「悪霊(Весы---複数形である)」は、ドストエフスキヰが一八七一年から、家族向雑誌「ロシア報知」に連載した小説ださうである。

当時日本は維新真盛りの頃であり、ヨオロツパの文明側ではインタアナショナル運動が流行し、舞台のロシアと言へば産業革命に押されて農奴解放令が成つて落付ひた頃であらう。当時ロシアの知識階級には、当時の日本人と同じく、ヨオロッパに対して「文化」が遅れて居ると言ふコムプレックスと、其処からの反動に因る祖国文化の全否定が、共通の意識としてあつた様に思はれる。其の心の焦りに乗じて「社会主義思想」と言ふ、何やら耳新しひ響きの、パラダヰスへの予言が、砂糖水のやうに染み込んで行つたものと思はれる。作品を愉しむ為の背景として此位知つて置けば良からう。

扨、此の大変味わゐ深ひ小説は、其の、登場する人々に殆ど正常な者が居なゐのが一大特徴で有る。語手の「わたし」と、軍人のマブリイキイ以外に平衡の摂れた人物は見当ら無ゐ。面白ひので、先ず、彼等を順番に紹介して往く事にしやう。

此の物語の主人公は、ステパン・トロフイモヰツチ・ヴェルホオベンスキヰ氏である。此の、御喋りで、感激屋で、少々鬱陶しい無害な人物は、社会主義思想黎明期から其れに共感し、共に歩み続けたと言ふ自負に依つて生きて居り、精神の安定を、「女友達」で在り、スポンサアでも在る資産家ワルワアラ夫人との友情と、友人である「わたし」との知的会話で保つて居る。彼は自由を愛し、自分の知性を愛し、自分が自分の信条に則り自由だと信じてゐる物の、実は彼に自由は全く無い。金も住処も服装も結婚も全てワルワアラ夫人が支配してゐる。丸で家畜である。この皮肉は誠に喜劇的であり、興味深いシチユエイシヨンである。(そして此の小説の全ての人物が此のやうな矛盾を抱えて活き活きと動きまはるのである。)彼の存在は、物語を通して有る一本の物差し、基準器である。名前は間違ひなく聖ステフアノより決められたのだらう。名前からエピソオドが作られたのやも知れぬが。

ワルワアラ夫人は、有能な経営者であり、ステパン氏を囲つて居るのは知的な見栄の為で有る。彼女は無意識の内にステパン氏を自分の知的農奴と見做して居る。自由だと思つて居るステパン氏と、奴隷だと思つて居る彼女の意識の差が、細な出来事の積重ねに依り段々大きな亀裂と成つて行くのはスリリングな見所であらう。完璧に見へる彼女だが、見栄と、愛する一人息子のニコライ・スタブロオギンといふ二つの弱点から足を掬われ、運命は捩れて行く。

此の小説のまう一人の主人公は、有名なスタブロオギンである。彼はひたすら退屈して居、日常に無ひ刺激に飢へて居る。典型的な破滅型冒険者である。然し彼は絵物語のやうな冒険をしなひ。狂つてゐるにも関はらず、自分は狂つて居無ひと当然のやうに考へてゐる。ドストエフスキヰに依る、彼の心理の描写は丸で自分を語るかの様である。殊に削除された「告白」に於ける恍惚の解説は素晴しひ。彼の隠れた狂気は神秘的なカリスマを齎し、其れは物語に大きな意味を持つ。しかし、彼が重要な告白を行ふ途中の一章が、家族向雑誌掲載といふ性質上削除された為に、其処から先、当初の彼の役割は、他の人物達に分散されたやうだ。

物語最大の悪魔は、ステパン氏の生き別れの息子、ペヨトル・ステパノヰチ・ヴェルホオベンスキイで有る。彼は様々な革命に必ず見られる、典型的な---有能な組織者であり、嘘吐きであり、支配欲の塊である、---生まれ付ひての悪党、人非人、犯罪者である。彼がまう少し有能で、社会がもつと不景気で、取り巻きがもつと有能だつたなら、彼の革命は成功したかも知れぬ。そして血のスタアリン時代が60年程早く来たかも知れぬ。彼がスタブロオギンに語る、有能な支配者の元の、愚者の貧しひ平等といふパラダイスの構想は、呆気ないほど正確に、其の後ソビエトロシアに訪れた社会を予言してゐる。当時から、経済的な万人の平等といふ事を実行する為に細部を突き詰めれば、さうしなゐと成り立たなひ事が判つてゐたと言ふ、非常に興味深ひ予言なのだが、此の事は無視され続け、文庫本の煽りに見る様に、スタブロオギンの人格の異様さばかり、ネチヤアエフ事件の事ばかり、丸で珍獣の見せ物の様に強調されてゐるのは、作品紹介と言ふ点で非常に残念な事である。物語の伏線的登場人物だとは言へ、一番祭り上げてはいけなひ人格の、興味深ひ典型として研究されなければならぬのは、スタブロオギンでは無くペヨトルで有ると言ふのに。亦、自分は陰に隠れ、スタブロオギンといふ輝ける傀儡を使つて実権を支配しやうといふ手法、五人組細胞など、文学と言ふには余りに生々しひ、レアルな組織支配テクニツクで有る事に注目されたひ。

ペヨトルの革命組織の面々も、真、準を問わず其れを構成する人々の其の典型的性格が、非常に巧く素描されて居る事に驚く。逆を言へば、かふ言つた組織に来る面々が典型的な事に驚く。妬みから起きた憎しみで平等と革命を志す、スパイ気質の小役人リプウチン、純粋に人々が平等でやつて行けると信じているインテリ労働者シヤアトフ、自ら未来を閉ざした寡黙な実行者キリイロフ、嘘つきで、何か面白ければ後先考えなひで行動する扇動者リヤムシン、思想など無く、然し権力獲得の為に思想が有るやうに見せ掛けたひペヨトルの、大切な思想の拠所であるシガリヨフ、騒ぐのが好きなだけのならず者達。社交界での見栄の為だけに面白ひ食客を囲つて置かうとした結果、其の食客に逆に良ひ様に食ひ物にされる「話の判る」パトロン達。彼等パトロン達が、自分達が何故パトロンで居られるのかを認識せずに、安易に響きの良ひ「平等」に共感して仕舞ふ姿は、愚かしくもリアルで大変に恐ろしひ。平等とは財産の放棄を意味し、其処にはシヤンパンも絹のシヨオルも無くなつて、彼等に対する財産と言ふ物への敬意が消失せた後に、彼等の見栄を満足させる物など何も残りはしなひと言ふのに。彼等は「金持」の旦那様だからこそ、尊敬され茶なぞ飲み、意見も聞ひて貰えるのであつて、財産が有るからこそ社会の平等なぞ心配出来る暇が有るのだと言ふ自覚が無い。自分の存在する理由を見栄の中に見失い、若者を只の子供として甘く見る、奢つた姿勢が其処に有つて、一つの文化の破滅は其の辺りから始まるのだらう。付け焼き刃に聖書の言葉を引く。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、豚に真珠を投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたに噛みついてくるであろう(マタイによる福音書7-6)」は、正にレンプケとペヨトル、ユリア夫人とペヨトルの関係に当嵌る。目を掛けやうとして居る若者が「犬」や「豚」でなゐかだうかを見極める力を付ける事である。

前述の悪魔共の最大の犠牲者である、気の毒なレンプケ知事は、物語に大きく影響する登場人物で有る。ステパン氏と同じく、彼にも自由は無ひ。彼は入り婿で、ドイツ系で有り、財産は年上女房のユリア夫人が握つて居て、彼女は知事の仕事にまで干渉して来る。彼の自我は無視され続け、緊張して行き、悪魔ペヨトルの登場で遂に破断する。此の経緯の組み立ては見事である。日常生活や職場で、かういふ目に遭つた事の有る人なら、彼の心理に必ず共感するだらう。知事に任命された訳でも無ひ知事夫人が県政に横から口を出し、牛耳るといふ、此のエピソードも非常に鋭い。此の県の政治はユリア夫人に因つて乱れて了つた訳である。これも革命の起きる時勢的な重要な要素として挙げて置きたひ。中国でも、王の夫人が政に口出しすると国が滅ぶと有る。

当時のロシア知識階級の憧れとして登場する文豪カルマジイノフ氏は、全くの道化役である。彼は非常に滑稽に描かれるが、多分、当時はこういう人物が有り難がられてゐたのであつて、非常に痛烈な、且つユウモラスな描写が笑を誘ひ、彼の登場シインだけを見ると丸で喜劇に成つて了う。殊、後半に鳴り物入りで登場する彼の詩「メルシイ」は、其の題名からして滑稽だし、此の詩は語り手の感想だけで語られるので有るが、そのユウモア溢れる描写は非常に素晴らしく、読んでゐてファンタジックな情景が目に浮かぶ程で、思わず吹出して了つた。彼はペヨトル氏より一級上の見栄のための飾りとして登場する。モデルはツルゲエネフらしひが、確かに彼の作品の特徴を良く捉へてゐる。(然し僕はツルゲエネフは嫌ひでは無ひ。ムムウ等好きである。)

リザヴェエタは、不安の伏線として登場する、安定感のなゐ令嬢である。彼女の描写は常に不安を呼ぶ。読者の其の不安はやはり的中する。彼女は結構だうでも良ゐが、彼女に対するマブリイキイの態度が素晴らしく、人間らしひ。

之で登場人物を一通り見た。通して言へる事は、皆恐ろしく「暇」なのだと言ふ事だ。登場する人物で、真に暇も無く生活に追はれて居るのは、工場を閉鎖されて知事の元へ請願に来た、名も学も無ひ労働者達だけである。悪霊は暇人に取り憑く物であらうか。更に、スタブロオギン以外の人々は皆、自己顕示欲を持て余し、ステパン氏は自分の言動が逮捕される程影響力が有る事を願ひ、ワルワアラ夫人はステパン氏を有名にする事で自己顕示欲を満足させやうとし、ペヨトルは自分の組織した革命を夢見、リプウチンやリャムシンは扇動で満足し、シガリョフは自ら編み出したパラダイス論に夢中に成り、シャアトフやキリイロフ、レンプケ知事は自らの自己顕示に押し潰され、ユリア夫人は、取り巻きの若者を更生させた慈愛の夫人、と言ふ栄光を夢見る自己顕示欲に取り憑かれる。是等も悪霊であらうか。ペヨトル等は自身が悪霊の様で有る。スタブロオギンは悪霊の姿を見る事が出来ると言ふ。是は自分の狂気と同じく、意識せざる良心、神への畏れであつて、彼も亦、自分ではだうにか出来ると思つてゐる悪霊を飼ひ、しかし結局は狂わされ食はれる。此の様に、此の小説には幾つもの種類の悪霊が棲着ひて居る。

興味深ひ事に、作中で社会平等を唱へる人々の中に、一人として、請願に来た、給与未払ひの農奴上がりの工場労働者達に目を向ける者が居なひ。かう言つた持たざる人々の為に社会主義とか平等と言ふ言葉が有る様に思ふのだが、彼らの思ひ描く平等の底辺は全て自分の現在位置で有る。詰り自分こそが最底辺で有ると認識して居るので有り、自分と仲間さえ上に行ければ良いと考へ、其れを先鋭化したのがシガリヨフで、体現しやうとしたのがペヨトルで有り、労働者の立場を体験しやうとアメリカに渡り、蛸部屋生活を送つたシャアトフとキリイロフでさえ、持ちえた感想は只「アメリカ人はスゲエ」であつた。ドストエフスキヰは実際にかうした光景を見、哀れな、「将軍様、お声をおかけくだせえまし」と言ふ事しか出来なゐ人々の救済は、美しく調子の良い言葉を並べた社会主義思想では無く、人間の愛に根差した根源的な神への信仰で有ると感じたのでは無ゐか。此の小説の登場人物で真に自由な人は誰も居ないのである。皆何かの悪霊=鎖で縛られ、苦しくてもがひて居る。意識せざる自由を求めて。其して意識せざる訳だから、求める自由は何で有るのか誰も丸で判つてゐなひ。さうして皆一様に暇な物だから不必要にもがく時間が多ゐので在り、其れが亦事態をドンドン狂はせて行く。かうした見方をすると是の小説は大変に面白くも在り、恐ろしい身近な、誰にも起こり得る混乱と悲劇を描ゐた予言の書でも在る。では、我々がかうした悪魔の混乱に巻き込れ無い為にはだう為れば良ひのか、答えはヒタスラ真面目に働く事にしか無ゐのであらう。

最後は付け焼き刃で引ゐた聖書の言葉で締める事としやう。

わたしたちは、

「働きたくない者は、食べてはならない」

と命じていました。

ところが、聞くところによると、

あなたがたの中には怠惰な生活をし、

少しも働かず、

余計なことをしている者がいるということです。

そのような者たちに、

わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、

勧めます。

自分で得たパンを食べるように、

落ち着いて仕事をしなさい。

(テサロニケの信徒への手紙3.10-12)  

昭和八十三年五月

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