、いつも体育は体操着になっている」と返答。「外は氷点下4度でインフルエンザも流行している。それでもなお教育的効果があるという判断なのか」などとやりとりし、その日は「明日の朝、校長に相談して折り返す」ことで終わった。翌朝、校長から電話があり、大会でのトレーナー着用を認めるとの回答があった。 一連の経緯を先月、ブログにつづったところ、たくさんの反響があった。「特に問題とも思っていなかった」という声も多かったという。駒崎さんは「学校も保護者も、一律に薄着にすることを『そういうものだ』と受け止めてきたことで、自分たちで判断できなくなっているのではないか」と指摘。「保護者の側も学校側に対話で気付きを促す必要があるのでは」と訴える。決まりごとだからで済ませず、無理がないかどうか、親子で考えてみるのも良さそうだ。 都会っ子は「もやしっ子」と言われたのは大昔のことで、いまや体格・体力ともに都会の子の方が優れていることは周知である。 とにかく一日二日いればわかるのだが、都会というのはやたらと歩かされるところだ。地下鉄を乗り換えるだけだというのに何百メートルも歩いて階段を上ったり下りたり。 一歩街に出れば延々と商店やらオフィスビルやらが続いて風景が変わらないから、思わずたくさん歩いてしまう。田舎だったらどこに向かっても30分も歩けば田んぼだ。自然に足が止まるが、都会ではそうはいかない。 これでは体力がつくわけだ。 同様に都会の子たちは暑さにも寒さにも強い。 真夏のムンムンとする熱気の中を、アスファルトの照り返しとビルの反射光を浴びながら歩く。うっかり日陰に入ろうものならそこにはエアコンの室外機が並んでいて日向よりも暑い。よく耐えられるものだ。 一方冬になれば――もちろん寒冷地よりは暖かいとはいえ、10度を下回る気温の中を、子どもたちは半そで半ズボンで登下校している。 つい先日も小雪降る荻窪駅で、ダウンコートの襟をそばだてる私の横を嬉しそうに走っていく小学生たちが皆、半そで半ズボン、あるいはスカートで魂消た。 まさに魂の消える思いだったのだ。立派な子たちだ。 それに比べたら私の近所の子たちは、寒さの身に染みる前に厚着を始める。家はセントラルヒーティングでガンガン暖めてあるから、相応の厚着で出かけないとすぐ風邪をひいてしまうのだ。 もっとも都会の子たちと違って、移動は自転車か親の自家用車だから長く外にいるわけではないが、それでも予防に余念がない。これでは強くなりようがない。 さて、記事の話である。 認定NPO法人フローレンスの出てくるあたりで、 学校の持久走大会では半袖、半ズボンの体操着で走らなければならないと聞き、病弱な子や障害のある子も一律の服装とされていることに疑問を持った。 というのも、文面を見ると持久走の“大会”に限った話のようだし、世の中のたいていのマラソン大会は真冬でも半そで半ズボンで走るものだし、おそらく直前直後は暖かいものを着ているのだから問題ないと私は思う。 それに病弱な子や障害のある子も一律の服装などということは、いくら何でも普通はない。学校はそんな残酷な場所ではないし、そもそも書面にしろ口頭にしろ、そんなことを言ったものなら学校は袋叩きにあうだろう。 学校に電話した人の申し入れの趣旨も「病弱な子や障害のある子には暖かい恰好をさせてほしい」といったものではなかったみたいで、最後は誰でも着たい人はトレーナーを着てもいいという話になったようだ。 さらに言えば、 「外は氷点下4度でインフルエンザも流行している。それでもなお教育的効果があるという判断なのか」 都会で―4度というのはめったにない寒さで、これが今年の冬の話だとすると“1月25日の木曜日に電話したんだな”とピンポイントで分かるほどの特異日だ。よくもまあタイミングよくこの日を選んで電話したものだと、感心する。 ・・・と、ここまでがイチャモンである。 記事全体の趣旨には反対しない。 学校というのは近代教育だけでも150年近く、第二次大戦後だけを考えても70年を超える歴史のある場所である。したがって古く硬く、しかも巨大で奥行きも深い。 子どもたちは丸一日ここで生活しているわけだから、食事(給食)から掃除から、手洗いから排便からと、ありとあらゆる場面があってそのほとんどに校則や慣習がある。 「体育は半そで半ズボンで」というのもそうした何百もあるルールやマナーのうちのひとつで、普段は意識せずに従っているものだろう。 記事にある、 電話を受けた教諭は「なぜ、ということはないが、いつも体育は体操着になっている」と返答。 という、何ともトンチンカンな答え方は、まさにそうした事情を語っている。普通の教員は、学校のルールのすべてに的確な説明を行うことができない。 だからと言って「そんな説明できない決まりなどなくしてしまえ!」 と言ってはいけない。 そこにいる教師が説明できないからと言って不必要な決まりだとは言えないからだ。私は新任のころかなり開明的で、納得のできない決まりをかたっぱし無視していたら大変な目に会った。とりあえず従っておいてあとから考えないと結局は児童生徒の不利益になるということは、その時思い知ったことである。 話を戻そう。 学校の決まりというのは長い歴史の中でつくられてきたものだ。したがってそこには何らかの意味がある、意義がある、意味があった――。それを教師はいちいち吟味して引き継いでいるわけではないので、もしかしたらすでに意味を失ったものもあれば、逆に障りとなっているものもあるのかもしれない。したがって 「学校も保護者も、(中略)『そういうものだ』と受け止めてきたことで、自分たちで判断できなくなっているのではないか」 という指摘はまったくその通りだし 「保護者の側も学校側に対話で気付きを促す必要があるのでは」と訴える。決まりごとだからで済ませず、無理がないかどうか、親子で考えてみるのも良さそうだ。 というのももっともだと思う。そうやって学校をより良いものにしていくことは大切なにかもしれない。 ただし正直言えば面倒でもある。 学校の決まりには山ほどのツッコミどころがあるからだ。しかも児童生徒・保護者・学校で一致できるとは限らない。保護者どうしの中で異論が出てくる。先の例で言えば「普段の練習じゃなくて持久走の大会で、走る場面だけということなら、半そで半ズボンだろ。子どもを甘やかせるにもほどがある」という保護者だっているに違いないからだ。 その他、 おかずが和食のとき、牛乳をつけるのはおかしくないか、 集団登校が重荷になっている子がいるからやめたらどうか、 私服が当たり前のこの学校、そろそろ制服を考えたらどうか 家でもやらない歯磨き、学校でやる必要があるのか 掃除のとき帽子を被るのはおかしい。家で帽子を被って掃除をする人なんかいない 親が来られない子どももいるのだから参観日はやめたらどうか あんな通知票に意味はあるのか ・・・まあ、言い出したら切りがない。 教師としたら決まりの見直しに時間をかけるより、教材研究をしていた方がよほど子どもの役に立つと思うのだがどうだろう?
先月、富山市の水橋高校で、複数の教諭が、校則違反を理由に生徒の髪をはさみで切っていたことが発覚しました。 この問題を受けて県教育委員会は、すべての県立高校で、教職員と在校生への調査を実施したところ、水橋を含む、富山工業、富山北部、上市のあわせて4校で、2015年4月以降に、19人の教諭が140人の生徒に対し、頭髪をはさみで切る指導をしていたことが分かりました。 理由についていずれの高校も、「校則に違反している点を繰り返し指導したが改善が見られなかったため、生徒の同意のうえでおこなった」としています。 「(違反した髪の長さは)いずれの件も、何十センチ、何センチという単位ではないと聞いております。ほぼ数ミリ」「歴史的な経緯の中で、これまでやってきたことが残っていたというのが現状なんだろうと思うのですが」(県教委・廣島伸一教職員課長) 髪を切られた生徒が最も多かったのは、富山工業の68人で、教諭5人がおこなっていました。 水橋は、先月、問題が発覚した際には、生徒44人の髪を教諭6人が切ったと発表していましたが、その後の調査で生徒は2人増え46人、髪を切った教諭は1人増え、教諭7人に訂正しました。 県教委は、こうした指導が「行き過ぎていた」と認め、今後、いずれの高校も生徒と保護者に対して、謝罪するということです。 (以下略) これは「指導の行き過ぎ」という問題ではないだろう。 校則に違反している点を繰り返し指導したが改善が見られなかった という状況では、次にできることは、 生徒の同意のうえで はさみで髪を切るくらいしかないはずだ。 「いやそれでもなお、教師は辛抱強く指導をすべきだ」 ということなら、授業を持たない生徒指導専門の教師を配置して、フレックスタイムで働ける権限を与えてほしい。 なぜなら授業中に生徒を呼び出して指導することはその子の学習権を奪うことにあたり、生徒は学校にいる時間のほとんどを授業を受けて過ごしているからだ。 学校にいる時間内ついて言えば、指導できるのは昼食時と放課後くらいだが、飯も食わさずに指導というわけにもいかないし、放課後に引き留めて部活に出さなければ恨まれるだけだ。辛抱強い指導は、きちんとやろうとすれば勤務時間外にしかできない。 「辛抱強く指導を」という“識者”は、たいてい学校では授業をしているという現実を忘れてしまっている。 さて現実問題として、一方に教師たちが一人の生徒の頭髪指導のために5時間も6時間も使えないという事情があり、かと言って床屋代わりをすることは「行き過ぎた指導」だとするとどういう解決の仕方があるのか――。 一番簡単なのは校則の方を変えてしまうことだ。 水橋高校では、 頭髪に関する校則は、男女とも前髪は眉が見える程度の長さとし、男子はもみあげが耳の中間まで、側頭部は耳に掛からない長さに保つなどとしている。(Webun北日本新聞) そうだが、これを見直して頭髪の長さに新たな規定を設けるのは馬鹿げた対応である。 「前髪は眉が見える程度」を「目にかからない程度」に変えたところで新たな長さで同じ攻防が繰り返されるだけだ。「もみあげは耳の下まで」とか「側頭部は耳を隠す程度まで」としたところで、みな同じ。生徒が求めているのは差別化だから必ず違反者が出る。 根本的な問題解決は、「長さについての規定は廃止する」という形でしか果たされないだろう。 生徒はやがて髪のすだれ越しに黒板を見ることになる。しかしそれも致し方ない。生徒の学力を伸ばすのは本人の努力ではなく教師の仕事だという時代だ、あとは先生に頑張ってもらうしかない。 ところでこのニュースを見た時、最初に思い出したのは40年近く前の私の生徒のことだ。 まだ丸坊主が男子の規定の校則だった時代、やはりなかなか切ってこない子がいて、業を煮やした私は自腹でバリカンを買い、生徒の同意のうえで刈りまくっていたのだ。 おかげで私のクラスの男子は髪の毛で校則違反に問われることはなかったが、それにしても私の手を煩わせる子は多かった。 アホな私はそれに気づくのに一年近くかかってしまったのだが、実は頭髪のことで私がキレそうになるころには、保護者も相当にイライラしていて子どもに金を渡し、明日は必ず床屋に行けと毎日のようにせっついていたのだ。その金を懐に入れ、子どもたちは私に怒鳴られる時を今か今かと心待ちにしていた。早く怒って髪を切ってもらわないと、親に無理やり床屋に連れていかれる。そうなるとせっかくの懐の金が取り上げられてしまう、と言うか、そのころにはすでに使い込んで足りなくなっているのだ。 中国の諺に曰く「上に政策あらば、下に対策あり」。 私が中学校教師としてまだまだ未熟だった時代の話である。
今回は、本当の「自由意志」で、ゆるゆるな活動を行う、ドイツの保護者ボランティアの様子を紹介したいと思います。 *「誰が来たか」を確認しない お話を聞かせてもらったのは、東京都区内に住む尾木和子さんです。3年前、夫の転勤でドイツのデュッセルドルフに渡り、子どものひとりを現地の公立小学校に1年間通わせました。 ドイツは移民が多い国ですが、その学校はとくに移民が多く、40か国以上の子どもたちが通っていたということです。 ドイツの学校には「PTA」という組織はないのですが、学校の呼びかけで、保護者がボランティアに参加する機会は何度かあったそう。 なかでも印象深かったのが「スクールフェスティバル」という催しです。このフェスティバルでは、保護者が各自料理を持ち寄るコーナーがあり、そのやり方に衝撃を受けたといいます。 「事前に学校から配られる用紙には、こんな記入欄がありました。『食べ物をつくってきてくれるか?』『何をつくるか?』『(会場で)ボランティアできるか?』『もってくるのは前半/後半のどちらの時間帯?』、あとは、子どものクラスと名前を書くだけで、連絡先を書く欄はありませんでした。 当日、会場に料理を持っていったら、受付もなければ、とりまとめする人もいません。その辺にいたボランティアの人に聞いたら、『適当に置いておいて』と言われただけ。名前すら聞かれませんでしたから、当然『ちゃんと持ってきたかどうかチェック』なんて、あり得ないわけです。 (中略) お話を聞いているうちに、なんだかクラクラしてきてしまいました。わたしたちはPTAで、一体何をしてきたのか? もしかすると、ほとんどが省ける仕事だった気がしてきました。 「ご存知の通り、ドイツの人って、残業をしないんです。学童の先生も16時半になると、子どもたちと同時に帰っちゃうし。 それでもドイツは、日本よりGDPは高いんですよ。それは、生産性が高いやり方をするのが上手だから。保護者ボランティアにも、それが表れているんでしょうね」 日本ではいま「働き方改革」が話題ですが、こういった日常の部分から意識を変えてやることを省いていかないと、生産性を保つのは難しいように思えます。 *ボランティア=「自由意志」 ドイツにいたとき、尾木さんは「ボランティアの概念が、日本と違うんだ」と感じたことが、何度もあったそうです。 「たとえば、クラスの飾りつけのボランティアに行ったときは、終わるとみんな『バーイ』ってすぐ帰るんです。日本だと『のりやハサミをみんなで片付けなきゃ』ってなるけれど、このときに残ったのは、私ともうひとりだけ(笑)。 『みんなすぐ帰っちゃうね(ひそひそ)』みたいなネガティブな感じはないし、先生も『すいませんね』みたいな風でなく、『ありがとー!』という感じ。残りたい人が残るだけで、本当に『ボランティア』で、『自由意志』なんです。 ドイツでは、ボランティアを『フライヴィリヒ(Freiwillig)』っていうんですよ。フライヴィリヒは、まさに『自由意志』という意味。義務感じゃなくて、『自分が楽しむためにやる活動』なんだな、とすごく思いました」 日本に戻って3年が経ち、「頭がだいぶ、日本人に戻ってきた」と言う尾木さんですが、「フライヴィリヒ」の精神は、いまも忘れていません。 「この春は、区立小学校で卒対(小6で卒業関連の仕事をする係)をやったんですけれど、みんな『フライヴィリヒ』な人ばかりだったので、本当に楽しかったです。みんなでいろいろ話し合って、卒業アルバムも新しい試みをできたし、卒業を祝う会(謝恩会を改めた)もすごく盛り上がりました。 でも、今回の卒対が『前例』になって『引き継がなきゃいけない』と思ったらプレッシャーになっちゃうから、来年の人には『過去にとらわれずに、自由に、おたのしみください!』って書き置きしてきました(笑)。これはあくまで『好き好んでやる話』ですよね。『やらなきゃ』って思ったら、いやになるだろうから」 このほかにもたくさんドイツの学校や教育の話を聞かせてもらい、2時間のあいだ、筆者はうなりっぱなしでした。 日本で同じことをしようとしても、難しい部分はあるでしょう。でも、真似できるところだって、じつはたくさんあるはずです。 なかでも、日本のPTAでよく見られる「誰々さんが来なかったねチェック」は、すぐにでもなくしたいですし、なくせるはずだとも思います。 大塚玲子 | 編集者、ライター「PTAをけっこうラクにたのしくする本」著者 かつて音楽家の松居和は著書「子育ての行方」の中で「家庭の問題に関して『欧米では』ときたら、まず反射的に『それは真似してはいけないこと』と考えるような癖がついている」と喝破したが、以来私もそのように考えることにしている。 なんといっても日本の教育(学校教育・家庭教育)は総合的にダントツの世界一なのだ。だから欧米の学校教育・家庭教育に部分的に日本を越えるところがあるとしたら、別のところでひずみがあるか、またはそうなった特別の事情があるはずだ。その負の部分を語らず、いいところばかりを礼賛するのは卑怯であると同時に害悪ですらある。 例えばアメリカの「ハーバード大学やマサチューセッツ工科大にはノーベル賞受賞者がやまほどいるのに、日本の東大・京大にはあまりにも少ない」と嘆くなら、膨大な予算を用意してノーベル賞受賞者を連れて来ればいいだけのことである。 そのためには企業と大学の共同研究を増やすとともに、合衆国のせめて半分ほどの防衛費を用意して(現在の防衛費の6.6倍程度でいい)、その一部を大学との共同研究に回せばいいいのだ。 そうしたことをせず、ただ「日本の大学のレベルは低い」と嘆いていても仕方がないだろう。 さて「ドイツのゆるゆる保護者会」であるが、その部分だけを日本に導入するには、かの国と我が国の教育制度・社会制度があまりにも違いすぎる。 さしあたって思いつくのはドイツの「半日学校」だ。小中学校はおろか高校生まで昼食を食べずに帰って来てしまう。もちろん日本の学童保育に類する制度もあるが、それとて上の記事にある通り、学童の先生も16時半になると、子どもたちと同時に帰っちゃうのだ。 したがって学齢期の子どもを持つ夫婦はどちらか一方がフルタイムで働けない。多くの場合は日本同様、母親の方がキャリアを諦めるのだが、ドイツの場合、学齢期の子どものいる女性の就業率は驚くほど下がらない。 日本と違って妻が夫の扶養に入るという制度がないので、働かないとその期間の分、年金が減額さるか無年金になってしまうからである。 “子どもは午後早々に帰宅してしまう”が、“働かないわけにはいかない”。そのジレンマを解消するために必然的にパート労働に出ざるを得ないのだが、それは3時間とか4時間とかいった本物の“パート(部分)労働”であって、日本のような“時間給労働”のことではない。 つまり午後数時間は家にいるという保護者が相当数いるのだが、彼ら彼女らが学校ボランティアの担当者となるのだ。日本でパートと言えば「時間給で働く非正規労働者」のことだから、同じことをやれば要請に応えられない保護者は相当数出てきてしまう。 学校運営の補助として、PTAのような組織をしっかりとつくらないと学校が回っていかないことには、そうした事情があるのだ。 だから、 日本のPTAでよく見られる「誰々さんが来なかったねチェック」は、すぐにでもなくしたいですし、なくせるはずだとも思います。 と言われても困る。チェックがなければいずれ役員しか来なくなる。みんな忙しい。 ドイツは最初から「この指とまれ」方式のボランティアだから「来なかったねチェック」など必要ない。しかも クラスの飾りつけのボランティアに行ったときは、終わるとみんな『バーイ』ってすぐ帰るんです。日本だと『のりやハサミをみんなで片付けなきゃ』ってなるけれど、このときに残ったのは、私ともうひとりだけ といった「おおらかさ」乃至「いい加減さ」は文化的伝統だから、特別の仕掛けをしない限り日本に定着しようがない。 おそらくこれは「ドイツ人がいい加減」という問題ではなく、記事の中にもある、 ドイツは移民が多い国ですが、その学校はとくに移民が多く、40か国以上の子どもたちが通っていたということです。 という事情によると思う。 これだけの多民族となると、価値の共有というのはほとんど不可能になってくる。一緒に何かをするといってもなかなか難しい。ようするにだから「やりたい人がやる」しかないのだ。 よく「欧米の学校は服装が自由なのに、日本はやたら統一したがる」と批判する人がいるが、教育というのは同一の土壌があった方がやりやすいに決まっている。ホグワーツ魔法学校にだって制服はあるのだ。 しかしもはや移民の大量に入り込む欧米で、服装をそろえるのは困難になった。ムスリムの子どもからスカーフを取り上げたり、敬虔なキリスト教徒からロザリオを取り上げたりすることはできない。欧米の小中学校に服装の決まりがないのはそうした事情によるのであって、けっして政府に理解があるわけではない。 「それでもドイツは、日本よりGDPは高いんですよ。それは、生産性が高いやり方をするのが上手だから。保護者ボランティアにも、それが表れているんでしょうね」 も正しくない。 ドイツは、日本よりGDPは高いが単純な思い込みだとしても、生産性が高いやり方をするのが上手だからでは死ぬほど働く日本の労働者がバカに見える。 もちろん日本の生産性の低さは周知のことだが、それは必ずしも日本人がだらしなかったり能力が低かったりするからではない。そもそも“生産性”というもの自体があいまいなのだ。 例えば、東京23区でもっとも生産性の高い区のひとつは、おそらく千代田区である。巨大企業のオフィスビルがたくさんあってとんでもない富を生み出しているのに、人口は5万9千人ほどしかいない。 逆に世田谷区などは88万人もの人口を擁しているのに、住宅地が中心だから生産という意味ではまことにお寒い。 労働生産性は「その地域における総生産額を人口で割ったもの」だから、世田谷区は当然低く千代田区は高い。しかしだからと言って世田谷の住人が無能ということにはならないだろうし、「千代田区の人は生産性が高いやり方をするのが上手だから」ということにならないのは当たり前だ。 労働生産性の世界ランキングで常に1位か2位の位置にいるルクセンブルクはまさにEUの千代田区なである。外国の大企業誘致に成功して高いGDPを獲得した上に、国内住む人の45%以上が外国人。もちろん毎朝“国外”から通勤している人たちは最初から計算に入っていないから労働生産性の分母に入れられていない。つまりルクセンブルクの労働生産性は「とんでもない人数で生産した価値を、ごく少数しかいない国民」で割った数学のマジックなのである。 ドイツもしかり。分母から不法移民や在留外国人を差し引いた数で計算するから高くなるだけで、必ずしも生産性が高いやり方をするのが上手だからそうなっているのではない。 以上、長々と説明してきたが、ドイツに行ったこともない、しかも比較文化論の専門家でもない私に分かることが、なぜ元ドイツ在住者や教育評論家(この場合は大塚玲子女史)には分からないのか――。 実はここが一番腹の立つところなのだが、彼らは分かっていないのではない。分かっていながら、正直に書くと記事が売れないから分かっていないふりをするのだ。 なんといっても日本の教育や学校を批判すれば金になるし、政治家の場合は票につながりやすい。誉めてばかりいる私はいつまでたっても貧乏だ。 いずれにしろ「ドイツにできるのだから日本もできるはずだ」というのは無理な話である。どうしてもやりたいなら、まず「半日学校」あたりから真似をするのがいいように思う。不法移民や外国人労働者を増やして労働生産性を上げておく必要もあるかもしれない。とりあえず日本をドイツにするところから始めるしかない。 |