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英語惨題(その壱:animal) 私が中学生の頃の英語のテストの第1問は必ず発音問題だった。 それも決まって次のような文で始まる。 「(1) 次のア〜オのうち、下線部が〇〇と同じものはどれか。記号で記せ」 何年生のときだった忘れてしまったが、その第一問目を私は間違えた。 「最初の問題、間違えた者、手を上げろ!」 私はオズオズと手を上げた。fk.nh 「何でこんな簡単なヤツ、間違えるんだ? ディープ(と言うわけないかァ)言ってみろ!」 ひどい言い方だ。 当時私は相当に可愛げのない子だったから、それで名指しにされたのだと思う。 「お前ナァ、答えが書いてあっても分からんのかァ?」 (答えが書いてある?) どう言う意味かわからず、うつむいたまま一生懸命答案用紙を見た。 「ア、animal イ、baby……」 他に何もない。 「バカモン! 答えは『ア』だ。『アに〇』って書いてあるだろう!」 あにまる………。 英語惨題(その弐:ジョンとポールにアインシュタイン、そして「だっチューの」) 英語はホントに苦手である。 学生の頃一人旅に出て京都三十三間堂でアメリカ人男性に声をかけられた。長崎・広島を周ってきたというその男性と、よせばいいのに世界平和と宗教などという話をしてしまい(成り行き上しかたなかった)動きがとれなくなった。 とりわけ分からなかったのは人名で、宗教の話をしているはずなのにジョンだのポールだのとビートルズの話になってしまう。あとから分かったことだが、ジョンとは聖ヨハネ、ポールは聖パウロのことだった。 あなたはアンシタを知っているか?と言うから「アンコウなべの下地」みたいなものを考えながら「知らない」と答えると、それは有名な科学者だという。モースト・フェイマス・サイエンティストなら私だって知っていそうだと思いながら話を続けたら、「アンシタ」は「アインシュタイン」のことだそうな。 「こちらに泊まっているから今夜電話をくれ」といってかなり有名なホテルの電話番号を教えてもらったが、結局かけることはなかった。リンゴ・スターやジョージ・ハリソンと世界平和の話をするのは気が重かった。第一プロポーズされても意味がわからない。ヤバくなっても拒否できない。 ………こうして私が、世界の富豪の御曹司の妻となる可能性は消えた。 What time is it now? は左手首を指差して「掘ったイモいじるな」といえば通じる、というのはいつか見たテレビの話。 インターネットで見つけたあるページには次のような話が載っていた。 「バカ娘」=Silly girl:(発音:尻軽) 「どういう意味ですか?」=What do you mean?(発音:ハァッ? どうゆう意味?) 意味は重ならないが面白かったのは、 「あなたの知ってる〜」=〜that you know (発音:だっチューの!) なるほど。しかしすべてがこうなってくれないと、私の英語はどうにもならないthat you know !。 英語惨題(その3:マニュアルはマニュアル) 結局私は普通の男と結婚した。式はハワイでやった。当時としてはかなり斬新だった。 奇をてらったわけではない。新婚旅行の費用を含めるととてつもなく安くついたからだ。リムジンの送り迎えに式そのもの、二人分の貸衣装や写真までついて総額3万8千円だった。 それともうひとつ。いざとなれば日本語が通じそうだ、というのが大切な理由だった.。彼も私も海外旅行は初めてであった。夫としてみれば惨めな自分を曝したくなかったはずだ。そこでハワイを選び、さらに涙ぐましい語学研修を積んだ……ようだ。 ホノルルの税関では殆ど最後の通過者だった。20人ほど前に関口宏・西田佐知子(アアなつかしい)夫妻がいて、関口氏が当時やっていた「クイズ100人に聞きました」と同じカッコウでカウンターに腕をついたのには思わず笑ってしまった。しかし私が楽しんでいるのと違って、通関を待つ間の夫の緊張といったらなかった。 ついに私たちの番になり彼はパスポー卜を示す。相手の女性係官が言う。「Are you on business or kankou?」 これが「Are you on business or sightseen?(ビジネスですか、観光ですか?)」なら問題はなかった(この言葉はどんなガイドブックにも出ている)。けれど会話辞典には「sightseen」はあっても「kankou(観光)」などという単語はない。「kankou」と言われて面食らった、その様子が何ともアホ臭かった。 ホノルルのマクドナルドで昼食をした。ピックマック2個とコーヒーふたつ。私にとっては唯一の頼りの夫は言う。 「Please give me two bigMac hamburgers and two cups of coffee」 「hamburgers」の小文字の「s」と「two cups of」が泣かせる。そうだ、中学校の英語ではこうでなくチャいけないと教えられた。 私たちが首尾よく目的の食物を手にしてカウンターの偶で食ペ始めた時、いかにも頭の悪そうな若い女性が、妙に甘えた日本語で注文を始めた。 写真入りのメニューを指差しながら、 「あっのォ、ハンバーガーひとつとォ、コーヒーとォ、フライドポテト……、ハウ・マッチ?」 それで通じた。 その瞬間、私には自分の「良き夫」が正真正銘の「アホ」に見えた。 そうだ、コミニュケーンョンなんてそんなものだ。何が「 hamburgers」だ、何が「two cups of」だ・・・・・・! そしてそんな私の思いにも気づかず、ただ黙々と西洋の食品にガッつく彼を見て、 この人となら一生やっていけると本気で思ったのも、この時が初めてだった。 岬にて 教師になって初めての職員旅行、某半島のどこかの灯台を通りかかったときのことだ。私の尊敬していたある先輩がその灯台を指差して「〇〇さん(私の旧姓)、あれが有名なオイラ岬だよ」と教えてくれた。まだ若くて勘の良かった私はたちまち理解して、心から感動した。 歌でしか知らなかった灯台が目の前にあるのだ。 家に帰ってからまっさきに父に話した。 「オイラ岬に行ってきたの」 「なんだ?そりゃ?」 私は父の意外な勘の悪さを悲しみながら、そんなことはオクビにも出さず言った。 「ホラ、歌にあるじゃない。オーイラみ〜さきのォ とーだいも〜り〜は・・・・・・」 自分で歌ってみて初めて気がついた。 殺してやる!アンニャロメ! 人馬一体 私は昔、馬みたいに顔の長い人のことだと思っていた。 カレー 娘を通じて知り合った方のご主人は、ケララカレーが得意で、それだけは奥さんに作らせないそうである。 ケララカレーが何だか分からないが、何かいわくのありそうなものを自分だけの特技として作る、私はそういう粋なことが好きだ。家に帰ってさっそくその話をした。けれどその言い方は亭主としての夫を傷つけたようだ。 「俺にだってそのくらいのことはできる」、彼は憤然として言う。 そのムキになるところが何とも愉快なので更に重ねて、「何ができるのよ」と切り返すと一言、 「ククレ・カレー」 私はそれから3日間夫と口をきかなかった。 訳さない イギリスの国会議事堂の大時計は「ビック・ベン」と呼ばれている。しかしこれは日本語に直訳しないことになっているらしい。 名前 カルーセル真紀という女優(じゃあないだろうな)の本名は鉄男である。性転換してカルーセルとなった。カルーセル(馬鹿騒ぎ)は役女(彼?)にふさわしく、私は好きだ。鉄男(てつおとこ)がお釜(オカマ)になった、というのがとてもいい。 嘘 何だか風邪っぽくて全身がだるく、二人の子どもの相手をするのが臆劫だった。せっかくの休日だというのに、夫は仕事で遠くへ出かけるという。 私としてはきわめて稀なことだが、妙に甘えた気持ちになった。 「ネェ休んでくれないかな? 妻が病気で子どもが小さいから今日は行けないって、だれも文句言わないでしょう?」 夫はしばらく考えていた。そして、 「ああ、やっぱだめだな.そんな嘘つこうとすれば『ウチのタヌキが病気で、ブタとサルが小さいモンで』なんて言いかねない……」 確かに、タヌキが病気でも、ブタやサルが小さくとも、休む理由にはならないよナ。 半分 「総領の甚六、次男坊には鬼が出る」 よく聞かれる言葉である。それでは三番目はどうかというと、これもけっこう甚六なのかもしれない。 長幼の礼とは言え民主主義の世の中、私を含む三人姉妹は何でも仲良く分け合った。 ただし三人揃っているときは、である。 二人の時にはふたりの分け方がある。 たとえショートケーキひとつであっても、正確に半分に切ることを忘れない。 上の姉と私だけの時、長姉は息を詰めるようにして包丁を入れ、とがった扇型のカナメのところまで平等に分けるよう気を使った。 下の姉と私だけの時、次姉も息を詰めて包丁を入れる。正確に半分に……。 そして次姉がさっと上半分を自分の皿に乗せ、私には下半分を残してサッサと行ってしまった。 それで満足をしていたのだから、私も昔は相当に人が良かった。 明日に架ける橋 姉が大学生の頃暮らしていた東京の下宿は、今はもう伝説といって良い「三畳一間の小さな下宿」だった。後に「神田川」という歌が流行ったとき、私はいつも姉の生活を思い出した(しかし、三畳一間の同棲というのも実のところすごいと思う)。 息の詰まるような下宿の住人は、たぶんそのせいであろう、しょっちゅう誰かの部屋に集まっては酒を酌み交わしていたらしい(ずいぶんたってから、そのうちのひとりと姉は結婚した)。 中にひとり熊みたいな、ずいぶんオジさんめいたNさんという人がいて、会ったのは二、三度だったがいつも私を可愛がってくれた。顔に似合わず音楽が好きで、小さなレコードプレーヤーを持っていて私の知らない曲をいくつもかけてはいろいろ教えくれたのだ。私は中学二年生だった。 ある晩、数人が集まった酒の席でNさんはサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」を流した。 When you're worry, feeling small, When tears in your eyes, I will dry them all, 曲に合わせてNさんの即興の訳が重ねられえる 「君がくよくよと気に病み、心を沈ませ、君の目に涙があふれるとき ばくがその涙をかわかしてあげよう」 煙草の煙の低くたなぴく中、小さな電球の下で語られるその歌詞は、子ども心にも妙に幻想的なものだった。 I'm on your side, Oh ,time get rough And friends just can't be found 「側にいるよ、時が厳しく、ひとりの友だちも見つけられないとき……」 曲も盛り上がり、周囲の人たちの表情は沈む。 思いがひとつになり、青春の甘い香りがあたりにみなぎる。 ああ、これが学生生活だ。ああ、これが若き悲しみだ。 Nさんの声も妙に哀愁に満ち、ポール・サイモンの声も佳境に向かっていく。 ライク、ア、ブリッジ・・・ (Like a bridge over troubled water, I will ease your mind……) 同時にNさんは万感の思いを込めてこう叫んだ。 「……荒れた川に架かる……私は、橋が好きだ!!」
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