この競技に関する情報は、他のホームページに非常に詳しく載っていますので、ここではわたしのこの競技に対する想いや、自分がハマって行った経緯などを記したいと思います。
自分の半生とまでも行かないかもしれませんが、一時は会社の仕事が仕事なのか、この競技が仕事なのか分からないくらいに打ち込みました。
以下、用は自分の思い出を懐かしみながら綴った自己満足です。
出会い
二十歳ころ、85年型RZ250Rを手に入れた私は、親しかった学生時代の走り屋、O君(彼は当時、船の○○館最速と言われた走り屋でした。)を師と仰ぎ、たまに相手をしてもらっては8の字とかフルロックターンなどを教えてもらってました。(今考えると、セパハンの走り屋仕様のNSR(88)に乗る彼が、(私の考えるに)走り屋の苦手そうな8の字とかフルロックターンを難なくこなしていた事を考えると、やはり船の○○館最速は伊達ではなかったんだなと思います。)
今思えば、彼との出会いが、この競技へと向かう一つのきっかけでした。
負けず嫌い
O君に付いて8の字を教わっていた頃、「じゃあ、俺について来て」とO君。
「よっしゃ。」と俺。
。。。。。しかし、ついていくとか言うレベルではなく、笑えるくらい奴のが速い。
「なぜ、ナゼ、何故???」 走りながら必死で考える。
トーシローでも簡単に思いつくのが「バンク角」。子供の頃からやっていた格闘技。
気合は十分。
それに比べれば、こんな低速で転倒するくらい怖いに値しない。ツナギも革パンも装備していなかったが、そんなことは関係ない。「気合」である。
やがて、「カリカリカリーーッ」と心地のよい響きが聞こえてくる。
「ふっふっふ、ろーっくおーんっ!!」されたのはこちらだった。
なぜ???
向こうはNSR88とはいえ、フルバンクではない。こちらはRZ250Rで、フルバンク。
結局、色々教えてもらったのだろうが、殆ど実践できず、頭にも入らずにその日帰路に付いた。
単純な思考
それからと言うもの、仕事から早く帰れたときなどは一人で例の場所へ出向き、フルバンクの練習をした。ただ単に、旋回中にステップを必ず擦ることを目標にした練習だった。
金曜日の夜とか、会社の先輩に酒に誘われさえしなければ、よく出かけてはフルバンクに時間を費やした。その甲斐あってか、フルバンクに関しては自信が付いた。わざと、寝かしすぎて転ぶところまでやった。「これ以上だと転ぶんだ」と。頭悪いでしょ? 代償はGパン数本。リーバイスの501だけでも5,6本はずたぼろになったんじゃないかなぁ。(なぜか、革パンやつなぎを買おうと言う発想にはこのときまだならない。) お約束のスタイルは、つぶした空き缶を両肘と両膝、って感じで。
再挑戦
何週間かたった頃だったか。
さあ、O君、速くなった俺を見てビビルナよ。。。
でも、そんな下克上は起こらなかった。
その日、彼はXLRで来てくれた。
「ふっ、XLRか。。。」そんな思いは一瞬でこなごな。
やっぱりうまいやつは何に乗ってもうまかった。
O君が、「じゃあ、この落ちてるゴミでコースを即席で作って、タイムアタックしようよ。」
これこそが、私の経験した第1回目のジムカーナであった。今考えれば。
結果は。。。 (ToT)/~~~
アドバイス
彼は、言った。「警察とかでも講習会やってるし、結構練習になるんじゃない?」
え? 走り屋デモ、ソンナコトイウノ??
峠とかじゃなく、そんなアドバイスをしてきた彼に、やはり只者の走り屋ではないな? みたいな。
ツーリングとは名ばかりの。。。。。
同じ学校のM君(88NSR)やH君(WOLF250)と共に、「箱根」にツーリングに行こうと言うことになった。
彼らは走り屋でもなければ戦闘意識すらない。「ツーリングしよう」は、彼らにとって、正真正銘、その言葉の通りだった。
それなのに、あー、それなのに。。。
私は一人意気込み、今まで経験した事の無い「峠」という文字が頭から離れず、超戦闘モードでその日を迎えた。
峠に入ると、既に目がすわり気味だった私は、先を行くM君に狙いを定めた。
街のりからツーリングまで、バランスよくこなすM君は、多分景色をそこそこ楽しみながらの走行だったに違いない。後ろから見ていてもすごく楽そうに走っているのが今でも思い出されるから。
でも、私は違かった。。。
こちらには今考えれば安っぽいものではあるが、当時にしては相当な自負があった。「俺は、あのO君について今まで色々教わってきたし、練習もしてきた。気合も負けない。フルバンクには自信がある。そう、君たちは、俺から見れば素人なのだよ。ふっふっふ。」
当然、負けるわけにはいかなかった。
しかしその後、本当は実力の無いものが実力を勘違いし、かつ過信して走るとどうなるか、運良く(怪我一つせず)体験することになる。
進入、コーナー、立ち上がり、ライン取り、前車の(スムースな)追い越し。。。どれをとっても、私のそれは赤子同然だった。
M君に離されるから。。。
1:突込みで無理して側溝に落ち。。。。(幸い、水は無かったし、走って上がれるスロープがあった。)
2:コーナーでインに入ったりアウトにはらんだり。。。
3:立ち上がりで反対車線やガードレールに向かっていったり。。。
4:ジャンプした。
それは前車の抜き際に、コーナーの途中なのに無理して抜こうとし、でも結局抜けず、ラインが大幅にずれたマシンのタイヤは大きなワダチに取られ、行きたくない方向へ。それは、砂利で出来た路側の駐車場でした。前車を気合で抜こうとして抜けなかった結果な訳で、それだけに速度が乗っていた。
本来は下手なわけだから、砂利道で止まれるわけも無く、完全に体はフリーズ状態。転ばない事だけに神経を集中しているうちに、やがて駐車場エリアを走りきってしまい、そのまま盛り上がった土に突っ込んでしまった。そこで止まればよかったが、まるでジャンプ台のようにスロープになっていた盛り土のお陰で、宙を飛んでしまったのである。はっきりいって、この時ほど「死」を意識した事は無い。「向こうが崖だったら。。。」 しかし、そこはやはりプロの設計した道であろう。向こうは湿地になっていて、私の体とRZは、「グチャ」といって止まった。怪我一つなかった。そしてなんと、RZも応急処置にて自走で帰れるレベルだったのである。
あんまり私が来ないので、心配して戻ってきてくれたM君とH君には、本当に申し訳ないことをしたと思う。楽しく企画してくれたツーリングを、一人の自分勝手な思い込みと行動をする輩の為に、本当の意味で台無しにするところだったのだから。幸いにも大事に至らなかっただけで。いままでで、もしかすると一番に記憶に残るツーリング?でした。
でも、これを経験しても尚、「俺は実力はあるはず。今日の敗因は峠経験が初めてだから。。。峠の走り方を学べば。。。」見たいな事を考えていた。本当に、バカである。
気分は道場破り、そして返り討ち
峠の走りの練習も大事そうに感じていたが、O君の言葉を思い出し、基本の練習にも興味が出始めた。でも、ベースには天狗の鼻が高々とそびえていた。
そう、その基本の練習が出来そうな警察系の講習会とやらに行き、そこで軽々と俺様の実力を証明する、と言うのが深層心理だったかも。
ところが、そんなに甘いものではなかった。というより、実力の差は、峠で惨敗を喫したM君と私の差以上のものだったのである。男女を問わず、老若を問わず、殆どの人が私より速かった。そこで、ようやく察したのである。「おれって、へた???」
テーマを変えた。が。。。
ショックだった。自分では、フルバンクこそ攻めている証。気合こそ速さ。と信じてやまなかったのに、フタを開けてみれば「遅い」のだから。
何でだろう。ナゼだろう。考えているうちに、O君に教わった「フルロックターン」が全然出来ていない事を思い出した。彼は、「鼻歌交じりで、フルロックでマシンを回せるようじゃないと」と言っていた。
バンク角を常に深く取っていた私は、必然的に皆よりも過度に大回りにコースを回っていた。
頭の中に豆電球がついたように、「名案?」を思いついた私は、フルバンクでバカみたいに走り回る練習から、好きなときに・鼻歌交じりで、フルロックでマシンを回せるように、時間を見つけては出かけて行って練習をした。
それがようやく形になった頃、また私の中の「バカ」が現れた。
練習を上機嫌で終えた私は、「レーサー気取り」だった。
だって、フルバンクはお手の物だし、フルロックだっていっぱしに出来るようになったし、あとは峠をそこそこ経験すれば、まさにレーサーなのだから。。。???
帰り道。いつものストレートには、これから差し掛かる右コーナー前の速度抑制の為、カマボコが路面中央に置かれていた。しかし、カマボコを踏まないで済む左側路側帯を全開で駆け抜け、フルブレーキング、一気に倒しこんでフルバンク、そしてコーナリング。その後は胸のすくような2Stのフル加速。。。と続くはずだった。しかし、実際にはブレーキング後の倒しこみのアプローチで転倒。ハンドルは折れ、クランクケースも割れ、オイルが溢れてくるマシンを起こし、道路の端に寄せるのが精一杯で、しばらくボー然。そして気がつくと、当然Gパンはボロボロで、膝から血がドロドローっと流れていた。携帯の無い当時、公衆電話のあるところまで自力で歩かなければ事が進まない。時間と共に激痛となってくる膝と戦いつつ、びっこ引き引き歩きました。幸い、家には兄がおり、兄の会社の工場の軽トラを取りに行ってくれた上で来てくれた。感謝。家に帰ってから、オヤジのカミナリが飛んだ。
それからも。。。
やはり、楽しかったんでしょうね。金曜の夜は、ほぼオールで走りに行ってました。当時自分が持っている工具は殆どフルセット積んで(とーぜん、自走です)。だって、行った先で走れなくなったら困るからね。
あるとき、「ブーメラン」の通称で親しまれたコーナーを走っていた。右コーナーで転倒、後続車に突っ込まれた。お陰で、帰り道は125CC。でも、無事に帰れたから良しなんだよね、当時としては。後続車もたいした事無かったみたいだし。←ほんとーに、バカです。
でも、夜中に帰宅しても寝る事なく、そんな状態で置いておくのが嫌で、朝にかけて家の前で直したなぁ。近所の早起きウォーキングおばさんに、「早起きねー。」等と言われ。。。(っていうか、寝てないんだけど。。。)。そのおばさん、数十分後にまた来たと思ったら、おにぎり握ってきてくれたっけ。
新車購入/YAMAHA R1-Z
いい加減マシンはボロボロになっていた。
まだまだ「俺の腕にRZがついてこねえ」なんてレベルではなかったけど、なんだかRZの血統である(割りにエンジンは29Lでなく、3XCだけど)R1-Zに、「こいつだ」と思わせる何かがあったので、即決だった。
納車の日、会社から速攻で帰ってYSPへ。いったんは家へ帰るも、夕食後にはまた新車を転がしに出た。それにしても、なんというスムースさ。エンジンはモーターのように軽やかに回る。もう、最高潮だった。こんな経験、みんなあるよね?
練習仲間
友人ノリダーと、よく定例練習会に顔を出した。
新車で手に入れたR1-Zを傷ものにしたのもその練習会だった。たしか、初日だったなぁ。
その頃になって、ようやく自分の中にも(10%くらい)謙虚な気持ちが芽生え始めた。
いままで、0%だったから、進歩だね。
そこで、速い人の走りに直に触れることが出来た。
その練習会でTOPの人は、まるで流して走っているかの如く。でも、タイヤが「チリッチリッ」いってるんです。まじかで観察すると。流して走っているように見えるのは、「走る・曲がる・止まる」が全てシンクロし、無駄に動かず、無駄に止まらず、無駄に開けず、無駄に。。。という感じだからでしょう。
目標はその人に定まりました。(昔も今も、「師匠は?」と聞かれると、迷わず「その人・Kさん」という存在になります。)
大会デビュー
自分なりに練習に練習を重ね、そのKさんを抜けずともついていけるレベルになった頃(すいぶん時間掛かったけど)、雑誌で「ジムカーナ」の特集を見た。
そこには、バイクを自在に扱うと言う有名選手2人が紹介されており、食い入るように読み入った。
自分もやってみたい。
峠での惨敗のリベンジをしたいなどと言う気持ちは、もう微塵も残っておらず、というか、その頃になると峠には興味が一切消えうせていて、Kさんにお世話になってここまで上達できた自分を試してみたいと言う気持ちが強かった。また、恐らくエントリーされるであろう有名選手たちの走りも見てみたかった。
そんなこともあって、大磯ロングビーチで行われたYM・BATTLAXカップ1995年 第2戦に参戦した。
なんせ初めての大会と言う事で、緊張しまくった。1走目はお約束でミスコース。人間、あそこまで真っ白になるもんなんですね。でも、2走目はそこそこ攻めきれて、NOクラス優勝。そして、なーんとC1級に昇格までしてしまいました。あー、Kさんありがとう。ここまで来れたのはあなたのお陰です。そんな心境でした。
峠・再挑戦!!
どっぷりとジムカーナにハマっていたが、ある時友達からツーリングに誘われた。
場所は偶然?にも、あの屈辱の場所・箱根。
その時は、気負いも何も無く、単純に楽しみでその日を迎えられた。
そして、アブねー!!という事も一切無く、かつ(たぶん)それなりのハイスピードで走る事が出来た。
当時、箱根の椿○インは、コース中ほどにある広場(バス停があったかな)を拠点に、大勢の走り屋が山の麓ーバス停間を何度も往復するという、サーキット状態と化していた。ジムカーナ仕様のローギヤード化したR1-Zのセッティングは、低・中速コーナーのつづら折である椿ラ○ンにピッタリだったようで、非常に気持ち良く走れた。視界に入る走り屋の後をことごとく追跡したが、私の経験上全てのライダーに道を譲ってもらった。(ある意味、本当に速い人はその時来ていなかったのだとも思うが。。。)
つまりそれは、その日そこに来ていた中で、自分がたぶん一番速かった事を意味していた。
「え???」と言う感じだった。
前回は散々の結果で、それからジムカーナという競技にハマり、その道のみにどっぷりと浸かって練習していただけなのに、峠までどうやら速くなっているらしいなんて。。。
と言う経験があるから、思います。
ジムカーナでC1くらいにまでなっている人って、峠でも「相当速い」方に当たるだろうなーって。
それからと言うもの、峠にも結構行ったっけ。
A級昇格??
ふつー、C1位まで上がると、「おれってよくやった。」ってなるよね? 人によるか。。。
俺は結構そうなったかな。「B級、A級」って、天上界の人間で、自分には関係ない世界だって。
それなのに、まさか自分が昇格出来てしまうとは。。。多分、C1当時の自分がそれを知ったら、ひっくり返るほど驚いたと思います。でも、A級に上がる頃の自分って、変わってるんだよね。「上がって当然」くらい。もちろん、レースに対する緊張感すらなく、ナメテ掛かっているわけではない。当然/絶対昇格するという、自信がつくほどの練習量と自己暗示、自分なりには普通では出せないレベルの「気合」からだったように思う。
念願のA級昇格後も、R1-Zで戦った。しかし、その後にMC-21/NSR-250R SEを入手。
自分に言い訳をさせないために、当時は好きでもなかったNSRを選んだ。
片手で数えられる程度ではあるけれど、大小の大会で何回かの総合優勝も経験できた。
私は大して勝って来た訳でもないけれど、自分なりにも勝負に臨む精神論がありまして。
その勝負に勝ちたいのか否か。負けると悔しいのか否か。
私は、勝ちたかったし悔しかった部類なので、必然的に有利と思われるものは全て取り入れていくことになる。
そのための第一歩がくるま選び、NSRでした。
たまーに、耳にします。
「重いから。。。」
「パワーが無いから。。。」
「。。。。。から。」という言葉。
だったら、バイクを変えれば良い、改造・改良すれば良いのにと思うのだが、それをせずに不満を漏らす人っていますよね。(お金の掛かる事だから、バイクを変えることも、改造・改良することも出来ない事情もあると思いますが、ならばせめて言い訳は言いっこなし、って言うのがかっこいいです。)
勝ちたいのなら、悔しいのなら、自分が乗っている車両こそ最速!! と信じて疑わないほどに作っていかないと話にならないと私は思っています。レース結果に満足が行かないのは、マシンがうんぬんではなく、全て自分がおろかだったから。わたしは、自分のレース結果に関し、そう思うようにしています。
現在、2006年
うちの奥さんの昨年の大会デビューを応援・後援し、自らも気分と時間が合えばエントリーしています。
一時はレースに対する情熱が冷めてしまいましたが、練習会場などでうちの奥さんの上達を目の当たりに出来る事や、自分自身でも、子供が大きくなってきたことで練習会場でも練習を集中して行える(うちは、子供をつれて夫婦で練習、みたいに、家族ぐるみ(子供は迷惑??)な環境を基本としています。)などの環境が出来てきた事で、「またやってみっか。。。」と言う感じになってきました。
面白い事に、そんな環境を基としている所以か、子供たちもどーいうわけか、「バイクの練習」を楽しみにしています。
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