キース・アウト
(キースの逸脱)
2018年10月

by   キース・T・沢木



2018.10.27

いじめ認知41万件に=最多更新、小学低学年で急増
−17年度問題行動調査・文科省


[JIJI.COM 10月25日


 全国の小中学校などが2017年度に認知した「いじめ」の件数が、前年度比9万1235件増の41万4378件だったことが25日、文部科学省の「問題行動・不登校調査」で分かった。過去最多を更新。特に、小学校の低学年での増加傾向が顕著だった。

 文科省は17年、いじめ防止の基本的方針を改定。けんかやふざけ合いでも調査し、被害性に着目していじめか否かを判断するよう通知した。同省は、件数増について「初期段階も積極的に認知し、解消に向けた取り組みのスタートラインに立っている」と肯定的に評価している。

 認知件数は、小学校が7万9865件増の31万7121件、中学校が9115件増の8万424件、高校は1915件増の1万4789件。小学校1〜4年で各1万4000件以上増えた。

 いじめの内容(複数回答)では「冷やかしやからかい、悪口」の割合が62.3%を占め、最も高かった。「軽くぶつかられたり、遊ぶふりをしてたたかれたり、蹴られたりする」が21.0%。インターネット交流サイト(SNS)を含む「パソコンや携帯電話などでの誹謗(ひぼう)、中傷」は3.0%の1万2632件で過去最多となり、高校ではいじめの内容で2番目に多かった。

 小中高校から報告があった児童生徒の自殺は250人で、前年度から5人増。このうち、いじめの問題が要因とされたのは10人だった。

 30日以上欠席した不登校は、小学校が4584人増の3万5032人、中学校が5764人増の10万8999人、高校は1078人増の4万9643人だった。暴力行為の発生件数は、小学校が5474件増の2万8315件だった。
 
今回の調査では、政令市別の結果も公表。文科省は同じ道府県内の他自治体と比較し、特徴的な傾向があるか分析する。



 とんでもない“いじめ”の増加である。
 この5年間に総数で2倍強、調査を始めて一番少なかった2005年と比較するとなんと20倍以上になっているのだ。

 すでに学校は末期的状況にあり、一部の保護者は子どもを避難させホームスクーリングを始めるようになっている、マスコミも、“これだけ酷い状況なのに子どもを学校に通わせることはそれ自体が児童虐待だ”と言い始めた。
――と書いたらもちろんウソだ。

 それどころかベネッセと朝日新聞の共同調査「学校教育に対する保護者の意識調査2018」によれば、調査対象(全国の公立の小2生・小5生、中2生をもつ保護者)の83.8%が自分の子どもが通っている学校に「とても満足している」「まあ満足している」と答えているのである。しかもその数は調査の始まった2004年から着実に伸びてきている。
 親たちは無知なのか?

【満足できるはずの学校で“いじめ”が頻発している理由】
 親たちが分かっていないのではない。
 
いじめ認知41万件
が意味のない数字なのだ。


 下のグラフを見ていただきたい。


 これは上の時事通信の記事が参考にした文科省の「平成29年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について」から私が作成した「いじめ件数の推移」のグラフだが、ごらんのとおりいじめ事件というのはある年突然増加し、次第に減ってまた、たった1年で急増するということを繰り返してきた。

 例えば1994年は前年の2.6倍に、2005年はたった一年で一挙6.2倍に、2012年は前年の2.8倍に増え、以後いったんは少し下がってそのまま横ばいになるかと思ったら2015年から毎年1.2倍、1.4倍、1.3倍とうなぎのぼりなのである。

 通常、戦争や革命といった大混乱やT-ウィルス(映画「バイオハザード」に出てきた人間をゾンビに変えるウィルス)の大流行でもない限り、人間のやることにこんな急変は起こらない。つまりこのグラフが表しているのは、調査に恣意的な操作があるということである。


【いじめ件数は操作される】
 1994年、2005年、2012年のそれは“いじめ”の定義を大きく拡大することによって、また2015年からの動きは文科省と都道府県教委によるあぶり出しによっての急増である。2015年以降のことは先月の「キース・アウト」(スマホ版は2018.09.29いじめの認知「0件」の小中学校、定義の理解不十分な学校も 長野県教委の調査)であつかった。

 とにかく子どもが少しでも嫌な思いをしたらすべて“いじめ”として計上しなければならない。1校のいじめ件数が0件なら都道府県教委は主事を派遣して事情を訊く。
 それはおそらくこんなふうだ。

「校長先生、お宅の学校のいじめ認知数は報告ではゼロですが、一定の人数の子どもたちが1年間一緒に過ごしていて、嫌な思いをした子が一人もいないなんてこと、ありえますか?」
「いや、嫌な思いをした子はいるとは思いますが・・・」
「そうでしょう。いじめ防止対策推進法のいじめの定義、もう一度一緒に読んでみましょうか。
『第一章第二条 この法律において『いじめ』とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう』
 いいですね、つまり同じ学校の児童生徒に嫌な思い、痛い思いをさせられたらそれはすべて“いじめ”で、したがって報告書に入れてもらわなくてはならないのです」

「はあ・・・」
「例えば4月にやったいじめ調査、ちょっと見せてください。
 ――ああ、これですね。例えば1年生のKちゃん。
『私がふざけてMちゃんを叩いたら、Mちゃんが「馬鹿」と言って、それがとても嫌だった』
 そう書いてあるでしょ。もうこれだけで2件のいじめです」

「え?」
「だってKちゃんに叩かれたMちゃんもきっと嫌な思いをしているからそれで1件。『バカ』と言われてMちゃんが傷ついた本件がもう1件です」
「いやその話なら聞きましたが、叩かれて『バカ』と言ったMちゃんの方は事件を全く覚えていないようで・・・」
「そうですかあ、しかたないなあ。それじゃこれは一つ減らして1件と数えることにして、次、行きましょうか」
「・・・・・・・・・」
 そんな些細なものまで計上していくから、
「冷やかしやからかい、悪口」の割合が62.3%を占め、最も高かった。「軽くぶつかられたり、遊ぶふりをしてたたかれたり、蹴られたりする」が21.0%。
ということになる。
 とにかく何でもかんでも挙げておくことが必要なのだ。



【いじめは撲滅されなければならない、しかし件数は減ってはならない】
 なぜそうまでして「いじめ件数」を増やしたいのか――。
 文科省がいじめ対策を理由に予算と権限を増やしたいからだという説もあるが、私はそうは思わない。

 
理由の第一は、数値が下がることで学校の怠慢、隠ぺいと繰り返し非難されるからだ。
 
 “いじめ”の定義が拡大変更されるたびに学校はムリな数字をたたき出す。
 その中にはもう解決済みですっかり仲良しに戻った例もあるがとにかく上げろというので挙げていく。
 どう考えてもオマエの方が悪いだろうと思う例も対象となった児童等が心身の苦痛を感じているのだからと計上せざるを得ない。
 昨日までのいじめっ子が今日逆襲を受けて干されれば、それも“いじめ”だ。

 しかし先生たちは本質的に、
「こんなものまで“いじめ”とされたら教育活動はできない。相互批正もできないし問題が起こる前にいちいち蓋をしていては何も育たない」
と思っているから翌年は報告を控える。つまり数値が下がってしまう。

 ところが世間はそれを許さない。そこで大きないじめ事件が起こると数値が下がったことが引き合いに出され、学校の怠慢、隠ぺい体質と叩かれてしまう。
――だからいじめの認知件数は下がってはいけない。2012年に定義を変えて飛躍的に増えたいじめ認知件数は翌13年に少し下がって14年は停滞した。このまま行けば15年はまた下がってしまうかもしれない――そこで文科省・都道府県教委のテコ入れが始まってめでたく3年連続の上昇を果たしたのだ。少しやりすぎたが。


【実体のないいじめ件数が増えていいこともある】
 そうなると「むやみに数値を増やすのではなく、学校も文科省・教委も、きちんと説明して理解を得ればいいのだ」という考えも出てくるが、それをしないのは件数が多いことに文科省・地方公共団体にメリットがあるからである。
 実はこれで保険をかけているのである。

 通常“いじめ”というのは大人の目の届かないところで行われる。状態が深刻であればあるほど大人から隠され、それが同級生の目からも隠されるようになると絶望的な状態と言える。
 したがって自殺いった深刻な事件に至った時も、親は事実を知らない。加害者の親も知らない。そして同じ大人である“教師”も、普通は知らない。

「先生に訴えたのに何もしてくれなかった」といった訴えもあるが、おそらく深刻さに見合うかたちではきちんと伝わっていない。似たような訴えは山ほどあって、その中に埋もれてしまっている。

 しかしその重大事態が世間に知られるようになった時、それでも「知らなかった」では済まされない。マスメディアもネットシチズンも、信頼関係さえあれば子どもは教師になんでも話すと思っているからだ。
 そしてそのとき、以前の「ゼロ報告」がとんでもなく重要な意味を持ってくるのである。

 いじめがあったにも関わらず、学校は(つまり校長は)都道府県教委にも報告していなかった、隠ぺいの体質がある、本当のことを表に出したがらない学校だ――そうなるとまとまるものもまとまらない。その不信感が前提になると、対策はほとんど打てなくなってしまう。

 文科省も都道府県教委も、
「学校はいじめを隠すことなく精一杯取り組んできたが、それにもかかわらず防ぎきれなかった」
 そういった土台の上に説明したり話し合ったりしないと先に進まない。
ただそれだけである。
 

【で、結局・・・】
 いじめ認知が40万件を越えたからと言って、そんな残酷な事実があるわけではない。もちろんいくらなんでもこの先50万件、100万件と単純に増えていくことはないだろうが大幅に減ることもない。
 そしてこの国が、
「冷やかしやからかい、悪口」の全くない、そして「軽くぶつかられたり、遊ぶふりをしてたたかれたり、蹴られたりする」することも一切ない、そういう小中学校で満たされる日も来ないと思う。またそれでいいと思う。
 小さなトラブルは起こる中で解決していけばいいことであり、その学びこそが人間関係の学習なのだ。

 ところで
 小中高校から報告があった児童生徒の自殺は250人で、前年度から5人増。このうち、いじめの問題が要因とされたのは10人だった。
 その10人についてはたいてい大きなニュースになり私たちも緊張するが、いじめ問題や学力問題に忙しく、残り240人についてはほとんど考えたことがない。それでいいのだろうか?









2018.10.07

進まぬ学校の統廃合
欠ける子供ファースト


[産経ニュース 10月 6日]


 学校の統廃合が進まない背景には、地方では学校が防災や地域の交流拠点となっているほか、母校を失うことへの強い抵抗感などがある。ただ、子供たちの教育という観点からはデメリットも多く、“子供ファースト”の観点で議論を進めることが求められている。

 学校の統廃合が進んでいないことについて文教大の葉養(はよう)正明教授(教育行政学)は「地方では学校の存廃は選挙の公約になるほど重要な問題で、簡単ではない」と話す。特に人口が少ない市町村では、課外活動の中で子供たちが地元のお年寄りと交流することも多く、都市部に比べて地域社会とのつながりも深い。地域で学校の存廃が議論となっても「存続」を求める声が多数を占めるため、首長や地元議員も後ろ向きになりがちだ。

 ただ、教育的な観点からはデメリットも多い。1学年に1学級しかなければ、クラス替えはなく、卒業まで同じメンバーで過ごすことになる。新たな人間関係を形成する機会が乏しいほか、いじめなどが発生しても、クラスを引き離すなどの対処ができなくなる。クラブ活動や部活動の種類も制限され、配置される教員数も少なく、中学では専門外の教科を教えることも起こりうる。

 財政面でも非効率だ。本来は地域で1校が適正なのに、複数あれば、それぞれに教員を配置する必要があるほか、施設の維持費なども余分にかかる。SMBC日興証券の末沢豪謙(ひでのり)金融財政アナリストは「完全にコスト倒れを起こしている学校がいくつもある。財政負担が上がり、教育の質は下がるという最悪の状況で、子供ファーストに全然なっていない」と指摘する


 統廃合をした際に懸念されるのは、通学の距離や時間が伸びる点だ。国も適切な通学時間を「おおむね1時間以内」としている。ただ財務省が昨年、全国の小規模学校(児童・生徒数が30人以下)を対象に調査したところ、最も近い学校と統廃合すると仮定した場合の想定通学時間は、8割以上の学校が1時間未満だった。1時間を超える場合でも、スクールバスの導入などで問題の解消は可能だという。(蕎麦谷里志)



 これは同じ産経新聞の「適正規模」満たない公立中5割超 進まぬ統廃合、小学校も4割超の続報である。

 先発の記事では、
「少子化が進む一方、学校の統廃合が不十分で、文部科学省が適正規模とする水準(12〜18学級)に満たない公立中学校が5割を超えていることが6日、分かった。平成の約30年間で1割も増加しており、公立小学校も4割を超える高水準で高止まりしている」
などと事実関係を示し、この記事で補足的に説明しているのである。

 適正規模(12〜18学級)を下回る小学校が4割を超え、同じく中学校は5割を超えているという状況は誉められたものではない。
 財政的に非効率であり教育的にも集団生活を学ぶという点で問題があることも事実だ。
 しかしそれをもって
「学校が防災や地域の交流拠点となっているほか、母校を失うことへの強い抵抗感など」といった大人の事情によって子どもが不利益を被っている、「子供ファーストに全然なっていない」というのは間違っている。
 なぜなら子どもはその地域で生きており、やがて大人になるからだ。子どもが子どもでいる期間は短い。

 記者はもしかしたら500mおきに隣の学校の校門がある、都会の小規模校しか見たことがないのかもしれない。しかし私の県の小規模校は大半が山の中にあってその間の距離は10qにも20qにもなる。
 もちろん
1時間を超える場合でも、スクールバスの導入などで問題の解消は可能だが、一方の村(集落)の学校が成り立てば他方の村(集落)は学校を失うのだ。そのことの重さを、会の人は分かっていない。学校がなくなることは村(集落)がなくなることと同じだという、田舎人には自明なことが都会人はまったく理解できない。


 例えばA地区の小学校とB地区の小学校が統合してAの校舎を使うとする。もちろんAB両地区の中間に適当な平地があればそこに新校舎をつくるという方法もあるが、平地があれば集落ができて学校もあったはずだから普通はそんな土地はない。そこでBの子どもたちはAを日中の学習の場とするわけだが、校外学習は徒歩が原則だから見学できるのはAの郵便局、交番、市役所の支所、商店ということになる。交通安全教室歩いてみるのはAの道、歴史見学もAの資料館、結局地元のBの勉強はできなくなる。

 保護者にしてもそうだ。
 若い働き盛りの人たちは地区の役員など引き受けない。彼らは忙しい。
 しかしそれでも引き受けざるを得ないのがPTAの役員で、若い保護者たちはまず学校を通じて地区につながる。学校でつくった人間関係を基礎に、やがて地区の役員をひとつひとつ背負うようになり長じては地区そのものの中核となっていくのだ。
 しかし今やB地区の保護者達は自分の地区の長老を覚えない。彼らが運動会やバザーで世話になるのはA地区の古老たちなのだ。B地区に行くにしても、人間関係の濃度はまったく異なったものになってしまう。こうしてB地区は生命を失う。

 いま私は30歳前後の若い保護者のことを語ったが、それはいま小学校で学ぶ生徒の、わずか10数年後の姿だ。
 
産経新聞が「子供ファースト」と言って地域を解体すると、その子は10数年後、地区で生き生きと生きることができない。

 私はなにも学校統合はするなと言っているわけではない。地域や学校の実情を考えたら、学校統合を言う前にやることがあるだろうということだ。
 OECDで最低レベルの教育支出をさらに抑えるために学校をつぶすのではなく、もっと金を出させる方向で考えることはできないのか
最も近い学校と統廃合すると仮定した場合の想定通学時間は、8割以上の学校が1時間未満だった。
と言う前に、誰もいない道を40分も50分もかけて登下校する子どもの姿を想像してみろということである。

 都会の論理で全国を見てはいけない。