MUSIC COLUMN

其の1 みんな!本当に音楽してる?

  最近音楽とかかわる場面で、大変不思議に思う事が多くあります。それは、技術的な完成度は大変高いのですが、全く印象に残らない音楽が多いということです。個人的には、吹奏楽にかかわることが多いのですが、吹奏楽コンクールを聴きに行くと、演奏していらっしゃる皆様には大変申し訳ないのですが、途中で聴きたくなくなってきます。
 私なりにこの原因を考えてみたのですが、一言で言えば、吹奏楽コンクールの副作用とでも言いましょうか、心から音楽をする事を忘れさせてしまっている気がしてなりません。それは、吹奏楽コンクール自体、点数で演奏をはかる訳なんですけど、音楽自体、絶対評価の点数がつけられないものであるという事に大いに関係してくると私は考えました。
 たとえば、クラシック・ジャズ・ブラック・ロック等々音楽のジャンルは様々ですよね。皆さんそれぞれ好きなジャンルやアーティストがいると思うんです。好きな音楽は、その人の感性があっていたり、たまたま巡り会って聴いているうちに好きになったり等々、きっかけは様々なんだろうと思います。クラシック好きな方に、ヘビーメタルを薦めたら、必ず気に入ってもらえるとは限らないですよね。逆にダメな場合の方が多いかもしれません。今のは極端な例かもしれませんが、クラシックの世界でも、ベルリンフィルが好きという方もいれば、俺はシカゴ響が好きという方もいます。モーツァルトが好きな方もいれば、マーラーが好きな方もいます。音楽は、そんな好みがあって、好きなアーティストがあって、自分の感性をくすぐるようなものがあって、そして自分でも思いっきり表現できる、そんなものだと思うのです。
 さて、ちょっと脱線気味になりましたが、その吹奏楽コンクールについて、私なりに考えることは、非常に不透明な部分が多いと言うことです。いや、不透明にならざるを得ないというほうが適切かもしれません。各種スポーツであれば、点数の取り方が明確ですよね。私も高校野球ファンなので、毎年夏には、サヨナラ負けしたチームを不敏に思い、もらい泣きをしたりします(嘘<爆>)。高校時代の現巨人松井でも、対明徳義塾戦で全打席敬遠されてかわいそうだと思っても、審判員が「松井君、かわいそうだから君のチームに1点あげよう!」なんてことが起こることはありません(爆)。冗談はともかく、音楽には、そんなスポーツのような明確な採点基準はないですよね。「あのバンド上手だね」とか、「下手だな」とか「編成が小さくてかわいそう」とか、「あまり上手じゃないけど表現はとても好きだ」とか言うことぐらいしか判断基準がないと思うんです。曲の途中でマラカス落としたからマイナス100点なんて事はまずないと思うんですけど。。。前記のとおり、審査員も人間ですから、当然審査員の好みも点数に反映されることも当たり前だと思います。
 そういった観点から、吹奏楽コンクールでよい点数(評価)をとるためには、どうしたらよいか。アンサンブルの緻密さや、ハーモニーの美しさ、技術の高さ、音楽的表現の統一、こんな所で攻めていけばそれなりの演奏評価にならざるを得ないと考えます。要は、音楽的な好みの部分以外の要素を中心にまとめればケチのつけどころが少ないということになるんだと思います。中高生や大学生など、春から夏にかけて、ずっと同じ曲を練習していくんですけど、いかにバンドとして前記の項目をまとめていくか、各楽器のコーチや指揮者が一生懸命(かどうかはわかりませんが<爆>)指導していくんですよね。そういう環境にいると、プレイヤーの方はその指導者の要望どおりのプレイをするのがよしとされるわけです。当然、自分の音楽表現をその中に盛り込んでいけばいいのですが、大概の場合編成は50人前後という大所帯で、個々の技術レベルもまちまちですので、そんなに上手く行くことは殆どないと思います。とくに、中高生のバンドは、音楽的にまだまだこれからという生徒が殆どなので、指導者のなされるがままに楽器を練習し、合奏に参加しているという状態だと思います。
 実際のコンクールの審査に関しては、私はかかわったことがないので何とも言えませんが、数年前東京の高校のコンクールに久々に行って審査員席のちょっと後ろで聴いていたのですが、とある審査員は途中で就寝されていたり、早々と採点用紙と講評用紙を記入し、演奏時間の残りが5分以上あるにもかかわらずとても聴いているとは思えないような状態でした。一生懸命演奏していた立場の方にしてみたらひどいと感じることと思います。しかし、私個人としてはこういった審査員の状態というのもわかる気がしないでもありません。私が審査員の立場だったら、きっと聴いてられないと思うんです。なぜなら、どのバンドも、前記の技術的全般な差だけで、音楽的な感動が全くと言っていいほどないんですよ。どのバンドも私たちが参加していた頃より格段に上手になっているのですが、聴いていてそのバンドの色(要は個性とでも言いましょうか)が見えないんです。ただ座って個性のない、まるで機械が自動演奏をしているような音楽を丸一日聴かされて何時間も頭を使って講評を書く。そんな作業は苦痛以外の何物でもないと思いませんか。
 吹奏楽で全国大会に出場したいという思いは、特に高校生までの期間というのは青春まっただ中ですので、かまわないと思いますし、むしろそういう時期がないとダメだとは思います(私もその一人でした<爆>)。もちろん学校側(特に私学)や企業側からすれば、全国大会や、その前の各支部の大会(通常吹奏楽コンクールは全国大会にいくまで3回くらいの予選がある)に出場出来れば、全国的に名前が知れ渡るわけですから宣伝(という表現が適切かどうかはさておき)効果は相当なものになります。ですから、なんとか全国大会へと様々な面で応援することは致し方ないかもしれません。しかし、このような環境にどっぷり浸かっていて本当に音楽を好きになって素直に自分の音楽性を表現できる人材を育成することが出来るんだろうかと疑問に思います。本当に「音楽」が好きなんですと胸を張って言える人ってどれくらいいるんだろうか。実は単にコンクール・コンテスト好きな集団なんじゃないかと。周りのバンドより少しでも上手であるという証が欲しいだけなんじゃないだろうかと。
 ずいぶん前になりますが、某音楽大学の講師を務められている方のリサイタルを聴きに行ったとき、すごい感動を覚えました。正直申しましてもう技術的にはリタイアの域になってしまっていましたが、音色と歌心はとても私は足下におよばない。ボロボロになりながらもそのかたの主張がはっきり手に取るように見えてくる。あっと言う間に終演になってしまうほど、素晴らしいコンサートでした。私が年をとって楽器を上手く操れなくなったときでも、こういった部分、すなわち、音楽をしているんだ!というハートの部分は一生忘れたくないということを再認識させられました。
 今私と一緒に音楽をしている私より若い仲間達は、皆さん音楽好きであるというのは間違いないんだと信じてますけど、いかんせん表現したいものが見えないというのが実感です。もっとどう演奏したいのか出せばいいのに。カラオケじゃ老若男女誰もがノリノリで歌っているのに、私の音楽仲間の多くは楽器になると表現しようとしなくなっちゃうんだろう。という事を考えたとき、皆さんやはり吹奏楽コンクール経験者が殆どなんだということに気づいたんです。最初の方に書いた、「コンクールの副作用」です。中には、音楽でなく楽器が好きだという方もいるとは思いますけど。やはり音楽を一緒にしている仲間達は、「音での会話」が出来るくらい技術面・音楽性をお互いに磨いて、ステージをお客さん・プレイヤー一体となって楽しみたいと思うのは私だけ・・・なのかな。。。これを書きながらそうは信じたくないと自分に言い聞かせてます。
この内容に関しては、個別のものを批判しようとかいう意図ではないので、軽く流していただけたら幸いです。長々と読んでいただき、ありがとうございました!!

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