舞城王太郎 07 | ||
山ん中の獅見朋成雄 |
いきなり唐突だが…「純文学」を「純文学」たらしめるものって何だろう?
第16回三島由紀夫賞の選評によると、受賞作品を積極的に推している選考委員は一人だけである。受賞に安堵しているとまで言っているではないか。逆に、彼が推している作品に対する他の選考委員の評価は芳しくなく、某氏は猛反対している。
…と、同じことをどこかで書いたような気もするが、舞城さんの新刊である。率直な話、舞城作品に好感を持ったのは『阿修羅ガール』が初めてだ。それまでの作品に対する見方も多少は変化したのだが、本作を読み終えてみて、ああ自分はファンにはなり切れていないのだな、と思ったのだった。
主人公獅見朋成雄(しみともなるお)の首の後ろに生えた鬣。彼が見かけた美しい馬。森の中のトンネルを抜けてたどり着いた場所。それらは何を象徴しているのだろうと考えてみる。答えは示されない。少なくとも本作はミステリーではないのだ。
あるタブーとされている行為。もしかして…と思っていたらやっぱりそうだったのだが、あまりにもあっさりと描かれていて嫌悪感を抱く以前に拍子抜けした。こういう点は、デビュー作の勢いに任せた単にえげつない描写からの変化だろう。そこに何らかの意図は汲み取れる。何らかの。僕にはそれを具体的に表せないのだが…。
爽やかなラストの一文は、文学界という閉鎖された世界への挑戦状なのだろうかと深読みしてみたりする。しかししっくりこないなあ。舞城王太郎は文学界の殻を突き破り、読者のはるか先へと向かっているのか。
『阿修羅ガール』の受賞に反対したのは、大御所中の大御所宮本輝氏である。同氏が完全な拒絶姿勢を示す一方、高樹のぶ子氏は「理解不能のものだからといって、そのフィールドを潰す力を行使してはならない、とだけは思っている」と述べている。僕は一読者として、作品の長所を探す努力は放棄しないようにしたい。