深水黎一郎 06


ジークフリートの剣


2010/10/06

 講談社ノベルスの「薀蓄系」ミステリシリーズが好評の深水黎一郎さんの新刊は、初のハードカバー。内容は、後の『トスカの接吻』に繋がる外伝とでも言おうか。

「あんたは、幸せの絶頂で命を落とすことになっべな」

 世界的テノールの藤枝和行が、念願のジークフリート役を射止めた矢先、婚約者・有希子は老婆の予言どおりに列車事故で命を落とした。由希子との結婚を決意するまで、散々浮名を流してきた和之だが、由希子を失って初めて、その存在の大きさに気づき愕然とする。開演は待ってはくれない。遺骨を抱いて歌うことを決意した和行だったが…。

 数あるワーグナー作品の中でも難役中の難役、ジークフリートに日本人が挑むことが、どんなにすごいことなのか。僕には本当の意味でわかったとは言えない。それでも、バイロイト音楽祭の歴史を交えながらのワーグナー談義は興味深い。『トスカの接吻』を読んで、オペラは解釈や演出の自由度が高いということを、一応知っていたのも大きい。

 しかし、和行の行状には正直眉をひそめてしまう。深い悲しみに沈んでいるかと思ったら、共演者と寝たり、由希子の親友に手を出したり…。喪に服す期間の長さに意味があるのかと開き直る始末。恐れ知らずのジークフリートそのものと言えなくもないが…。

 そんな和行の前に現れたのはあの瞬一郎。彼はただ薀蓄を披露するだけでなく、和行とのやり取りから何かを掴んでいた。そして、開演直前の和行に、あまりにも酷な事実を告げたのだった…。それでも和行はジークフリートとして舞台に立つ。和行を奮い立たせたのは、由希子への贖罪の気持ちか、それともプロ意識か。

「んでも、死んでからも好きなおのこの役に立とうとするなんて、まんず義理堅いというかなんと言うか、健気なことだなあ」

 由希子が死してなお和行の役に立つとは、こういうことか。哀しくも美しい、ドラマティックな幕切れに、読了後はただただ呆然とさせられたのだった。



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