森 雅裕 23


北斎あやし絵帖


2006/12/07

 森雅裕さんの時代小説としては『化粧槍とんぼ切り』を読んだ。戦国の世から徳川幕藩体制へ至る激動の時代を、誇り高く生きた人間たちを描いた、「胸のすく」傑作だった。それから時代は流れ、時は文化十四年(1817年)。大政奉還まで50年。

 十一代将軍家斉の治世では徳川宗家の威光などとうに失せ、幕府内部は権力を巡る暗闘に明け暮れていた。武家の誇りはどこへやら。『化粧槍とんぼ切り』とはあまりにも対照的な陰湿でじめじめした話である。こんな時代を誇り高く生きるのは難しい。

 洋琴(ピアノ)を作りたいと葛飾北斎を訪ねた芝居の道具師、あざみ。だが、北斎が収集した図譜や画帖の中にあった肝心の資料は盗まれていた。北斎とあざみの危機を救った千葉周作を加えた三人が、盗まれた資料を追ううち幕府内の抗争へ巻き込まれ…。

 森雅裕作品を読み慣れていれば、北斎、あざみ、周作のキャラクターはかなりソフトに感じられるだろう。これなら初心者でも問題あるまい(見つかりにくいけど…)。それはともかく、固有名詞の多さがかなりきつい。北斎を始め、田沼意次、松平定信、水野忠邦、平賀源内などの有名人物はまだしも、教科書には載っていない名前がわんさか登場し、その関係は極めて複雑なのだから。誰か相関図を作ってくれないかな。

 賄賂にまみれた田沼意次、質素と倹約を旨とする松平定信と水野忠邦、というのが一般に知られた人物像だろうが、そうした認識を裏切る設定が面白い。皆さん結局は俗物なわけで。陰謀のスケールの大きさの割にはやることが姑息すぎて、苦笑する。なるほど、これでは幕府の崩壊も近いはずである。でも、人間臭くて不思議と憎めない。

 帯にあるような「胸のすく」話とはどうしても思えないのだが、一つわかったことがある。北斎、あざみ、周作の三人は、別に義侠心に駆られて陰謀を食い止めようとしたわけではない。時代のうねりの中、権力者に利用されることに、せめてもの抵抗を示したのだ。

 興味深く読めたのだが、「画狂老人卍」とまで名乗った絵師としての葛飾北斎があまり前面に出ていないことが残念。川柳は何度も披露していたのだが。



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