騎兵と娘

          宮前 隆


 序 飛行機にまたがった騎兵 

       ヨーゼフ・フォン・ヴェルデ

 「騎兵」、Dr・アロイス・マイヤー大尉は、フランスからイギリス、さらにアフリカのアズール色の空を戦い抜き、再びフランスに下がってきて私の部下になったのは一九四三年の春も終わりのころで、猫のように、物静かな、それでいてどこか油断のならない男だった。彼は腕は確かなのに積極的に物をいうことをしなかったので、位こそ大尉だったものの、シュバルムリーダー止まりで、しかも私の部下の中では孤立していた。マレンゴの戦いにあこがれ、自分では自分のことを神出鬼没の騎兵だといっていたが、しかし、私にいわせれば彼は野生のハンターだった。音もなく(空中では常にエンジンがぶんぶんいっているので、この言い方には誇張があるが)哀れな目標に忍び寄り、的確な射撃で致命傷を与え、そのまま立ち去るあのやり方はまさに猫科の動物のそれであった。
 彼は物静かな一方ずるい男で、空戦で生き残るためのずるさはすべて持ちあわせていたようだ。最近の一部の売れっ子サッカー選手たちのように、気が乗らなければ攻撃をしなかったので、戦果は挙げたりあげなかったりで、なかなか著しいばらつきを見せたものの、自分たちが損害を受けることはまずなかった。今だから白状するが、当時私は彼の個性を持て余していて、さりとてその才能を他部隊に追い出すのは惜しかったので、一計を案じ、彼のシュバルムを分遣隊としてパリ外れの小さな基地に配置し、そこでゲリラ的な迎撃をやらせた。いわゆる「自由な狩猟」というやつだ。一般に後世、この戦術は誤りであったといわれるが、彼の隊だけでやっている分にはこの処置は正解で、部隊の戦果は増えるし、私の指揮はやりやすくなった。連合軍がフランスに上陸してからの、あの一方的な一大消耗戦の中でも彼のシュバルムは頑張り通してはいたのだが、やはり連合軍の物量の巨大な波の前には無力で、一九四四年の八月のある日、ついに彼は空戦中消息を絶った。
 私はその時の混乱のままに、彼の最後に至るまでの経過の詳細を知らずに、押し流されるように第三帝国の崩壊を経験し、しかし幸いにもあの苛烈な空にあって命永らえ、屈辱の俘虜体験を経て、いたって平和な今日に至ったわけだが、戦後五十年を経、今回初めて彼がその空戦記録を残していたことを知ると同時に、それが優れた読み物になっていることにおおいに驚いた次第である。それぞれたどった道は違うものの、これはわれわれ、当時若者であった者たちの共通の体験の記録であり、若い心が無力ななりに一生懸命に生きようとしていた毎日を懐かしく、あるいは苦々しく思い出させてくれる。
 これから育ちゆく若い皆さんに、われわれの記憶を少しでも正しく、かつ多く伝え、一人の人間として生きていた事実を証し、かつ苦い教訓として学んでもらえるということは、時の流れとともに消え去ってゆく古いわれわれの、ちょっとした心の慰めである。


   いつでも食べるものが、しかも豊富にあることに感謝して。

旅先、モンテビデオのホテルにて、元ルフトヴァッフェ少佐

 
騎兵と娘

        Dr・アロイス・マイヤー

 「コンタクト」
 整備兵が百回以上、必死になって回したフライホイールをボタン一つで接続する。三メートルも先の幅の広いプロペラが回り始める。片側六個づつある(といっても左側のそれは、過給器の空気取り入れ口のせいで見えないが)排気管が吐く煙を、プロペラ後流が勢いよく押し流す。天気は晴れ。ぽかぽかといい天気だ。不機嫌な冬の香りは、すでにこれっぽっちもない。じっさいこんな天気の日はのんびりと飛ぶに限るのだが、あいにく、今は戦争中なのでそういうわけにもいかない。だましだまされ、殺し殺されの油断のならない時間が僕たちを待っている。
 まわりを念入りに確認してから滑走に入ることにしているのと、運がよかったのとで、いまだに離陸時に奇襲を受けたことはない。もちろん着陸時にも。
 草の滑走路を離れたら、脚を引き込む。空中に浮き上がるときのうれしさは、初めてグライダーに乗ったとき以来、変わることがない。
 僕たちは空中で編隊を整えると、イギリスの方へ向かって高度を取りながら狩に出掛けた。本当はこんな日は、彼女といっしょにのんびりとしていたいのだけれど。
 晴れた日のフランスの空は、アフリカほどでないにせよ、青く、澄んでいるので、隠れるところはあまりない。
 だから目を凝らして、敵を探す。特に太陽の方角を。
 イギリス人は地上からレーダーで僕たちを見つけて、無線電話をつかって僕たちに猟犬をさしむける。
 同じようなレーダーの目は僕たちにもあるはずなのに、いつも優勢なのはイギリス人の方だ。
 僕たちのシュバルムは北に向けて飛ぶ。高度は七千メートル。フランスは畑の多い国だ。目の下は、一面気持ちのいい緑の織物。
 猟場が近づいてきた。僕は電話で編隊に注意する。
 「元気か?諸君!そろそろインディアンが目につくころだ。よく見張ってくれ!」
 敵より先に見つけること。負けないため、あるいは殺されないための第一条件。フランス、ドーバー、アフリカと、いつも僕の方が先に敵を見つけたおかげで、事故で墜死したものを除いて、僕の編隊から戦死者は出なかったし、僕は小隊の編隊長になったし、大尉になった。もっとも、撃墜した敵機の数はマルセイユなんかに比べたらたいしたことがないので、戦友の間では「奴は逃げるために先に見つけるのさ。」と陰口をきかれているようだ。命あってのものだね、言いたいやつには言わせとくさ。
 「一時の方角にインディアン。いつも通り、ゆっくり南から回り込む。行くぞ!」
 フランスの緑の田園と薄青い空の間に、ぼんやりとにじんだ点が浮き上がっている。敵機だ。スピットファイアかタイフーンか、まだわからないが、経験から、どちらに飛んでいるのかはわかる。僕たちの言うシュバルム、彼らで言うフインガー・フォーという隊形を基本にした大編隊だ。僕たちはイギリス人の後ろに回り込もうとする。できるだけ静かに。わからないように。
 イギリス人の編隊にわずかな動揺が感じられる。はるか遠く、ドーバーのがけの上のレーダー局が僕たちを発見して警告を出したのだろう。「バンディット、エンジェル二十三、君たちの南だ!」なんていうふうに。でも、僕たちは太陽を背にしている。太陽の中にいる飛行機を見つけることは至難の技だ。僕たちはまだ彼らの肉眼ではとらえられてはいない。
 数分後、僕たちのシュバルムは完全に彼らの後ろに回り込んだ。僕はいちばん後ろのスピットファイアを食ってやることにした。
 落下タンクを切り離す。
 一○九でやるパワーダイブは、特にそばに自分のスピードを比較することのできる目標が飛んでいる場合、かなり爽快な機動だ。目標がカウリングに隠れたら、海に飛び込むときのようにスティックとスロットルレバーを前に押し込み、マイナスGで身体が浮き上がるのは気にせずに、噴射式燃料装置に感謝しつつ、突っ込む。飛行機をこする空気の精たちの、うなるような抗議の声を無視して。速度計が一周しきって毎時八百キロに近づくのを認識しながら。カウリングの下のスピットファイアを思い描きながら。
 これまで何度となく遂行してきた襲撃となんら変わりなく、スティックを緩めるのと狙っていたスピットファイアがカウリングの上にぴょんと跳びだすのはいつも同時だ。これが僕のやり方だ。九型になってからのスピットファイアは横転速度がやけに速くなったが、僕に狙われたこの機体のパイロットは、まだ僕に気付いていない。風防の防弾ガラス一杯にまっすぐ飛んでいる。
 「注意せよ!見えざる敵が、貴官を撃墜する!」
 心の中で敵の標語をつぶやく。この言葉は、敵味方に関係なく真実だ。
 スピットファイアの後下方にぴったりとつけ、一瞬だけまっすぐ飛んで、引き金を引く。僕の両足を押し広げている黒いカバーの中のプロペラ軸の二センチ銃と、機首の上に二つ付いたコブの中の十三ミリ銃が弾を吐き出しはじめたら引き金を離す。主翼のメーンスパーを粉砕されて砕けてゆくスピットファイアを、急降下の余力をかって追い抜いたら急上昇に入れる。緊急出力。一○九がスピットファイアよりも早く上昇できる角度でズーム上昇をかける。一機撃墜。戦場では、不注意者の命は何秒後に消えるかわからない。
 他のイギリス人達は一斉に横転して垂直旋回にはいる。僕たちを格闘戦に巻き込んで今の借りを返したいのだ。しかしこれは追いかけてはいけない。編隊での格闘は高度と速度を無駄にする。そしてこの二つの要素を失った一○九は、もはや戦闘機とは言えないから。
 ぐるぐると輪を描くイギリス人を尻目に、僕たちのシュバルムはひたすらに高度を稼ぐ。
 「諸君、インディアンはついてくるか?」
 いっせいに返事が返ってくる。
 「ついてこない」
 「諸君、本日も騎兵の襲撃は成功だ。帰還しよう。」
 さあ、僕たちは還るとしよう。基地へ。
 
 僕は本部に電話で戦果を報告する。僕が一機、ウイングマンのブラウンが一機。そして一番の戦果は、当方の被害が皆無ということ。今日はもう、これで十分すぎる戦果だ。狩りは成功した。詳報にも書いておこう。
 「諸君!夕飯にしよう!」
 切った軍用パンにバターを塗って、焼いたソーセージに、ジャガイモ、卵、それからリンゴ酒。
 「ブラウン、今日の君はよかった。いつもいいが、今日は特によかった。....」
 僕はパンを振り回しながら、部下に、今日の空戦の講評をする。明日もみんな無事に夕飯を食えるように。
 「...シュプレッケル、今日、一撃かけた後の上昇角度を覚えておけよ!あの角度なら、スピットファイアはついてこれない。もちろんその前に少し突っ込んで加速するんだぜ!」
 「わかりました!大尉。」
 「じゃあ、これはご褒美だ。」
 彼のパンにいつもよりたくさんバターをのせてやる。
 補充の新入り、若いシュプレッケルはにっこりする。まだ十九の子供なのだ。死なないようにいろいろ知恵を付けてやらなきゃ。
 いつもとおなじに夕食が終わり、いつもとおなじにみんなは個人の時間のために部屋へ戻った。
 家族に手紙を書く、日記を書く、それぞれ好きなことをするために。
 僕も自分の時間を持つことにしよう。
 僕も憩うことにしよう。人より少しぜいたくな憩いを。
 アンヌ・マリの胸で。
 
 レジスタンスが出るので、村へは行かないようにという通達は知っている。村へ夜ばいに行った運の悪い整備兵のヨアンがどうなったかも知っている。しかし、地上の僕は、僕の中の情熱が理性では押さえられないことも知っている。今、僕はただの恋する男だ
 僕は兵舎を抜け出す。徴発した村の学校の寄宿舎を。恋のために。春のにおいを嗅ぎながら道を歩く。空戦の時みたいに、誰にもわからないように。幸せにつつまれて。
 彼女の家の扉をたたく。静かに。扉が開く。いとおしい顔がのぞく。今日もアンヌ・マリは僕の顔を見て、微笑んでくれた。僕は急造のまずいワインの瓶とばさばさのパンと、バターの包みを持ち上げて、(これでも精一杯のお土産だ。)ふってみせる。

 アンヌ・マリ。フランス娘。
 亜麻色の髪、丸い額、知性の目、かわいい鼻、アフロディテの唇。かすかな異邦の香り。そして時折みせる強さと弱さ。
 最初に出会ったとき、僕が青い空のアフリカからこちらへ戻リ、疲れ切ったからだと紫外線にひび割れた顔で、この兵舎についたとき、彼女はすすけた顔をして、よれよれのブラウスを着、年季の入ったカゴをもって、僕たちの宿舎の入り口に立っていた。僕たちの残したパン屑をもらいに。彼女は十九歳。彼女の両親は四十年のブリッツクリークの時に、デマに驚いて疎開しようとして、自動車事故で死んでいた。彼女は孤児。村外れの立派な館に独り。持っているのは家だけ。でも家を食べることはできない。すぐに餓えることになった。講和後、二年目ごろから村人がなぜか彼女を養うことを嫌いはじめたから。彼女の家が農民ではないからか、彼女の無口で生意気な態度からか、それともかすかにアラブを思わせる面影のためか、理由はよくわからない。とにかく彼女に食べ物も仕事も与えなかったので、餓えた彼女は食べ物を求めてさまよった。近くにわが軍が飛行場と兵舎を設けていた。物好きな兵隊が、彼女にパンを恵んだ。彼女はドイツ軍のところへやって来るようになった。兵舎のマスコットになった。それから女になった。
 崩壊したアフリカ戦線から戻った僕は、この兵舎に来てすぐに、このマスコットのことが気になってしょうがなくなった。
パンを渡す役を無理やりに炊事兵から取り上げた。(これが軍の階級と特権というものだ。)彼女に話しかけた。毎日、少しずつ。初対面のぎこちなさが解けると、彼女はパンをかじりながら答えるようになった。少しずつ。テーブルにひじを突きながら。時には上目づかいで、時には全くこちらを見ずに。そして僕は、彼女がパン切れと干し肉に法外な支払いを強いられていることを知った。僕は憤慨した。パンを求めるものにはパンを!だ。餓えたものがパンをもらえるのは当然の権利であって、きみはそんな代価を払う必要はない!しかし彼女の反応は淡泊なものだった。
 「どってことないよ。ちよっと使わせるだけ。その間パンをかじってるの。兵隊さんがいいって言うまで。」
 「使わせるだけって、・・・大事な大事な自分の身体じゃないのか?」
 「心じゃないからいいの。心と身体は別なの。」
 彼女が自分自身を納得させるために作り出したへりくつ。かわいそうに。
 「そう思うのはあなたがわたしを見下しているから。私の生き方を認めてないからだと思うの。」
 確かに、僕は彼女を見下しているのかもしれない。彼女はまだ十九だし、僕は彼女よりもかなり永く生きてる。
 「永く生きてるってだけじゃあ人を見下していい資格にはならないよ。」
 彼女は僕の顔をまともに見返しながら、とどめの一言。
 「ここ四年間に、なにをしてきたの?」
 「・・・ただ飛んでいただけだ。そう。ただ飛んで、機関銃を撃っていただけ。いろんな空を見た。」
 ここまで話して、僕は口を閉じた。なるほど。こうして振り返ると、僕はこの四年間をかなりムダにつかってしまったようだ。四年間!そう、四年間も!
 「空を見てただけじゃ、私の行き場のなさはわからない。おなかが空いても食べるもののない恐ろしさはわからない。手の届くところにある食べ物を手に取れないあせりは、わからない。」
 「そうかもしれない。」
 しかし、これからは彼女がそんなことをしなくてもいい環境を、この僕がつくってやってもいいはずだ。
 「でも、これからはそんなことをしなくていい。君は、僕の話し相手をしてくれれば、僕が話し相手になってくれたお礼に、食べ物をあげる。」
 この割のいい新条件には彼女もいやはなく、彼女は毎日僕のとりとめもない話を聞きながらパンをかじることになった。
 彼女は若いフランス娘とは思えない、割り切った物の考え方を身に付けていた。娼婦が時折見せる、あの、荒んだ「あきらめ」と少しだけちがうやり方、なんというか、制御された欲のなさ。自分の意志によってすべてを決断したと自分に言い聞かせることで、生きる強さを保っているようだった。
 空を飛んでいるときは自由で、そこでは変なことにならないかぎり(たとえば脱出して落下傘が開かなかったりとか)死も瞬間のものだ。苦しみはないだろう。けれど、地上で生きてゆくためには、人間の精神を保つという使命のほかに、生き物としての身体を保つという宿命も背負わなければならない。彼女はその宿命と正面から対決し、結果として、少しだけ自分の身体を支払ったのだ。少しだけ精神に目隠しをしたのだ。でも、ここらで誰かが救いをいれてやってもいいだろう。救いをいれるのが僕でもいっこうに構わないだろう。
 兵舎の色気のないテーブルの前に腰掛けて、彼女が静かにパンを食べる様は、何ともいえなくほほ笑ましく、僕はその光景が好きになり、静かに頬杖をつきながら眺めるのが、飛行の緊張を解きほぐす一杯のコーヒーの代わりのようなものになった。
 僕がパンをわたすようになってしばらくしたある日、彼女はいつものようにパンをかじりはじめたが、急に顔を上げると、まじめくさった顔で僕の目を見つめながら、唐突で、そして恐らく彼女なりにかなり思いきった質問を投げ掛けてきた。
 「大尉さんはわたしの身体、ほんとに使わないの?」
 僕は戸惑ったが、とっさにフランス人みたいな気の利いた文句を言えるわけもない。
 「使うのはいやだ。愛しあってはみたいけどね。」
 彼女はにこりともせずに
 「愛しあうのと使うのって、どうちがうの?」
 「ううん・・・」
 いつもセックスのことばかり考えてるわけじゃない。だからそんな質問の答えは用意していなかった。言葉の不意撃ち。完全に僕の負けのようだ。これが空戦なら僕は空中で分解して地面にキッス。
 勝ち誇った彼女はそこで自説を披露した。
 「こういうことだと思うの。見つめあうことが楽しくて、お話をするのが楽しい人とするのが「愛しあう」ってことで、使ってる人だけ喜んでるのが「使わせてる」ってこと。ゲシュタポとエスエスの違いよりははっきりした違いだわ。」
 たしかに。部外者から見ると、ゲシュタポとエスエスは似てる。でもそんなたとえは恋に似付かわしくない。たとえをすり替えなきゃ。もっと楽しいたとえに。
 「アクロバットと格闘戦の違いみたいなもの?」
 「なにそれ?大尉さん飛行機のりなのに取っ組み合いもするの?」
 僕は空中でやるアクロバットの話をはじめた。スティックを倒して、合わせてそっちの足を蹴り、釣り合いのとれた旋回をする。機体が完全に横倒しになる少し前にスティックを緩め、地平線が九十度傾いたらスティックを引いて足の使い方を逆に・・・優等生の飛び方ができたときの喜び。編隊が、お互いに棒でつながっているみたいに空を回るときの達成感。飛ぶことの素晴らしさを、飛行機に見立てた手のひらを使って説明する。彼女の目がネズミを追う小猫のように僕のはげしく動く手のひらを追う。
 「こんな具合にいくらやっても楽しいのがアクロバット。反対に・・・」
 空戦はただの作業だ。そして緊張の連続。どんなにうまく優等生のアクロバットができても、誰も感動しない。しかも一瞬の見落としや状況の読み間違いで命まで落ちてしまう。どこから降ってくるかわからない認識外の敵機、すぐになくなる燃料、自分の好きな飛び方が、助かる道とは限らない。最近じゃヤーボが怖くておちおち離着陸だってできやしない。
 「ひと空戦終わるともう冷や汗は出てるわ肺は痛いわ、胃袋はでんぐり返ってるわで陸の兵隊さんと変わらないくらい疲れちゃうのさ。いちんち中イスに座ってるのに、だぜ!」
 「じゃあ、戦争で飛ぶの、嫌いなんだ?」
 「ううん、嫌いじゃあないんだ。負けたら殺されるルールのフットボールみたいなもので、スリルはあるし、勝てば少しうれしい。相手は死んじゃうんだけど・・・」
 「目の前に人殺したことがある人がいるのって変な気分・・・」
 「・・・言われてみると、そうかもしれない。でも。そんなことを言ってもいられないのさ。けどね、飛行機がばらばらになるのを見るのはそんなにつらくないんだけど、まちがって、こっちを振り向いた相手の顔が見えちゃうとね、その日は帰ってから酔っ払うことになる。もう、ぐでんぐでんに。でもそれやると次の日が大変だよ。頭痛いし、でも飛ばなきゃいけない。ろくなことになりゃしない。ま、いまだにこうして生きてるけどね。」
 こんな他愛もない会話が毎日続いて、ある夏の晩、僕は彼女の家の扉をたたいた。今まででいちばん悪いニュースを聞いて。打ちのめされて。彼女は扉を開けて僕を見て、何も言わずに中にいれた。僕は彼女にすがりついた。何も話さなかったのに、彼女は僕に心を開いた。身体をゆるした。僕たちは本物の恋人同士になった。あれから、もう半年以上の月日がたっている。

 僕のお土産で開いた、二人だけの宴が果てたあと、彼女がぽつりと言った。
 「こないだ、夜這いのドイツ兵が殺されたでしょ。」
 「ヨアンのこと?」
 整備兵のヨアンは三日前の夜に兵舎からいなくなり、明くる日の朝、村の外れで死んでいるのが発見された。絞殺だったということだ。でも、彼の家族の元へは、この間着陸前に前縁スラットの事故で墜死したポルタウスキのように、「戦死」という公報が届くだろう。国家に愛するものを捧げた人々をわざわざ失望させることはない。
 早速パリからゲシュタポが来ることになった。村ではレジスタンス狩りが始まるだろう。いづれ僕のところにもマンハントのプロを自認する私服が来るのだろう。
 アンヌ・マリは、くるっと巻いた自分の前髪をひと巻きつまむと、上に持ち上げて、それを目で追った。緊張するとやる癖だ。
 「彼、たぶん、この家の前で殺されたと思うの。三日前、あなたの帰ったあと、夜中にそんな音がしてた。」
 「そんな音って、どんな音だ?」
 「ばたっていってから、ずるずる引きずってた。」
 「見なかったの?」
 「うん、もう眠かったもの。でもあれ、レジスタンスじゃないよ、きっと。」
 「どうして?」
 「レジスタンスが来てたなら、ドイツ兵を殺しといて、わざわざ愛国者のフランソワさんの家までもっていったりしないと思う。彼らなら死体は完全に隠すわ。そのほうが怖いもん。」
 そのとおり。
 われわれフランス駐留のドイツ兵が、ある日突然、地上から消えうせてしまうことがある。そうした場合、脱走なのか、それともフランスの地下組織に連れ去られたのか、理由が判明することはあまりない。消え去りたくないなら、部隊のそばを離れないことだ。フランス娘に恋なんかしないことだ。
 フランス娘に恋をしてしまった僕は、だからこうして彼女の家にいる今、秘密のうちに地上から消えてしまう可能性が大変に高いということになる。
 「じゃ、誰が奴を・・・」
 「しらない。」
 彼女が「しらない」で会話を打ち切った時は、もう他の話題を探しているときだ。この切換えの早さが彼女の魅力のひとつだ。ぼくの空戦のモットーに似てるから。
 僕は彼女の裸の胸の下を、折り曲げた指の背で軽く持ち上げるように頂上までなで上げてから、起き上がって服を着た。
 「今度はいつ来るの?」
 「明日の晩。たぶん。」
 軍人が第三者に自分の予定をぺらぺら話すことは、良くないことだ。情報は、愛するものから流れ出る。

 得体のしれない豆を焦がして煎れた、そういわれてみればなるほどコーヒーのような気がする湯を飲んで、頭をすっきりさせ、僕の編隊の三人の顔を眺める。とりたてて調子の悪そうなものはいないようだ。手のひらを使いながら、地図を前に今日の計画を説明する。
 「今日はこの辺の雲は少ないようだ。港の方へ低空で出てから、(とここで地図を指し、)高度を七千までとり、キツネ狩り気分のイギリス人を襲撃する。例によって大軍で来るだろうからこっちが先に見つけられるはずだ。念のため、こっちの方から(地図の上を指でなぞる。)こう回り込んで上昇しよう。いつも言っていることだが、よく見張れ。小人数でキツネ狩りにきてるイギリス人や、なんでも撃ちたがる下品なアメリカ人は、必ず諸君の死角を衝いてこようとすることだろう。おれたちエクスペルテンは、いちばんありそうもないときに撃墜されるものだ。」
 そうして、いつもの注意事項を、もう何度も繰り返してきた注意事項を、今日も繰り返す。
 「四千メートル以下に下がるな。敵の機種にも気をつけろ。スピットファイアでも九型と十二型じゃ全然対応の仕方がちがう。彼らも、額縁(P-三八ライトニングのこと。僕は、このFw一八九みたいな双胴の飛行機を、アフリカで始めて出会ってからずっとこう呼んでいた。われながらいいあだ名をつけたと思っている。ちなみに、ドイツのパイロットでライトニングのことを「双胴の悪魔」なんて呼んでるやつは見たことがない。)も、P-四七も、同高度からの急上昇で引き離せるのはほんの最初だけだ。最後に、絶対に垂直旋回戦闘に入ってはいけない。たとえ一対一で勝てても、敵の方が多いんだから、必ず他の敵に食われるぞ。高度が下がって逃げられなくなる!僕たちは今日も全員無事に還るんだ!それがわが軍にとっての最大の勝利だ!以上。質問は?」
 シュバルツが声を出した。
 「海に出る前、低く飛んでるときにかぶられたら?」いい質問だ。生き延びるために徹底させておかなければならない項目だ。
 「すみやかに、もっと低く降りる。編隊は解散する。翼端で地べたのフランス娘のスカートがめくれるくらいまで降りる。スピードはできるだけ殺すな。要所要所で後を上手く見て、フットバーだけ使って高速でフラフラ飛べ。できるだけ東へ向かえ。追い掛けるほうはそれで燃料が心配になる。諸君はそれを軽くこなして生きて還れる腕を持っているはずだ。難しいがそれを追う敵はもっと苦労している。ほかに?」
 僕の作戦が編隊全員に徹底されたので、僕はミーティングを解散させる。
 「では諸君、われわれの狩にでかけよう。」

 この五年間ですっかり聞きなれてしまった音を立てて、エンジンが回っている。巨大なオートバイみたいなマーリンなどの音とははっきりちがう、何となく、どこかが削れ続けているような、がちゃがちゃした感じの爆音。櫂みたいに幅の広いプロペラが空気をかき回し、前縁スラットのおかげで小さくまとまっている翼がかろうじて僕を空中に支えている。
 幸いなことに、港の辺りから高度を稼ぎきるまで、いやな敵のハンターは現れなかった。そうして高度を取った今、僕たちがハンターになった。
 「フンメル十四より、情報、マローダー編隊三十、○○○を空襲中。敵戦闘機の直掩なし。」
 地上からだ。予定にない敵だったが、なにも戦闘機ばかりが敵なのではない。しかも、勇敢なのか、こちらをなめきっているのか、戦闘機の援護なしでやってきているという!
 「聞いたか諸君!予定変更だ!丸腰のアメリカ人たちをおもてなしして、永久にフランスに留まってもらおう!回り込むぞ!インディアンには気をつけろ!」
 爆弾を落として任務を果たした今、彼らは必死に逃走をはかるだろう。しかし、どのみち、僕たちは彼らが見えるところまでもう数分の場所にきていたし、一旦見えたら逃がしはしない。B-二六は敵の中爆の中でも相当にスピードが速い部類の優秀な飛行機だが、低空で進入してポイント爆撃をするので、いくら速く飛んでも高度のある僕らが追いつくことは易しい。問題は、地を這う、地味な色の彼らを僕らが見つけられるかどうかなのだ。

 目の下を、なにかがすれ違ったような気がした。
 僕は落下タンクを切り離すとスローロールに入り、背面手前でそのまま編隊をスプリットエスに入れ、エスの字を書き終わらないうちに緩降下をはじめた。
 「すれ違ったぞ!まっすぐ還るつもりだ!左端のカモ番を喰うぞ!横滑りを使え!」
 「こちら白二十、まわりにインディアンはいません。」冷静なシュバルツが後で見張っていてくれる。
 B-二六の旋回銃手がこちらを発見したのは、その、いちばん左端の飛行機の国籍マークの星が、僕の左翼前縁のちょっと前にやっと見える距離に追い付いたときだった。
 僕はアメリカの爆撃機の防御砲火網がとっても嫌いだ。
 恐ろしくまっすぐに、しかも遠くまで届くし、真っ正面から撃ちあう関係で、来るのがわかっていてもあたる時はあたるし、当たったときには命がないからどうしようもない。防御砲火の洩痕弾の網が、色々なパースを描いて僕たちを包む。こっちはエンジントルクを抑えずに横に滑りながら降りているので、彼らがまともに狙っているかぎりは一発もあたらないだろうが、海岸の砂の数ほどもあるくらい大量な弾が空間にちりばめられていれば、運の悪い偶然なんてこともありえる。B-二六編隊の高度よりも少し上でゆっくりと引き起こしはじめながら、頭の隅にそんなことがひっかかる。左端の狙いをつけた爆撃機の斜め下腹がすごい速さで風防ガラスに一杯になった。
 撃ったのは二センチ銃で十発くらい。後斜め下からメーンスパーのあたりを狙って、十発撃つ間、右足を踏んで直線飛行をした。照準器のまんなかに爆撃機の腋の下が止まっている間、弾が十発ほど出た。おまけに十三ミリ銃も数十発出た。爆撃機の腋の下がチカチカしながらかけらを飛ばしたのが見えた直後、もう僕はこの目標を追い越している。再びトルクに任せて滑りながら急上昇をかける。敵の進路に対して角度をとっているのと、上昇すると水平面の速度が落ちるから、僕たちは苦労もせずにまた彼らの後上方につけることができる。
 そうして僕たちが再び高度を稼いでいる間にも、B-二六の編隊はまっすぐ一生懸命に僕たちを引き離す。彼らの左端のダイヤモンドの角が欠けて、三角形になっている。一機撃墜できたようだ。残った三角形の角のひとつからも白い霧の尾が後ろに延びているのが言える。落ちたのが一機、ガソリンを引いてるのが一機、どちらかはたぶんシュバルツの仕事だろう。
 「諸君、弾はあるか?あの欠けたダイヤモンドに、もう一回仕掛けるぞ!」
 了解!了解!
 「まわりを見張れ!騎兵隊の応援が来るかもしれん!」
 「見えません」
 僕にもなにも見つけられなかったので、敵戦闘機はいないとみた。突撃。
 さっきとおんなじ方法で、弾の雨をかいくぐる。重爆編隊の弾幕よりは軽いというものの、やっぱり少しドキドキする。
 欠けたダイヤモンドの中の、さっきから霧を噴いているB-二六に、さっきと同じように近づいて、さっきと同じように射撃する。十数発。今度は目の前に黄色い光が広がり、僕はさらにスティックを突っ込み、危ないところで爆発の下をくぐることができた。
 「返事しろ!生きてるか?」
 三人分の返事が返ってきたのでほっとする。
 「こちら白十五、残弾なし。」
 シュバルツのウイングマン、白十五のシュプレッケルは引き金を長く引きすぎたようだ。
 「帰ろう、諸君。戦果は・・・何機だ?」
 「三機です。隊長が二機、私が一機。」
 「最初のはあれで落ちたのか?」
 「大尉殿が追い越した直後に分解しました。」
 遠くの空に、きらきらと光る星のようなものは、たぶんB-二六隊の急を聞いて駆けつけたムスタングたちだろう。動きからするともうこちらは発見されているようだ。僕たちの一○九が、あの飛行機にまともな空中戦で勝つことは不可能だ。こちらが勝る部分は急降下と初期上昇力だけ。(同じ馬力なのに、なんでここまで性能が違うのだろう!)おまけに連中はなぜか見越し射撃がマルセイユみたいに上手い。照準器になにか細工があるのだろう。それからこれは敵機全部にいえることだが、装備した機関銃の弾道特性も定規で引いたようにまっすぐだ。とどめにあちらの方が数が多い。
 「騎兵隊の救援が来たようだ。高度を稼ぐぞ。引き揚げだ。」
 うかうかすると、たった四機の一○九なんかそれこそ一捻りでやられてしまう。僕たちは少しの間GM-1ブースターを使ってダッシュをかける。充分に距離がある今のうちにひき離しておいたほうがいい。後手に回るとろくなことはない。
 怒り狂ったムスタングの群れは、次第にみえなくなっていった。でも、いつかチャンスがあれば、食ってみたい相手だ。

 「きょうは、いちんち、ぼ〜っとしてた。あなたが北の方へ飛んでくのが見えて、そのままぼ〜っと窓際に座ってたら、スピットファイア(はねがうちわみたいに膨らんでるのはスピットファイアでいいのよね)が来て飛行場を襲撃するのが見えて、にぎやかになった。ニッポンのハナビって、あんななのかな、なんて考えてた。それでもそのままぼ〜っとしてたら、南からあなたが帰ってきた。」
 アンヌ・マリはベッドに腰掛けて、まずいワインのはいったコップを口に付けたまま、歯とグラスでガチガチ音をさせながら、今日一日何をしていたかを独り言みたいに語った。僕はイスに腰掛けて、ロウソクの陰気な光に照らし出される彼女の胸と、大理石の像みたいなすべすべのおなかと、その下の亜麻色の茂みを眺めながら、彼女が昼間見た光景の、空からの...こちらからの側面を話してやる。
 「まっすぐ帰ったらきっと、着陸するときにかぶられちゃったろうね。ちょっといやな予感がしたから南に回って燃料ぎりぎりで帰った。案の定基地はたった今やられたばかりだった。もし帰る途中とか、基地上空ででっくわして空戦でもやるハメになったら、ガス欠で飛び降りなきゃならなかったかも。四番機なんか、「ワレネンリョウザンリョウゼロ!赤ランプが点きっぱなしです!」なんて泣きそうな声で訴えてきたくらいさ。最初に降ろしてやったけどね。」
 僕がシュプレッケルの慌てて泣きそうな電話の声をまねすると、彼女はにっこりした。眼が黒目がちに、きらきらした。
 僕たちの行動スケジュールは完全に相手方に筒抜けのようだ。この村から連絡が行くのだろう。ドーバーの向こうへ。
 「私の思ったこと聞いても、怒らないでね。」
 眉を使って返事する。「?」
 「このままだと、遠からずドイツ人はフランスから追いだされるわ。もと来た道を通って。」
 僕が四三年以来、なんとなく、内心感じていて、しかも日々それを確信しつつあって、でもあえて口には出す勇気がなかったことの完ぺきな指摘だった。僕が教科書通りのドイツ人なら、ここで怒りださなければいけないのかもしれない。または冷静に皮肉をもって否定すべきなのかもしれない。しかし、我等がヘルマン叔父貴のすばらしい爆撃航空団が、昼夜を問わず、出撃すれば必ず壊滅し、徐々に活動をやめはじめているのに対し、爆弾を落としにくるアメリカ、イギリスの四発重爆の数は日々増えているようだし、ドーバーに面したフランスオランダ方面の交通は敵ヤーボの活動によってだんだんとマヒしてきているという事実や、反共というスローガンに飽きてしまい、もう戦争を続けることがいやになった友邦の国ぐに、ニュース映画で東部戦線の勝利の報道を観るごとに、表示される地図に書き込んである、勝利しているはずの前線が下がってきている不思議などをみると、彼女の意見を否定できるのはばか者だけだろうという気がしたし、そうした愛国心に関しては、とうに自分自身の戦争というところ以外の部分では覚めてしまっていた。かといってあえて彼女に媚を売ることもないだろう。困った顔をしてみせるしかなかった。
 「そういう話は、僕たちドイツ人が追い出されてからしたほうがいい。預言者として確実な未来を語るよりも、批評家を名乗って既成事実にむち打つ方が世間体はいい。」
 彼女は亜麻色をした自分の前髪をつまみあげ、それを寄り目して見つめながらいった。
 「あなたたちが出ていったあとでは、私は批評家ではいられない。預言者は一人でやってけるけど、批評家にはパトロンが必要で、ドイツ軍がパトロンだった私は、売国奴として悪魔よりも軽蔑されちゃう。サヴォナローラみたいに。げんにいま、もう、そうなってる。ドイツ軍の女だっていわれてる。」
 僕を責めているのだろうか?ドイツ軍に歩み寄ったのは彼女なのだが。しかし、まあ、いまそれをいっても仕方がない、彼女は不安なのだろう。若いし、何といっても暇なのだ。将来を心配できるくらいに。
 彼女は僕の手を取り上げ、僕の指を一本一本もてあそびながら、僕の顔を見ないで、独り言みたいに行った。
 「もしもあなたがフランスから逃げ出すときは・・・」
 逃げ出す?トゲのある表現を無意識にしてしまうのは彼女の癖で、でもその指摘は真実だし、何より彼女を愛してしまっているので、カチンと来たりはしなかった。他人から見ると、こういう状態を「腑抜け」というのだろう。逃げ出す?そんなこともあるかもしれない。誇り高いゲルマンの戦士が誇りだけでは生きていけなくなるときが来るかもしれない。以外と近い将来に。でもまあ、一応抗議はしておこう。僕は彼女が持っていないほうの手で彼女の胸をもてあそびながら慎重に切り出した。形式的な一応の抗議を。
 「逃げ出すっていうのは傷つくからやめてくれ。せめて、去る、くらいの表現にとどめてくれ。」
 「じゃ、フランスを去るとき(これでいい?)は・・・」
 彼女はここでひと呼吸おいて、またいつもの癖、くるっと巻いた自分の前髪をひと巻きつまむと、上に持ち上げて、それを目で追うあの仕草をしながら、残りの言葉を口にした。
 「連れてって欲しいの。」
 「?」
 「あなたの国へ、いっしょにつれてって欲しいの。」
 僕もそうしたいと思っていた。ついてきて欲しいと思っていた。僕から切り出してやるべきだったのかもしれない。しかし、これは軽々しくその場の勢いだけで決めてはいけない問題でもあった。彼女の意志が本物なのかしっかりと真剣に確認しなくては。
 「フランスを捨てるの?」
 彼女はベッドから落っこちるように僕のひざに身を投げ出して、しがみついた。僕がその時、これだけの力があれば、最大速度域で一○九のスティックを自在に動かせるだろうなどと訳のわからないことを唐突に思ったのは、彼女の真剣な力に少しびっくりしたせいだ。
 「フランスに捨てられたのよ。」
 かわいい頭がちょっと震えていた。亜麻色の長い髪の迷路、それに連なる雪花石膏でできてるような白い背中と、そこに彫られた背骨の作る影。僕がアングルだったら、アングル並の絵描きだったなら、この眺めを必ずカンバスに再現していたに違いない。そうしてできあがったその絵は、「グランドオダリスク」以上の名画になったことだろう。僕の手は絵を描くかわりにそれを撫でた。彫刻家のような気分だった。世界一モデルに恵まれた幸福な彫刻家。言葉は出てこなかった。官能的な光景を僕の目に伝えている、このワニス色の光線が、僕の心を空白にした。
 「いてもいい場所がなくなるの。」
 彼女の静かな声に僕は我に返った。彼女の髪をなでた。かわいそうに、彼女は日々悪い未来を予感し、その不安に一人で耐えていたのだ。連合軍によるフランスの解放後、ドイツへの民間協力者がどういう目に遭ったかを考えると、彼女の予感は完ぺきに的を射ていたといえる。連合軍の通過と同時に、昨日まで黙っていた人々がはじけたように声高にしゃべりだし、魔女狩りとリンチが始まり、彼女と同じような立場の女性には、法に依らない、嫉妬ににた感情による陰湿で残酷な処罰が待ち受けていたのだ。
 僕はやさしくひざの上から彼女を抱き起こし、顔を仰向かせると、彼女の少しぬれた顔を両手で押さえながら、話しかけた。
 「すまない。約束する。連れてくよ。僕の国へ。」
 僕はいつの間にラテン人種になったのだろう?(僕の名前は完全なドイツ系で、石ころを投げれば必ず当たるマイヤーだ。〜〜スキーとか〜〜ネとか、〜〜ユといった名前ではない。)前途に待ち受けるさまざまな障害に、情熱に任せ、わざわざ自分から飛び込むなんて!みんなは言うだろう。本気か?冷静な騎兵らしくもない!党がなんていってるかは知ってるだろうに!僕は答える。知ったことか!我が民族の純潔は守られねばならない?スローガンなぞ、クソ食らえだ。僕は党員じゃあない。乗ってる飛行機は尾翼にマークが付いてるくらいだから党員だが。
 結論は出ている。党と愛では愛を選ぶ!
 彼女の眼を見つめて、映画みたいにささやいた。
 「アメリカ映画だと、王子様はこういうとき、「アイラ〜ヴユー」っていうんだ。」
 「ここはフランスよ。」
 彼女は顔をくしゃっとさせてから、フランス映画の場合の決めゼリフを教えてくれた。僕はそのセリフをフランス語を話す馬みたいなアクセントでささやいた。その後は、くちづけ。くちづけ。
 ちなみに、ドイツの映画ではこういうシーンを見たことはなかった。

 戦果のない一日が終わって、学校の寄宿舎に戻ると、僕宛の客が来ていた。私服だ。思ったよりもくたびれたスーツ、かなり薄くなった白髪交じりの頭とたれた薄い眉。その下から光のない眼がこちらを見ている。子供のころ近所に住んでいた肉屋を思いだした。仏頂面でぶら下げた豚をさばいていたあのオヤジを。
 「ハイネマンです。党から派遣されました。」
 ローマ帝国式の敬礼。ユダヤ人みたいな名前を持ちながら、よくゲシュタポになれたものだ。きっとかなり優秀で、それなりに苦労もしたのだろう。
 「ドクトル・アロイス・マイヤー大尉です。」
 敬礼してから、握手した。用件を尋ねた。
 「村で殺された兵の件でしょうか?」
 「そうです。友邦で後方勤務の兵が犯罪行為に遭うということは、フランスにとっても帝国にとっても由々しき事態というべきなのです。後方では治安は守られなければなりません。わたしたちは地下組織の撲滅が我が帝国の勝利の大切な要因だと意識するべきです。」
 ヒトラー青年団の子供がスローガンを朗読しているみたいだ。こいつはバカのふりをしてるのだろうか?
 「協力できることがあればおっしゃってください。まあ、僕にできることは敵の飛行機を一機でも多く墜とすことくらいでしょうが・・・」
 こちらもバカっぽく宣伝映画みたいに答えた。彼はそれを無視した。
 「さっそくですが」
 「?」
 「ヨアン・ベッカマー兵長が殺害された、あの晩は、あなたも村へでかけていたと聞いたのですが?」
 やっぱりヒトラー青年団ではなかった。本物の警官だ。方々でした聞き込みの仕上げに僕のところへ来ている。たしかに兵舎でいちばんアリバイが無い人間は僕なのだ。当日当夜、村の、彼女の家にいたんだから。さらに、彼女もレジスタンスの疑いをかけられるかもしれない。発情したドイツ兵たちをたらし込んで罠にかける女スパイなんて、いかにもゲシュタポがしょっぴきやすい材料だ。
 「ええ、村に情婦がいましてね。」
 正直に答えた。
 「日記を付けているわけではないので、正確ではないと思いますが、夜中前に事を終えて、すぐに帰隊しましたよ。昼間にちょっときつい出撃を何回かしたんで疲れててね。ニワトリみたいにはやく終わっちゃった。(やつはニヤリともしない。)ヨアンにはその晩は会ってません。」
 ハイネマンは体の前で組んだ手を組み替えて、ついでに足も踏み換えて、でも、僕の眼からは目を離さないで静かに話を続けた。
 「彼は午前1時頃ベッドを抜け出したようです。同じ寝棚の戦友はそう証言しています。」
 その辺の経緯は僕自身が聞き取って報告書に書いたことだったので、うなずいて報告書の補足をしてやった。
 「あの頃は飛行機が完動か、全損かどっちかしかなかったから、整備のものにも余裕があったのですよ。最近増えてきたフランス製のエンジンのは全部運転十時間くらいでオーバーホールだ。やつらの中の共産主義者によるサボタージュですよ。」
 「ああ、クランクケースに砂が入っていたとか、離陸したら翼が折れたとかそういった事故ですな。そういった間接的な殺人行為もわれわれは鋭意捜査中です。程度の低い民族にも困ったものです。エンジンひとつ満足に造れん。」
 じゃあ、あの素晴らしい二段過給器つきのマーリンを造ったイギリス人や、あのおっそろしく単純で効率のいいプロペラを作ったアメリカ人はわれわれ以上に優れた民族なのだろうといいかけて、かろうじて押さえた。あぶないあぶない、警官は容疑者を挑発することで罠にかけ、撃墜する。反政府的な将校だとかのレッテルは困る。半分本当のことなんだから。
 「ところで、あなた、その、情婦の方とは、その、行為以外に、普段どのような会話をされているのです?まさか機密などを漏らされたりは・・・いえ、この辺でドイツの将校が一人で夜間フランス人の家にいて誘拐も暗殺もされないのは不思議でしてね・・・」
 「ああ、ぼくの夜這いは突発的でね。いつ行くかは誰にも知らせない。だから彼女が眠ってて家に入れないこともあってね。そういうときは、黙ってとぼとぼ帰ることもある。絶対に続けて同じ道順は通らないし、彼女の家の戸をたたくまでにかなり用心をしてますよ。だからいままで誰にも会ったことがない。騎兵みたいなものです。偵察と襲撃。彼女もそういうのが嫌いではないみたいだし。」
 「それが「騎兵」のあだ名のいわれですか?」
 「そう。学位はネー将軍で取りました。」
 「フランス人ですな。」
 「彼のような戦い方をさらに洗練することで、われわれは四十年に勝利した。」
 「そして共産主義者にも。」
 「そう。敵よりも先に発見し、分析、評価し、だめなら迂回孤立させ、成算があれば勇敢に奇襲をかける。」
 この原則を守ったおかげで今まで生き残ることができた。だから自信をもって断言した。
 アンヌ・マリを抱いているときも、家のまわりの人の気配を逃したことはない。ウサギみたいに耳を澄ませているのだ。彼女は気付いていないだろうけど。
 ハイネマンは眉を上げ、うなずくと、一度自分の足下を見てから、こちらに向き直り、少し身体をゆすってからおもむろに口を開いた。
 「そう、あなたの恋人、その、アンヌ・マリ・ドレフュス嬢には今日、もう話を聞きました。彼女はあなたについてはあなたのおっしゃった通りのことを話してくれました。」
 少し冷や汗が出た。できるだけ落ち着いたふりをして尋ねた。
 「連行したんですか?」
 向こうはプロなので、こちらの動揺は察知されたことだろう。まあ、仕方のないことだ。僕はスパイのプロじゃあないのだから。
 「いえ、在宅で尋問しました。うかつに連行などすると感情的で愚かなフランス人どもがうるさいですからな。」
 違う。ゲシュタポに訪問されたのに何も無かったということは、なにかの取引を思わせるという効果も生むからだ。彼女はますますドイツ人、それも、ナチの犬に魂を売ったおろかな尻軽女のように見えることだろう。
 さらに、今後ハイネマンは彼女の家を監視させるに違いない。もしも彼女がレジスタンスなら、気の短いフランス人の同志が裏切り者を始末しに来たところを一網打尽にしようというわけだ。ついでに僕も見張られる。
 「じゃあ、僕も彼女も無罪かな?」
 「今のところは。」
 ただし、彼女の家には監視をつけます。という付け加えはなかった。わざわざいわなくてもわかっていると思ったのだろう。

 案の定、その番の彼女の家の周りには、ハイネマンとその相棒がいて、東部戦線のパルチザンのように景色に溶け込んでいた。今日はマイヤー大尉殿の、護衛つきの夜ばいというわけだ。半分だけ豪華な気分。今日は全身耳にする必要がない!だから気持ちをアンヌ・マリだけに集中して愛撫した。彼女は僕の勢いに少し戸惑ったようだったが、いつもよりはやく果てた。ぐったりした彼女の、ひんやりとしたすべすべの肩を唇で感じながら、彼女の話を聞く。小鳥のさえずりのようなフランス語を。
 「おんなじ質問のセットが五周も六周もするのよ。眠くなるし、つかれて、やんなちゃった。」
 僕の腕の上で今日の尋問の話をする。ひどいことはされなかったようだ。
 「どんなこと、訊かれた?」
 「あなたのこと、あと、あなたの基地のこと。知らないことばっかり訊くから、ノン、ノン、ノン、ずっと単調な返事をして、そのうちに、あなた、ふだん全然自分のこと話してくれてないってことに気がついた。」
 僕の胸の上に腹ばいになって、僕の顔を見上げて、「わたしのこと、全部はなしたのに。」
 彼女の髪をほおからなで上げて、そのまま頭をなで手やる。彼女はほおを僕の胸に押し付ける。
 「作戦については僕だけじゃなく部下たちの命がかかってるから、たとえ君にでも教えることはできないよ。子供のころの話ならしてあげるけどね。」
 とがっていた彼女の口がにっこりして、目が輝きだした。遊んであげるというゼスチャをしてやった子犬のように。彼女はふたたびほおを僕の胸に押し付ける。
 「子供のころの話が聞きたいの。」
 彼女の頭の上のまきめが僕のことを知りたがっている。僕はまきめに聞き返す。溶けたような時間だ。
 「どんな?」
 「ドイツ人は恋をするの?」
 「するさ。でも僕が恋してたのはグライダーだったな。・・・ウ〜ン、でも、今してる恋と比べるとなんかベクトルが違うような気がするな・・・」
 意味あり気に彼女の顔を起こして見つめてやる。彼女の目は期待に輝いている。
 「ア!じゃ、初恋の人は君じゃないか!」
 彼女はクスッとすると、僕の頬を指で突いた。
 「空軍に入る前は飛行クラブに入っていたんだ。グライダー、見たことある?プロペラもエンジンもなくて、自分じゃあ飛び上がれない。だからこんなふうに・・・」
 彼女を脇に下ろし、テーブルから紙切れと万年筆をとって、本を下敷きに、ベッドに腹ばいになったままで、紙にへたくそな絵を描いた。曳航する複葉機と、僕が乗ったグライダー。
 肩を寄せて同じく腹ばいの彼女が僕の絵を批評する。
 「これがあなた?にてな〜い!」
 「ううん、そんなこと言うと、君を描くぞ!」
 「描いて描いて!」
 ゲシュタポの話は思わぬ方向に脱線した。僕は飛行中のアスペクト比が思いっきり大きなグライダーを描き、風防ガラスの後に僕、その後に彼女の顔を描いた。ミッキーマウスみたいなのを描こうと思って・・・
 「やっぱりディズニーにはなれんな!」
 「ククク・・・これ、わたし?ククク・・・」
 彼女はおかしいのかうれしいのか、枕をかかえて顔を半分うずめながら笑いはじめた。僕も笑うことにした。彼女の肩をだいて、二人してひっくりかえり、のけぞって笑った。アハハ・・・
 「へ、平和になったら、もっと上手く描けるようになるぞ!」
 「ククククク・・・」
 二人で仰向けのまま、天井を見つめた。
 「わたしもいつかこの絵みたいに飛んでみたいな。トンビみたいに。」
 「平和になったらね。」
 彼女は寝返りを打ってまた僕の胸の上にはらばうと、両手で僕の顔を押さえ、のぞき込みながらささやいた。
 「死んじゃダメだからね。ちゃんと連れて逃げてね。」
 小さな眼がきらきらしていた。きれいだ、と思った。抱きしめたかったので、そうした。
 「占領されるのは、一回でたくさん。」
 彼女がつぶやくのが聞こえた。
 空中に大きなサーカスができあがっていた。
 フランスの広大な畑の上に、たくさんの飛行機でできた、大きな渦ができあがっていた。たくさんのスピットファイアと、たくさんのFw一九○。お互いに相手の後ろに回ろうと、死に物狂いの旋回を続けている。彼らの高度はどんどん下がってゆく。
 「飛び込まないのですか?」
 戦意旺盛なシュプレッケルが無線封鎖を破った。すでに空中には敵味方の電話の声が入り乱れているから彼が封鎖を破っても、どうってこともない。
 「慌てるな白十五、左を見ろ。八時半だ!」
 大空戦の現場に、僕たちと同じように後から駆け付けたイギリス人達の一隊が、サーカスからはぐれたFw一九○に食い付こうとうかがっているのを、僕はさっきから何とかしてこちらの獲物にしようと思っていたのだ。
 「気づかれたぞ!突っ込むぞ!」
 相手も僕たちに気が付いてしまったようだ。いっせいにこちらに機首をむけた。いま彼らの頭の中にできあがっている脚本は、まず射撃しながらの航過、そのままお互いに垂直旋回の巴戦へ持ち込む、といったところだろう。ところがそうはいかない。
 僕たちも彼等に機首を向け、スロットルを緊急出力に入れる。ただの点々だった敵機が恐ろしい早さでスピットファイアの形になって、目の横で消える。
 ばん!
 お互いの後流が衝撃になって僕たちをたたく。僕は拍子を取って一連射してはいたけれど、一発でも当てた自信はさらさらない。当たらなそうでも撃ったのは、相手を少しでもすくませるためと、帰ってから能天気な連中に「攻撃精神が足らん」とか難癖をつけさせないためだ。彼らにいわせると、戦闘機隊は墜落するまで戦わないと、戦ったうちには入らないらしい。
 「このまままっすぐ上昇するぞ!」
 相手の思うとおりの行動をサービスしてやる気はない。こちらに気が付いた瞬間に彼らの命は救われたのだ。そして僕たちの新しい戦果はお預け。ついでに大サーカスを演じていた不注意なFw一九○の戦友が何人か食われずにすんだことだろう。
 「インディアンはついてくるか?」
 「ついてきません。」
 すれ違ってすぐにターンしたにしても、こっちには十五秒以上逃げる時間があったのだ。
 「このまままっすぐ上がるぞ。」
 コンパスを見ながら東へ変針する。ゆっくりと、大回りに。
 「落下タンクは捨てなかったな」
 日ごろの教育の成果。みんなタンクをぶら下げたままだ。
 ちっぽけなメインタンクしか持っていない一○九にとって、燃料のいっぱい詰まった落下タンクは宝物だ。状況を見極めて、最後まで絞り取ってから捨てる、これができれば、高度と推力のなくなった飛行機から飛び降りたり、平らそうで実は凸凹の荒れ地に、脚を引っ込めたまますごいスピードで滑り込んだりしなければならないようないやな事態に陥る恐れはかなり減るのだ。おまけに空になって軽くなった落下タンクは接地しても壊れ方が少ないから、再利用も手をかけずにできるというものだ。
 僕たちはさらに高度を取る。海岸に平行に移動する。みんな、帰るときは心細いものだ。特に足の短いスピットファイアのパイロット達は、帰るときには一九四○年にイギリス上空にいた僕たちみたいな気分を味わっているに違いないのだ。
 海岸で待ち伏せることにした。イギリスのレーダーが僕たちを捉えて警告を出していようが、さっきのスピットファイアたちには僕たちを大きく迂回するなんてことはできはしないだろう。あれだけの空戦をやったあとに残された燃料は、もう一度僕たちと空戦をやると、さらに心細いものになってしまうに違いないのだ。
 「白二十四より、十一時下方、敵。」
 味方からはぐれたのだろう。とぼとぼ帰るスピットファイアが一機。
 ブラウンが空中で自分から口をきくのはめずらしい。僕にも十一時の目標はさっきから見えていたのだが、なんとなくほかにも、それももっと危険な位置に敵がいそうな気がしていたので、あえて放っておいたのだ。
 「白二十、たまにはシュバルムリーダーをやってみろ、十一時の獲物は君のものだ!」
 「白二十了解!おごりは残さず食べます!」
 シュバルツは落下タンクを落とし、前に出るとそのままダイブして十一時の目標の後ろに回り込むように大きく螺旋降下を始めた。
 僕はさっきからとってもいやな予感がしていて、横目でシュバルツの襲撃を見守りながら、周りをまんべんなく見回す。
 思ったよりも近くにこちらを向いたスピットファイアを見つけたときには思わずビクッとした。
 「ブラウン!まっすぐ飛べ!おれが合図するまで、まっすぐ飛んで、おれの合図で右にスプリットエスを切るんだ!その時に落下タンクも落とせ」
 「ブラウン了解」
 自分で思ったよりも慌てていたせいか、つい名前で呼んでしまったのだが、ブラウンは自分のコードをいわずに僕の呼びかけたとおりに返事を返した。悪いことをした。
 スピットファイアたちは僕たちの後下方から忍び寄ってきた。なかなかのやり手だ。まだまだ、もう少し近よれば僕たちの急機動についてこれない位置になる。さあ、食い付いてこい!
 「今だ!」
 ブラウンは落下タンクを放り出すと、急激でしかもきれいな螺旋降下をきめ、僕はそのまま降下すると見せ掛けてからいきなりスティックを引きつけ、急上昇をかけた。もちろん落下タンクは放りだして。
 僕たちの後ろにいたスピットファイアは僕のことはあきらめて、というより最初からブラウンだけを食うつもりだったらしく、直ちにロールから急降下に入り、ブラウンの後を追うのが見えた。急降下速度では一○九もスピットファイアも似たり寄ったりなので、あれだけ離れて降下していればしばらくは追い付かれたりはしないだろう。ほかに飛行機がいないことを確認してから、僕は上昇をやめて、スピットファイアがやったようなロールからのパワーダイブに入った。僕のコースは、ブラウンの少し前を狙っているから、彼の後を追うスピットファイアにとってはいやなポジションだ。スピードがどんどん上がる。高度計の千メーターの単位を示す窓が、だんだんに低い数字に向かって動き始めている。
 「白二十、聞こえるか?」
 返事はない。シュバルツは敵を追い回している最中なのだろう。彼の腕なら返り討ちに遭うなんてことはまずないと思うけど。
 ブラウンの飛行機は、うまいぐあいにまっすぐ二機のスピットファイアを引っ張っている。こんなにあっさりと僕の罠にかかるなんて、僕たちはかなりなめられているにちがいない。
 「ブラウン、聞こえるか?」
 「ブラウン、ただいま高度三千メートル。」
 「ブラウン、おれが上から見ているぞ!合図をしたら左足をけり込め!それでかわせる。」
 ブラウンは僕がふだん教えているように、トルクを押さえず、しかも高度を失わないように縦方向に安定は保ったまま、左に滑りながら飛んでいる。スピットファイアは二機とも全力で彼を追っている。九型のスピットファイアは、どうも僕たちの六型のグスタフよりもスピードがあるようだ。距離はどんどん詰まりつつある。四百、三百...
 「滑れ!」
 ブラウンの一○九が首を鋭く左に曲げ、ほとんど同時にスピットファイアの翼から出た曳痕弾が、彼がまっすぐ飛んでいればそこにいたはずの空間に延びてゆくのが見えた。
 「うまいぞ、そのまま急上昇しろ!」
 ブラウンはいわれたとおりに上昇し、スピットファイアを僕の前に引っ張ってきてくれた。この二機は、僕に対して、あまりに警戒心が薄すぎた。
 僕の射撃で、一瞬のうちに二番機が空中から消え去ってしまったことに気が付いた敵の編隊長機は、あわてて左にロールをうつと、教科書どおりに左垂直旋回に入った。
 一般には、僕たちの一○九はスピットファイアよりも旋回半径が大きいと思われているようだが、それは一○九がスピットファイアよりも速いというのとおなじくらい根拠のないきめつけだ。ルフトバッフェでは、指揮系統が混乱しやすい旋回戦闘を推奨していないだけなのだ。四一年に、「爆撃航空団への近接援護」などというばかげた命令が出てから、僕たち戦闘機パイロット達の間に混乱が起きてしまい、数々のおかしな伝説が生まれてしまったのだが、一○九は、その最初の型から立派な格闘用戦闘機の素質を持っていたのだ。格闘訓練をそんなに熱心にやっていなかったから、訓練なしでもそこそこ回れるスピットファイアに有利だっただけなのだ。僕が乗った一○九は、たいていのスピットファイアやフォッケウルフ一九○よりも小さく、しかも速く回った。
 僕は一○九を左上昇旋回に入れ、頭を後ろの防弾ガラスに押し付けるようにしてスピットファイアの動きを追いながら、旋回率を最大に維持しつつ、バンクを強めていった。彼の旋回は、あまり鋭くなかったので、前縁スラットが飛びだすようなこともなく、僕は立体的に相手を追い詰めた。さあ、残念だが、君はどうやら今日イギリスには帰れないみたいだぞ!
 スピットファイアの主翼付根はラジエータの辺りから上に持ち上がっていて、ちょっとした逆ガル様になっているということは、今日初めて知った。垂直旋回をしているスピットファイアを撃つのも初めてだったから。
 大きなGがかかっているときにスパーに命中弾を受けたので、このスピットファイアは文字通り砕け散ってしまった。
 水平飛行に戻り、周りを見回す。敵は見当たらず、僕がいてほしい位置にブラウンがいた。よくやったぞ!部下が優秀なことがむやみにうれしい。
 電話の声が聞こえる。
 「こちら白二十、一機撃墜。損害なし」
 シュバルツは追いかけた相手を始末したようだ。
 「こちら白五十五、全機集合せよ!」
 シュバルツの編隊が寄ってくる。
 「諸君、騎兵の襲撃は大成功だ!帰ろう!」
 もう燃料がない!一○九の足の短さには、ひたすら恐れ入るばかりだ。
 
 その晩は、盛大に酒盛りをやった。出撃一回で戦闘機を(爆撃機ではなく!)三機撃墜。わが隊の損害ゼロ。最近はこんなに戦果が上がることはまずなかったのだ。
 「シュバルツ!君の子供と奥さんに!」
 僕は口をとがらせ、ブルルル...とエンジンの音を真似しながら、リンゴ酒のボトルを手にもって、子供が飛行機のオモチャでやるように頭の上を振り回した。
 「ぶぅ〜ん、どどど〜...」
 機関銃の音を真似しながら、シュバルツのグラスに酒を注いだ。
 リンゴ酒の飛行機は次に、ブラウンのグラスへ攻撃をかけることにした。
 「ブラウン、君の見事なつり出しとフォローに!」
 「どどど〜...」
 リンゴ酒の飛行機はエンジン推力を上げる。急上昇からシュプレッケルのグラスを襲撃する。
 「シュプレッケル!最高のウイングマンに!」
 「どどど〜...」
 「おれたち最高のシュバルムに!」
 みんなは一斉にグラスを空けた。
 「ぶるるる〜ん!」
 これはシュバルム全員の合唱。手に手にグラスの飛行機をもって、ダイヤモンド編隊の飛行が始まった。
 撃墜戦果もさりながら、全員無事だったことがなによりうれしいのだ!神様!今日も生きていました!生きました!
 騒ぎが一段落したところで、僕はとっておきのもう一つのプレゼントを差し出すことにする。
 「諸君、気象情報によると、今夜からしばらく天気が崩れる。イギリス人もアメ公も喜んで休暇を取ることだろう。だからこちらのパイロットも飛行機もしばらく整備期間に入ることにしよう。でも一日一回最低一時間はコクピットに座ってること。空中のカンとコツなんて、すぐにどっかにいっちゃうからな!猫みたいに。」
 「了解、了解!」
 宴会は早めにお開きにして、トラックを仕立てて、非番の兵は全員町へ行かせた。たいした息抜きがあるわけでもないが、女の子に金を払ってお楽しみくらいのことはできるだろう。実をいうと、この休息は、本部の方からの褒美なのだ。僕はさっきお許しの電話をもらったというわけだ。
 部屋へ戻り、本日の戦闘詳報をしたためる。戦闘詳報といっても、メモ書き程度で、これを日報として本部に連絡すると、本部の方で全体の詳報としてまとめるということになっている。景気のいい報告には筆がはずむ。
 「...」
 こうして毎日の記録を付けていると、敵の侵攻パターンに傾向のようなものが見えてくるといいのだが、敵の意図は、さっぱりつかめない。パターンの数が多すぎて、主攻正面がはっきりしない。まあ、こんなことはもっと中央の本職に任せておけばいいのだろうが、ナポレオンにあこがれる身であれば、自分の中に、なにか、そういった軍事天才の持つ野戦のカンみたいな物を見いだしてみたくなるのだ。
 結局、なんにもひらめきはしなかったので、僕は平凡にまとめたレポートを「本部行き」のカゴへ放り込み、部屋を出た。
 
 「ねえ...」
 アンヌ・マリはベッドにかけ直して、僕の顔を見下ろす。僕は仰向けのまま、子供みたいに手を上げて、彼女の胸をもてあそんでいる。僕の愛機グスタフのコクピット前の「コブ」みたいな、格好のいい二つの膨らみ。飛行機のコブには、物騒な十三ミリ銃が収まっているけど、アンヌ・マリの「コブ」には、もっとすてきなものが収まっているのだろう。少なくとも、僕にとっては。
 「ねえ、ほんとに今日は...」
 僕はアンヌ・マリを抱き寄せる。僕の胸の上に彼女のとがった肩がのり、彼女はバランスをとろうとしたので、僕の手に、彼女のみずみずしい応力が加わる。僕は彼女の命の手ごたえを楽しむ。
 「泊まってくれ....んんン!?...」
 彼女はそれ以上言葉を続けられない。僕の口が彼女の動き続ける唇を塞いでしまったから。
 口を放した彼女は、軽く僕の腕をたたいた。
 「...はあはあ、ねえ...」
 「泊まりたい。だめ?」
 やっと口を放した彼女に、僕の希望を、もう一度いう。そう、今日は初めて彼女の部屋に泊まることができるチャンスを手に入れた日なのだ。悪天候万歳!しかも、ゲシュタポの護衛付きだ!
 「ほんとに、帰っちゃ、いやだよ!」
 彼女の熱心な子犬みたいな眼が、僕の目をとらえる。僕は彼女の頭を抱き寄せ、胸に押し付ける。
 「何で帰る必要がある?これからしばらくは天気が悪いそうだ。雀だって、飛びゃあしないよ。雀よりも重たい僕の飛行機がそんな中で飛べるもんか!」
 彼女はもがいて僕の手から自由になると、僕の胸にあごを着けたまま、にこにこして、僕のほおをつまんで引っ張った。
 「今夜は眠らないんだから。あ、でもいっしょに眠ったことないから眠ってみたいかも...でもお話もしてたいし...」
 顔をぴったり僕の胸に張り付けて、いやいやするみたいに左右にこすりつけた。
 「ううん、どっちでもいいや、とにかく朝までいっしょにいてみたかったの!起きたらいっしょにコーヒー飲みたかったの!」
 「コーヒーなんかあるのか?」
 「うん、でも四十年からずっとあるやつ...こないだ物置で見つけた。」
 「すごいや!かびていようがコーヒーだ!僕たちにゃ、すごい貴重品だよ!こないだ日本から来た潜水艦が、コーヒーを積んでたんだ!彼らにとっちゃ、珍しくもない代物なんだろうが、彼らに海上補給をしてやって、それをもらったユーボートの連中にはとんでもない!彼らはお礼に新品の新兵器を呉れてやったって。その話を聞いた僕らもよだれが出そうだったよ!あの時ばかりは、なんでユーボート乗りにならなかったのか悔やんだね!」
 「ユーボートなんていや!」
 「臭いから?」
 「毎日帰ってこないから!」
 こんな具合で、とりとめもなく、僕たちは言葉での触れ合いを楽しんだ。いつしか彼女の答えがなくなって、僕はその愛らしい寝顔に見とれた後で、できるだけそっと彼女の頬をなで、彼女の頭に手を置いて、静かに目を閉じた。ずっと飢えていた、温かい眠りに今日初めてありつくことができた。

 「...?」
 ガリガリいう音に気がついた。彼女はイスにかけて、コーヒーひきのハンドルを懸命に回していた。よろい戸から差し込む色のない薄い朝日にほのかに照らされて、彼女の裸のからだが、コーヒー豆の香りの中に、一枚の絵として入り込んでくる。幸せだ。僕はしばらくの間、毛布の下から彼女を眺めていた。
 
 「おはよう!大尉殿!」
 僕の目が開いたのを見逃さず、彼女は子供みたいに元気に叫んだ。僕はしぶしぶ身体を起こした。
 「服着ないと、カゼ引くぜ!」
 「平気だよ!コーヒー飲んだら、またあっためてもらうもん!」
 僕の顔は思わずほころんでしまった。

 コーヒーが沸くまで、ベッドで戯れた。明るくなってから愛しあうのは初めてだったから、二人ともすごくはやく頂点をみた。

 二人で見つめあって、コーヒーのカップを口に運んだ。
 二人とも顔をしかめた。
 「やっぱり、かび臭かったね!」
 微笑みあった。僕は六時まで彼女といっしょにいた。
 僕が帰るとき、ゲシュタポはまだ夕べと同じところに頑張っていた。僕は敬礼をした。ごくろうさん。
 天気は予報通り悪い。八時から雨になった。
 飛行できない天候は数日続いた。連合軍の大陸侵攻は、あるとすれば、潮や月齢から、六月五日といわれてきた。しかし、ここ連日の悪天候から、連合軍にとっての今月のチャンスはないと思われたし、僕もてっきりそうだと思っていた。僕たちが飛べないのにかかわらず、敵の飛行機は休みなしに活動を続けた。雲の上から爆弾を振りまいた。電波誘導システムが、こんなに使えるものだったとは。今に戦闘機も電波ビーコンで誘導されて、見えていない敵を撃墜できるようになるに違いない。そんな便利な兵器システムはなかったから、僕たちの休業は続いた。いい気なものだった。それでも六月五日の晩はいやな予感がして、アンヌ・マリの家に泊まることはしなかった。
 遠くから敵の重爆がたてるエンジン音が聞こえてきて、なかなか寝付けないいやな夜が明けた。夜が明けてすぐに、敵のヤーボの襲撃が始まった。本部から電話が来た。
 「海岸の方に、夕べから敵の降下猟兵の降下があったのは聞いたか?あったんだ。今朝は敵艦隊に海岸砲兵がめった撃ちにされてるらしいんだ!でも正確にはなにが起きているのかわからないんだ!こっちのカメラつきは本隊ごと本国に引き揚げちゃってな!君のところにもカメラ付きがあったろう?見てきてくれ!ああ、ノルマンディーだ。プリラーのとこが襲撃をかけたらしい。写真が欲しい。偉いさんは信じないと言ってる。多分、陽動だろうと。」
 電話の向こうから中隊長が困惑した声を送ってくる。飛行場の方では、ヤーボが押しかけてきてしきりに機銃を撃つ音が聞こえる。航空用の十三ミリ、対空用の二センチ、重いのと甲高いの、それからマーリンエンジンの音。
 「こっちも今、空襲を受けてます。合間を見て本官がカメラつきのグスタフで出ます。それでいいですか?」
 偵察戦隊のいない僕たちの基地にも一機、G-四型改造の偵察キット装備の一○九がある。カメラが重いので、武装を降ろして速度と上昇力、それからほんの少し航続距離を稼いでいる型だ。敵に遭ったら逃げることしかできないし、写真は絶対に持ち帰らなければならないだろう。そんな危険な丸腰偵察に部下を出したくない。さらにこの辺で僕の隊長としての株を上げておいても損はない。
 飛行場に電話する。
 「ザマーか?僕だ、カメラつきの一○九は無事だな!?そいつですぐに飛びたい!用意してくれ。ヤーボが帰ったらすぐに出る。今そっちに行くからな。」
 パリで買ったシトローエンを飛ばして飛行場に着いた。敵さんのヤーボは一息入れているようだ。ちょっと遠かったが車を手前で止めて、走った。
 「回せ!フィルムは入ってるな!シュバルツ!僕が帰るまで飛ぶな!アメ公が上陸してきたみたいだ。いや、ノルマンディーだ!パ・ド・カレーじゃなかったらしい!今日はやつら、天気に構わず気合を入れて航空阻止作戦を仕掛けてくるぞ!露助の空軍みたいになりたくなかったらじっとしてろ!」
 滑走場からかなり離れた所に隠していたせいか、幸い偵察機に被害はなかった。エンジンも予備機のものにしては快調だ。
 敵がいない時間は貴重だ。いきなり滑走に入った。

 コタンタン半島をさらに北上して、雲の中を推測飛行した。海上をしばらく行ってから引き返し、イギリスの方からバイユーにむけて全速で雲の中を飛んだ。
 ただでもモヤの多い日だが、海峡の上空は雲に覆われていて、写真なんか撮っても雲しか写らない。(何も考えずにそんなことをするのはバカ者だけだろうが。)しかし、自分がバカ者でないことを示すために雲の下に出るのは勇気が必要だ。ただ、部下にさせるのでなく、自分で潜る分だけ気が楽だが・・・
 「白二六より、統制官、海上雲多し!これより急降下、雲下に出る!祈ってくれ!」
 落下タンクを落とした。
 僕が進入したコースは、プリラーたちがまんまと地上掃射をやってのけたコースと近かったが直角で、海上だった。僕の飛行機には機関銃がついていないので、プリラーたちのような示威行為はできない。急降下から引き起こして余剰速度が八百キロほど、七百に下がる前に上昇して逃げたい。ありがたいことに、出掛けにもらった雲高情報は正確で、その高度で水平になったときは雲の下に張り付くようにして飛ぶことができた。敵がいようがいまいが、はやいとこ写真を撮って引き揚げだ。
 水平飛行に入り、下を見て、いやな気分になった。景色から目が離せなくなった。これは現実なのだろうか・・・
 海峡を船が埋めつくしていた。いちめん船と阻塞気球。鉛色の海上を航跡がかき回し尽くしていた。軍艦にしろ、輸送船にしろ、たとえ艀だったにしろ、ドイツにはあれだけの数の船はないだろう。こんなにたくさんの目標を、ルフトヴァッフェの全爆撃機が襲撃しても、三パーセント減らせれば大成功なのではないか?
 これでは絶対に敵の上陸は阻止できないだろう。わが方の沿岸の全火力よりも敵の海上の全火力の方が、どう見ても優勢に見える。
 沿岸陣地の陸さんは本気でこいつらを阻止するつもりなのだろうか・・・?
 雲の中で変針しながら、何も考えることができなくなった。何も考えたくなかった。レーダー射撃らしい弾幕が僕の機をゆさぶっても。

 中隊本部のあるベルギーに降りた。
 高度が低すぎたので画面には大きくしかもぎっしりと船が写っていたようだ。あんな写真、偉いさんを憂うつにすることくらいしか役に立たないんじゃあないだろうか。司令部の窓から飛行場を見やる。タイフーンの壊れそうな甲高いエンジン音があたりを支配し、(あれが普通の音らしいから、あの飛行機に初めて乗るときは勇気がいるだろう。)銃身のバカ長い恐ろしい二センチ銃の重たい発射音が聞こえてくる。爆弾を落としたようだ。僕は自分の基地へ戻れるのだろうか・・・
 「アロイス、よくやったな、無事で何よりだ。」
 「写真はあれが精一杯で、あそこには敵の飛行機がここの十倍くらいたくさんいましたよ。」
 「写真はあの雲高じゃあどうにもならんよ。きみの本業でもないし、なにより無事なのがいい。他の偵察機はあまり帰ってこなかったようだ。イタリアから大急ぎで偵察戦隊を呼ぶらしい。」
 「残念です。」
 「爆撃戦隊が夜襲をやるんだ。近いからイギリスに落とすよりは少しはうまくいくだろう。」
 「どこに落としてもどれかに当たると思いますよ。すごい量だった。」
 「偉いさんも元気がなくなってたよ。考えると言って部屋にこもっちまった。」
 中隊長は僕の背中をたたくと、机に腰掛け、僕には傍らのイスを勧めると、タバコに火を付けて吸い込んでから続けた。屋根が鳴った。建物のどこかに流れ弾があたったようだ。
 「帰るのは明日でいい。敵の飛行機が鎖みたいに切れ目もなく飛んでくるんじゃ、いくら騎兵のアロイスでも処置なしだろう。昨日戦死したキルヒホフのベッドがあいてる。久しぶりに話そう!」
 「キルヒホフが!?」
 「ああ、二センチ銃を三つ載んだグスタフしかなかったんで、それで出てってムスタングにかぶられた。きっといつも乗ってる軽いグスタフのような気で格闘に入っちまったんだろう。飛び降りることはできたんだが、腹をやられてて・・・君とは仲よかったものな。」
 僕が衝撃を受けた顔をしたので、中隊長は黙ってしまった。
 子供のころ、ハンス・キルヒホフは僕と同じグライダークラブにいて、僕たちは代り番こに滑空したものだった。かれは風に乗ることにかけては僕たちの中ではいちばんだったし、空軍に入ったのは僕より早かった。
 四十年に、海上で燃料が無くなった一○九をカレーまでだましだましでたどり着いた時は、みんなで大酒盛りを開いたっけ。隊内でのピカイチのゴールキーパー、キルヒホフ。同じ娘を取りあって、僕を負かした色男のキルヒホフ。君も生き残ることができなかったのか?僕に格闘戦はダメだって最初に注意してくれた君が、しかもあの邪魔なゴンドラ銃を翼に付けた一○九で格闘をはじめるなんて・・・
 「同じグライダークラブだったんです。あと、四十年の進攻の時。やつが二番で僕が四番。」
 中隊長はタバコを机でもみ消し、机にあったシュナップスのビンを取り上げ、グラスに注いで僕によこすと、自分はビンから直接あおった。消防車のサイレンが聞こえる。
 「疲れてたんだ。」
 口の片端をねじ曲げてから下を向き、自分のズボンの信号弾サックに指を突っ込んで広げてみている。何も入っていないのが悲しいというように。
 たばこを手先でもてあそんで、火を付けてから吸わずにもみ消した。
 「疲れてたんだ。」
 もう一度、つぶやくように繰り返した。自分を納得させるみたいに。
 「隊じゃあ、いちばんずる賢いやつだったのに、日に五回も出撃して、毎回会敵して、離陸前から着陸したあとまで敵機に神経をすり減らす。毎日だ!毎日!それで、疲れてたんだ。」
 そう、ルフトバッフェ全部が疲れ切ってしまっていた。しかも、これから、もっともっと疲れてゆくことになるのだ!
 「やつは重い装備のグスタフを嫌がった。君と同じにな。重爆が墜ちないのは銃が非力なんじゃあない、射撃が散ってるからだって言い張って、でも本当にデブのミッキーマウスを正面から一銃のグスタフで墜としてたからな。誰も文句は言えなかった。」
 またビンをあおって、それから付け加えた。
 「オレも一○九はF型がいちばんだったと思うよ。射撃がうまけりゃ、な。」
 今日は帰らないという連絡を基地にしようとしたが、電話がつながらない。指揮官は(たとえ田舎の一個小隊の草飛行場であっても)こういうとき、持ち場を離れてはいけない。モラルの問題だ。
 「やっぱり戻ります。僕の基地がどうなってるかわからないのは心配だ。日没の直前くらいに出れば、何とかなるでしょう。僕の基地には予備パイロットがいないことですし。」
 「気をつけろ、ムリはするなよ。」
 中隊長は強いて引き止めはしなかった。本当に疲れて見えた。僕よりも若い、二十五歳とは思えない顔だった。

 本当に次から次へと鎖のように敵機が来た日だった。われわれも四十年にああしていればイギリスに勝てたかもしれない。
 日暮れ時、ようやく飛び上がる隙を見つけた。
 飛行機はどんどん高度を稼ぐ。
 雲の消えはじめたたそがれの空は、なにか僕を落ち着かない、寂しい気持ちにさせる。このまま、たそがれの赤い空に向かって果てしなく昇ってしまいたい。
 でも、そんな僕の気持ちをあっさりと裏切って、昇るにつれ空は青く、そして黒くなってゆく。僕の今日の愛機、カメラを積んだ一○九は元気な音を立てながらどんどん高度を稼いでゆく。
 G四型なので風防の枠が多い。見張がしづらい。武装がないのでたとえ敵をみつけても逃げるしかない。
 周りに何も見えないし、一人きりで飛ぶのも久しぶりだったので、ちょっと道草を食ってアクロバットをやることにした。飛行機とは本来、鳥のマネをするために発明されたものなのだ。高度を確認し、地上に横たわる道路を目標にして、緩く突っ込んだ後で、スティックを引いて、機首を上に。主翼がうなる音がエンジンの壊れそうな音の中に混じり、僕の気持ちを荒々しくかき立てる。両目の端ぎりぎりにもやに覆われた地平が見え、正面には薄い空気を通して宇宙が。宇宙が長い機首の下になると、僕の頭の上には夕日でオレンジに染まったもやの大地が広がり、続いて進行方向に回り込んでくる。少しだけ緩めていたスティックを再び力を入れて引き始めるころには水平儀は通常に戻り始めている。
 水平に戻った後で、地上を眺めると、あの道路は宙返りを始める前と変わらない向きで、僕の目の下に延びている。著しい高度の損失、なし。百点満点!
 続いて、さっきと同じように緩く突っ込む。
 速度計の針がゆっくり上昇する。
 スティックを両手で思いっきり引き付けると、僕の一○九は時速七百五十キロで垂直上昇を始める。
 スティックを左に。
 一○九は急激に減速しながら左にロールする。両目の隅に、大地がゆっくりと回転しながら遠ざかるのがわかる。夏の星座が僕の機首周りを巡る。ほんの短い間の垂直上昇を楽しんだ後で、僕はインメルマン旋回をして飛行機を水平に戻す。
 いつか、いつの日か、僕はアンヌ・マリを乗せて、彼女にもこの自由を感じてもらおう!二人でこの自由を!
 スローロールの後でスナップロール。これは彼女にはきついかもしれない。
 思い付くかぎりの変な飛び方を堪能した。戦争が始まってからというもの、絶えて味わうことがなかった空中での自由を。
 
 こうして一人で飛んでいると、色々な考えが後から後から沸いてくる。大学を繰り上げて空軍に入った時は教官の軍曹に「おっさん」などと呼ばれてすぐに人気者になった。あの時いっしょに空軍のパイロットになった仲間たちは、いま何人生き残っているのだろう。フランス、イギリス、アフリカ、ロシア、それから北極。広大な正面に、満遍なくばらまかれた僕たち。どうも僕たちは、僕たちのドイツは、いささか手を広げることを焦り過ぎたようだ。二正面どころではない、僕たちの正面は、ほとんど輪といっていい。
 言葉をごまかさずに言い換えれば、包囲されているということだ。シェリーフェンが生きていたらなんというか。大モルトケがこれを見たらなんと嘆くか。まあ、今となっては最後まで流されるのが僕たちがとれる一番簡単な道なのだろう。
 黄昏が闇に変わる前のフランスの大地のなかに、僕の基地が見えてきた。そばにある村のあの家、アンヌ・マリの家の屋根。僕の心はなごむ。この時間に飛ぶ敵機もいない。自分でも満点の接地。

 「朝、一機だけ飛んでったの、あなただったの?夕方になっても帰ってこなくて、一日中アメリカやイギリスの飛行機が飛び回ってて、それで、帰ってこないから、あなただったらどうしようと思って・・・」
 そこで感情のブレーキが切れた。アンヌ・マリは僕の両手にしがみついてきた。僕も気分が高ぶっていた。持ち場を離れてはいけないはずの指揮官は、今、なぜか恋人の家にいた。モラルも何もあったものじゃない。
 「そう、僕だった。でも、こうしてちゃんと帰ってこれた。ちゃんと飛行場に着陸して帰ってきた。飛行機も無事、僕も無事だ!僕を誰だと思ってる?騎兵だ!騎兵のアロイスなんだぜ!」
 僕が思わず自分の隊内でのあだ名を口にしたのは、自分でも自分の気持ちを元気付けようと思ったからで、今思うとやっぱり先行きが不安だったのだろう。しかし、その言葉を口にした瞬間に、彼女がちょっと表情を強張らせたことで、僕は気がついた。僕の隊内のあだ名を今日はじめて彼女に話したということを。機密保持のためだ。僕たち編隊全員の命を守るため。でも、この表情。この仕草。すでに彼女は僕のあだ名を知っていたのか?僕だとわからないで、騎兵と呼ばれるパイロットがいることを知っていたのか?
 「騎兵の名を聞いたこと、あるの?」
 「・・・」前髪をつまんで持ち上げて、見つめた。聞いたことがあるのだ。
 「これは秘密でもなんでもない。僕の戦隊で騎兵といえば、僕のことだ。でも、なんで君が知ってるの?」
 追及するのは初めてだ。彼女の顔が薄明かりの中にこわばっているのがわかる。
 これが俗に言う「愛が壊れるとき」なのだろうか?彼女が僕から離れてゆく時なのだろうか?
 「騎兵っていう戦闘機乗りがフランスにいるドイツ軍にいて、その人はとってもずる賢くって、悪魔みたいに忍び寄って、死に神みたいに攻撃して、悪霊みたいに消え去ってしまうって、海峡を越えて来る連合軍の飛行機乗りたちを恐れさせてるっていううわさを聞いたの。墜落して、落下傘で降りてかくまわれた連合軍の飛行機乗りから伝わったんだって・・・わたし、村の教会に行ったときに聞いた。」
 「うん。」
 「それで、悪魔みたいって言うから、鉤鼻でアゴがとがって口の裂けた赤い顔のドイツ人を思い描いてて・・・あなたがその本人だったなんて・・・」
 困った顔をした。お互いに。
 「怖くなった?」
 他に訊く言葉も思い浮かばなかった。彼女を愛していた。彼女がスパイ行為をしたかどうかなんてどうでもよかった。たとえそうであっても傷つかないように、ばらされて困る話はしなかったし、彼女もねだらなかった。何より彼女を信じたかった。だからいま、しいて彼女を問い詰め、責める気はない。
 僕の問いに、彼女は首を振った。
 「いいえ。でも、・・・」
 「?」
 「戦争って、普通の人が、優しい人が、逆の側から見ると、・・・」
 「そうさ。昨日死んだ僕の友達も、敵から見るとサン・トロンの殺人者だったし、この間、僕が落とした爆撃機のパイロットも家では善良な息子だったかもしれない、だけど、爆弾を落とされたドックの作業員から見れば、やっぱり彼らも人でなしだ。」
 僕の言葉を遮るように、アンヌ・マリは僕にしがみついた。
 「・・・そんなことはもうやめて。・・・優しい人のままでいて・・・」
 僕のあごの下で、柔らかな亜麻色の巻き毛がゆれた。
 僕は戸惑いながら、言葉を探した。彼女のいうとおりにしたいのは当時の世界中の若者の共通の気持ちだったろう。だが、願うだけでいいのなら、祈って済むことなら、あるいは、「やめた」の一言で逃げられるのなら、もう戦争はとっくに終わっているはずだ。
 「やめることは・・・難しい。・・・流されてるんだ。・・・僕たち。・・・なんていうか・・・溺れ死なないために・・・流れに逆らうと、一方的に溺れちまう・・・」
 「どうしようもないのかな。・・・抜け出すわけにいかないのかな。・・・」
 「そう、四十年の君たちと一緒だ。」
 「おとうさんとおかあさんのこと?・・・」
 「それに、君のこと。村の人たちのこと。なんとなく戦争になって、でもある日、いきなり正面のフランス軍が消えちゃったから、びっくりしたんでしょ?一九一六年みたいに膠着しなかったから。」
 この話題は前に一度、軽くしたことがある。でも、なんでそうなったのか、どうしてそうしたのか、その結果がどうなったのかという、生き方に対する姿勢とその結果について踏み込むことは、これが初めてだ。お互いが勇気をもって相手の心に踏み込むのは、これが初めてだ。いま、僕たちは、この話題を避けることなく、正面から語り合うべきときに来ているのだろう。より一層信じあうために。愛を一層深くするために。
 「そう。村中が大騒ぎだった。いろんなとこからいろんな人たちが逃げてきて、たいへんだ!ドイツ人が来るぞ!クレマンソーへの復讐をしに!今度はアルザスだけじゃすまないぞ!殺される!村のみんなもあわてちゃって。フランス軍はどこだ!マジノ線は!?
 逃げよう!逃げるんだ!
 おとうさんもおかあさんもあんまり血相替えてせっつくから、わたし、せかされるの嫌いだから、わざと遅れて、のろのろ家を出た。二人は家から出た途端、家の前でパリから逃げて来た軍人の車に轢かれた。映画の悲劇のシーンみたいだった。口を開いてトランクが飛び散って、家の前にお母さんの気に入ってた服の花園ができた。土まみれの服がたくさん...車の将校は、帽子をとったりかぶったり、師団命令を僕の連隊に伝えなくちゃいけないんだ!今は非常事態なんだぞ!とか言い訳して。また車に乗って、走っていっちゃった。
 わたしは悲しくて、あきれて、つかれちゃって、やっぱり逃げるのはやめにした。どうだってよくなった。家に帰って、ぼんやりしてた。村の人たちは大慌てで、私にも逃げることを勧めに来たけど。
 一緒に来い!手込めにされるぞ!男はみんな去勢されちまう!って、わたしの手を引っ張ろうとしたけど、わたしはもうどうでもよかったので、断った。焦ってもしょうがないわ!村の人たちは、勝手にしろ!って・・・でも結局、逃げなくてもよかった。あわてなくても。手込めにはされなかったし、去勢された男もいなかった。逃げてった村の人たちも、ぼちぼちきまり悪げに戻ってきた。」
 僕のあごの下の頭はここで言葉を切って、僕の顔を見上げた。疲れ切った少女..いや、もう、一人前の女...の顔....僕にとってはいとおしい、放したくない女の顔。
 僕は彼女の髪をなでながら、最高の手触りを惜しみながら、自分では精いっぱい優しいつもりで、彼女の当時の状況を問わず語りに解説していた。ほんとはなんにもわかっちゃいなかったのだけれど。
 「パニックなんて、そんなものさ。でも、回りが逃げるときは、一緒に逃げないと、みんなといっしょのことをしておかないと、いろんな意味で一人ぽっちになっちゃう。そうでしょ?」
 彼女は再び僕の胸に顔をうずめて、僕の胸に向かって語り始めた。彼女の声は、僕の胸を振動させて、僕の耳に。遠くからの声みたいに。
 「帰ってきた村の人たちは、わたしにたいしてよそよそしくなっていった。まともに目を見てくれなくなった。最後には食べ物も売ってくれなくなったから、困って優しそうなドイツ人に頼んでみた。代償はとられたけど、飢え死にはしないで済んだ。でもますます村の人が冷たくなった。」
 「君は自分を押し通して、自分が正しいと思うことをして、他の人と違うことをしようとして、代償を支払ったんだ。それは勇気がいることだ。君は今、僕に同じことをしろといっている。でも、僕は直接戦争をしている身分だ。いやだ、といってすむ立場じゃあないし、なにより、僕にはまだそんな勇気はないよ、空中で優しい人になったら、僕が殺されてしまう・・・」
 彼女の手が僕の口を塞いだ。真剣さに潤んで輝く瞳が、僕の心を打ち、駆り立て、たまらなく切なくさせる!ああ、彼女のいうとおりにしたい!彼女の心を平穏の中に置いてやりたい!
 「逃げようよ!?二人で!飛行機でアフリカへ行こ!誰も殺さなくてすむように、殺されないように。そうして、自然の中で、二人で一日中愛しあってようよ!」
 涙が出そうだった!いとおしい心!汚れなく、純粋な、ささやかな幸せを求める少女の心!応えてあげたい!僕だって、勝てそうにない相手を避けることで卑怯者呼ばわりされるような、ばかな命令のためにムダに危ない目に合わなければならないような毎日はごめんだったし、彼女を残して死にたくなかった。
 でも、僕がいなければ、忠実なブラウン、内気なシュバルツ、子供みたいなシュプレッケルは、今よりもすさまじい地獄を真正面から受け止めることになるのだ!彼らは僕と違って正直者なのだから。
 アンヌ・マリの、繊細で冷たい、きれいな愛らしい手を振りほどいた。かわりにその手を僕の両手で包んだ。
 「だめだ。今はまだ、だめだ。今逃げると、たぶんろくなことにならないうちに僕たちは捕まる。ドイツ軍はまだそこまで落ちぶれていない。混乱していないよ。たぶん、このまましばらくは押し合いがつづくと思う。いずれ押し込まれちまうにしてもね。」
 そう言った時、彼女にそう言い聞かせてみたとき。 
 その時はまだ、わが軍にあそこまでの破滅と混乱がくるとは思っていなかった。文字通りの崩壊がくるとは。しかし実のところ、事態は深刻だった。振り返ってみると、六月六日以前に、すでに決着はついていたようだ。たくさんのタイフーンとP-四七が、ロケット弾で念入りにこちらの交通網を破壊していたし、向こうでいう「決定日(ディシジョン−デイ)」以後もその活動は精力的で、その間ルフトヴァッフェは全く行動することができなかったし、陸軍は昼間に機動することができなかった。機甲部隊も放列も、そして、その段列も、昼間のうちに空からの死を迎え、夜間はレジスタンスのサボタージュにおびえた。ひきょうにも民間人の顔をかぶったフランス人達の抵抗は、思ったよりも深い傷を僕たちに与えることになった。
 そして、とどめとなったのが、アメリカ人がもたらした、制空権とか、機動戦術とかいった教条が意味を成さない、一方的な物力。戦術という教条は、やはり敵味方の物力が伯仲してのものなのだ。アメリカの巨大な鋼鉄のこぶしが、フランスにいるわれわれドイツ軍を握り締め、五十個師団をたった二カ月足らずで握りつぶした。ノルマンディーに上陸した敵軍を、上層部では陽動だと判断していたそうだが、彼らの意見を受け入れるなら、われわれは陽動の兵力に敗けた珍しい軍隊ということになる。陽動にあれだけの兵力を持ってこれるということ自体が、こちらの絶望の証明になっているということに、あの時点で気づくべきだったのだ。フランスに流された無駄な血液。(フランスに居座っていると軍隊が弱くなるんだろうか・・・?)
 あの恐ろしい消耗に、その後、十カ月もわが軍が持ちこたえたのは、誇りに思うべきなのだろう。あの時はそんなこと考えもしなかったのだが。
 僕の言葉は、彼女を納得させなかった。彼女は現実の予定を僕に求めた。僕の上司のように。僕の上司よりも切実に。僕の上司にはないいとおしさを持った瞳で。
 「じゃあ、いつ?いつ連れてってくれるの?あなただけ引き揚げちゃうってことにはならないの?わたしを置いてくってことにはならないの?」
 一人で取り残されれば、対独協力者の彼女を待ち受けるのは魔女裁判だ。死ぬよりも恐ろしいリンチだ。それがわかっているので、人間としての尊厳と命がかかっているので、彼女も必死だった。誰だってすきこのんで地獄を見たいとは思わないし、地獄とわかっていて飛び込んだりもしない。僕も必死に考えた。彼女を安心させ、しかもここから無事に連れ出す方法を。二人が救われる方法を。
 「じゃあ、今、ここを出られる?」
 「今逃げ出すの?どこへ?」潤んだ瞳が自信なげに僕の顔をさまよう。期待と不安が入り交じった顔というのはこういう表情をいうのだろう。かわいいと思った。別なときに、もっと平和なときに・・・たとえば、何が入っているかわからないプレゼントの包みをあげたときとかに・・・見たい表情だった。
 「いや、とりあえず、もっと飛行場に近いところに移るんだ。」
 あてがあった。今日、偵察に使ったR-2仕様の一○九は、飛行場の南の茂み近くに隠してあったのだが、近くに牛小屋があった。
 「牛小屋・・・?ああ、ジャックさんのとこね!」
 「そう。四十一年に金を払って借りたらしい。横に、小さな納屋があるのさ。でもちょっとにおうぜ。」
 「牛はいるの?」
 「一頭だけマスコットがわりに残してもらったウルズラっていう名前の雌牛が残ってたけど、こないだの空襲で戦死した。アメリカ製の弾が当たってね。」
 「あ、こないだの牛肉がそうだったの?」
 そう。あの日は彼女の家で牛のスープを作ったのだ。タマネギとじゃがいもを入れて。二人で食べた。二人で眼を見合わせ、にっこりした。
 「もったいないからね。」
 「そんなとこに住めるかしら・・・」
 彼女の父親は教師だった。農村の中の文化人。泥臭さの中に溶け込んで見えるが、奥深い部分では決してかみ合っていない上品さ。たしかに、あそこは彼女にとっては少し過酷かもしれない。
 「でも、安全なんだよ。ウチの整備兵もあそこにはあんまり近寄らないから。」

 夜逃げということを体験するのも今日が初めてだった。
 避けては通れない、親しんだ住み家との別れ。
 彼女は家中から自分のものを集めようとした。下着、気に入ってる服、普段着、クシ、全部旅行かばんに入れようとした。僕も手伝った。とまどいながら。時たま合わせる顔に、同時に浮かぶ、いたずらを楽しむような笑み。
 「もう、はいらない・・・」
 「あきらめるんだ。着るものは平和になれば買える。」
 ちょっと悲しそうに、何着かを選んで、長持ちに戻した。いずれ、村の誰かが着るだろう。
 「これも?」
 くたびれた縫いぐるみ。女の子らしい、思い出の詰まっているだろう茶色の熊。黒いボタンでできた眼が、彼女を思わせた。思わず顔がゆるんでしまい、「いいよ」という代わりに、彼女の頭を抱き寄せ、なでた。夜逃げの一行に小さな熊が加わった。

 夜の村。おびえてひっそりと静まり返った村の、物陰から物陰へ。アンヌ・マリの手を引いて、彼女のかばんをもって。文字通りの夜逃げ。
 怖いのだろう。いつもになく真剣でおびえた顔が暗がりに見え隠れする。かわいそうに、こんな怖い思いをしなければならないなんて。
 音がしないようにと思って、そっと砂利道に踏みだす足が、やっぱり音をたてる。ヒトラー少年団の式典の太鼓みたいに大きな音をたてる。はやく!はやく!連なる村の建物が切れるところまでようやくたどり着いた時はほっとした。
 パリでは、連合軍の大反攻のために治安が悪くなってきたようだ。ゲシュタポの連中はそっちに追われて、整備兵殺しの件は後回しになったのだろう。誰も僕たちを見張っている様子はなかった。

 牛のいなくなった牛小屋は、途切れがちの月明かりにひっそりとしていたが、いまだに牛の匂いは残っていた。いつかまた、平和に牛が飼われる日が来ることを望んでいるかのように。
 「この納屋だ。」
 「ほんとにウシ臭いね。」
 アンヌ・マリがくすくす笑った。
 「ここで暮らしたら、わたしもウシ臭くなっちゃうね。」
 「今日からウシのアンヌだ。じゃあ、昔話の女の子みたいに牛の革をかぶらなきゃ。」
 「お乳はでないよ。かわいい子牛ちゃんなんだから。」
 「なら、ソテーにして食べちゃうぞ!」
 「きゃっ、くすくす。」
 「しっ。」
 緊張を押し隠すための、意味のないひそひそ話。静かに力強く抱きしめあう。
 納屋の中に誰かいたりした場合に備えて、アンヌ・マリに静かにするようゼスチャーして、暗やみの中、納屋の影に入り、少し土をかぶった扉を、きしらないようにゆっくり開けた。当然、誰もいない。よかった。

 納屋の中は、牛のほかに枯れ草と、埃と、古くなった木材の匂いがして、子供のころ遊びに行った田舎を思いださせた。アンヌ・マリは古くなった干し草の山にどさっと腰掛けた。
 「しばらくはここで暮らすんだ。食べるものは届けてあげる。それから・・・えーと・・・」
 「アフリカ!」
 「そう。二人でアフリカへ行こう。」
 不安を押し隠すために、キスをした。
 僕たちは今、踏み出したら、もう戻ることのできない第一歩を、踏み出してしまったのだ。文字通りディシジョン-デイ。世界にとっても決定的なこの日に。
 キスをする息が荒くなり、お互いの体を探る手と手が、服を取りのけあうと、干し草のなかで激しい戦闘が始まった。
 兵舎に戻るときには、体に干し草がついていないように確かめなきゃ。彼女の口を自分の口で愛撫しながら、なんとなくそう思った。

 次の日から、僕たちの基地は、連合軍空軍力の矛先を拡散するためのささやかな手段のひとつとして、細々と、しかし断固として、活動を続けることを求められた。
 隙を見て哨戒に上がり、隙を見て着陸し、対空放列が強化され、時にはJu八八の臨時着陸場となった。もっとも、僕たちの基地に限らず、フランスに降り立った飛行戦力のほとんどは二度と飛び上がらないまま地上でガラクタになっていったのだけれど。とにかく、そのまま六月はすぎてゆき、飛行場のガラクタは増え続けた。これらの飛行機が連合軍のヤーボに無力化されていく様子を眺めるたびに、僕はこれらの飛行機が、まるで最初からガラクタにするために生産されたような、一度体験したことがあるような、不思議な気持ちがした。
 僕たちの基地の勤勉な整備隊は、飛行機の飛べる飛べないにかかわらず、機種のいかんにかかわらず仕事を続け、残がいから飛行機の形をしたものを何機も作りだし、対空放列と示し合わせて「死の回廊」を作り上げた。敵機がそうした巧妙に偽装された飛行機もどきを掃射しようと進入すると、そのコースを通る間中、統制された対空放列が連続してシャワーみたいに火を吹くという寸法だったのだ。P-五一、P-四七、タイフーンにスピットファイアと、かなりの数の敵機がこの回廊を通って、そのままあの世へと旅立った。ルフトバッフェの空中部隊よりもはるかに活躍したのではないだろうか。
 僕たちの飛行場がまだ生きていることを誇示するために、僕たちは毎日のように飛んだ。敵機の来ないときを見計らって。六月は持ちこたえ、七月もなんとかなりそうだった。

 でも、なんとかならなかった。
 輝かしい空の英雄、ハルトマンや日本の坂井三郎は、空中で一度もその列機を失ったことがないという、撃墜数なんかよりももっと大切な、人間的にすばらしい誇りを持つ。撃墜数でははるかに及ばなくても、列機を失ったことがないという点では僕も英雄だった。誇りがあった。でも、ついに、その誇りを維持することができなくなる日がきた。

 七月十八日。その夜明け。
 フランスに基地を持ったイギリス人たちは、夜明け前にそういった基地の一つを発進したに違いなかった。僕たちが明け方に発進することを狙って、奇襲をかけたのだ。僕たちが編隊のままの離陸を終わり、脚をしまったそのときに、上からタイフーンが降ってきた。
 「上昇するな!スティックを突け!」
 落下タンクを落とし、スティックもスロットルレバーも前に押し込んで、高度三百メートルから地上五メートルまで急降下する。こうなるともうとても自分のウイングマンにまでかまっていることはできない。自分のことで精一杯だ。スピードがぜんぜんでない。あんまり低く降りたので、トルクのまま滑らせて、後ろの防弾ガラスから後ろを見ながら逃げる。タイフーンのぽっかりと開いた深海魚みたいな口を初めて間近で見た。スピットファイアなんかよりもはるかにどう猛そうだ!神様、こいつが僕よりもへたくそなパイロットでありますように!左をもっと踏み込む。機首が激しく左に振れる。棒みたいな洩痕弾が右後ろに流れる。あぶない!彼らの槍みたいなイスパノ機銃の打撃力は、僕の飛行機の積層アルミの防弾版なんかメじゃないし、弾丸もとてもまっすぐ飛ぶので、この高度とスピードであてられれば間違いなく僕のいとおしいアンヌ・マリとは永遠のお別れだろう。立ち木だ!右横を飛び去った!また木だ!飛行機ではなくレーシングカーに乗っているような気がする!立ち木に衝突しないのは僕の腕のおかげではなく、運がよくてたまたま進行方向に生えていなかっただけなのだ。僕の後ろ上方にぴったりつけているタイフーンは、あと何発の弾を持っているのだろう。ここでさらに恐ろしいことに気がついた。彼の分厚い翼の下には、あの恐ろしいウインナソ−セージを刺したようなロケット弾が八発もぶら下がっているのだ!
 この高度で前方にあれを撃ち込まれたら、当たらなくても爆風だけでそれこそ僕は御陀仏だ。前と後を一対九の割合でみはりながら、僕は生まれて初めて絶体絶命の気持ちというものを味わった。
 落ち着け!やつはまだ、銃で勝負しようとしている!まだ横滑りだけでいける!この勝負は焦ったほうの負けだ!
 グローブの中の手が汗ばみ、背中がじわっと熱い!いま、真後ろに、僕の死を望んでいる男が確実に一人いるんだな。
 農家の屋根を飛び越える。後に屋根のかけらが巻き上がる。タイフーンは仕方なく上昇してそれを躱す。それからちょっと下を向いたその軸線が、僕の飛行機の進路と交差した。
 今だ!勝負!
 タイフーンの外翼から煙を認めた瞬間、僕はスロットルレバーを緊急出力に入れ、左足を思いっきり蹴り込み、スティックを鋭く、しかし微妙に、引き付けながら左へ押し倒した。僕の一○九は危険なほど滑ると、そのまま左斜めロール旋回をはじめようとした。タイフーンの翼を、一発目のロケット弾が離れ、二発目が煙を出した。僕はさらに微妙な左変則バレルロールを続けた。墜落しないように高度を少しだけ取りながら、機ができるだけはやく九十度傾くまで。それから左斜め旋回に切換えた。その間ぶるぶると抵抗するスティックを引き続けた。もう少し続けたら前縁スラットが飛びだしただろう。この高度で誰がそうするよりもはやく、確実に、うまくできたと思った。その時、僕のおしりのはるか下を、地球を基準にすれば僕の右を、最初のロケット弾が追い抜きながら遠ざかっていった。遅いよ、タイフーン君!そんなこと、今気付いても。彼等のレール式ロケット弾は、ひっかかってしまう可能性があるので、一度発射をはじめたら途中で運動することが難しい。タイフーンがようやく全部のロケット弾をムダに撃ち終わった時には、僕は彼からかなりの距離と開角を稼いでいた。ついでに旋回で失ったスピードも。ふたたびさっきみたいな超低空で逃げ続けた。
 その後も件のタイフーンは弾が無くなるまで僕を追い回した。彼があきらめて引き揚げたときには僕の燃料タンクが空になりかけていた。
 三点着陸して、一発で飛行場の隠ぺい場所のそばに止め、飛行機を降りたときには、ひざから力が抜けてて、危なくフラップを踏み抜きそうになった。右腕も左足もがくがく。冷や汗で身体がびしょびしょ。震える声を押し殺して、飛行機を退避させるために寄ってきた整備兵に尋ねた。
 「僕の他の飛行機はどうなった!?」
 さっき空中で、電話で呼び掛けて確かめたかぎりでは、シュバルツは生きていた。たいしたものだ。しかし、他の二機からは応答がなかった。
 「四番機は二キロ先の林に墜ちました。飛びだせなかったみたいです。今、ブコウスキたちが拾いに行っています。」
 気が重い。たった三十分の飛行だったにもかかわらず、三日間飛び通しだったかのような疲れが襲ってくる。あえてひざに力を入れて、しゃがまないように踏ん張った。一人っ子で、まだたったの十九歳のはなたれ小僧のシュプレッケルを、無事に親元へ返してやりたかったのだが・・・
 「僕の二番機は?」
 「わかりません。四番機があっという間にやられたあと、大尉殿が一機、他の二機がそれぞれ何機かづつのタイフーンに追われて、でも、みんなおれたちの視界外に出るまではやられてはいなかったみたいです。」
 結局、僕の二番機、影みたいに忠実なブラウンは、そのまま行方不明になった。どこかで生きていてほしいものだが・・・
 シュバルツ曹長の一○九が降りてきた。素早くて、安定していて、流れるような緩降下からの三点着地。あんな着陸は彼にしかできない。無口な彼はその性格のためか僕の三番機に甘んじているものの、その腕前は天才で、彼のフォローがあるからこそ僕は安心して敵編隊に突撃をかけることができる。どんなエクスペルテンも、一番機だけでは戦争ができない。
 しかし、今日は彼もまた、くたくたに疲れていた。彼の燃料はタキシング中に切れた。あんまり真剣に握り続けていたので、整備兵に手伝ってもらわないとスティックとスロットルレバーから手が離れなかったという。
 「よく帰ったな!」駆け寄って、背中をどやしつける。
 「他の隊員は?」彼も戦友が心配なのだ。
 「ブラウンはどうなったかまだわからない。シュプレッケルは・・・」
 爆音が聞こえてきた。サイレンが鳴りはじめた。二人は待避壕へ走った。

 「大尉殿の電話を聞くまで、正直言ってどうしていいかわかりませんでした。」
 タイフーンの特徴あるエンジン音と重い機関銃の音が、我が対空放列の高い発射音に混じって、爆発音とともにひびいてくる。僕たちは待避壕の冷たくて湿っぽいベトンの壁によりかかって足を投げ出して座っていた。シュバルツが一人で語りはじめた。僕と目を合わせることなく、一人で語りはじめた。
 「おれたち、今まで一度も敵にかぶられたことがなかったでしょ!普段、こういうときどうするべきかをブリーフィングして打ち合せてても、いざああいう時になるとパッと出てこないもんなんですね。本当は大尉殿が電話で指示するまでもなく、スティックを突っ込まなきゃあいけなかったんだ。そうしてれば、シュプレッケルもついてきて助かったかも・・・」
 ここで、飛行機を降りてもなお張り詰めていた彼の神経がようやくほぐれた。彼は震える手で、まだグローブをはめたままの手で顔を覆った。
 僕がこの基地に来て以来、僕たちの編隊の中から戦死者を出したのは今日が初めてだったのだ。
 戦死者を出したことがないという自信と誇りと、ちょっとした縁起担ぎのようなものが、今日あっけなく切れてしまった。この喪失感は、味わったものにしかわからないのだろう。「戦場心理」という言葉で、簡単に片付けられてしまうのだろう。
 しかし、ここで気を取り直さなくては、僕たちの前にも破滅しかのこらない。落ちつつある士気を建て直すのは指揮官の役目だ。なんのためのナポレオン研究だ!?
 僕はシュバルツの手をつかんで、こちらに引きよせ、シュバルツの顔をまともに見据えた。自分の思っている通りを話した。
 「悩んでちゃだめだ!シュプレッケルはいずれこうなった!敵がぶんぶん飛んでて離陸時の上空のカバーが無いんだからいづれこうなったんだ!いいか!?彼らが死んだのは君のせいじゃないぞ!ベテランの僕たちでもあんなに苦しい飛行だったんだ!たとえ彼らがあの逃げを打てても、その後で地べたをはいずって逃げ切る腕がなかったろう。君が今日生きて帰ってこれたのは、勇気と経験と幸運があったからだ!僕が今日どこにもぶつからなかったのだって半分運だと思ってる!たしかに反省することは大切さ。しかし、君がいましてるの反省じゃない!感傷だ!それじゃ僕が困るんだ!今からは君が僕の二番機なんだ!僕が命を預けるんだ!感傷的な二番機は困る!僕が安心して飛べるようにしてくれ!それが君の義務だ!」
 シュバルツは無言でうなづいた。シュバルツへの説教は僕自身への説教でもあった。明日から新しい誇りを築いていかなくちゃ。アンヌ・マリのためにも。

 大隊に電話で今日の損害を報告した。電話の状態は悪く、途中何度も声が大きくなった。八月になったら補充を送るということだ。

 シュバルツとしずかな夕食をとった後で、牛小屋へ行った。上着の下にパンとワインを忍ばせて。

 「アンヌ!僕だ!」
 静かに扉をたたく。この瞬間が、実は僕はとても怖い。
 彼女はちゃんと僕を待ってるだろうか?ゲシュタポやレジスタンスに連れていかれてやしないか?流れ弾にやられてはいまいか?彼女も僕もいい加減、この忍びあう生活に疲れを覚えていた。
 扉がぼそぼそ開いた。
 「アンヌ!」
 「アロイス」
 抱きあった。それから二人で小屋をでた。昼間表にでない彼女は、ユーボートの兵士みたいに、暗闇に真っ白い。
 「今日もハデにやってたね。」
 「ああ、今日もね。」
 「でも、無事に帰ってくるって気がした。あなただけは。」
 愛らしい瞳が僕の目を見つめる。
 抱きしめた。昼間からのやりきれない思いから救われてゆくのがわかる。そう、僕はいま、彼女のためだけに生きている!
 「君のおかげで、僕は死なない。」
 林の影のちょっと盛り上がった草に二人で座った。まだ子供のコオロギが大慌てで僕たちに場所を空ける。懐かしい気持ちにさせる草のにおい。
 パンとボトルを差し出した。彼女は両方受け取って、ボトルから飲んだ。パンをとって、かじった。僕も一切れもらってかじった。彼女は今日も元気そうだ。よかった。
 彼女はパンをぼそぼそかじりながら顔を僕の方へねじり、じろじろと眺めていたが、ボトルを置くと、その空いた手で僕のほおを突いて、言った。 
「やっぱりいつもより疲れてるね!」
 僕はちょっとうれしかった。ちょっと横顔を見ただけで、僕のこと、わかってくれる。いい気分。
 「ああ、今日は一度しか飛ばなかったんだが、それがえらく辛かったんだよ。今まででいちばんのしんどさだったかも。でも君も毎日小屋の中にいて退屈だろ?」
 「たいくつ。」
 「そう思って、これ。」
 飛行服のひざポケットからチョコレートと、ボンボンと帳面と、鉛筆を出して渡した。
 「あんまり退屈しのぎにはならないか・・・」
 ポケットに忍ばせたときはきっと喜ぶと自信満々だったのに、渡してみてから自信がなくなった。でもカードとか、女の子が喜びそうな、気の利いたおもちゃは持っていなかったのだ。
 「ううん。こういうの、欲しかったの。紙、もっとほしい。」
 意外な返事。
 「絵を描きたいの。」
 初めて聞いた。
 「どんな絵を描くの?」
 「秘密。」
 「教えてよ。」
 「描いたらね。」
 「約束だぜ!」
 「いいよ。」
 「じゃ、今度はもっと紙を持ってくるよ。あ、それと・・・」
 僕がいつも使ってるナイフをあげた。片刃の飾り彫りの入った、鞘つきの小さな小刀を。
 「これで鉛筆削りなよ。空軍に入ったときに母さんにもらったんだ。」
 「ありがと。」
 鞘から抜いてみて、夜目に白く映える刃をながめた。
 「奇麗なナイフだね。」
 「よく切れるんだ!だから気をつけて使うんだぜ!」
 「うん。じゃあ、借りるね。」
 「あげるよ。」
 「お母さんにもらったなら、大事にしなよ。」
 「君の方が大事だもの。」
 彼女がにっこり笑うのが暗闇ごしにわかった。さっきよりも、もっと幸せな気持ちになった。
 僕の家はハンブルクにあって、去年の夏に、家族ごと灰になってしまった話は、彼女にはまだしていなかった。

 キスをしたあとで、彼女が自分の匂いを気にしはじめたので、牛の水飲み桶の水を使って彼女が身体を拭くのを手伝った。牛小屋の側に井戸があるのは幸いだった。闇の中でも白い、彫刻のような優しい身体を僕は忘れない。アンヌ・マリ!僕のアンヌ・マリ!
 彼女の裸の背中をみたその時、今朝の命懸けの飛行の時から僕の中で張り詰めていた、自分ではそんなに張り詰めていたのがわからなかった緊張が、一時に切れた。
 「アンヌ・マリ!」
 後ろから裸の彼女を抱きしめた。
 首筋に、僕の顔を潜り込ませた。
 「アンヌ・マリ!」
 抱きしめる力を一層強めた!
 彼女の滑らかな裸の肩が、一瞬緊張して持ち上がった。彼女の細い指が、彼女のからだの前に回した僕の手を握り締め、それから優しくなで始めた。
 「アロイス。」
 彼女の落ち着いた響きのあるかわいらしい声が、僕の名を呼んだ。彼女の体の前で組み合わされた僕の腕に、顔をうずめた。
 僕たちはそのまま、立ったままで愛しあいはじめた。
 夏の草が昼の太陽の熱を夜の空気に返してやる、あの夏の夜の香りの中で。静かに、激しく。

 彼女のくちづけの余韻を引きずりながら自分の部屋へ戻ったあとで、シュプレッケルのご両親宛に手紙を書く。あんなことをした後で、このような厳粛な仕事をすることに気後れは感じるものの、今日、僕の心の平安を取り戻すためには彼女との行為は必要だったし、すすまない気分を押しのけて手紙を書くことも、やはり僕の心の平安のために必要な行為なのだから、避けて通るわけにはいかない。
 そうはいうものの、やはりこうした手紙を書くのは相変わらず気の重い作業だ。こうして悲しい挨拶を書くことはこれで何回目か。いざ、書き始めてみると、まだ、今日の命懸けのフライトの方がましな気がしてきた。ブラウンの分は、なにぶんにもまだ消息不明だからと、自分に言い訳をして後回しにした。まずはシュプレッケルから..
 拝啓、あなたがたの素晴らしいハインツは、本日朝の戦闘で不運にも戦死されました。さらに不幸なことに彼のご遺体は背骨しか残っておらず・・・だめだ!紙を丸める!これじゃ、死者の遺族をバカにしてるみたいだ。難しい!泣きたくなる。
 一人っ子を失ったご両親に、この残酷な事実を伝えることの気の重さ。義務咸だけで進むペンの、この重さ!。
 この戦争で、いったい何人の親がこうした悲しみの手紙を読まされたことだろう!いったい何人の親がこうした悲しみを背負ったことだろう!ブラウンの前に僕の列機だったポルタウスキが前縁スラットの故障で死んで、彼のご両親と幼い妹さんが見えたときの、あのいやな記憶がよみがえる。ポルタウスキは修理上りの僕の機を、僕の代わりにテストして、片方のスラットが出なかったので着陸時にロールして死んだ。あっと思うまもない事故と、あっけない死。病院でせいいっぱいにきれいに繕った彼の死に顔を見て、彼の父上は黙って下を向き、母上はくずおれて、人とも思われないような甲高いおえつの声を漏らした。まだ小学生の妹はめそめそ泣きだした。僕も危なく釣られて泣き出しそうになった。しかめ面をするしかなかった。窓の外を見るしか!埋葬が済んで彼らが帰るときの、あの弱々しい後ろ姿!それでも彼は死んでからご両親に会えたが、アフリカや海峡で死んだ僕の戦友たちにはそれすらも許されなかった。大切な人の死に事務的な紙が一枚。それではあまりに無情すぎる!僕が手紙を書くことは、生き残った者の、昨日までいっしょに飯を食った戦友としての義務なのだ!
 しかめ面をしたり、ペンを持ち直したりして真っ白いままの用箋に向かう僕の後ろに、 いつの間にかシュバルツが立っていた。びっくりした。
 「どうした?明日も早いんだぞ!寝なきゃ!」
 強がって言ってみせた。そう、彼も僕も生き残るためには、ここで弱さをみせてはいけない。
 シュバルツはにっこりした。弱々しくだけど。
 「今朝のこと、もう、心配ありませんから。」
 「もちろんだ。僕はきみの腕をルフトバッフェ一買ってるんだからね。教官!」
 彼の腕を親しみを込めてどやしつけた。
 「ところで、今朝の飛行だけど・・・」
 僕の問い掛けを聞きながら、シュバルツは僕の寝台に腰掛けた。
 「なんですか?」
 「今日の危機を、君はどう飛んで逃げ切ったのか、聞きたくてね。」
 手紙は明日だ!ごめんよ、シュプレッケル!
 次の日も僕たちは飛んだ。シュバルムがロッテにへったけれど飛んだ。その次の日も。またその次の日も。滑走路ではこそこそと、高い空中ではできるだけ堂々と。
 命からがらの毎日。任務がだんだんとおざなりな、義務的なものへと変わってゆき、ただ飛んだということだけで中央への義理立てをするようになった。
 偉い人は戦果を求めるが、飛ばないうちに残がいに変わってしまう僕たちの友隊の有り様の中で、無事に飛び上がり、無事にかえってくること以上にどのような戦果があったというのだろう!
 僕たちは何度も追い回され、たまには牙を剥き、細々と、しかし毅然としていまだ危険なルフトバッフェが生き延びていることを敵に向かって証明してみせ続けた。
 アンヌ・マリは、来る日も来る日も、白い紙に絵を描いた。自分の住む物置のスケッチ、自分の手、自分の足、壁の穴から見える景色。ただ、一枚、いつも描きかけで、いつもさっと隠してしまう絵のほかは、進んで僕に見せてくれた。
 「今見ている世界が、こうして紙の中に記録されていくの。今見ている景色は、これから起こる出来事によってやがて変わっていくだろうけど、こうして私が紙の中に移してあげれば、何十年立っても私たちの一九四四年なんだわ!」
 世界中の若者たち、子供たち、いや、もっと広い範囲のひとたちにとっての一九四四年は、共通の傷跡を伴う激しい時間のイメージとして、その心のカンバスに描き込まれることだろう。目の前の、たくさんの、まだ生きることのできる命が、意志に反して奪い去られてゆくことは、充分に異常な光景であり、異端の絵画なのだ。
 「わたしたちのカンバスには少しだけ甘い色が乗せられてるのよ!」
 僕の意見に対して彼女は僕に甘えるように寄り掛かりながら言った。多分、七月も終わりのころだったような気がする。
 僕は彼女のすばらしい意見に、夢中で飛び付いた。
 「そうさ!少しだけじゃあなくて、たくさんたくさん頬っぺたがいたくなるくらい甘い色が乗ってるのさ!」

 永い七月が終わろうとしていた。僕たちは命懸けの毎日をどうやら生き延びていた。多くのドイツ人達の気持ちとは裏腹に、アンヌ・マリのおかげで、僕の心は平穏だった。

 八月になった。暑いことばかり思い出に残る八月。

 「大尉殿!」
 機付きのザマーが報告に来た。
 「大尉殿の機の酸素ビンですが・・・」
 「?」
 「バルブのネジがバカになっちまって・・・ロックが甘くなってるのに気がつかないでそのまま飛んでたみたいで・・・」
 一○九の操縦席と燃料タンクの後ろ、積層アルミの防弾板のうらに収まっている奇妙な六つの玉の塊、酸素ビンが無ければ三千メートル以上の高空での戦闘はできない。やろうと思えばできるだろうが、酸素不足でいい加減になった頭で空戦をやれば、酸素補給をしながら戦う相手に負けることは間違いない。僕たちの機種では高度が稼げないのは致命的だ。
 「予備部品は?」
 「この間の空襲でやられまして。保管所がただの穴ぼこになっちゃって・・・」
 「・・・あの、カメラ付きのやつからとってこよう。」
 六月六日以来飛ばしていない偵察型の一○九から酸素ビンがはずされた。
 「請求してもなんにも送ってこねえ。あと、無線電話用の真空管も取っちゃっていいですか?」
 スペアがなければ仕方がない。とも食い整備はアフリカで体験済みだったけれど、陸続きのフランスでも味わうことになるとは!
 「無線機丸ごと換えちゃえよ!周波数に気をつけてな。」
 「この分じゃ、今に一機も飛べなくなっちまう!」
 ザマーが腕組みしながらぼやいた。
 「偵察しろって言ってきたら、またあっちに戻すんだな。まあ、ロボット付きの一○九も、いつも使えるようにしておいてくれ。燃料は抜かんでいいよ。どっちみち当たれば全損なんだから。いざとなったらモーターカノン積んでカメラ降ろして戦闘機として使わなきゃならなくなるかもしれん。この調子だとな。」
 交通が遮断されているせいで、補充のパイロットは愚か新しい飛行機も、新規に請求した備品まで全く届かない。落下タンクのストックもそろそろ無くなってきた。ひろった落下タンクを基地に届けて小遣いを稼ごうという農民もいなくなった。フランスの住民はドイツ軍に見切りを付けたのだ。

 ビンを交換した一○九で出撃した。一旦スペインの方向に低空で全速で飛んでから、高度を取った。陸軍の将校団が、総統を暗殺しようとしたらしい。陸軍内で粛正が始まっているといううわさは、空軍の僕たちにとってもけして気分をもり立てる材料ではない。カーンまわりのわが軍もおもしろくないことになっているようだ。陸軍も空軍も、わざわざ擂り潰すためにフランスに戦力を投入しているような具合だ。アンヌ・マリの予言通りになる日は近い。僕にとっては、それがいつになるかを見極めることが問題だ。見極めて、彼女とともに、何事もなくアフリカへ行かなければいけない。

 「敵機三、二時。上。」
 はっとした。考え事に夢中で、すっかり周りを見張ることを忘れていた。ありがとうシュバルツ!
 シュバルツのさす方角には、確かに黒い染みのような点が三つ。幸い、こちらはまだ発見はされていないようだ。見つからないように回り込みながら高度をとる。最近のアメリカ機はもうすっかり僕たちをなめきっていて、塗装もせずに銀ピカだ。たしかに、もうこちらには彼らに奇襲をかけることのできる腕のあるパイロットはあまりいないし、そんなことができないくらい敵の数が多いのだが、それでもたまには例外があるということをかれらに教えてやろう。
 慣れないことをやった。敵の編隊の下からゆっくり回り込んだのは今日が初めてだった。でも相手がP-四七なのだから、急降下されるともう追い付けないのだ。P-四七には、逃げられたことはあったけれど、食ったことはなかったので今日は逃がしたくなかった。
 飛んでいる向きから考えると、もう彼らの任務は終了している。空戦か地上攻撃か、ひと騒動やったあとではぐれた編隊のようだ。三機しかいない。爆弾やロケット弾を下ろしたので身軽だが、しかし燃料は心配なころだ。最後尾の一機に当たりを付けて、スロットルを押し込んだ。旅客機みたいに柔らかく舵を使って、地味に動いた。目立たないように・・・
 距離二百メートルを切ったところで緊急出力に入れ、上昇しざまに狙っていたP-四七を射撃した。聞いたところによると、あるP-四七は地上掃射の折り、低く降りすぎて全速力のまま胴体着陸してしまったが、そのパイロットは無傷のまま捕虜になったという。僕の撃ったP-四七もまた、頑丈だった。破片とともにおびただしい煙を吐いた僕の目標は、そのまま激しくバンクを打ってから急降下しようとした。しかし、そこはシュバルツの正面だった。他の二機も驚いたようにそれぞれ逆方向にブレイクすると、急降下に入った。僕たちはそれは追わず、上昇を続けた。
 「やったか?」
 「ダブルエースになれましたよ。」
 「帰ったらシャンパンを出させよう。」
 ちょっと機を傾けて後ろを見た。煙と、開いたカサが見えた。

 そのままスペインの方へ引き返し、急降下して、低空で基地に戻った。誰もいないのを見計らって二人で編隊着陸した。止まった場所もぴったり同じだった。急いで飛行機を隠した。

 夜明け前に電話口に呼びだされた。中隊長の、劣悪な電話状態のせいで割れた声が聞こえる。
 「アロイスか!これは命令だ!夜明けまでにその基地を放棄しろ!そっちのジーベル二○四は無事か?ああ、よかった!ならそいつに重要物や整備員を詰め込んで、引き揚げるんだ。!こっちからもジーベル二○四を一機出した。あと一時間もあればそっちに着く。」
 「高射部隊は?」
 「あっちには下がってきた降下猟兵と協同せよとの指令が出てるはずだ!いそげ!君の基地の正面にはもう陸軍がいない!消えちまった!」
 そう、この日、フランス国内のドイツ軍は崩壊した。パリ、ドイツ・オランダまで、フランスには、もう誰も敵を遮るものがいない!アメリカ軍がついに攻撃準備を終えて、本気になったのだ!砲弾の雨と、戦車の嵐の後に続いて、マシンピストルをもった下品なGIどもが僕たちの祖国へ進撃を開始したのだ!
 受話器を置くと、すぐに部隊に指示を出した。
 「シュバルツを呼んでこい!それから、あの林の中のジーベル二○四を引っ張りだして、二機とも十分以内に飛べるようにしろ!オレの部下を全員起こせ!」
 大急ぎで荷物をたたませる。そうはいっても、全員ほとんど身一つだ。持ってゆけない分は、爆弾穴に放り込んで余ったガソリンをかけさせた。
 薄暗闇の中、飛行場にカンテラをおいて、中隊から派遣されたジーベル二○四を着陸させた。急いで燃料を入れる。
 荷物に火を付けた。
 ウチのジーベル二○四の一機目の操縦席にはシュバルツが座っている。
 「オレが先に上がって掩護する!君は低く飛べ!進空したら着陸灯を消すのを忘れるな!敵が出たら、銃座のやつにしっかり見張らせて、敵の動きを見極め手からよけるんだぞ!おれたちは必ず生きて帰るぞ!」
 夜明けとは言え、こんなに暗い中で一○九を離陸させるのは初めてで、かなり恐ろしかったけれど、なんとか飛び上がることができた。上空で旋回して三機の輸送機が飛び上がるのを待つ。
 四機は東へ。ドイツへと向かった。僕は頭の中で、アンヌ・マリのことばかり考えていた。何とかしてもう一度ここに戻ってこなくちゃ・・・
 チャンスは敵が作ってくれた。三機のジーベル二○四が離陸し終えて、コースに乗ったその時に、僕はこちらに向かうスピットファイアを見つけた。
 「おまえら!気付け!」電話は波長が合わないので使えなかった。だから翼端灯を点け、大げさなバンクを打って上昇し、そのままスピットファイアの編隊に飛び込んだ!誰もジーベル二○四には気がつきませんように!ケガをしたふりをしてひなを逃がそうとする親鳥の気分。
 真正面から航過しながらの射撃は当然一発もあたらなかった。そのまま左上昇垂直旋回に入れる。
 「バーン!」
 前縁のスラットが開いた。目一杯に小さく早く旋回できている証拠だ。スラットが開いた状態でスピンしないように上手く回れば、一○九より小さくはやく旋回できる飛行機はない。頭を、首が痛いくらいに後にねじ曲げて、一番喰いやすそうなスピットを捉える。できるだけ追い詰めてみる。
 でも、すぐに後ろに、別のスピットファイアが食い付いてくる。彼らもけっこうできる連中のようだ。連携がよくできている。四○年の僕たちみたいに。
 追い詰めた一機は、できれば撃墜したいが、こちらも早々とやられるわけにもいかないので、どうしても攻撃が半端になる。僕は射撃をあきらめて、オーバーシュートしないように右に滑り上がりながら高度を取り直す。僕の後ろにつけていたスピットファイアは、僕の旋回についてこれずに、別の新しい螺旋を描き始める。
 イギリス人たちは僕というキツネを狩ることに面白さを覚えてくれたらしい。低く飛ぶジーベル二○四には気がつかなかったようだ。八対一の大サーカスが始まった。
 僕にとっては最初で最後の大ドッグファイト。一般に、大勢の敵と戦うときは、一度逃げて、後ろについたやつだけ気にすればいいというが、囲まれているのでそうもいかない。天候の悪い日の計器飛行のように、各計器のかわりに、注意をすべての敵機に満遍なく移してゆく。頭の中に僕を中心にした星図のような空間パノラマができあがる。恒星は僕で、八個の惑星はスピットファイアだ。その中でいちばん危険そうなものから順に対処する優先順位を決める。これはほとんどひらめきといっていい。数学者が証明のかぎを見つけるようなものだ。
 こんな戦い方は、判断に一つでも狂いがあると、即、死につながるのと、終わったときにひどく疲れるからあまりやりたくないのだが、僕の部下二十五人とアンヌ・マリの運命がかかっているから避けるわけにはいかない。
 こんなにうまく飛べるとは思わなかった。子供のころ読んだ空の騎士、ヴェルナー・フォスとイギリスの飛行中隊の大空戦を思いだした。フォスは無念にもやられてしまったけれど、「騎兵」のアロイス・マイヤーはやられはしない!天国のヴェルナー・フォスよ!僕に力を!
 サーカスはだんだんシーベル二○四たちとは反対の方角へ、スペインの方へ移動していった。僕がそう仕向けたのだ。僕は二十一分間も頑張ることができた。僕もイギリス人達も、どちらもたくさん機銃を撃ったけれど、結局敵も味方も一発も被弾しなかった。
 僕の腕はもう力を出せなくなっている。高度もあと八百メートルしかない。潮時だ。敵の一人が真後ろへつくのを見計らって急反転した。最後の力だ。ほとんど失速に近いエネルギーの減衰が起きて、主翼の上に水蒸気が霧を作った。危なくスピンに入るところだった。機銃を撃った。残弾を全部。他のスピットファイアがさっと躱す。そこで背面になって、飛び降りた。危なく後からの敵機に巻き込まれるところだった。
 飛行機を捨てるのは初めてで、飛行機なしで空中を飛ぶのも初めてだ。今日はなんでも初めてだらけ。僕はエビのように丸まったまま、まだ暗がりの残る空を落ちてゆく。このまま死んでしまう可能性だってあるのだ。マルセイユや、その他の運の悪かった戦友たちみたいに。地面に人型の穴を空けて。リップコードを引いても、傘が開かなければ。傘が開いたとしても、ぶら下がった僕をあのスピットファイアたちが射的遊びの的にしようと思えば。でも、落ちてゆく恍惚の前に、僕はそう思いはしたものの、別段、怖いとも思わなかった。アンヌ・マリの顔が、僕の目の前に浮かんだので、リップコードを引くことにした。
 僕は空気の見えないてに引き留められた。
 こうしてとりとめもなくリップコードを引くのためらっていた時間は、地面はすごく近かったので、後から考えると、わずか三、四秒ほどだったと思う。樹に引っ掛かったのはカサが開いてから数秒後のことだ。
 スピットファイアはアメリカ人みたいに地上の僕を撃ったりしなかった。
 騎士の戦いは終わった。
 多分、僕の最後の戦いが、今。
 初めてずくめの最後に「最後」が付いた。
 すっきりした。
 地上に降り立つと、朝の空気を吸い込んでから、基地の方へ、歩きはじめた。こんなにいろいろあったのに、今日という日は、まだ始まったばかりなのだ。
 ひたすら歩いて基地に帰りついたのはその一時間半後で、もう夜が明けきっていた。牛小屋が見えてからは走った。
 「アンヌ!アンヌ・マリ!」
 納屋の扉をこじ開けた。アンヌ・マリは藁の上に座って、藁の上から僕を見上げた。
 涙をポロポロこぼしていた。子供みたいに。
 上から倒れ掛かって、抱きしめた。
 「エンジンの音で目が覚めて、いつものと違う飛行機が飛んでゆくのが見えて、ああ、ついに逃げるんだなって思って、そしたら空中戦が始まって、あの飛び方はアロイスだなって思って・・・音がそのまま向こうにいって、爆発の音が聞こえたから・・・もう・・・」
 立たせてからもう一度抱きしめた。亜麻色の髪。藁の匂いに、少しだけ牛の臭い。
 「さあ、逃げよう。アフリカへ」
 僕のあごの下で、亜麻色の頭がうなずいた。

 偵察型の一○九は胴体わきのパネルを外されたままでそこに待っていた。ザマー、ありがとう!落下タンクまでついたままだ!
 「こいつをあそこまで押すよ。手伝って。」
 二人で一○九の脚を押した。擬装用の茂みの出口まで、重いことは重かったが、そんなに時間はかからなかった。
 「君のトランクをもっといで。」
 アンヌ・マリは走ってゆき、ぼくは飛行機の点検を始めた。後部パネルから小型カメラを取り外して捨てた。まあ、エンジンさえ回れば何とかなりそうだ。だけど、手が疲れているのでエナーシャースターターはしんどそうだ。コクピットから一度降りて、ちょっと途方に暮れた。
 がさがさ。
 「アンヌ?」
 物音に振り返ると、そこにはハイネマンが立っていた。
 「生きておいででしたか、大尉。」
 混乱の中、パリ方面から逃げてきたのだろう。ただでさえさえなかった私服が朝露でさらによれよれだ。よくもまあ、レジスタンスにやられなかったものだ。
 僕はできるだけ普通に答えた。
 「正面の陸軍が消えちまったらしい。僕はアメ公に捕まらないうちにドイツに帰ってこいって言われてね。」
 ハイネマンはちょっと困ったような、ひどく疲れた顔で僕の顔を物陰から見つめたが、ひとつため息をついてから口を開いた。
 「わたしもドイツに帰りたいんですが、その前に事件をかたずけておきたくてね。ナチスに入る前は刑事だったんでね。」
 「まだヨアン殺しを追ってたのか・・・」
 「思いついたことがあったんです。・・・実は、パリからここへ戻るときに車をレジスタンスに襲われましてね。わたしは危うく逃げのびたんだが、相棒は連れ去られた。そう。連れ去られたんだ。レジスタンスはその場で殺さないんだ。」
 見ればたしかに、彼のぼろぼろの服にはあちこち血がにじみ、顔は青ざめて、どこか苦しげだった。
 「それで?」
 「あの晩、小便に起きた整備兵が、戻ってきたあんたがまた出てくのを見てる。午前一時です。あんたはわたしに「夜中前に帰った」といった。でも、また出かけたとは言わなかった。あんたの情婦もその日、二回もあなたが来たとは言わなかった。」
 「僕がヨアンを殺したと?」
 「彼はあんたの機付きで、あたしは、あんたがこの基地に来る前は、彼があの娘に言い寄ってたという情報を仕入れた。」
 僕は一歩踏みだした。彼は半歩あとじさった。
 「それじゃあ僕がヨアンに殺されてなきゃ。」
 ハイネマンはもう一歩下がりながら言葉を続けた。
 「そう。四月の事故、あんたの代わりにテスト飛行したパイロットが、整備不良が原因で墜落して死んだあの事故。あんた、中隊からの電話に呼び戻されて一度座った運転席から出たのは運がよかった。延長電話線が足りなかったこともね。代わりに勝手に、死んだあの男が乗っていってしまった。ヨアンは必死で止めようとしていたらしい。」
 「ヨアンは僕に忠実なやつだったからね。でも彼は燃料噴射器を整備する係だ。」
 「出なかった前縁スラットの支柱の所が一部軽くペンチかなにかでひねってあったらしいですな。一度風圧で引き込んだら出てこないような形に。それなら誰にでもできる。普通のパイロットは飛行中あれが飛び出すような乱暴な操作はしない。スラットが出るのは着陸の時だけだそうですな。この事故原因の報告はあなたには届いていた。でもあなたは握りつぶした。」
 「スパイ騒ぎなんか始めたら士気にかかわるからね。」
 「ヨアン殺しがあったのはその結果が出た晩だ。あんたは彼に殺される前に彼を殺したんだ。」
 彼は急に咳き込んだ。血を吐いた。
 「やられてるのか?」
 「・・・おかまいなく。傷を押してここまで歩いたのは、あんたに会いたかったから・・・間に合ってよかった・・・ええと、そうそう、戦闘機のパイロットっていうのはバカにならない腕力を持ってると聞きました。しかも、あんたを尾行してみてわかったんだが、あんたは忍び歩きが異様に上手い。暗闇で相手に忍び寄って絞め殺すなんて・・・」
 ハイネマンの後の茂みから小さな影が飛びだして、彼を突き飛ばした。アンヌ・マリだった。
 ハイネマンの背中には僕のナイフがつきたっていた。鉛筆を削るナイフが。根元まで。
 「殺してない!殺してない!アロイスは殺してないのよ!誰か他の人がやったのよ!ヨアンなんてわたしのおっぱいにしか興味がなかったんだから!汚すことしかなかったんだから!アロイスはそうじゃなかったんだから!」
 アンヌ・マリはハイネマンの背中をこぶしでたたき続ける。僕はあっけにとられたが、あわてて彼女を引き離した。ハイネマンはさらに血を吐いた。でも、震える身体を起こして僕に話しかけた。
 「・・・じゃ、・・・じゃあ、お嬢さんの言う通りということにしておきますか・・・でもね、ここに来たのはあんたがたを逮捕するためじゃない・・・」
 がっくりと肩を落として、首を垂れた。
 「わたしの調べた事実と、そこから導いた推定が、正解だったかどうかを確かめたくて・・・」顔を地面に着けたままつぶやいた。それからごぼごぼ音をさせた。
 ハイネマンの死骸からナイフを引き抜いた。アンヌ・マリは青ざめた顔で震えている。
 「背中を撃たれてる。レジスタンスに後からやられてたんだ。僕を犯人だと確かめるためだけにここまで来たんだ。君がやらなくてもこの傷じゃあもたなかったろう。君がやらなくても僕がやるつもりだった。僕たちがやらなくてもフランス人の誰かがやっただろう。もっとひどい方法で。彼は邪魔だったから。彼はゲシュタポだったから。」
 アンヌ・マリの肩を抱きしめた。耳にささやいた。
 「さあ、アフリカへいこう!ふたりで、平和なところへいくんだろ?泣いてる場合じゃない。」
 彼女はしょぼくれながらもうなずいた。ハイネマンの死体は見えないところへ隠した。さよなら。真実を変わった形で求めた人。

 アンヌ・マリの服を脱がせて、予備の飛行服を着せた。冬用の厚手のやつを。
 「だぶだぶ。」汗をかきはじめた。
 「八月でも、空は真冬みたいに寒いんだ。地上はこんなに暑いのにね。」
 気分を高めなきゃ。
 彼女もそう思ったのだろう。ちょっとにっこりしながらぼそりと話した。
 「八月の真冬なんて・・・アフリカみたいだね。」
 笑い返す。
 「さあ、これつけて。」
 落下傘のバッグをつけた。
 「飛行機が墜ちそうになったら飛び降りて、十数えてこのコードを引くんだ。落下傘が開くからね。」
 けなげにも、彼女は強張った顔でうなずいたが、これは気休めだ。飛行機が墜ちるときは彼女も命がないだろう。そうならないように気をつけよう。
 彼女のトランクを防弾ガラスうしろの物入れに押し込んだ。入りきらなかったので、フタが閉まらなかった。まあ、フードは閉まるから、いいか・・・
 彼女の脇を後から抱え、一○九の後部胴体パネルに足から乗り込ませる。落下傘が引っ掛かったけど、どうにか押し込むことができた。今まで無線機が固定されていたハシゴみたいな桁に、落下傘をクッションにして後ろ向きによりかからせた。彼女は機内の透明な黄金色の防蝕塗装を物珍しげに触った。
 「缶詰みたい。」
 「ここのケーブルには絶対に触っちゃだめだ。墜落しちゃうからね。じゃ、今から出発だ。これ、おべんと。」
 軍用パンとチョコレートとボンボンを渡した。にっこりする口にキスをしてからパネルから身体を離した。
 「アメリカ映画みたい。」
 彼女が少し遠い眼をしていった。
 「ここは閉めないよ。」
 パネルを閉めないと、機体の強度に不安が出るだろうが、まっすぐ飛ぶ分にはだいじょうぶだろう。万が一飛び降りなきゃならなくなったら、彼女にパネルは外せないし。

 機首の下からプロペラを手で二回ほど回し、主翼の上に飛び乗ってから思いっきりエナーシャーハンドルを回した。九十、九十一、九十二、九十三、・・・九十九、百!
 風防前の胴体をまたぎ超えて、操縦席の燃料ポンプを変なカッコウのまま突き、計器盤のスターターボタンを押した。掛かりますように!
 プロペラがゆっくり動きだし、排気管から青いガスが勢いよく吹き出した。
 ありがたい!一発で掛かった!
 機に乗り込んでキャノピーを閉める前に、後を振り返ると、パネルからアンヌ・マリが首を出してこちらを見ている。手まねで飛ぶから引っ込めといったら引っ込んだ。
 キャノピーを閉め、マグネトーレバーを切り替え、二つのマグネトーを交互に試してから滑走にはいった。エンジンには全く問題がない。今までで、いちばんいい音だ。
 尾部が浮き上がるまでにいつもより時間がかかった。いちばん怖かった空襲もない。高度を千メートルで進路を東に向けた。
 さようなら、フランス!そして、ドイツ!
 僕は、機首をスイスに向けた。
 さあ、後は、どうとでもなれ!だ!
 そう思ってから慌てて訂正した。
 神様、無事にこの旅を終わらせてください!
 哀れな小羊たちをお導きください!
 せっかくあんなに真剣に神様に祈ったのにもかかわらず、十分も飛ばないうちに、いやな予感がして辺りを見回した。
 後方のくらい空に、なにか光る点が見える!神様!
 「くそっ!」
 敵だ。よりによって、最後の最後まで。
 しかもとうにこちらは見つかっているようだ。
 こちらに向かって降下してくる。
 僕は気付いていないふりをして、だんだんに右足を緩め、左後を首が痛くなるまでふりかえりながら敵の射撃の瞬間を待った。
 くるぞ!もう少し!今だ!
 左足を思いっきりけ飛ばし、スロットルは緊急に入れ、鋭く左上昇をかけた。スピットファイアの黒い影が二つ、僕の足の下を追い越していった。翼の端を切り落としてあるのが見えた。エンジンを替えた十二型かもしれない。ならば、ますますまずい!僕の一○九は偵察型のせいか、落下タンクを捨てていないせいか、舵にいつもと少し違う手ごたえを感じた。やけに昇降舵の利きがいいのだ。ああ、そんなことより、今は早く高度と東への距離を稼がなきゃ。
 上にはまだ二機のスピットファイアがいた。僕が上昇する先を狙って攻撃をかけるつもりだろう。あえて直進して引き付けることにした。わからないぐらいゆっくりスロットルを緩めた。高度と余剰出力は今いちばん有効な切り札なのだ。
 さっきと同じタイミングで左に滑り、急上昇半横転をかける。スピットファイアの恐ろしい射弾が僕の下を流れてゆく。僕たちの高度はどんどん上がってゆく。高度を二千三百メートルまで稼いだ。普通の空戦とは違う変な闘いだ。
 グーリフォンエンジンを積んだスピットファイア十二型の上昇力は、高度と角度、そして直前の速度によっては一○九よりも大きいので、注意しなければならない。それにしても僕の飛行機は重い!落下タンクとアンヌ・マリで三百キロプラスはあるかもしれない。銃と酸素ビンと無線機を積んでいない分を差し引いて、四十キロプラスというところか。あっというまに追い付かれてしまった。これ以上、上昇戦術を続けるのはまずい!引き付けて、また左に滑り、今度は垂直旋回から螺旋急降下をしようとした。その時、別のスピットファイアが僕の行く先に待ち構えているのが見えた!もっとまずい!
 バーン!急に機首が持ち上がり、前縁のスラットが開いたのでびっくりした瞬間、僕の飛行機は時速五百キロのままスピンに陥った。僕の制御されていない急減速についてこれないスピットファイアが物凄い勢いでのめっていったのが回転する天地の狭間に見えた。キャノピーに頭をぶつけた。
 そうか、後にアンヌ・マリがいる分、今日はかなりの後重心だったんだ!うかつさでちょっと恥ずかしい反面、敵を見落としたミスが一時回避できたので複雑な気分だったが、身体は重力に逆らって、勝手に回復操作を試していた。この場合はできるだけ早く姿勢を回復しなくてはならない。敵が戻ってこないうちに!スロットルを押し込み、スティックを突いて、回転と逆にけっとばす。高度を千メートルほど失った。機首が南を向いて止まった。スピットファイアが戻ってきた。スピードは三百五十キロに落ちている。加速はしてみるものの、捉まって撃たれるのは時間の問題だ。スロットルを最大出力まで上げ、トルクで滑りながら左後を振り返る。あとはもう、まっすぐ飛んで、滑ってかわすしかない。冷や汗が背中を伝い、グローブの中の手がぬるぬるする。
 真後ろにぴったりとつかれた。さあ、撃つぞ!左足!緊急出力!かわせた!
 すぐに追い付かれる。左足!緊急出力!危ない!でもかわせた。
 腕がもうくたくたなので、鋭い旋回は打てそうにない。エンジンの温度もかなり上昇している。スピットファイアの燃料が早く切れてくれますように!
 だしぬけに、彼らは戻っていった。まだ弾も燃料もあるはずなのに。バンクして帰っていった。僕は一瞬あっけにとられ、それから神に感謝した。目まいとともに。
 あとには僕の飛行機の爆音だけの世界が残った。
 時間と燃料を無駄にした。しかし、スイスに着けないわけじゃあない。僕は自分の現在地を割り出した。機首はドイツに向いていた。

 今の騒ぎで、かなりドイツに近づいてしまった。
 進路を東南東にもどし、プロペラの自動調整を解除して、ピッチをさげた、温度計を見て、エンジンの音が不安定になるまで回転を下げる。こういうときは、ミクスチャとブーストの操作が独立している連合軍機の方が、パイロットの心の安定にはいいだろう。常に最適の濃度に調整されるとわかっていても、過給機が自動式のダイムラーベンツは少しもどかしい。できるだけリーンバーンにして、過ブーストくらいが今はちょうどいいほどなのに。
 高度はあまり変えずに、千メートルにとった。六千メートルで飛んだときよりも燃費は悪くなるが、これ以上酸素なしで高く飛ぶことが怖かった。さっきせっかく拾った命なのに、アンヌ・マリに失神でもされて、操縦索に乗っかられでもしたら困る。もちろん僕が失神するのも困る。僕は四○年に、めちゃめちゃに被弾して、それでもなんとか基地まで帰った爆撃機が、最後の最後にまずい進入をやって惨いことになったのを見たことがある。ほんの、もう少しだったのに!あれはやりきれない思い出だ。空中では、最後まで気を抜いてはいけない。
 計算では経済巡航で一時間半弱の距離だ。それまで二度と敵に遭いませんように。右側の送油パイプのガラス管に気泡が入った。落下タンクがからになったのだ。スティックの投下ボタンを押した。ごくろうさん。
 畑の明るい緑がだんだんと木々の暗い緑に変わってゆく。ドイツが近い。慣れない土地だ。行く手に山が見える。ジュラ山脈と他の山脈を間違えるな!間違ってもドイツにもどってはいけない。地面が近づいてくるような気がするのは標高が上がってきているためだ。あと五百あげよう。
 することがないと人間は余計なことが心配になってくる。僕はさっきから、アンヌ・マリのことが心配でしょうがなくなっている。負傷してたらどうしよう!死んじゃってたらどうしよう!また冷や汗を感じる。のどが渇いた。ポケットの非常用チョコレートはさっき彼女にあげちゃったな。半分とっとくんだった。手が拳銃ケースに触れる。そうだ、もし彼女になにかあったら・・・これで・・・僕も・・・
 ジュラ山脈を越えた。計器盤の赤ランプがついた。湖が見える。スイス空軍機が寄ってきたので、フラップと両脚を降ろして降伏した。僕のとおんなじグスタフだ。最後の編隊飛行。よろしく!ロッテリーダー!田舎っぽい草滑走路に誘導された。

 「アンヌ!アンヌ・マリ!」主脚が接地する前にスイッチを切り、尾輪が接地した瞬間に安全バンドを解き、行足が止まる前にキャノピーをはね上げて、飛行機から飛び降りた。
 「アロイス・・・!」
 アンヌ・マリの青ざめた顔がパネルの中からこちらを見ている。巣箱の中のシジュウカラみたいだ。
 「無事か!?」
 「うん、ちょっと酔っただけ・・・」
 むりやりにっこりした口にキスをした。今まででいちばん熱い、アメリカ人みたいなやつを。
 かわいそうに、飛行中に吐いたな。でも、駆け付けたスイスの憲兵に肩をたたかれるまで、そのままでいた。疲れた。本当に疲れた。まだ昼だというのに。
 彼女はパネルから引きずり出されても一人では立てないくらいに目を回していた。僕の肩につかまって、でも、僕の顔を見上げる眼は、生き生きと、いままででいちばん楽しそうだった。

  車がきた。尋問があるのだという。後部座席にアンヌ・マリを先に乗せ、僕もあとから乗り込もうとして、でも、誰かに呼ばれたみたいな気がして、ふと、振り返った。
 ぼくたちが乗ってきたメッサーシュミット一○九が、すっかり安心したみたいにそこにたたずんでいた。さようなら、僕の愛馬。最高の騎兵の馬よ!ほかのどんな種類の飛行機よりも飛ぶことが楽しかった小さな飛行機。もう一生のうちでおまえに乗ることはないだろう。そう考えると、すこしさみしくなって、急に泣きそうになり、あわててしかめっ面で車に乗り込んだ。僕はやっぱり疲れているんだろう。
 本部の建物に向かって走り出した乗用車の後部座席で、僕たちはもう一度キスをした。
 「アメリカ映画みたいだ・・・」
 バックミラーに写った眼だけのスイスの憲兵が、運転しながらつぶやくのが聞こえた。
 アンヌ・マリにはアフリカへ行くといったが、一○九の貧弱な航続力でアフリカにいけるわけがない。落ち着いたら謝らなくちゃ。

 いろいろ面倒な尋問があった後、一応僕たちの自由への手続きは済んだ。これでぼくたちの戦争もおしまいだ。これからは二人の、安全な新しい生活が始まるのだ!
 断っておくが、僕たちが新しい生活を始めようとしている場所はアフリカではない。あれは緊張下の二人の間の冗談だ。でも僕は、もう少しあの、ほの温かい冗談を続けたかった。異様にうきうきしていたから。役場の廊下の、ベトンの壁に差し込む日の中に彼女を立たせて、まじめくさった顔で、おもむろに切り出した。
 「ごめん、アンヌ・マリ。実は...」
 「?」
 「実は、あの時、アフリカまで行くガソリンがなかったんだ。これからガソリン代稼ぐけど...」
 彼女は、少し面食らった顔をしてから、僕の顔を見つめると、口に両手を当てて笑いはじめた。今まででいちばん楽しそうに笑った。それから僕の手を取って、自分のお腹に押し当てた。
 「じゃあ、ガソリン代、三人分稼がなきゃね。」
 日差しの中、役場の入り口の階段を二人で駈け降りた。アメリカ映画みたいに。すばらしい!もう誰も僕たちを脅かすことはできない!僕は世界中を祝福した。僕の家族を奪ったくだらないことどもに対する怒りをも忘れた。
 少し気がとがめたことは確かだけど、僕たちの戦争は少しだけ早く終わった。それでも二人とも四年半という月日を戦争に支払ったことになる。この四年半は、それだけの時間があれば、もっとすばらしいことを成し遂げることができるはずだった若者たちの、なんと無駄な浪費を強いた四年半だったことか...
 僕たちはこれから青春をやり直すことにしよう。
 これから産まれ来る新しい命とともに。

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資料1:もと英国空軍曹長スティーヴン・H・ファラデイ氏の回想(一九九七年)

 戦争が終わったときに空軍はやめて、遺産でもらった農場をやって、今はホラ、ひ孫までいるよ。それでよかったとおもっとるよ。
 あの時一緒の分隊だった人たちは、うん、隊長のヨーク中尉はマラヤで対空砲火で死んで、薬指のハッチントン少尉はベルリンの基地からこっちへ戻るときに英仏海峡で行方不明のまんまだそうだし、人さし指のカーは、カリブの田舎パイロットになったが、こないだガンで死んだ。残ったのは小指のわしだけじゃよ。そう考えると、五十年ちゅうのは長い年月じゃったねえ。
 ああ、話がそれちまった、済まんね。今も時たま飛行機は見たり乗ったりするよ。わしにとっては、永遠の夢じゃからね。今の人もなかなか上手くスピットファイアを飛ばすねえ。
 こないだはメッサーシュミット一○九のレストア機を見たよ。当時とおなじ音で、ちゃんと飛んでるのをみてびっくりしたが、ついでにあの騒ぎを思いだしたさ。張本人があんたのおじいさんだったっていうあの騒ぎをね。
 あの日はアメちゃんの正面にいたドイツ軍の抵抗がきれいさっぱり排除されたし、南フランスにも友軍が上陸して進撃を開始してたし、例の飛行場が夜逃げをするかも知れんというレジスタンスからの通報で、サア、追い討ちだ!ってんで、払暁におっ取り刀で八機でもって強襲をかけたのさ。ところがそこにいたのがメッサーシュミット一○九が一機だけ。やっこさん、こっちに気づいて、向こう見ずに突っ込んできた。こっちもヒヨッコじゃあなかったんで、いい具合だぞ!それ!やっちまえ!うれしくなってみんなしてぐるぐる回りはじめた。(今考えると、犬ころがねずみをみつけてうれしがってるみたいだなあ!)そうしてスピットファイアのでっかい渦巻きができたのさ。こっちは八機もいるんで、楽勝気分さ。言い方は悪いが、なぶり殺しっていうか...ところがみんな欲を出して撃ちに行きたがるもんだから危なくっていけねえ。いっぽうできやつはメッサーシュミット一○九とは思えないくらい軽々と飛びやがる。しゃくだが、ガキのころ読んだウエルナー・フォスと第五六スコードロンの大空戦を思いだしたね。それでもどうにか追い詰めていって、やつも疲れてきたのか、動きが鈍ってきた。いまだ!と思ったら、やつめ、信じられないような鋭い急反転をして、こっちにぶっ放しやがった。それで、こっちがアッとおもったスキに落下傘で飛び降りちまった。今思えば、あの急旋回でスピードを殺したのもハナから飛び降りる気でやってたんだな。たいしたもんだ。となりの分隊のエヴァンズのやつが、還ってから、ちくしょうめ、ペラに引っ掛けそうだったなんて抜かしてたっけ。結局どっちにも最後まで一発も当たらんかったよ。
 ところが基地に帰ってすぐに、えらい人から、なんで輸送機をやらなかった!ってどやされてね。わしらの分隊だけが再補給してもう一回あの基地まで飛んだよ。中尉殿、ムキになっててねえ、ドイツの方まで追っかけるんだってねえ。あのときゃ、えらいとばしたなあ。もう間に合わないだろうにさ。ところがどっこい、件の飛行場を通り越してしばらくいったら、カーのやつが朝日の影に、異様に低く飛んでるメッサーシュミット一○九を見つけたのさ。バンディット!他にも逃げ出したのがいるぜ!
 中尉殿のペアが攻撃をかけた。少尉殿とわしは上で待ってて、もしやつがかわしたら、そこを待ち伏せていただくって寸法だった。中尉殿の一撃目はあっさりかわされて、それをみてわしは、間違いねえ!このキレは朝のやつだ。替えの飛行機で逃げるとこだ!と思ったね。やつめ、旋回もしないでひたすら高度を稼ごうとしたよ。おれたちをバカにしたことに、ドロップタンクもつけたまんまだ!そこを少尉殿が攻撃した。また上昇してかわしやがった。そこでわしが食らい付いた。また変な上昇をしてかわした。こっちにわからんように微妙に旋回して、しかも同時に鋭く滑ってるみたいだったな。朝日もまぶしかったんだ。とにかく空戦をしてて高度が上がってったってのは、後にも先にも他になかったなあ。
 それでもとにかく追い詰めたんだ。わしらのスピットファイア十二型はなんといってもあのグリフォンエンジンをつけてたからな。今までの型とはもうぜんぜん別の飛行機だったからな。ペラの向きもタイフーンと同じだったし、音だって・・・ア、またそれちまった。ええと、そう、高いところで追い詰めた。ところがやつめは左に滑りながら激しく旋回しようとして、いきなりスピンしやがった。(手の平をくるくると錐揉みさせてみせる)イヤあれにゃあビックリした。わしら、危なく後ろからぶつけるとこだったよ。中尉殿は電話ごしに、とても良識ある家の子供が通う学校を出てるとは思えねえ悪態をついたもんだ。そりゃあ、大きな音で聞こえてきたんだよ。「この、お○○○メッサー野郎め!」なんて。おっとと、失礼。
 でもその時、とっさにわしは独断で編隊を離れて、大っきい螺旋降下をやって、やつが高度を三千フィートも失って、やっとこさ普通に飛べるようになったところで後に食い付いた。いただき!でもわしの射撃は全部かわされちまった。わしもそれまでにメッサーシュミット一○九を一機に、フォッケウルフ一九○を二機食ってて、射撃はけっして下手じゃあなかったのに!わしはアタマに来てな!もっと詰めてやったのよ!そしたらやつの飛行機の胴体からなんか黄色いものが飛び出てるのが見えた。そいつがなんか出した!あぶない!敵さんの後方防御用新兵器か!って思ったよ!ウインドシールドに黄色い粘ついた汁が飛んできてハネかかった!不思議にペラの間をすりぬけたんだな。なんだ!?よくみると、やつの胴体から突き出てる黄色いものはどうも、髪の毛だ。気流でバサバサとはためいとる!長い金髪!女だ!わしは電話で叫んだ!女だ!胴体に女を乗せてるぞ!ってね。中尉殿は偉かった。彼のとこからも女の頭らしき物は見えたみたいだ。「撃つな!ファンキー・チャン!後味悪い!女連れて逃げるやつは卑怯者に違いない!弾がもったいないから帰ろうぜ!」ってね。わしも女を撃つのはごめんだったから、大賛成で離脱したね。
 おれたちはバンクを振ってやったけど、やつめは必死で飛んでっちまった。まあ、そりゃあそうだろうさ。
 基地に帰ってウインドシールドをみたら、あの黄色い汁は、ゲロだったよ。後の女がスピンで酔っちゃったんじゃろう。それでもとりあえず飛行機の外に吐いたんだな。基地にかえってその話をしても誰も信じやしねえ。ガンカメラにも女どころか、飛行機も写ってなかったし、しばらく笑いもんにされたよ。酔っ払って飛ぶからさ!おまえが噴き出すゲロは時速五百マイルだ!なんて。
 でも撃ったのが当たんなくてよかったよ。ほっとするよ。中尉殿の言う通り、空戦で民間の女なんか殺したら後味わりいもんなあ。

 資料2:もとドイツ空軍中尉ハンネス・シュバルツ氏の回想(一九九七年)

 (アロイス・マイヤーの近況をきかされて)
 マイヤー大尉は生きてたのですか!?ああ、よかった!スイスに逃げたんですか?そうですか。それは賢明だったかもしれません。たとえ最後まで戦ったとしても、多分あとには誇りくらいしか残らなかったでしょうし。それよりも失うものの方がはるかに多かった。わたしはあの日、ジーベル二○四を操縦していました。そうです。撤収する整備隊を二機のジーベル二○四と、それに中隊本部から来たもう一機のジーベル二○四とともにドイツまで運んだのです。文字通り身ひとつの夜逃げでした。前日の出撃で私のグスタフのエンジンがだめになって、一機だけ残ったグスタフで大尉がわたしたちの上空を直掩してくれる手はずだったのです。でも離陸直後にスピットファイアがきて、わたしは気付いてなかったのですが、(あの飛行機は後方が全く見えないんです。)銃塔にいた兵の話しだと、大尉はいち早く気付いて、なんと自分でスピットファイアたちの中に突っ込んでいってしまったそうです。そのまま帰ってこなかったので、行方不明ということになってしまって。それまでの空戦では決してそんな無謀なことはしなかったのに。ドイツに帰って、わたしたちはしばらくの間、がっくりきてしまったのを覚えてます。
 でも、ちゃんとスイスに逃げてたのですか。それは賢明でした。わたしはその後、半年もしないうちにあの、ボーデンプラッテ作戦に参加して撃墜され、負傷して捕虜になりました。捕虜になるまで、くるしくて、救いのない闘いの毎日でした。あの頃になってしまうと、いっしょに飛ぶ連中ときたら、アラド九六を少しばかり飛ばしたことがあるだけの、ほんとの子供ばかり。出撃すれば必ず誰かがやられるか事故を起こし、敵から逃げるために、故意にスピンの舵を使うことまで教えなきゃなりませんでした。でも、彼らがそれをやると、地上に着くまでスピンを止められないんですよ、もう、悲しかったですよ。
 あんな重苦しい、いやな経験はするもんじゃあありません。大尉はもう、そうなることがわかってたんですね。
 (アンヌ・マリを知っていましたか?)
 村にいた娘?ああ、あの、黄色い髪の陰気な子!ええ、知ってました。大尉とは愛人関係だったのです。みんな知ってました。女の趣味が悪いなとは思いましたが、でも知らないふりをしてました。レジスタンスと内通しているようでもなかったし。大尉がいるおかげで僕らはあの日まで生き延びることができたんですから。でもあの子はいつの間にか見かけなくなって。かわいそうに、マキに始末されたのかな?なんて思ったものです。ああ、あの子も一緒に逃げたのですか!?ああ、あの牛小屋に?(しばらく笑いが止まらない)知らなかった!ああ、それで!大尉は六月六日以降も意外に明るかったのか!ああ、なんだ!デイ-デイを境にあの子の姿が消えたので、僕たちは大尉が落ち込んじゃうんじゃないかと心配してたんですよ!なんだ!そうだったのか!まんまとやられた!ゆかいだ!で、いっしょにスイスまで!?一○九の後部に乗せて!?空戦までやって!?すごい!やっぱりわたしたちの隊長はすごいやつでしたね。今日はいい知らせをありがとう。でも、できればもう一度会いたかった!
 (彼は質問者の手を力強くにぎりしめた)

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付 「夫が一度だけ見せた弱さ」
一九九六年 アンヌ・マリ・マイヤー

 夫、アロイスは優しくて強い人で、決して他人に弱みを見せないひとでした。彼に最初に話しかけられたときには、他のドイツ人みたいにわたしの身体目当てかと思って緊張したけど、すぐにそうじゃないことがわかりました。とにかく、自分の心の平和のための話し相手が欲しかったみたい。指揮官だったから、部下には話せないこととかもあったのでしょう。でもそれだけ。タダで御飯をもらえるから得したナくらいにしか思わなかった。かれはわたしが食べてる間、色々おっかなびっくり話しかけてきたわ。それがとってもぶきっちょで、ちっともときめかないの。今思いだすと笑ってしまう。だから聞き流して、適当に答えてた。今から思えば、わたしは十五のころから浮浪児みたいなことしてて、心が荒んでたのね。もとから少しひねくれたとこのある子供だったし。だいいち、ドイツ人にあいそする義理もなかった。ドイツ兵たちに体を許したのはなにか払わなきゃいけないと思ったから。借りを作るのがいやだったから。物を受けとっても、かわりになにか払えば関係は対等になるわ。そう思ってたから。でも初めて知らないドイツ人にそういうことを許したときは、ああ、これでわたしもお父さんの書斎にあった小説の主人公みたく、ひたすら不幸になってくのね、とか思ったけど。
 そんな毎日のあと、蒸し暑い夏のある夜、眠りについたとたんに、だれかが扉をたたいた。ゲシュタポかマキか、とか思ったけど、逃げるところもないし、あきらめて戸を開けた。そうしたら、そこには彼がいたんです。とっても悲しい目をして、暗やみに潤んだ目をして、わたしを見ると、子供が泣くときにするみたいに顔が崩れて、そのままひざまずいて泣きはじめました。「どうしたの?」きいても答えないでただ子供みたいに泣いてる。仕方ないから家に入れてあげました。両親が死んだときに、わたしもこんなふうに泣いたことを思い出したので、なんだか、かわいそうになって、頭を抱いてあげました。優しく話しかけて、そのまま、男と女の関係になりました。だって、わざわざわたしのところに泣きに来るなんて、そんなにわたしに心を開いてたなんて、ちょっとうれしくて、ちょっと優しい気持ちにさせられたから。その日、かれに、かれの家族が空襲で全滅した知らせが届いたのだということを彼が話してくれたのは、戦争が終わって、落ち着いてずいぶんたってからのことだったんです。
 牛小屋に逃げ込んでから、かれにもらった紙に、かれの顔を描きました。笑ってる彼の顔です。一番好きな顔です。思ったとおりに描けたからうれしくなって、スイスで彼に見せたら、彼もとってもうれしそうだった。いい思い出です。いまも彼の描いた飛行機に乗った二人の絵と、それからフランスから連れてきた熊の縫いぐるみといっしょにかざってあるんですよ。
 スイスに飛ぶ飛行機の中のことは、ただ、とっても寒かったのを覚えています。エンジンの音と排気ガスのにおいと、缶詰の中みたいな色と。最初のうちはパンをかじったり、遠くの景色を眼をしかめて見てたりしたけど、途中で世界がぐるぐる回りだして、あれは地獄だったわ。気持ち悪くなって、もどした。それからはよく覚えてなくて、気が付いたら飛行機は地上にいて、外から彼がのぞき込んでた。あのときはすごく幸せだったわ。

 ああ、アナ、今だってあなたがいるから幸せよ。
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 祖父、ドクトル・アロイス・マイヤーが心臓発作で死亡したのは一九九五年のことでした。
 わたしは小さいころから祖父と祖母によくなつき、よく遊んでもらっていましたので、祖父のことはとてもよく記憶に残っています。よく飛行機の漫画を描いては「これはメッサーシュミットだ!じいちゃんはこれに乗ってたんだぞ!推力線がこんなとこにあるから思ったより前のめりみたいなかっこになって飛ぶのさ、ブルル〜ン!」とか、「あるときじいちゃんの飛行機のイスに後ろから弾が当たってな、そしたら弾に押されて飛行機のスピードがグ〜ンと上がったんだ!イヤ〜ビックリしたのなんの!でもおかげで撃ったスピットファイアは後ろに取り残されちゃったのさ!ハハハ!」なんて与太話をしてくれたものです。でも祖母は、その後でこっそり、ちいさなわたしをだきしめて、「おじいさんは自分の飛行機に弾が当たったことがなかったのが自慢なのよ、それってば、すごいことなのよ」なんていいながら、古い写真を見せてくれたりしたのです。スイスの空港で飛行機と一緒に撮った戦争中の唯一の写真だといって。若かった祖母を飛行機の後の空っぽのところに入れて、スイスまで飛んで逃げた話を聞きました。祖父はわたしにはその話はしてくれませんでしたけど、わたしはどちらの話を聞くのも大好きでした。
 ノートに散漫に書きつづられたこの記録は、祖父の遺品を整理しているときに出てきたものです。読んでみて、ああ、これは祖母が話してたあの話だ!読み終わって、なんでこんな素敵な(大好きなおじいちゃんのお話しだから余計...内輪の評価です。あしからず。)わくわくする話を発表しなかったのかって思いました。
 戦友を見捨てて自分だけ逃げたことが引っ掛かってたんだと思います。それを自慢そうに発表することが。
 でも、わたしはこの記録を葬ることができません。もったいない気がして、祖父の生きていた証を、祖母の青春を、否定してしまうような気がして。だから、この記録をここに公表します。祖母も賛成してくれました。
 ご多忙な中突然の訪問にも快く応じていただいたスティーヴン・H・ファラデイ氏および、ハンネス・シュバルツ氏、素晴らしい序文を寄せてくださったヨーゼフ・フォン・ヴェルテ氏、その他の祖父の戦友の皆さまに感謝いたします。

追記:「ヨアンを殺したのはだれだったの?」
 祖父の手記を読んだ後で、どうしても知りたくて、思いきって祖母にきいてみました。
 祖母はにっこり笑って、「さあ、私は見てないから。」
 答えると、前髪をひとつまみ摘みあげて、寄り目をしてそれを眺めました。
 私は祖父が祖母を好きになったわけがわかったような、自分が五十数年前の祖父になったような、ちょっと複雑な気持ちになりました。

モンテビデオにて。世界の平和を祈って。
           一九九八年、七月
            アナ・M・ソサ

 

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