荻原 浩 24


砂の王国


2010/11/21

 新興宗教がテーマの作品を読むのは、貫井徳郎さんの『夜想』以来である。荻原浩作品としては初の上下巻の大作で、このテーマに挑む。

 新興宗教が成立する第一の条件は、教祖に圧倒的カリスマ性があること。現実の例を見れば明らか。メディアを賑わせた彼らは、傑物には違いない。第二の条件は、優秀な参謀がいること。ただし、熱心な信者とは限らない。単に利用したいだけかもしれない。

 『夜想』の感想の冒頭に、僕はこう書いた。しかし、これは本作にこそ当てはまるだろう。『夜想』は真摯に教祖を信仰し、支えようとする男の物語だった。

 大手証券会社勤務からホームレスに転落した遼一は、同じくホームレスの仲村と知り合う。彼は、辻占いをしていた龍斎も巻き込み、社会への復讐のため、宗教を興すことを決意した。顔立ちが極めて端正な仲村を、教祖に祭り上げて。

 山崎遼一という現世の名を捨て、木島礼次と改名した主人公は、いわばコーディネーターである。龍斎と練り上げた原稿を、大城先生こと仲村の口から語らせるだけ。『夜想』における遙とは違い、完全に傀儡のつもりだった。仲村は記憶力はずば抜けていた。

 無信心な僕は、トントン拍子に組織が大きくなっていく様子に、そんな簡単にひっかかるもんかいと思ってしまう。「大地の会」がやっていることは文字通りの虚飾なのだ。レイヴパーティーに集う若者たちを、こんなチープな演出で惹きつけられるものなのか。

 醒めた頭で読み進めると、風向きが変わってくる。組織が大きくなるにつれ生じる、嫉妬や対立。もはや木島事務局長の威光など通用せず、遼一は自身が創設した教団を制御できなくなる。ロボットのはずだった教祖・大城は、遼一の手を離れていく。ホームレスから上り詰めた遼一の再転落の図は、哀しいというよりおかしくてしかたない。

 『砂の王国』というタイトルは、「大地の会」が砂上の楼閣であることを示唆しているのかと思ったら、何のことはない、遼一自身が一粒の砂でしかなかったわけである。しかし、帯には人間の業を描きだすとか書かれているが、正直滑稽としか評しようがない。上下巻の長さにつき合わせて、この結末は中途半端に過ぎるのではないか?



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