言葉の海 第2巻






100%


100%牛肉のハンバーガーを食べたことがある。
全部牛肉だということだが、このバンズや野菜が牛肉でできているとは、とても思えない。







ハエが手をする

野猿がふえて農作物を荒らすため、猟友会の手を借りて何頭か撃ち殺した、という記事が新聞に出ていた。

サルはいよいよせっぱつまるとハンターに向かって手を合わせるという。だから撃つほうもよほどの事情がなかぎり撃ちたがらないし、その瞬間にも相当な覚悟がいるのだそうである。

それで思い出したのだが「やれ打つな ハエが手をする 足をする」というのは何なんだろう。

確かに手をすりあわせられれば、ハエと言えども殺すに忍びない。それだけならいい。せっかくそこまで殊勝な気持ちになりながら、そのあとで足まですられてなお気持ちの穏やかな人などいるものだろうか。

手をすって哀れさをさそい、その上足まですって見せるのは、完全にオチョクッテいるとしか思えないではないか。

私は迷わず、渾身の力をこめて叩き殺してやることにしている。 

小林一茶の句には分からないところがある。





二文節

まだ1歳のころ、娘が最初に覚えた二文節の言葉は、主人が放屁したときの、「トータン、プー」であった。
感動するにはあまりに情けない言葉である。





ショック

その都度メモを取る習慣のある人がうらやましい。  
私などはたまにメモをとっても、そのメモ自体をなくしてし まう。むかし読んだ本の一節を思い出して、正確な文を確認し たいと思うとき、その作業は絶望的なものとなることが多い。 どうしても見つからないのだ。
私にとって、今も気になりながらついに確認できないでいる ことのひとつは、白土三平の劇画の一コマである。
ある武士が何かの失敗によって家に引き籠もってしまう。その報告を受けた城代家老何かがこう呟く、
「そうか、さぞか しショックであったろうなァ
私の方がショックであった。江戸時代の話である。





落書

便所の落書は醜い。  
それは第一に殆どがシモネタであること。

第二に私たち女性 の個人名が無断で、しかも信じられないくらい猥雑な形で書か れていること。第三にその徹底的なオリジナリティーのなさ・ ・・・

第三の点については、真にオリジナルな男はそのようなつま らないことはしない、というだけのことなのかもしれない。けれどそれにしてもあまりに単純すぎて、私の自尊心をいたく傷 つける(他人の単純さと私の自尊心の間に何の脈絡もないよう だが、早い話、私はあられもない姿でそれを最後まで読んでし まっているのだ)。いまでもたまに、男女の別のない便所に出会い、しゃがみながら頭に血を昇らせることがある。 

しかしどんな世界にも例外はあるもので、私はただ一度、殆ど感動的とも言うべき落書に出会ったことがある。それは大学一年生の夏、構内の男子便所、ボックスに貼られた貼り紙につけ加えられたひとつの文字である。

「便器の中に、物を入れないでください」 

その落書男は「異物」の「異」の上に、横長の「米」を書き加えたのである。
「便器の中に、物を入れないでください」 

たった一字を入れるだけでトイレを使えなくしてしまった。 
見事である。





不問

「紫式部日記」の中に次のような話があるという。

「ある日ある局に賊が入り、文字通り女官の身ぐるみまで剥いで持っていってしまった。紫式部は恐れいやがる同局の女官を引き連れ、その現場を見物に行った」というのである。

ある種の女性にとって、好奇心というものは癒しがたい病気である。 

なんだかもって回った言い方をしている。別に自分を紫式部になぞらえている訳でもない。
正直言って、言いたいことは次の一言だけである。

前の文で、なぜ大学一年生のうら若き私が、男子便所にいたか、それは不問にふしていただきたい、ただそれだけである。





日系人  

中学生の頃、ちょっと物知りの同級生が「風とともに去りぬ 」のスカーレット・オハラの名を持ち出したとき、私はてっき っきりそれが日系人の話だと思い込んで恥をかいた。「スカー レット・小原」だと思ったのである。

十数年前ベニグド・アキノ(昔のアキノ大統領の夫にあた る)という人が暗殺された時、これも日系人だと思い込んで恥 ずかしい思いをした私は、ペルーにフジモリ大統領が誕生した時、逆に慎重になりすぎて、また恥をかいた。
「ペルーにも日本人みたいな名前があるんですね」







娘が風邪をひいたので店で薬を買ってきた。
「新グリッペルゴールドシロップ小児用」。ゼリア製薬の薬で ある。
 ラベルの注意書きを読んで、私はコケた。
「1、服用後は自動車等の運転はしないでください」 繰り返すが、小児用である。

けれどこれ以後、この薬を飲ん だあと、我が家では娘に三輪車の運転を禁止した





???  

妙なことが気になる。  ボートを漕ぐときの 「オー、エス」「オー、エス」という、あれは何なのですか?





ベリ―ロール

私の前任校があった〇〇市には市中陸上競技会というのがあって、全校から選手を選抜し参加していた。陸上部の顧問であった私は、長距離担当であったにもかかわらず便利に使われて、フィールドの指導までさせられた。
 走り高跳びは中学生でも今や背面跳びが全盛である(まず他の跳び方はしない)。一年生でも最終的にはその方が有利だということで必死に覚えようとするのだが、しばらくの間は小学生の時より記録を落とす場合もある。
「先生、オレ小学校の時の方が跳べたよ」
という声はザラである。
「なんで跳んでいたの」と私は訊ねる。その答えがステキだった。
「バターロール」!!
 君はステキだ。









解説者

評論家という仕事は日本にしかない、と聞いたことがある。また別に、一億総評論家、という言葉もあった。
ニュースなどを見ていると、街頭インタビューではどんな複雑な政治問題にでもそれなりの答えをする人がいるのだから、この言葉は正しい。何を訊ねられてもひとかどの返答をするという訳知り顔も気に入らないが、さりとて一時代前、何でもかんでも「ワカンナーイ」ですませてしまうアホな女子大生(ジャないかもしれない)にも腹がたった。
最近はその声を聞かないが、かつてバレーボールの解説者に ワケのわからん人がいた。
14対8(当時は15点マッチだった)、日本がリードされている。
「ココで1点取られると負けなんですよね」
普通の人なら言わなくても分かると思う。
「サーブが決まってほしいものですねェ」  
私もそう思う。
「ホレッ、ガンバレ!」  
アノネェ・・・・  
素人でもできそうな話で何十万円ももらっている人がいるか と思うとそれだけで腹がたつ。





合わない
長島茂雄という人は何かと話題の多い人である。私はかつて かれのこんな言葉を聞いたことがある。
「野球はですねェ、九割九分九厘ダメでも、残り一割一分一厘 でひっくりかえるときもあるンですよねェ」
私はそういうことはないと思う。計算が合いませんでしょ、 茂雄さん?





決まり手
母が相撲が好きなため昔からときどきお相伴にあずかってテ レビを見る。たまに見るだけなので趣味の域からは遠く、人気 力士も「若・貴」くらいしか知らない。

相撲の決まり手というのは勝った側から見たもので、考えて みれば「上手投げで負けた」というのは変な気がする。屁理屈 を言えばここは「上手投げられで負けた」と言ってもいいような気がする(?)。

と、こんな変なことを思いついた瞬間から、私の頭は変な方へ変な方へと動き始める。
「下手投げられ」「小股すくわれ」「押し出され」「蹴返され」「引き落とされ」「はたきこまれ」・・・・
そしてついに納得のできる言葉に巡り合う。

「かたすかされ」

「うっちゃられ」・・・・


私は十代の頃の悲しい失恋を思い出し、シュンとなってしまった。





一週間

「日曜日に市場へ行って 糸と麻を買ってきた 

月曜日にお風呂を焚いて 

火曜日にお風呂へ入る 

水曜日に友達が来て 

木曜日に送って行った 

金曜日は糸巻きもせず 

土曜日はおしゃべりばかり」

これで「テュリャ、テュリャ、テュリャ、テュリャ」とやってられるんだから、やっぱりソ連社会主義経済は破綻したわけだ





種まく人

学生の頃、同じサークル仲間にやたらと女の子に声をかける男がいて、一度彼のいない席でひとしきり話題になったことがあった。

どんな場合にも退屈な陰口というものはない。

あの時あんな言い方をしたとか、こんな失敗があったとか・ ・・・。

やがてひとりが「あいつァまるで『種まく人』だな」 と言った。ちょうど山梨美術館がミレーの『種まく人』を購入 したこともあって、この言い方は大いにウケた。

大笑いに息が切れて座がちょっと静まりかかったときだった。私の隣りにいた男子 学生がポツリと呟いた。

「オレの方はまるで『落穂ひろい』だ」

一番大笑いしていた人が口を開けたまま止まってしまった。 誰も笑わなかった。

一遍にみんなが暗くなってしまった。






省略
テレビの御用聞きは「チワー」といい、落語家は「コンチ」という。省略のしかたにはいろいろある。

 セブン・イレブンで買物をし、いざお金を払おうとしたとき店の主人(たぶんそうだ。年の頃は四十代、やや小太りで眼鏡をかけた、なにやらいやらしそうなタイプ)が、下を向いてレジスターを打ちながらこう言った。

「幸せ?」

虚を突かれて私は心臓が止まりかけた。改めてこんなことを聞かれれば考えざるを得ない。たしかに人並みの生活はしている。ややひょうきんでトボケてはいるものの私には相応の夫と最愛の娘と息子、食うに困るわけではないし、さりとて「幸せ」と胸を張るほどの実感もない。

そのうち私は自分がうかつであったことに気づいた。真面目に考える必要はない、この男はナンパを掛けてきているのだ。

幸せ? そうでなかったらボクが幸せをあげよう・・・
いかにも中年のスケベが言いそうなセリフだ。

けれど悪くない。この図々しさがいい。そこまで私のことが「気になる」というところがいい。

どうせこんなことを平気で言える男は、私でなくても誰彼かまわず同じことを言っているに違いないが、それにしても「こんなにも夢中なのだ」と、錯覚を与えるくらいの迫力はある。 私は何と答えたものか考えあぐねた。

いやしくも私は人妻だ(この言葉のなんと心地よい響きであることか。貞淑も不倫もすべてこの響きの中にある)。しかも教師だ(だから真面目だ )そうである前に私はまず、ひとりの善悪の判断のつく大人の人間だ(だからこんな誘惑に屈する訳がない)。けれど・・・

けれど私は、同時にひとりの女でもある・・・。

返す言葉に選択の余地はなかった。無視するしかない。それ は当たり前だ。こんな男に言い寄られたことだけでも、十分に怒る理由になる。けれど怒ってことを荒だてるのも、それはそ れで自立した女として恥ずべき行為には違いない。無視するし かない、

無視するしかない、そう思いながらも、私の心はまた一分の千分の一ほど、いやそのまた千分の一ほど、乱れた。夫 の顔が脳裏を一瞬よぎった。

その時、男がもう一度言った。

「シヤワッセ」。客がひとり、店内に入ってくるのと同時だっ た。
また言った。「シヤワッセ」。今度もまた客がひとり、店内に入ってくるのと同時だっ た。

(「シヤワッセー」
・・・「シャイマッセー」
・・・
「ラシャ  イマセー」
・・・
「いらっしゃいませ」
……!!


以来、その店に行ったことはない。けれどもしその男に町で 会ったら、間違いなく殴る。

誰かが止めてくれなければ死ぬま で殴り続ける、と私は思う。