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知 の 糧 人生途上で出あった本

L-MARU2

★人生途上で出あい、私の進む方向を考えさせてくれた本の紹介です。★


『イワンの馬鹿』レフ・トルストイ著(北御門二郎訳)
ロシアの文豪にして思想家、レフ・ニコラーエヴィチ・トルストイの作品は どれを取り上げようかと悩みましたが、今回はたいていの人が子供時代に絵 本などで読んだ経験があり、しかもトルストイの思想をよく表している民話 「イワンの馬鹿」に決めました。ただ、トルストイについて語るには私の力 量がなさすぎますので、翻訳者の北御門二郎さん(故人)の文章もお借りし たいと思います。

トルストイは1828年9月9日、ヤースナヤ・ポリャーナでニコライ・トルスト イ伯爵の四男として出生しましたが、2歳で母マリアと、9歳で父と死別し、 親戚に育てられます。大学に入学しますが授業は「言葉の精神を無視し、た だ言葉をもてあそんで、もったいぶっているだけ」と大学に幻滅して退学。 20代は軍隊に入り、クリミア戦争にも参加しますが、最前線での体験から 「戦争に真実はない。真実は平和のなかにこそある」と戦争の残忍性を訴え る一方で、軍を退いての数年間は酒・賭博・放蕩に明け暮れたそうです。

29歳のとき初めてヨーロッパを旅行しますが、パリでギロチンによる公開死 刑を見たり、金持ちに虐げられる人々を目撃して西欧文明に失望。帰国して 故郷で農作業に従事します。当時のロシアは農奴制があり、農民の過酷な生 活を知る地主のトルストイは、農民解放運動の立場から大衆教育の必要性を 痛感し、結婚10年後の44歳のとき領地内に学校を設置。自らわかりやすい教 科書を作り、作家活動のかたわら農民の子供の教育を始めます。

トルストイは30代で『戦争と平和』、40代で『アンナ・カレーニナ』を書き、 富にも名声にも恵まれますが、同時に「それがどうだというのだ?」という 疑問にたえず悩まされ、特権階級にある自分の生き方が分らなくなり、「生 命力の停滞の瞬間」が起きたといいます。≪私はなぜ生きているのか?≫ その答えをトルストイは自然科学や哲学など学問の中に探し求めますが、見 つからなかったようです。やがてその答えが、貧しく素朴で、額に汗して働 く農民や労働者の「神への信仰」の中にこそある、と悟ります。

トルストイは特権階級を捨てて農作業に従事し、菜食に切り替え、「怒るな かれ」「姦淫するなかれ」「誓うなかれ」「暴力をもって悪に抗するなかれ」 「汝の隣人を愛し同胞を裁くなかれ」という5つの戒律を自分に課しますが、 絶対非暴力主義の考えがこの中にはすでにあります。50代になったトルストイ は、これから「人生のために有益な、しかも一般の民衆に理解されるものを、 民衆自身の言葉で、民衆自身の表現で、単純に、簡潔に、わかり易く」書く ことを決意し、ロシアの大地に根ざした民話を次々に書いていきます。

「イワンの馬鹿」は欲の深い軍人と商人の二人の兄と、無欲な弟イワンの話 ですが、無欲=馬鹿として、イワンの馬鹿正直ぶりが徹底して描かれます。 3人兄弟はそろって王様になりますが、強欲な兄2人は滅び、無欲で額に汗し て働くことしか知らない馬鹿のイワンが幸福になるという、一種の理想郷が 描かれています。これらの民話の中でトルストイは、キリスト教的な隣人愛 に基づく道徳的生活こそが、人間の救いであると説いているようです。

トルストイの考えはさらに進み、ついには国家や私有財産を否定し、教会へ 行くキリスト教を否定し、著書でも教会を批判したということで、ロシア正 教会から破門されました。私有財産を否定したことから妻とも不仲になった といわれ、1910年、家出して10日目に旅の途中のアスターポヴォ駅で亡くな りました。82年の生涯でした。

私が持っている北御門二郎訳のトルストイ民話集は1988年8月6日に買ったも のですが、文章だけの民話と熊本県立宇土高校生と「虹の会」の人々が民話 の内容を版画にした力強い版画集との二部構成になっています。427ページも ある大型の本で、表紙カバーにはトルストイの故郷ヤースナヤ・ポリャーナ の風景写真が使われています。私は1988年8月に福岡市で初めて北御門二郎さ んのお話を聞く機会があり、感動してただちにこの民話集を購入したのです。

そのとき30代も終わろうとしていた私は、大人になって改めて北御門二郎訳 「イワンの馬鹿」「人は何で生きるか」「火の不始末は大火のもと」「人に は沢山の土地がいるか」などを読んで、これは子供向けの童話などではない とびっくりしました。現代に生きる私たちを取り巻くさまざまな問題、お金、 権力、暴力、戦争、夫婦・子供・隣人との人間関係等々、一見複雑に見える 問題の根源をシンプルに、そして問題の本質がよく分かるようにやさしい言 葉で書いてあるのです。

10代の終わりころから文章を書き始め、本をたくさん読み、言葉をたくさん 覚え、難しい単語も自在に使いこなして書くのがいいと思い込んでいた私に とって、トルストイ民話集との出会いはちょっとした事件でした。やさしい ことを難しく書く、のではなく、本当は難しいことを分かりやすく書く。ま るで反対だったからです。もちろん北御門さんのこなれた翻訳の力も大きい わけですが、なまじ文章を書く、書けるという人が陥りがちな勘違いを、ト ルストイの民話は実践的なお手本として私にそっと示してくれたのです。

私の手元にある『トルストイの民話版画集』の「はじめに」の文章の中で、 翻訳者の北御門二郎さんはこう書いておられます。

  芸術は一部の特権階級の玩弄物(がんろうぶつ)であってはならず、
  万人にとっての心の交流の場であるべきだという思想に基づいて
  書かれたトルストイの民話は、老若男女を問わず、あらゆる階層
  の人々に親しみやすい平易さと簡潔さの中に深い真理が含まれて
  いて、全人類にとっての最高の教科書になっていると思う。

  世界文学の中でも極めてユニークな立場にあるトルストイの民話
  は、一言もってこれを蔽(おお)えば、≪一宗一派に捉われぬ純粋
  理性宗教としてのキリスト教のすぐれた解説書≫であり、≪神の
  国を地上にもたらすための平和革命の書≫である。そしてそれは
  そのまま、仏陀の慈悲に、孔子の仁に、老子の道にも通じている。

  それゆえ私は、この書がなるべく多くの日本人に読まれるよう願
  わざるを得ない。ことにそれが、現場の良心的教師によって、勇
  気をもって学校教育に取り入れられたらどんなに素晴らしいかと
  思う。自由と人権と平和を目指す新憲法下の教育理念に照しても、
  これほどふさわしい事があろうか!
  ≪善き教育こそ、あらゆる善事の源である。(イマヌエル・カント)≫
                        北御門 二郎

科学技術が発達し、マネーゲームが世界を股に跋扈(ばっこ)する現代では、 額に汗して働くイワンのような農民や肉体労働者は少数になりつつあります。 労せずして大金を稼ぐことは一概に悪いとは言えませんが、「イワンの馬鹿」 は無欲の強さというものを教えていますし、絶対非暴力というトルストイの 考えの深さを知ることもできます。大人にこそ読んでほしい民話です。

 引用:レフ・トルストイ著:北御門二郎訳『トルストイの民話版画集』
       地の塩書房 1987年8月15日初版第三刷発行 3000円

 ※なお、北御門訳のトルストイ民話は、1冊1話の文庫本で出ています。
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『若き日の日記』神谷美恵子著
私が神谷美恵子さんの著書を初めて手にしたのは、1981年春、著作集第4巻として 刊行された『ヴァジニア・ウルフ研究』でした。私はそれを1981年6月9日に購入 したと記しています。それ以前にヴァージニア・ウルフの小説を読んでいた私は、 精神病を病み自殺するに至ったウルフについて、精神科医の神谷さんが研究され ていることを知り、ぜひ読んでみたいと興味を抱いたのです。

神谷さんのプロフィールはよく知られていると思いますが、1914年岡山市に生ま れ、9歳のとき外交官の父・前田多門の赴任先ジュネーブに移り住み、現地の学 校へ通う3年半の少女時代にフランス語を習得。津田英学塾を卒業後、アメリカ のコロンビア大学へ留学、ギリシャ文学を専攻します。日米開戦前のことです。 美恵子さんは誰もがうらやむ境遇の中で、持てる才能をさらに伸ばしていきます。

しかし少女時代、吏員や運転手のいる豪華な邸宅に住んでいる自分に居心地の悪 さを感じた美恵子さんは、恵まれた環境にいる自分に負い目を感じて育ちます。 19歳のとき、クエーカーの伝道師だった叔父にオルガン伴奏を頼まれ、同行して 国立療養所多摩全生園を訪れます。そこで高らかに賛美歌を歌うハンセン病患者 たちの姿を見て衝撃を受け、「こういう患者さんたちのところで働きたい」「自 分は病人に呼ばれている」と感じ、自分の生涯の目的がはっきりしたとのちに語 っています。

その決心の通り、美恵子さんは文学研究から医学部へ進路を変え、医師になり、 結婚して神谷姓となり、2児の母となり、教授や著述の方面でも活躍しますが、 学生時代には肺結核で2度の療養生活、結婚後には癌の治療もします。大学で講 義をしながら、瀬戸内海の島にあるハンセン病患者の施設長島愛生園へ治療に 通う生活が、狭心症で倒れるまで10数年間続きました。美恵子さんがお嬢様では 終わらず、むしろ苛酷なまでの生活へ自ら突き進んだのはなぜか。『若き日の日 記』にはその疑問を解く鍵があります。

神谷さんは英文学専攻の学生のころウルフを読み、その謎めいた作品と人に興味 を惹かれ、のちに精神医学を専攻してからは、ウルフの人と作品を精神病理学の 立場からとらえなおすことを始めます。そしてウルフの病跡研究は神谷さんのラ イフワークとなり、1965年、スイスの精神医学誌に英文で発表した「ヴァジニ・ ウルフの病誌素描」は国際的にも高く評価されました。しかし神谷さんは研究の 道半ばで、1979年心不全のため65歳で亡くなりました。死後、『こころの旅』 『生きがいについて』などの著書が多くの人に読まれています。

『若き日の日記』に収録されているのは、戦中から戦後にかけて書かれたもので、 当時美恵子さんは東京女子医専本科に在籍し、昭和19(1944)年秋に医専卒業後は 東大精神科医局へ入局し、精神科医としての歩みを始めます。日記には戦時体制 に関する記述も多くありますが、ここでは美恵子さん自身の「こころの旅」にあ たる部分を引用します。

 6月24日(1943年29歳)
 たくさんの恩恵にあふれている私は、不運な人々―病める人、不幸せな
 人、性質の悪い人、精神病の人―等に対して大きな大きな負い目を負って
 いるのだ。あの人たちは私に代わって悩んでいてくれるのだ。人類の悩み
 を私に代わって負っていてくれるのだ。

 12月2日(1943年29歳)
 レプラへの御召あるならば、どんなにつらかろうと他のことは切り捨てねば
 ならぬと改めて思う。
 八年間の歴史は決して短いものではない。偶然なことでもない。何故に医
 学を始めたか、を夢にも忘れてはならぬ。

 12月20日(1943年29歳)
 恩恵は人類共通の財産だ。その分前を多く享けたものは少しでも多くそれ
 を以って人をうるおせ。そうせずに、なおもっと恩恵を頂こうとするのは、
 それは「むさぼる人」のすることだ。

   6月17日(1944年30歳)
 仕事という標準からのみ人間を見るから女性に対する見方というものが歪
 んで来るのだ。女性が自らの価値を自覚しないのもそのためだ。男性の標
 準で女を見るのは愚かなことだ。そうした考えを世の中にはびこらせて置
 いてはいけない。男性的な要素にのみ社会を支配させて置いてはならない。

 8月8日(1944年30歳)
 マンスフィールドの日記を読んでいると、書くものの苦悩と至福が胸に迫
 る。同時に自分の裡なる「書く人間」の強い強い牽引を感じて苦しくなる。
 Y子さん――この頃少し私の書いたものを読んでいる――曰く「みみは結
 局今にお医者よりも書く人になるんじゃない?」私はあわてて彼女の口を
 ふさいだ。(……)

敗戦直後に成立した内閣で父・前田多門が文部大臣になったため、英語の堪能な 美恵子さんは父の秘書として英文書の翻訳やGHQとの折衝などに従事、多忙を極 めます。いろいろな座談会に引っ張り出され、英語を話してアメリカ人のご機嫌 を伺い、社交的な場で愛嬌をふりまく生活に嫌気を覚えます。日記にはそのころ の苦悩がつづられています。

 10月25日(1945年31歳)
 できるだけ早く適当な後継者を探して、この仕事を辞めようと思う。…
 人目の届かぬ病床の傍で患者 ― 即ち「人間というもの」「人生というもの」
 ― と人間的にまた学問的に「一騎打ち」を為し、(中略)…
 社会のうわつらに賑やかに派手に浮んで、いい加減な言葉や行動を弄する
 生活と正反対の「現場」の生活。地味で、真剣で、しかも詩味あり、涙あり、
 ユーモアある生活。社会を国家をどうしようなどと大言壮語を吐くのでは
 なく、つつましやかに人生の悲劇と詩と、美とを味わう生活。
 ああ、こういう生活に何と私は憧れることか。

また敗戦後、何もかもが配給で、物を手に入れるためには何時間も行列して順番 待ちをしなければならなかったころ、美恵子さんは行列に混じって立ちながら、 世間話をする奥さんたちに背を向けて高等数学の本を読んでいたそうだ。すると 奥さんたちから、何でそんなキザなことをするのかと総攻撃されたという。美恵 子さんは人に迷惑をかけるわけではなしと勉強していたけど、他人に不快な思い をさせては悪いからと止めたという。しかし知人にこの話をして、「無為に時間 を空費することは辛い」と嘆いたそうです。

19歳のとき経験したハンセン病患者さんたちのと衝撃的な出会いが、神谷さんが 生涯、人間と人間が直接ふれあう「現場」にこだわり続けられたことの原点にあ ると私は思います。若いころの志や感性を保ち続けられた神谷さんの生き方に、 私はうらおもてのない清々しいものを感じます。また文壇とは無縁の場所で、新 しい視点から文学研究を続けられたその志の強さに、日記の中の著者と同じくら い若かった私は、大いに学び励まされたように思います。

 引用:神谷美恵子著 『若き日の日記』著作集・補巻1
    1984年12月20日発行 みすず書房 定価1700円  (2007年9月12日)
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『クオレ 愛の学校』デ・アミーチス著
前回は小学校の図書室にまつわる本の話でしたが、それを書いているとき私の 記憶にまざまざと甦ったのが、その小さな図書室でもっとも繰り返し読んだ本 のことでした。図書室に自由に出入りして自分で本を選ぶことを許された3年 生から卒業までの間、幾度となく読み返した本は『クオレ 愛の学校』でした。 細かい内容はほとんど覚えていませんが、きっと子供心をひきつける何かがそ の本の中にあったのでしょう。

さっそくインターネットの古本屋さんでなるべく古い版を探し求めましたが、 届いた矢崎源九郎訳1968年初版本は小さな活字の2段組で、全276ページもあ りました。昭和30年代中ごろ私の読んだ『クオレ』は児童向けにもっと大きな 字で書かれ、挿し絵も多かったので、たぶん全訳ではなくダイジェスト版だっ たのでしょう。中学生から後は読んだ記憶がないので、今回約45年ぶりの再読 になりました。

『クオレ』は「愛の学校」という副題を持つように、イタリアの少年エンリー コが4年生になった新学期10月17日の始業の日から、翌年7月の学年終わりの 別れの日まで、学校生活の様子が日記体で書かれています。小学4年生の日記 という表現上の制約を補うために、文中に主人公の父母からの言葉を加えるこ とで、デ・アミーチスは親の視点も忘れていません。また(毎月のお話)と題 して挿入された9篇の逸話は、短篇小説の味わいがあります。雪合戦の日の出 来事などいくつかの場面は、読むうちにだんだん記憶が甦るものもありました。

作者のエドモンド・デ・アミーチスは1846年北イタリアのネオリアに生まれま した。1866年から3年間軍隊にいて戦争に参加。1870年にそれまで7つもの小国 に分裂していたイタリアが1つに統一されると、まもなく軍隊を去り、軍隊や外 国旅行の思い出を書く作家となりました。1886年1月のある日、息子を学校に迎 えに行ったデ・アミーチスは、自分の子が貧しい身なりの少年と楽しそうに連 れ立って来て、別れぎわに接吻しあう光景を見て心を打たれ、この瞬間に少年 たちの学校生活を描こうと決心したといわれます。

『クオレ』とはイタリア語で「心」「愛」「寛大」などの意味を持つそうです。 デ・アミーチスは少年が1年間の学校生活で経験することや見聞きすることを 描くなかで、さりげなく友情、教師と生徒との愛情、家族間の愛情、貧しい人 びとへの同情、愛国心、責任感や道徳心、犠牲的精神などのテーマを挿話に盛 り込んでいます。しかしそれらは決して押し付けがましいお説教ではなく、作 者の暖かいまなざしによって自然に描き出されています。

現代から見れば愛国心を強調しすぎるのではと感じられますが、それはデ・アミ ーチスの少年時代にはイタリアはまだ統一されておらず、フランスやオーストリ アなど外国の勢力に抑圧された少年時代の苦しい体験があったことと無関係では なさそうです。そこには統一したイタリアを守るために、若い世代に愛国心を持 ってほしいというデ・アミーチスの願いが特に込められていると、訳者の解説に ありました。

またデ・アミーチスは終生敬虔なカトリック教徒だったそうですが、『クオレ』 にはいわゆる宗教臭い戒律などは感じられず、人間に対する深い愛情とイタリア への熱烈な愛情が透明な雰囲気の中に描かれています。いわば普遍的な愛の物語 の中に、人間の持つ良心や善を信頼するに足るものとするゆるぎない信仰心、と いうより強い信念が私には感じられたのです。もっとも小学生時代の私はそんな ことを思うはずもなく、ここに登場する少年たちや先生や父母の姿にすっかり魅 せられ、憧れを抱いていたのかもしれません。

  おまえの先生が、ときにいらいらすることがあっても、それはまったく
  無理もないのだ! 考えてごらん、先生は長い年月、子供たちのため
  にいっしょうけんめいつくしていらっしゃるのだということを。そうして、
  その子供たちの中には、情愛の深い、やさしい子もおおぜいいるが、
  またそのいっぽうには、先生の親切を悪用したり、せっかくのお骨折り
  をむだにしてしまったりする恩しらずのものも、それはそれはおおぜい
  いるのだということを。それからおまえたちみんなの中には、先生を喜
  ばせるよりも、悲しい思いをさせるものがあるということを、考えてごらん、
  この世の中でいちばんの聖人のような人でさえも、先生の立場におかれ
  たなら、ときには怒りもするだろうということを。 …エンリーコよ、おまえ
  の先生を尊敬し、愛しなさい。            (父の言葉)

  うららかな春の朝だった。学校の窓からは、青い空や、すっかり芽のも
  えでている庭の木々や、開け放たれた家々の窓に、早くも緑の若葉を
  つけた植木の木箱や、鉢のならんでいるのが見えた。……先生が説明
  している間じゅう、近くの通りで鍛冶屋が鉄床(かなとこ)を打つ音や、向
  うがわの家で女の人が赤ん坊をねかしつけるために歌っている声が、
  聞こえてきた。……やがて、先生は窓から外をながめながら、ゆっくりと
  おっしゃった。
  「ほほえむ大空、歌をうたっている母親、働いている人、勉強している
  子供たち――これは、ほんとうに美しいものです」……
  ぼくはお母さんのところへ急いでかけていって、こういった。
  「ぼく、うれしいんです。けさは、どうしてこんなにうれしいんでしょう?」
  するとお母さんは、にこにこしながら、それはいい季節になったし、心に
  やましいところがないからですよ、と答えた。 (4月1日の日記)

  息子よ、おまえが長椅子をはたこうとするのをどうしてわたしがいや
  がったか、そのわけがわかるかね? それはだよ、おまえの友だちが
  見ているまえで、おまえがそれをはたけば、友だちがよごしたのをとが
  めているのと同じことになるからだよ。そして、そういうことは、よくない
  ことだよ。第一に、あの子はわざとよごしたのではないし、第二には、
  お父さんの着物でよごしたのだからね。そのお父さんは、働いているうち
  に、しっくい(原文傍点)をつけたのだ。働いているさいちゅうについたもの
  は、きたないものではない。それは、ほこ りであっても、石灰であても、
  二スであっても、そのほか何であっても、けっしてきたないものではない。
  働いたがために、きたなくなるというようなことはない。仕事をしてきた
  労働者のことを、けっして「きたない」などといってはいけない。 
            (父の言葉)

  あなたのいままでの学校、そこであなたの才能はうち開かれたのです。
  そこであなたは、よいお友だちを、あんなにおおぜい見つけたのです。
  そこであなたが聞いた言葉は、どれもこれも、あなたのためを思うもの
  ばかりでしたし、また、あなたがそこで不愉快な思いをしたことがあった
  としても、あなたにとって役にたたないようなものは、一つとしてなかった
  のですよ!……
  学校はお母さんのようなものです。エンリーコよ、それはお母さんの腕
  から、やっと口がきけるようになったばかりのあなたを取り上げて、いま、
  大きな、強い、善良な、勉強好きの子にして、お母さんに返してくれるの
  です。ありがたいことです。息子よ、あなたはそれをけっして忘れてはい
  けません!                     (母の言葉)

『クオレ』の舞台は日本でいえば明治初期の1870年代ころ。当時のイタリアも統 一した国家になったばかりで、同じ学校に通う子供たちの家庭の状況もさまざま で、各家庭の経済的格差が大きかったことが物語からわかります。しかし、イタ リアに生まれたすべての子どもたちに愛の心を持った人になってもらいたい、 『クオレ』はそんなデ・アミーチスの願いが強く伝わってくる物語です。

現代の日本社会に生きる私たちの目からみれば、『クオレ』の中の世界は、世の 中そんなに良心や善が素直な形で通用するほど甘くはない、といえるかもしれま せん。また、お説教くさい言葉もたくさん出てきます。現在でも『クオレ』が子供たち に読まれているのかどうか、私にはわかり ませんが、大人が読む『クオレ』は人を育てる意味、教育というものを考えさせ てくれる一冊だと思います。私たちを取り巻く現実が複雑で困難なほど、『クオ レ』の示す率直で普遍的な愛の心は際立ってくるし、国や時代を超えて現代にも 強く訴えるものがあると私には思えるのです。

 引用:デ・アミーチス著 矢崎源九郎訳『クオレ 愛の学校』
    1968年8月10日 第1版刊行 三笠書房 定価480円
                               (2007年7月11日)
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『フランダースの犬』ウィーダ著
『フランダースの犬』という本との出あいは小学2年生のとき。私の読書人生 の始めの一冊となった記念すべきこの本のことは、一生忘れられない思い出 としていまも大切に私の記憶の引き出しにしまってあります。

私は福岡県南部の筑後平野のとある田舎町に生まれ、そこで育ちました。延々 と広がる水田の中に灌漑用水路が網の目のように走り、道路沿いに民家が建ち ならび、春の麦秋と秋の稲穂の収穫時期は、田圃が一面黄金色に輝きます。初 夏には青空と白い雲を映した水田に早苗が並び、冬は黒々とした土に麦が芽を 出し、やがて踏まれて(麦踏み)麦はさらにたくましく成長します。そんな風 景の中の水路に沿った細い道を歩いて、私は小学校へ通いました。

学校の正門を入ると、南側に広く大きな運動場があり、奥の北側寄りに二階建 ての堂々とした木造校舎がありました。その向こう側にももう一棟、同じよう な二階建ての校舎があり、屋根や窓のある渡り廊下でつながっていました。運 動場側の建物の中央に玄関があり、横長の左右対称になった造りでした。

広い玄関を入ると、すぐ左手に職員室その隣りに校長室などが並び、右手には 保健室に続いていくつかの教室が並んでいました。玄関を入った正面は壁面に なっていて、学期ごとに優秀賞とか入選とか書かれた金銀の紙片をくっつけた 児童の絵画や習字などが展示されていました。その壁に向かってすぐ右手、保 健室の向かい側に子どもなら五人が並んで上がれるような大きな階段がありました。

1年生のとき、そこは上がっていけないと注意があり、2年生になったときに 階段を上がった二階には図書室があることを知りました。しかし図書室を利用 できるのは3年生からで2年生はやはり上がるのを禁止されました。その理由 は、1、2年生は字も十分読めず本を汚したり破いたりする恐れがあるから、 まだ早すぎるという判断があったのでしょう。今では考えられない話ですが、 昭和32年の田舎の小学生の現実とはそのようなものでした。

国語の時間が大好きになっていた私は、図書室と聞いて二階にがぜん興味を持 ちました。教科書だけでは物足りなかったのです。なぜなら私の家には本とい うものがありませんでした。私の曽祖父は宮大工と聞いていましたが、当時同 居していた祖父は大工の棟梁で、長男の父もまた当然大工という代々職人の家。 おまけに住み込みの大工見習の若者も数人いて、カンナとゲンノウとノコギリ とノミ音が一日作業場に満ちていて、誰も本など読まない家庭環境でした。

図書室への憧れは日に日に増しましたが、3年生になるのはまだずっと先でし た。2年生の夏休み前のころ、土曜日なので午前中で授業も終わり、校舎はガ ランとしていました。私は玄関の階段の下に立っていました。誰も通りません。 私は長く続く階段を見上げ、そっと一段上がってぴょんと降り、二段上がって ぴょんと降り、三段上がってトンと降り、五段目ぐらいから飛び降りたとき、 ドシンと大きな音がして何事かと職員室から女の先生が出てこられました。

偶然にも私の担任の先生でした。先生もビックリされて階段を上がっていた私 はきつく叱られました。私は半べそをかきながら、どうしても図書室を見てみ たかったから、と正直に訳を話すと、しばらく考え込んだ先生は私を下に待た せて階段を上がり、一冊の本を手に戻ってこられました。「私が借りてきまし たから、読んだらすぐ返してね」とその本を私に渡されました。それが『フラ ンダースの犬』だったのです。

私は嬉しさで一目散に走って帰り、家に着くやランドセルを放り出して畳に倒 れこむように腹ばいになり、そのまま時間も忘れて挿し絵入りの本を一気に読 みました。2時間くらいたっていたでしょうか。お話の最後のほうではじわっ と悲しさがこみ上げてきて、泣けて泣けてしかたがありませんでした。いまか らちょうど50年前のできごとです。その方法で私は2年生の終わりまで何回か、 先生が借りてこられた本を読み続けました。

『フランダースの犬』は、その後日本ではテレビアニメにもなり、さらに映画 にもなり、多くの日本人に愛されています。もちろん私がこの作品と出あった 当時はまだテレビもなく、ラジオから流れるのは祖父の好きな「なにわ節」ば かり。家と学校の往復の範囲が私のテリトリー。そんな狭く限られた世界しか 知らなかった私にとって、『フランダースの犬』はまさしく異文化との出あい であり、遠い外国の人びとの生活を初めて身近に感じた本でもあったのです。

遠い国にアントワープという町があり、そこにあるという大寺院は挿し絵で知 るのみで、見たこともない形をしていました。そして主人公の少年ネルロや、 犬のパトラッシュという名前も珍しく、荷車を牽くほどの大きな犬というのも私 の想像を超えていました。それでも作中にくっきりと書き分けられた貧富の差 と、そこから派生するさまざまな理不尽なできごとは子供心にも理解できたよ うに思います。

ルーベンスという天才的な画家がいて、その人の描いた2枚の絵が大寺院にあ り、ネルロはその絵を一目見て満ち足りて愛犬パトラッシュとともに息絶えます が、その画家が実在の人であったことを私が知ったのは、ずっと後になってか らです。その後、私がヨーロッパに関心を持ち、もっと遡ってルネッサンス時 代の彫刻や絵画に興味を抱くようになったのは、やはり『フランダースの犬』 がその入口、始めの一歩になったように思います。

今回「青空文庫」から『フランダースの犬』をダウンロードして読みましたが、 菊池寛訳で難しい漢字も多く使われており、戦前に発行された訳本のようです。 私が読んだのは、戦後に出版された児童向けの世界名作集などの一冊ではない かと思われますが、訳者も出版社もいまとなっては確定できませんでした。

『フランダースの犬』の舞台アントワープはベルギーの都市で、作中の大寺院 はアントワープ・ノートルダム大聖堂を指し、近年、聖堂前広場に観光客のた めに記念碑が設置されたそうです。しかし『フランダースの犬』は作者がイギ リス人であること、少年を死に追いやる筋書きが地元のベルギー人には好まれ ず、主人公が15歳にしては自立していないなど批判的で、ヨーロッパ全体でも 教育的配慮からこの作品に対する評価は低く、あまり読まれていないようです。

アメリカで出版された『フランダースの犬』にいたっては、結末が暗すぎて救 いがないなどの理由で、ハッピーエンドを迎えるように(例えばネルロの父親 が名乗り出るなど)アメリカ人好みに改変されているそうです。しかしあの結 末の悲劇の中にこそ、人の心の美しさも醜さも味わうことのできる真実が含ま れており、そこに作者の訴えがあり時代や国を超えて読まれていると私は思う のです。原作のまま読み継がれてこそ、価値ある文学作品といえるのではない でしょうか。

 参考:マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー作(ウィーダの本名)
    菊地寛訳(定本)『フランダースの犬』(青空文庫)
                            (2007年6月12日)
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『文読む月日』トルストイ著: 北御門二郎訳
私の本棚に並んだ辞書類の中にはさまるように「ことわざ故事・金言小事典」 (福音館文庫)と題する掌にすっぽりおさまる豆辞書、そして「故事・ことわざ・ 世界の名言集」(旺文社)が並んでいます。豆辞書は1970年1月5日購入で、名言 集のほうは1988年発行のものです。故事・ことわざの意味はもちろん、類句や対 句、用法、出典などを調べるのは、私にはとても楽しい作業です。

その本棚に数年前からレフ・トルストイ著:北御門二郎訳『文読む月日』が加わ りました。北御門訳『文読む月日』は最初1983年から翌年にかけて地の塩書房か ら出版されました。まもなく北御門二郎さんと知りあった私はその本を欲しいと 思いましたが、上下二巻で各3,500円と知ってやむなく断念。ちょうど20年後 の2003年より上中下3冊の文庫本として刊行され、やっと私の本棚に並ぶことに なりました。

トルストイの翻訳者として知られる北御門二郎さんについては、昨年1月にこの 連載で著書『ある徴兵拒否者の歩み』を取り上げ、その人となりやトルストイ との関係については書きましたが、さらに次の文を加えたいと思います。

  畢竟トルストイは、小生にとり、そこから光が射して来る窓なのです。
  (以上原文傍点)これがトルストイズムか、どれ拝見! といった白々
  しいものではないのです。(中略)

  結局私は、私にとっての光は、同時に万人にとっての光であることを信
  ぜずにはいられなかった。そして、その光の射すトルストイの窓を、み
  んなのために、ことに今後、世界を背負って立つべき若きゼネレーショ
  ンのために、出来るだけ綺麗に磨き上げたかったのである。 
              北御門二郎著『ある徴兵拒否者の歩み』より

北御門訳『文読む月日』は日本で最初といわれる完全訳ですが、晩年のトルス トイが序文だけでも100回以上の推敲を重ね、晩年の6年の歳月を費やした一日 一話、一年365日の読み物です。そこには古今東西の古典や聖賢の言葉、具体的 にはキリスト・釈迦・老子・孔子・ソクラテス・プラトン・ルソー・カント・ パスカル・シラー・ショウペンハウエル等々170名もの言葉が紹介され、またト ルストイ自らの思想が開示されています。

その内容は、真理・善悪・教育・死・労働・愛・戦争・生活・暴力・宗教など など、生活全般に関わるテーマが分りやすく語られています。例えば私の好き な言葉をあげると――

・優しい心は、いっさいの矛盾を解きほぐす人生の花である。それは紛糾した
 ものを解明し、困難なものを容易にし、陰鬱なものを明るくする。(1月7日)

・人間は――理性的存在者である。だのにどうして、社会生活を処理するにあ
 たって、理性によらないで、暴力によるのだろう?(2月23日)

・人間の仕事――それは彼の生き方である。その仕事が善(よ)かれ悪しかれ彼
 の運命となる。そこにわれわれの人生の法則がある。それゆえ人間にとって
 最も大事なことは、現在彼が何をなすかということである。<インドのアグ
 ニ・プラナ>(3月12日)

・なかに雛(ひな)の入っている卵を、雛の生命を危険に晒(さら)すことなしに
 割ることはできないように、ある人がある人を、その精神世界を危険に晒す
 ことなしに解放することはできない。精神は一定の点まで成長すると、自分
 で自分の鎖を断ち切るものである。<リュシー・マローリ>(5月22日)

・われわれが腹を立てるのは、なんでそんな腹の立つことが起きたかの原因が
 わからないからである。なぜならもしその原因がわかれば、われわれは結果
 でなくてその原因に腹を立てるであろうからである。しかしながらあらゆる
 現象の外的原因は非常に遠くにあって、これを発見することはできないが、
 その内的原因は――いつもわれわれ自身なのだ。どうしてわれわれは人を
 責めるのが好きで、こんなに意地悪く、こんなに理不尽に責めるのだろう?
   人を責めることで自分の責任を免れようと思うからである。われわれは自分
 に困ることがあると、これは自分が悪いからでなくて、人が悪いからと考え
 たがるのである。(1月23日)

・われわれの生活――それはわれわれの思想の結果である。それはわれわれ
 の思想から生まれる。もし人が悪しき思想によって語ったり行動したりす
 るならば、ちょうど荷車の車輪が、それを牽(ひ)く牝牛の踵(きびす)につき
 まとうようなものであろう。われわれの生活は――われわれの思想の結果で
 ある。それはわれわれの心のなかで生まれ、われわれの思想によって育(は
 ぐく)まれる。もし人が善き思想によって語ったり行動したりすれば、影の
 形に添うごとく、喜びが彼につきまとうであろう。<仏陀の言葉>(2月5日)

・一人一人の肉体のなかには、みんな同じ神的本源が宿っている。それゆえ一
 人の人間だろうと人間の集団だろうと、その神的本源と肉体との結合体を、
 すなわち人命を破壊する権利はないのである。(1月22日)

特に暴力や平和、戦争や軍隊について語られた言葉は、数多く含まれています。 1910年、死の床にあったトルストイは娘のタチヤーナを枕頭に呼んで『文読む月 日』の10月28日(トルストイが最後の家出をした日)の章を読ませたといいます。 そして「みんないい、みんな簡潔でいい……、そうだ、そうだ…」と呟いたそう です。

この『文読む月日』第二版を15ヶ月かけて翻訳された北御門二郎さんも、亡くな るまえの病床で、『文読む月日』を家族に読んでもらうことを何よりの楽しみに されていたそうです。

『文読む月日』は日めくりのように毎日その日の項を読むのが一番よい読み方だ と思いますが、私は何か迷いがあるときも、この『文読む月日』をパラパラめく ってみます。中には違和感を覚える宗教的な文言もありますが、私の悩みにピタ リと効く処方箋のような言葉に出あうことが多いのです。特定の宗教を持たない 私にとって、『文読む月日』の中の好きな言葉は私のバイブルなのかもしれませ ん。

この本を味わう楽しみは、北御門さんの言葉を借りれば「時間を超え、空間を超 え、因果律を超えた法悦があり涅槃(ねはん)があった」世界にしばしひたれるこ とでしょう。そして、自分だけの狭い知識や体験では味わえない深い感情を経験 できることにあると思うのです。

  ※引用は トルストイ著『文読む月日』上巻 より
         北御門二郎訳 ちくま文庫 1500円  (2007年5月8日)
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『絶望の精神史』金子光晴著
明治28(1895)年生まれといえば、私には思い浮かぶことが2つある。その 1つは樋口一葉の没年の1年前であり、もう1つは私の父方の祖母の生年と 同じということだ。つまり戦中・戦後多くの作品を発表した詩人金子光晴は、 私の祖父母と同じ時代を生きた人だと思えば、彼の書くものの時代背景を 私なりに身近に引きつけて読み取ることができる。

いまその金子光晴のエッセイ集『絶望の精神史』(講談社文芸文庫)を読み 終えたばかりだ。金子光晴の詩は学生のころよく読んだのでなじみがあり、 存在感のある詩人として私は好きだった。このエッセイ集は、日本が明治 百年を迎えようとしていた1965年に編まれたもので、「まえがき」にはこう 書いてある。

   僕の知りたいことは、日本人のつじつまの合わない言動の、その源
   泉である。

   表面は、恬淡(てんたん)として、無欲な日本人、無神論者の日本人。
   だがその反面、ものにこだわり、頑固でうらみがましく、他人を口
   やかましく非難したり、人の世話をやくのが好きなのも日本人である。
   それらの性格がどんなふうにもつれ、どんなふうに食違ってきたかを
   ながめ、そこから僕なりの日本人観を引き出してみたいのだ。

金子光晴は23歳の1919(大正8)年から、丸2年ほどをヨーロッパに過ごし、 さらに結婚後の1928(昭和3)年から数年間、3歳の息子を妻の実家に預け て夫婦で東南アジアからヨーロッパまで旅行する。20代の独身時代、30代・ 40代は夫婦で世界を旅した、というより放浪した金子光晴は、日本の外側 から日本と日本人を客観的に眺めることのできた、当時としてはまれな経 験をした日本人だったかもしれない。

その旅は、富国強兵に狂奔する明治末期に生まれ、生活のすみずみまで 軍国主義の金縛りの中で生きていかざるを得ない日本人のありさまを知り、 その日本人の肩に近代日本の絶望が張り付いているのを、金子光晴自身 が確認することでもあったようだ。

日中戦争勃発直後の1937(昭和12)年、42歳の金子光晴は自分の目で戦争 を見なければダメだという思いにかられて、妻と共に化粧品会社の市場調査 の名目で北中国にわたる。着いた港で金子は多くの日本人(民間人)が、儲け 話と運命もろとも戦争に密着し、大挙して中国に押し寄せているのを見る。

天津、北京と回って昭和13年元旦、八達嶺に登り万里の長城を俯瞰した金 子夫妻は、そこで錯乱寸前の緊張の目をした日本兵に自分たちが見守られ ているのと出会う。この中国旅行で、いま進行している戦争が侵略戦争で あることを確信した金子は、密かに反戦への態度を固めたといわれる。

それが具体化したのは長男乾(けん)の徴兵忌避だろう。もともと病弱で気 管支ぜんそくの気のあった息子を、軍は徴兵検査に合格させた。行軍など に耐えられない身を死に追いやろうとする軍に対し、怒った金子は徴兵を 突っぱねる決意をする。

   まず、医師の診断書を手に入れるために、息子を応接室に押し込め、
   生(なま)の松葉をいぶし、喘息発作を再発させようとしたのだ。しかし
   そんなときになると、なかなか思いどおりにゆかないもので、息子は
   咳入るばかりで、発作が起こってくれず、苦しみのあまり、血を吐く
   しまつだった。

  そこで、彼の背に『歴史家の世界歴史』という分厚な洋書を十数冊入
   れたリュックサックをしょわせ、駆け足で、駅まで千メートルほどの
   道を往復させた。庭の芭蕉の下に、裸にして夜通し立たせた。びしょ
   びしょと、冷たい秋雨が降ってきて、子どもはぶるぶる震えていたが、
   かえって抵抗力ができていって、風邪ひとつひかない。叱りつけて、
   その難業を続けさせる自分が、鬼軍曹のように思われてきた。

   しかしこの方法を続けて、わずかに発作を誘い出し、医師の診断書を
   手に入れることに成功した。そして八重洲口の召集出発には、母親が
   行って、医師の診断書を示し、病気重体で同行できない理由を話して、
   難関をくぐりぬけた。    (引用:良心は、とても承服しない)

ここまでしたのには、もちろん愛情の問題もあるが、ここに一人だけでも戦 争反対者がいるのだということを自分に言い聞かせ、それが精一杯の勇気 でもあったし、「多少の英雄主義も働いていたかもしれない」と金子は書い ている。

金子は明治百年を目前にした当時の日本の世情を観察して、次のような警 鐘を鳴らしている。

   ばらばらになってゆく個人個人は、そのよそよそしさに耐えられなく
   なるだろう。そして、彼らは、何か信仰するもの、命令するものをさ
   がすことによって、その孤立の苦しみから逃避しようとする。世界的
   なこの傾向は、やがて、若くしてゆきくれた、日本の十代、二十代を
   とらえるだろう。そのとき、戦争の苦しみも、戦後の悩みも知らない、
   また、一度も絶望した覚えのない彼らが、この狭い日本で、はたして
   何を見つけ出すだろうか。それが明治や、大正や、戦前の日本人が
   選んだものと、同じ血の誘引ではないと、だれが断定できよう。
                      (引用:またしても古きものが)

このエッセイが書かれてさらに40年が経過したいま、ここに出てくる「日本 の十代」とは、私を含む団塊世代をさす。これらの指摘は古びていないどこ ろか、安穏と現代に生きる私たちの弱点を突く、不気味な予言ともとれる。

  ※引用は 金子光晴著『絶望の精神史』講談社文芸文庫 より
         2004年10月28日第8刷発行 940円(税別)

 ※文中敬称略                    (2006年12月12日)
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『自分をつくる』臼井吉見著
私にとって、1989年の最大の思い出は、何といっても東西ベルリンを隔てて いた「ベルリンの壁」の崩壊でした。歴史が動いた、と、はっきり実感した 瞬間でした。それになにかしら勇気を得たのでしょう。その年40歳になった 私は、事務職の公務の仕事にピリオドを打って、民間企業へ転職しようと心 に決めました。

文庫本『自分をつくる』の中表紙には、1990.4.22と、購入日の記入と私の 蔵書印があります。それは前年からの半年間の転職活動の結果、3月末で19 年間勤めた職場を去り、4月1日付で不動産会社の販売部門という未知の分野 へ飛び込んで間もないころの日付です。

40歳という人生の折り返し点に立って、私はこのままでいいのだろうかと迷 い、自分を変えたい、変わりたいと、半ば焦っていたのです。一日の大半を 過ごす職場を変え、180度違う職種につくことは、私の人生を劇的に変える ように思えたのです。それからの10年は営業畑を歩くことになり、確かにそ れまでの官公庁のままの頭では通用しないことを、嫌というほど味わうこと になりました。

この本は雑誌『展望』などの編集長を経て作家となった著者が、60代のとき、 中・高・大学生や勤労青少年、高校PTAなどで語った、6つの講演録を集めた ものです。「あとがき」に「学校の先生たち、教育関係者、特に一人でも多 くの母親に読んでいただけたら」とあります。当時私は高校2年と小学5年の 娘を持つ、子育て真っ最中の母親でした。内容は青少年相手の講演集という こともあり、具体的で分かりやすい語り口になっています。

冒頭、中学校で行なった講演の中で、著者は人生と精神世界について述べて います。働いて、休んで、食べて、生きてゆくという暮しむきの実生活だけ なら、動物も昆虫もみなやっている。しかし人間にはそれだけでなく、精神 世界という、全く独立した別世界がある。実生活と精神世界の2つが呼び合い、 照らしあい、ぶつかり合うこともある。この2つをうまく調和をとりながら、 高い立場で統一しないわけにはいかない。この両方をちゃんとふまえたとこ ろに、人生があります、と。

また「山びこ学校」で有名だった無着政恭という先生を取材した感想として、
<子どもは広い原っぱに>の題でこう述べています。

  右へ行くか、左へ行くかなんてことは、自分がきめることで、先生と
  いえども、生徒の生涯にわたって、さしずすべきものじゃない。人間
  はいろんな人に接触して、さまざまな意見に耳を傾け、本にしても、
  あれこれの本を読み、その場合、自分で判断して、正しいと思う方向
  へ進むべきもの。まちがったと気づいたら引き返せばよい。

  大事なのは、自家発電ですよ。電力は自分でおこさなければだめです。
  大きな会社が黒部の奥あたりで発電して、東京や大阪の家庭で、電燈
  をつける。しかし、精神の世界では、自家発電でなくては話にならない。
  かんじんの発電は、他人まかせにして、電線だけ引っ張って、自分の
  精神の火をともそうとしたって、だめなんです。

『自分をつくる』という題名に惹かれて買った本でしたが、それは文字通り 自分の後半生を、どうこれから組み立てていくか、私の中では重大問題であ ったのです。それに加え、一日の大半を職場で過ごす私は、家におられるお 母さん方のように、自分の子どもたちにあれこれ手を掛けられないことに、 内心申し訳なさも感じていたのです。

その半面、共働きをしていた男性同僚が、夫の仕事や子育てのために妻が多 少犠牲になるのは当然だ、という発言をしたのには強い反発を感じていまし た。私は夫も子どもも大事だけど私の人生も大事。私は家族の犠牲になって、 あとでそのことを嘆いたりしたくないといつも思っていました。それは愚痴 に明け暮れていた、私の母の人生から得た教訓だったからです。

<親の限界>の見出しで、こんなことが書いてありました。

  ぼくは、夫婦、親子、兄弟、つまり家族の関係というものは、二十四
  時間のうちの一時間ぐらいが適当ではないかと思っています。二十四
  時間、親子だぞ、兄弟だぞ、夫婦だぞ、では、息苦しくてたまったも
  じゃない。とても人間の育つ余地がないと思います。

  どうも日本の社会は、窓が開いていなくて、外気の入ってこない密閉状
  態の中で、肉親関係や仲間関係を、いやが上にも強調しないと気がすま
  ないような具合になっている。

ここのくだりを読んだとき、私はすうーっと、気持が楽になるのを感じたも のです。というのも2人の娘を産休明けの、生後43日目から保育園に預けて 働いてきた私には、親子のスキンシップの不足を働く母親に突きつけられる のが、何より不満でした。ずっと一緒にいるだけがベストとは限らない、量 より質をめざすんだと、私なりに気張っていたからです。

仕事をしながら子育てをして、それだけでは自分らしいものがないから細々 と文章を書いていた私は、この本を読んで吹っ切れました。私が悩みながら も漠然と考えてきたことは、そう間違っていなかったんだと。当時家族4人 で、毎月1日に家族会議を開いていたわが家では、夫とも話し合いの結果、 こんなことを親として娘たちに宣言しました。

進学にも、就職にも、結婚にも、親として必要なアドバイスはするし、相談 にも乗るけれど、親の考えを押し付けたり介入はしない。あなたの人生はあ なたのものだから、自分で決めて、どこへ行こうが何をしようが自由。ただ しその意味は、自分で決めて自分のしたことには、自分で責任を持つことが 条件。それができるならあなたたちは自由よ。22歳までは学費や生活の援助 はするけれど、それから先はないと思うこと。

0歳から保育園育ちの娘たちは親を頼りにしていないから、高校を卒業する とさっさと親元を離れ、行きたい大学へ行き、卒業後さらに1年間専門学校 へ行って(学費は援助)、その後は何とか自力で仕事を見つけ自活している。 たぶん、親に言えない苦労もしたと思うが、彼女たちは自由に生きることを 選択したのだからそれでいいのだと思う。問題は私自身のこれからなのです。

  自分の考え、自分の判断、自分の感じ、したがってそれを表現すること
  ばに責任を持つ、これが一人まえの人間の条件だと思います。と同時
  にいつも考えていること、判断したことが、まちがっていないかと、つね
  に反省することが必要でしょう。

  世間では信念の人などといいます。正しい判断に基づく信念ならけっこ
  うですが、まちがったことを正しいと思いこんで信念になったら、とんだ
  はた迷惑です。要するに、自分のほかに、自分を監視し、自分を見守
  っている、もう一人の別の人間を存在させることができるかどうかとい
  うことがかんじんなところです。

この本は1965年から1974年までの、つまり30〜40年前の講演集ですが、いま 読んでも古びていないどころか、逆に現代の世情と重なり合う部分も多く、 新鮮な気持がしました。

 ※引用は  臼井吉見著『自分をつくる』 ちくま文庫
        1986年5月27日 第1刷発行  330円 より       

 ※文中敬称略                       (2006年7月25日)
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『モモ』 ミヒャエル・エンデ著(大島かおり訳)
いまは東京で会社員をしている長女が、小学6年生ころだったと思います。あ る日、「おかあさん、この本すごく面白いよ。読んで!」と、私に1冊の本を見せ てくれました。それは彼女が図書館から借りてきた本でした。お城や亀や砂時 計が描かれた表紙には『モモ』のタイトルと、「時間どろぼうと ぬすまれた時 間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」の長い副題がありまし た。

大きな黒い目に巻き毛の、ボロ着をまとった背の低い、やせっぽちの、まだ8つ とも12歳とも見当のつかない女の子モモが主人公です。つぎはぎだらけのスカ ートに、男物のだぶだぶの上着を着て、足ははだし。古い円形劇場跡の穴ぐら に住みついています。

モモのところには毎日、子どもたちや近所の大人たちが、入れかわり立ちかわ りやって来て、モモと遊んだり話をします。それはモモの笑顔がひどく魅力的 で、相手の話をじっくり耳を傾けて聞くことのできる素晴らしい才能を持ってい たからでした。

読み始めは確かに児童文学でした。しかし読み進むに従い、その内容はとても 哲学的で、大人のため、もしかしたら私のために書かれた本のようにも思えて くるのでした。それは現代の私たちが休むことなく生活に追い立てられ、人生を じっくり味わう楽しみもその意味も失っていくという、ある意味では恐ろしい世界 が描かれていたからです。

『モモ』には、時間泥棒の「灰色の男たち」が大人たちに時間を倹約することを 教える場面があります。例えば床屋の善良なフージーに、耳の聞こえない母親 の世話や、車いすの恋人ダリアに花を届けることや、週1回の合唱の練習や友 だちとのおしゃべりの時間を一秒単位で計算して合計してみせ、その時間を全 部損失だと吹きこみます。そしてこの時間を時間貯蓄銀行に預けるように仕向 けます。それは人間の持つ時間という財産を全て奪おうとする、灰色の男たち の企みでした。

当時の私は、平日は朝8時半から夕方5時まで、土曜日は半ドンの勤めを持っ ていて、保育園児の二女を朝夕送り迎えして働いている母親でした。いつも時 間に追われ、「早く!早く!」と娘たちをせき立て、目まぐるしい日々を送ってい たのです。小学生の長女は、せかせかと働いている両親を見て、灰色の男た ちに時間を盗まれていると、心から心配したにちがいありません。

『モモ』には、モモが灰色の男たちと対決して彼らの金庫から人間のいのちの 時間を取り返し、町の人たちが元のようにゆ ったりした生活を送るようになるまでが書かれています。モモが時間を取り戻 すための冒険をすることになったのは、聞き上手なモモが灰色の男の1人から 次のような本心を聞き出したからでした。

  むずかし仕事だ。人間から生きる時間を一時間、一分、一秒とむしり取
  るのだからな……人間が節約した時間は、人間の手には残らない……
  われわれがうばってしまうのだ…(中略)ああ、きみたち人間ときたら、じ
  ぶんたちの時間のなんたるかをを知らない!

この本を読んだ数年後だったと思いますが、『モモ』がイタリアと西ドイツ(当時) 合作で映画化され、さっそく私は2人の娘を連れて観にいきました。主人公の モモ役の女の子もイメージにぴったりで、原作に忠実に作られた映画でした。 映画化にあたり、エンデはこんなふうに語っています。

  私たちにはもはや情感、ロマン、ファンタジーのための時間がありません。
  今日の合言葉は<時は金なり>です。わたしの『モモ』の物語は、人間が
  生活の時間のために自分を失っていることに気づき始める時代――おそ
  らく未来――が舞台になっています。

現代社会では<時は金なり>は否定できませんが、お金が全てに優先され人 間らしい生活がその犠牲になっているのは否めません。今回、岩波版『モモ』 (大島かおり訳)と、手元にある映画公開に合わせて出版された写真版『モモ の本』を読み直しましたが、その解説にこんな文章がありました。

  大人は忙しいと子どもたちのために使う時間がなくなります。好奇心、知
  識欲、空想力、遊びなど、子どものすばらしい特性を<時間のムダ>と
  見なす社会では、子どもは犠牲にされやすいのです。ですから『モモ』は
  子どもの権利を擁護する本であるとも言えます。

『モモ』の初版は1973年で、エンデは未来の物語として設定していますが、そ れはもう、いまのことではないでしょうか。子どもたちが外で自由に遊べない 社会になっています。いまこそ『モモ』の世界が問い掛ける視点から、私たち はもう一度、「時間」について真剣に考える時期に来ているのではないでしょ うか。

『モモ』を娘に教えられて読んだ私でしたが、実のところすぐに私の生活が変 化したわけではありませんでした。相変わらず仕事は忙しく、そのころ長女が 絶対観たいとせがんだ映画を、とうとう連れて観に行きませんでした。いま 思えば半日あれば行けたのに、その気持の余裕すら当時の私にはなかった のです。駄目な母親でした。一方、長女はさばけていて、よく働きよく遊び生 活の楽しみ方も上手です。きっと『モモ』から多くのものを得たのでしょう。

 ※引用は ・ミヒャエル・エンデ『モモ』(大島かおり訳)
        岩波書店 エンデ全集3 1996年9月6日 第1刷発行
       ・MOMOの本(FILM BOOK) 岩波書店 1987年出版 より
 ※文中敬称略                 (2006年6月29日)
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『光の中に』金史良(キムサリヤン)著
現代日本文学の中に、確かな足跡を残す外国人作家たちの作品があります。在日 朝鮮人作家が日本語で書いた小説群がそれです。私がその一人である李恢成の 小説を読んだのは20代前半、つまり30年以上前のことでした。1972年、李恢成が 第66回芥川賞を受賞した「砧をうつ女」を読んだのがきっかけでした。それを読ん だ私は、それまで考えたこともなかった民族の誇りというものの強さに遭遇し、さ らに金石範、金達寿、鄭承博、李良枝など、日本語で表現する在日朝鮮人作家 の存在を知ったのです。

彼らの作品全体から発されるある哀しみ、民族意識の強さに、私もいやおうなく 日本人としての意識を強く感じながら読まざるをえませんでした。気楽には読め ないから、疲れます。そんなこともあり、いつのまにか彼らの作品をあまり読ま なくなりました。ところが数年前、書店で文庫本の棚に目を走らせているとき、 金史良『光の中に』という背文字に目が止まりました。作者名と題名が何ともい えず調和していて、<読みたい>と直感的に思いました。

「光の中に」は400字詰め原稿用紙にして75枚ほどの短い小説です。この作品は 最初『文芸首都』1939(昭和14)年10月号に掲載され、その年の芥川賞候補作と なっています。作者25歳のときの作品です。私はこの小説の主人公の、通称南 (みなみ)先生、本当はナム先生の人間としてのあたたかさが大好きになりまし た。

  元来S協会は帝大学生が中心となっている一つの隣保事業の団体で、
  そこには託児部や子供部をはじめとして市民教育部、購買組合、無料
  医療部等もあって、この貧民地帯では親しみ深い存在となっていた。

そのS協会の活動に南青年は参加しているのですが、夜間の子供部に来ている 山田春雄という「実に不思議な子供」に興味が引かれます。山田少年はある日、 南先生が朝鮮人であることを知ると、朝鮮人!とことさらはやし立て、意地悪く 南先生につきまとうようになります。百名余りいる子供部には「母の会」があり、 月2、3回母親たちが交流を行なっていますが、山田春雄の母は一度もS協会に 顔を出しません。

子供部が連休を利用して、泊まりがけの高原のキャンプに行くことになりますが、 山田少年は行かないといいます。しかし当日、列をなして上野駅へ出発する子 供たちの姿を、山田少年はS協会の屋上からじっと眺めています。それを見つけ た南先生は、不憫に思い、山田少年を上野公園へ誘います。喜んでついて来た 山田少年はやっと少しうちとけ、南先生と話すようになります。

  「先生も帝大なの?」彼はほんとに驚いたのに違いなかった。
  「朝鮮人も入れてくれるかい?」
  「そりゃ誰だって入れてくれるさ、試験にさえうかれば・・・・」
  「嘘云ってらい。僕の学校の先生はちゃんと云ったんだぞ。この朝鮮人
  しようがねえ、小学校へ入れてくれたのも有難いと思えって」

そういう会話をしているうち、ふと南先生は山田少年が朝鮮の子供ではないかと 気づきます。その直後、彼の母親が刑務所帰りの父親に刃物で頭を切りつけられ、 重傷を負ってS協会の医療部に担ぎ込まれるという事件が起きます。その事件で みせた山田少年の複雑な様子から、南先生はだんだん山田少年の陰惨な家庭環 境を知るようになります。少年の母は朝鮮の人でした。

  私は近所の人々からいためつけられひん斥されている一人の同族の
  婦(おんな)を想像した。そして内地人(註:日本人)の血と朝鮮人の血を
  享けた一人の少年の中における、調和されない二元的なものの分裂の
  悲劇を考えた。「父もの」に対する無条件的な献身と「母もの」に対する
  盲目的な背巨、その二つがいつも相剋しているのであろう。殊に身を
  貧苦の巷に埋めている彼であって見れば、素直に母の愛情の世界へ
  ひたり込むことをさし止められたのに違いない。

物語は非常に暗い内容ですが、この小説にはときおり明るい光が差し、ユーモア があり、何ともいえない人間的なぬくもりが感じられます。きっと作者の資質が そうなのでしょう。異常ともいえる境遇に生まれ「痛めつけられ歪められて来た」 山田少年は、南先生と交流するうち徐々に心を開き、舞踏家になりたいという夢 を口にします。南先生は、少年がはじめて光の中に向って行くのを感じます。

作者の金史良(キムサリヤン)は1914(大正3)年、朝鮮の平壌府(現ピョンヤン)の 裕福な家庭に生まれ、高校時代反日学生闘争に関連した活動で退学処分となり、 京都帝大にいた兄の助けで17歳で日本に渡ります。旧制佐賀高等学校へ入学し て、1936(昭和11)年、東京帝大文学部に入学し、帝大セツルメントに所属して活 動しながら、小説を書き始めます。

帝大卒業から終戦までは主に日本で創作活動をしますが、太平洋戦争開始の翌 日に思想犯予防拘禁法により鎌倉警察署に拘禁されるなど、激動の時代を生き 抜いて、戦争が終わると平壌へ帰郷しました。1950(昭和25)年6月、朝鮮戦争が 始まると従軍作家として朝鮮人民軍とともに南下しますが、アメリカ軍の仁川上 陸により10月から11月にかけて朝鮮人民軍が撤退する際、心臓病悪化のため隊 を落伍。その後消息を絶ち行方不明のままですが、死亡したと判断されています。

旧制高校時代からすでに小説の習作を始めていた金史良は、帝大生となって東 京に住みますが、そこで移住朝鮮人と呼ばれる同胞たちが蔑視や差別の中で生 きている現実をまのあたりにして、その実態を素材に日本語で小説を書いていく ことになります。つまり日本人のために書いたということです。金史良が書き残し た作品の数々は、朝鮮と日本の関係を庶民の目で写した合わせ鏡のように私に は思えるのです。

金史良は日本で青春時代を送り旺盛な創作活動をしましたが、戦後朝鮮に戻っ たのは、「南北統一」という希望があったからなのでしょう。彼の書いた最後の文 章「海が見える」は<「南北統一」という夢の一歩手前まで到達した歓喜の文章> (解説)だそうです。しかし夢を信じたままの彼は36歳で戦場に消えました。

統一問題は半世紀を経てもなお未解決のままですが、私は4年前ドイツへ行って、 打ち壊されたベルリンの壁を見てから、隣国の「南北統一」も決して不可能なこと ではないと思うようになりました。現在は韓流ブームといわれますが、それと併せ て在日の作家たち、金史良の作品もぜひ多くの日本人に読んで欲しいと思います。

 ※引用は 金史良作品集『光の中に木』講談社文芸文庫 
            1999年4月10日発行 1050円 より
       ※文中敬称略            (2006年5月31日)
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『木』『崩れ』 幸田文著
幸田文は明治の作家幸田露伴の二女として1904年に生まれまたしたが、少女時代に 母と姉を相次いで亡くしています。継母を迎えた父露伴に文は家事や身辺の厳しいし つけを受けながら女子学院を卒業しますが、22歳のとき弟が夭折して一人っ子になり ます。平穏な少女時代ではなかったようです。

その後清酒問屋に嫁ぎますが十年後に離婚し、一人娘の玉をつれて実家に戻ります。 その後ずっと父露伴のそばで過ごし、看取ったのち、露伴の言行を追憶する文章を発 表するや、たちまち注目されるようになります。エッセイストとして出発した文が初の長 篇小説『流れる』を書いたのは、五十歳を過ぎてからでした。

幸田露伴の娘ではあっても生活者として普通に生きてきたこと、五十歳すぎてからの 作家デビューなど、異色の作家といえます。発表する小説は次々と文学賞を受賞し、 デビュー10年後には早くも全集が出版されました。しかし文はジャーナリズムのおだ てに乗ることなく、無理な創作にも手を出さず、文壇の外側で着実に自分の足跡を刻 んだようです。

特に私の愛読するのは、72歳から雑誌に連載を開始した樹木にまつわる旅と、全国 の山の崩落地を訪ね歩いたエッセイです。その2つのシリーズは幸田文の生前には 出版されることはなく、1990年に86歳で亡くなった後に『木』と『崩れ』のタイトルで単 行本化されました。

『木』の中の「藤」の章には、幼いころ父露伴が子どもたちに違う木をそれぞれ与えて 育てさせ、草木に関心をもたせたことが書かれています。長じて母親となった文は、 娘をつれて植木市に行くことになり、露伴は「孫娘の好む木でも花でも買ってやれ」 とガマ口を文にわたします。

市に行くと、娘が欲しがったのは明日にも咲きそうな、蕾をたわわにつけた藤の鉢植 えでした。高さが文の背丈ほどもあり、植木市では最上の花ものでした。幼い娘に高 級品は不要と、文はあれこれの花や木に娘の気を散らして、小さい山椒の木をあて がうように買って帰ります。ところがそれを知った露伴は、かんかんに怒ります。

植木市で一番の花を選んだのは、花を見る確かな目を持っていたからだ。金が足り なければガマ口ごと手付けに打てば済むものを、おまえは親のいいつけも、子のせ っかくの選択も無にして、何と浅はかな。多少高くても、その藤を子の心の養いにし てやろうとなぜ思わないのか、その子一生の心のうるおいになればその子が財産 をもったも同じことだ、というわけです。子育て中の私も似たような経験があったので、 うなだれて読みました。

『木』にはほかに「えぞ松の更新」「ひのき」「杉」など、70歳過ぎて憑かれたように全 国を訪ね歩いた作者が、行く先々で出会った木の表情や、木に寄せるただならぬ 思いが情感豊かに描かれています。「ひのき」の章では、森林に詳しい同行者から こんな話を聞いています。

 老樹と、中年壮年の木と、青年少年の木と、そして幼い木と、すべての
 階層がこの林では揃って元気なのです。将来の希望を託せる、こういう
 林が私たちには一番、いい気持に眺められる林なんです。(『木』より)

木の魅力、不思議にとりつかれて、えぞ松の倒木更新を見に北海道の富良野へ、 ひのきを見に何度も山へ通い、縄文杉に逢いに鹿児島県の屋久島へ行き、楓(か えで)の純林を見に安倍峠(静岡と山梨の県境)に踏み込みます。その過程で静 岡県の大谷崩や鹿児島県桜島の土石流を目にするうち、文はだんだん自然現象 の崩壊や荒廃ということへ気持が傾いていきます。文は自分のうちに新しく芽生 えたものに、無関心ではいられないのです。

 心の中にはもの種がびっしりと詰まっていると、私は思っているのであ
 る。一生芽をださず、存在すら感じられないほどひっそりとしている種
 もあろう。思いがけない時、ぴょこんと発芽してくるものもあり、だらだら
 急の発芽もあり、無意識のうちに祖父母の性格から受継ぐ種も、若い
 日に読んだ書物からもらった種も、あるいはまた人間のだれでもの持
 つ、善悪喜怒の種もあり、一木一草、鳥けものからもらう種もあって、
 心の中には知る知らぬの種が一杯に満ちている、と私は思う。何の種
 がいつ芽になるか、どう育つかの筋道は知らないが、ものの種が芽に
 起きあがる時の力は、土を押し破るほど強い。(『崩れ』より)

エッセイ集『崩れ』には、自分の高齢をものともせず、静岡県の大谷崩れ、富山県 の鳶山崩れ、長野県の稗田山崩れのほか、北海道の有珠山、鹿児島県の桜島な ど火山にも足を運び、決して美しいだけではない自然現象を前にして、その荒々 しい孤独感を間近に感得し、きめ細かな文章で表現しています。

幸田文の作品は、どちらかといえばこまごました家事万端の営みを、台所や庭を 中心に日常生活を描いた作品が多かったのですが、70歳近くになってその世界 を飛び出したのです。『木』シリーズは文80歳の1984年まで、十数年間連載され ています。老いるごとに増していくその行動力・好奇心に、作家魂を見る 思いです。

人の一生を木のありように重ね、崩れに老いを仮託して書かれた文章には、生 活者として生きてきた人の文章らしく、抽象的な物言いも背伸びした理論もあ りません。自分の目で見てさわって感じたものだけ、経験に根ざした確かなも のだけ、知らないものは知らないと、自分の言葉で書かれたその密度濃い日 本語の文章に、私は教えられることがとても多いのです。

 ※引用は 幸田文著『木』新潮文庫 1995年12月1日発行
          幸田文著『崩れ』講談社文庫 1994年10月15日発行 より
 ※文中敬称略                       (2006年4月25日)
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『中野重治詩集』中野重治編
私は中学生になったころから、見よう見まねで詩を書き始めました。確か国語の教科書 に、石川啄木や北原白秋や中原中也の詩が載っていて、自分でも詩を書きたくなったの です。中でも私が一番気に入り大好きになったのは萩原朔太郎の詩でした。もしかした ら朔太郎の詩は、高校の教科書だったかもしれませんが。

必要以上に深刻ぶって物事を考えていた思春期の私は、明るさより暗さを、にぎわいよ り孤独を好んで、萩原朔太郎やボードレールの『悪の華』や、ランボー詩集の翻訳本な どを愛読しました。その中味をどれほど理解していたか今思えば疑問ですが、そんな詩 集を読んでいる自分が好きだったのかもしれません。

大学生になってから散文を書くようになりましたが、詩のほうは萩原朔太郎や立原道造 をまねた詩風からいつまでも脱出できず、当時の自作の詩を集めたノートを見ると、赤 面するような詩ばかり書いています。詩というものを書く厳しさを知らず、詩らしい語句 を辞書から探しては書いて満足する、そんな気分があったと思います。

就職して間もないころ、私はそれまで評論家として知ってはいても、詩人としてはあまり 知らなかった中野重治詩集を文庫本で見つけ、買いました。それを開いて読むうち、私 は詩というものの凄まじさ、詩精神とでも呼ぶべきものの骨太さに、すっかり打ちのめさ れました。自分の詩精神のなさ、思想性のなさに気づいたからです。私は詩(と思ってい たもの)を書けなくなりました。

     歌

  お前は歌うな
  お前は赤まんまの花やとんぼの羽根を歌うな
  風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
   すべてのひよわなもの
  すべてのうそうそとしたもの
  すべての物憂げなものを撥き去れ
   すべての風情を擯斥せよ
  もつぱら正直のところを
  腹の足しになるところを
  胸先きを突き上げて来るぎりぎりのところを歌え
  たたかれることによつて弾ねかえる歌を
  恥辱の底から勇気をくみ来る歌を
  それらの歌々を
  咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ
  それらの歌々を
  行く行く人々の胸廓にたたきこめ

この詩の「お前は歌うな」から数行は私も知っていましたが、それまではあまりに直截的 な表現だと思い、敬遠してしっかり読んでいませんでした。そのころ私は自分を表現す る手段として、例えば絵を描いたり、踊ったり、歌を歌ったり様々な方法の中で、文章を 書くことを選ぼうとしていました。

そして何を書くのか、書くとはか何かについて、新たな悩みに直面していたのです。そん な私に『中野重治詩集』は最も厳しい答えの一つを示してくれたよう思います。次も有名 な詩です。

     雨の降る品川駅

  辛よ さようなら
  金よ さようなら
  君らは雨の降る品川駅から乗車する

  李よ さようなら
  も一人の李よ さようなら
  君らは君らの父母の国にかえる

  君らの国の河はさむい冬に凍る
  君らの反逆する心はわかれの一瞬に凍る

  海は夕ぐれのなかに海鳴りの声をたかめる
  鳩は雨にぬれて車庫の屋根からまいおりる

  君らは雨にぬれて君らを遂う日本天皇をおもい出す
  君らは雨にぬれて 髯 眼鏡 猫背の彼をおもい出す

  ふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがる
  ふりしぶく雨のなかに君らの瞳はとがる

  雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる
  雨は君らのあつい頬にきえる

  君らのくろい影は改札口をよぎる
  君らの白いモスソは歩廊の闇にひるがえる

  シグナルは色をかえる
  君らは乗りこむ

  君らは出発する
  君らは去る

  さようなら 辛
  さようなら 金
  さようなら 李
  さようなら 女の李

  行つてあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ
  ながく堰かれていた水をしてほとばしらしめよ
  日本プロレタリアートの後ろだて前だて
  さようなら
  報復の歓喜に泣きわらう日まで

     (註:一部旧漢字を常用漢字に改めました)

この詩を読むたび、我知らず物思いに引き込まれます。リズミカルな言葉のくり返し、 わかりやすい言葉、やさしい言い回しの中に、雨の品川駅での別れのドラマが静か に進行し、読む人の脳裏にありありとその情景が浮かびあがります。人はともかく私 自身は読みながら、未だ解決されない問題やさまざまな自分の経験が、この詩と結 びついてしまうのです。

『中野重治詩集』を読み直して、ずっと以前一度読んだきりの中野重治の小説『歌の わかれ』も読み直してみたくなりました。日本の伝統的な抒情詩とは異なる中野重 治の抒情の世界が、別な側面から理解できそうに思えるからです。

 ※引用は 中野重治編『中野重治詩集』新潮文庫 青22
          昭和46年9月20日 26刷  より
 ※文中敬称略                   (2006年3月26日)
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『ある徴兵拒否者の歩み』北御門二郎著
1988年初夏、当時福岡市に住んでいた私は、友人の誘いで北御門二郎さんの講演会 へ出かけました。それが北御門(きたみかど)さんとの最初の出会いでした。当時75歳 の北御門さんは、小柄ながら姿勢も良く、淡々と話されるその戦前戦後の歩みは、私 には衝撃的な内容を含んでいました。

北御門さんは1913年熊本県生まれ。旧制熊本中学から第五高等学校を経て、東京大 学英文科に入学。ロシア語に熱中してやがて退学。戦時中、トルストイの絶対平和主 義を我が信念とした北御門さんは、徴兵拒否ののち放免され、帰郷して水上村湯山 で農業を営みます。

あの時代に徴兵拒否の思想を貫くのは、銃殺覚悟でなければできません。そこまで 信念を貫かれた北御門さんを支えているものは何か。興味を抱いた私は、その後数 年文通しましたが、北御門さんからトルストイの書簡を翻訳した分厚いノートのコピ ーも送られてきました。その中には安部磯雄や徳富健次郎宛のものも含まれています。

1999年、長く絶版になっていた北御門さんの著書『ある徴兵拒否者の歩み』の新版が 出たとき、すぐに買いました。この本には北御門さんの戦前・戦中・戦後の歩みが、 当時の日記なども引用されて書かれています。誠実と信念を貫くことを、観念ではな く、生活の中に実行されてきた北御門さんの生き方を知ることが出来ます。襟を正し て読む、ということを読みながら実感した本です。

本の冒頭は、旧制高校一年生の17歳のとき、友人の家にあったトルストイの『人は何 で生きるか』『イワンの馬鹿』を読み、その中の絶対平和思想に激しいショックを受け たことから始まります。

 トルストイの説く所が、小学校以来十数年にわたって受けてきた人の上
 に人を置き、他民族への敵愾心とその殺戮を賛美する学校教育の内容
 とあまりにもかけへだたっていたからである。一体トルストイが嘘をつい
 ているのだろうか? それとも学校の先生方が永年私を欺きつづけて来
 たのであろうか? と自問せざるを得なかった。こうして徐々にその点に
 関しての学校教育への不信が強まるにつれ、ますます自分がトルストイ
 から離れられなくなるのを感じるようになった。

東大に入学して授業に失望した北御門さんは、トルストイを本格的に読むため、1936 年ロシア語の勉強のためハルビンへ渡ります。そこで北御門青年は侵略者として市 中を闊歩する多くの日本兵を見て、嫌悪します。「彼ら自身にではなく、彼らを駆り立 てる美髯(びぜん)美服の連中こそ罪は大きいと承知しているものの。」と。

昭和35年、あるトルストイ翻訳者の誤訳を指摘したことから、誤訳論争がまきおこり、 米川正夫から<他人の翻訳の揚足取りは誰にでも出来る。要は自分で完全な仕事 をしなけりゃ意味がない>の発言を受けて、尊敬するトルストイの原作に忠実な翻 訳を始めます。それは出版の見当もないまま、農業の傍ら続けられた個人訳でした。

幸い東海大学出版会から『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』の三大長篇小説 が出版されています。手紙で、いつか北御門さん宅をお訪ねしますと書いて十数年 後の2000年3月、思いがけず知人たち数人と、熊本県水上村湯山のご自宅へ行く機 会を得ました。数年前に大病をされたという当時87歳の北御門さんは、来客者には 応接間で対応されるまでに回復され、長男ご一家と同居されていました。

ロシア語の翻訳を始めたいきさつ、徴兵拒否のこと、河上肇のこと、澤地久枝さんと の対談のこと、キリスト教と復活のこと、老いと死について等々話は尽きません。床 の間には河上肇筆の毛筆の手紙が掲げてありました。北御門さんは1933年の京大 事件の立役者瀧川幸辰や河上肇と戦時中交流があり、反戦論者として弾圧され栄 養失調同然の河上肇に食料を送っていたのです。湯山への誘いに対する返書が、 表装され飾られていたのです。

   北御門二郎君に寄す

   白昼なほ門を閉ぢ
   銭湯にもゆきがての衰弱の身を
     蒲団の上にころがして
   魂のみは遠く三百里
   野こえ山こえ川こえて
   君住み給ふ村に遊ぶ

   一旬の後には栗の実熟し
   薩摩薯もとれ
   今年は米も豊作
   山には温泉もあり
   瞹々たる遠人の村
   依々たる墟里の煙
   暫く淵明の閑居に泊し
   晴耕雨読の様を見よと
   言ひてよこせし君の村に

     昭和十九年八月二十六日  京都にて
        六十六叟  河上肇

2003年秋、再度北御門さんのご自宅を数名で訪問しました。市房山の山裾にある自 宅裏には小川がせせらぎ、周囲には四季折々の樹木が生い茂り、緩い傾斜地を利 用した畑や丘の上には無農薬の茶が野菜が栽培されています。ここで50年を自給 自足に近い形で営々と農業を続け、座してはトルストイの研究と翻訳の日々。北御 門さんは講演の中でこう語っています。

 私は自分の翻訳作業が、基本的には道楽としての翻訳であったことを、
 胸を張って言明したいと思う。私は、自分がトルストイをどうしても翻訳
 せずにいられないから訳した。自分のこの世における使命が、心を尽し
 力を尽してトルストイを日本語に翻訳することによって、なるべく多くの
 日本人に、トルストイの国境を超えた精神的交流にはいって頂けるよう
 努力することにあることを思い知ったから翻訳したのである。
  (「道楽としての翻訳」:日刊人吉新聞:昭和62年1月1日号)

人生途上で出会った人の中で、北御門二郎さんは私にとって「信念の人」です。本 の著者と実際に会って話すことはだいたい困難ですが、北御門さんは書いたこと と、生きている中身が一致した人であり、本を読んでも、実際に会っても人間とし て尊敬できる希有な人であることを、この目で確認できたのは幸運でした。北御門 さんは2004年7月17日、91歳の天寿を全うされました。

   ※引用は 北御門二郎著『ある徴兵拒否者の歩み』地の塩書房
        1999年7月30日発行 1600円 より
 ※文中敬称略          (2006年1月30日)
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『死者の書』 折口信夫著
一般に読書は良い事とされ、推奨されます。しかし私の経験では手放しでそうとばかり は言えない苦い思い出があります。中学生時代、教科書で学んだ芥川龍之介「くもの 糸」、太宰治「走れメロス」そして忘れてしまったけれど北村透谷の文章。それぞれの解 説的な文章の中に副読本としてあげられていた小説類を、さらに図書館へ行って読む というのが私の中学時代の読書方法でした。

その結果、私は身の回りの出来事、親子の関係、友達関係など、のっぴきならないそれ らを悲壮的的かつ深刻に考える思考パターンにはまり込んでしまったのです。あとで考え ると、透谷も芥川も太宰も自殺した作家でした。彼らの一種厭世的な暗さは、ただでさ え自分を取り巻く環境が嫌になっていた私の中学時代を、もっと暗いものにしてしまい ました。

高校生になったとき私は自分を変えたいと思い、世界文学に走ってたちまち熱中しまし た。翻訳ということもあり読みやすく、明るくカラリと乾燥している空気を感じ、暗く湿っ ぽい日本の小説との対比を否応無しに感じたものです。読むのに時間と体力を要する 大河小説を読めたのも、高校生だから可能だったのでしょう。

国文科の学生になったときまた日本の小説を読み始めましたが、以前ほど深刻になる ことはもうありませんでした。ある日万葉集の教授が折口信夫の「死者の書」を絶賛さ れました。ぜひ読みなさいと。でもその時19歳の私は、「死者」という題名を聞いただけ で敬遠してしまいました。実際に読んだのは30年も経ってからです。書店で本を探して いて文庫本の『死者の書』の背文字を見つけ、そうだ読まねばと思い出し、買ったので す。

  彼(カ)の人の眠りは、徐(シズ)かに覚めて行った。まつ黒い夜の中に、
  更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、
  覚えたのである。
  した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。
  たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて来る。

  さうして、なほ深い闇。ぽつちりと目をあいて見廻す瞳に、まづ
  圧(アツ)しかゝる黒い巌の天井を意識した。次いで、氷になつた 
  岩牀(ドコ)。両脇に垂れさがる荒石の壁。した/\と、岩伝(イハヅタ)
  ふ雫の音。

この冒頭の数行で物語は静かに幕を上げますが、私はすぐにその叙述の特異さに惹 き込まれてしまいました。日本史で有名な大津皇子の悲劇。父天武天皇崩御ののち 草壁皇子と対立し、謀反の意思ありと捕らえられて処刑され、大阪府と奈良県境にあ る二上山に葬られた24歳の皇子。その殺された皇子の死霊が長い眠りから醒め、な いはずの目、耳、肉体の全能を働かせ、独白を紡ぎだすという幻想的な蘇生譚で始 まります。

大津皇子事件に天から下って非業の死を迎える天若日子(あめわかひこ)神話を重ね、 さらに藤原南家の娘が当麻(たいま)寺にこもり写経をしたという中将姫伝説が重ね合 わされているこの小説は、藤原南家の郎女(いらつめ)が二上山の背景に見た神々し い人の姿を忘れられず、当麻寺にこもり蓮の糸で織りあげた曼荼羅(まんだら)にただ 一人の神々しい姿を描き顕わし、死霊は郎女を二上山へ呼ばうという、時空を超えた 死霊と郎女の交歓が切なく描かれます。

作者折口信夫(釈超空)は紹介するまでもなく国文学者、民俗学者、歌人、詩人として あまりに有名。この小説は伝承・神話・古代史・原始信仰などの研究を創作化したも のとも言われますが、私にとってはその神秘的内容も、詩的できりりと引き締まった 文体も、ただただ驚き以外言うべき言葉をもちません。私にとっての「死者の書」は、 評価したり何か別の作品と比べるという性質の作品ではありません。

世に文豪と呼ばれる作家の作品では感じ得なかった体験が、「死者の書」ではありま した。読み始めた一行目からその古風な文体の醸し出す世界に惹きこまれ、読みな がら体がこわばっていき、胸は高鳴り、ついに涙さえ流れ出てきたのです。私は茫然 自失のうちに読み終えましたが、それは私の日本人としてのDNAに織り込まれた太 古の記憶を呼び覚まされるような、不思議な精神運動だったのです。

現代日本では活字離れと言われますが、その原因は文章表現が写真やテレビや映 画のもつ写実性・映像表現に負けているからです。文章そのもの価値より映画やドラ マになりやすい作品が喜ばれ、書かれる傾向にあります。そんな風潮の対極にひっ そり聳え立つのが「死者の書」です。

「死者の書」は私にドラマにも映画にも置き換えられない日本語の持つ奥深い表現力 を知らしめ、言葉の力だけで読む人を惹きつけ、想像力を喚起させ、無意識の精神 世界を引き出してくれる小説。読むたびに静謐な叙述が孕む豊穣なイメージに圧倒 され続ける、稀有な小説なのです。

 ※引用は 折口信夫著『死者の書・身毒丸』中公文庫
        1999年6月18日発行 590円 より    (2005年12月30日)
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『人間のしるし』 クロード・モルガン著
今回は、就職して間もない1971(昭和46)年に初めて読んだ現代岩波叢書の1冊、 クロード・モルガン著(石川湧訳)『人間のしるし』を取り上げようと決めていました。 もう長い間読んでいなくて、本棚の一番上段に出番を待つかのように、ひっそりと 2冊並んで立っているのを時々見上げていたからです。1冊は古本屋で私が買っ たものです。しかしなぜ2冊あるのか、ずっと気になったままでした。

私が買った方は比較的きれいで、中表紙には最初の持ち主らしい朱色の印影が あり、本文にはあちこちボールペンでダイナミックに線が引いてあります。私はも っぱら鉛筆と付箋紙で印を付け、ノートに書き写します。もう1冊は何度も読まれ たらしく、表紙はかなりヤケてシミも多く全体が茶色がかっています。本文には所 々鉛筆で傍線が引かれ、「 That's right」 などと書き込みもあります。パラパラと めくって一番最後の余白、つまり裏表紙の内側に1970.3.2 Makiko.O と署名があ るのを発見して驚きました。

M.Oさんは、私の最初の職場の先輩です。以前にも書きましたが、私の仕事は図 書館司書で、配置先はある国立大学の教養部分館でした。中途採用だった私の 勤務初日は1971年1月11日でしたが、当時はまだ大学紛争と70年安保闘争の余 波が続いていて、学内でセクト間の衝突が起きたり、正門の外に機動隊が出動す る事態が日常的に起きていました。就職後間もない私に声を掛け、教職員組合に 入るよう誘ってくれたのが本の主、Makiko さんでした。

当時、彼女は組合婦人部の役員をしていました。その彼女が私を啓発したく て貸してくれたのでしょう。読み始めると、それまで読んだどんな小説とも違って 緊迫感があり、厳しく、問題提起に満ちた内容でした。まもなく人生の荒波をもろ にかぶった私は、あるとき古本屋で同じ本を見つけ、思わず買いました。旧友に 再会したように嬉しかったのです。同じ本が2冊あるなぞが解けましたが、借りた 本のことはすっかり忘れたまま、何と34年もたっていました。

作者のクロード・モルガンは1898年1月29日生まれのフランス人。高度な技術を 持った電気技師でしたが、第1次世界大戦に従軍後、1938年から著作業に入り ます。第2次世界大戦が起こると再び従軍しますが捕虜となり、ドイツ収容所か ら釈放されるやいなや、レジスタンス=反ドイツ抵抗運動に参加し、ドイツ軍に よる占領下のパリで仲間たちと非合法の新聞「フランス文学」を、パリ解放まで の2年間出し続けます。発覚すれば銃殺確実という状況下で、フランスを守るた めの出版を密かに続けたのです。

訳者のあとがきによれば、この小説は1941年1月、ドイツの収容所内で書き始 められ、完了は1943年8月14日のまだ戦時中です。物語は収容所の描写から 始まります。主な登場人物は収容所に囚われた主人公のジャン、ジャンの帰 りを待つ妻のクレール、ジャンとクレールの共通の友人ジャックの3人です。 ジャンとクレールは夫婦ですが、ジャックとクレールは十代のころから強い精 神的な結びつきを持つ友人でした。それを知ったジャンは2人の仲を疑い嫉 妬しますが、そんなジャンをジャックは批判します。

 きみが失うのをおそれているのは、クレールのことではなくて、その
 幸福なんだ。(略)きみは、クレールのこと、彼女の情熱、彼女の思想、
 彼女をおびやかしている危険のことなどは、すこしも気にかけていない。
 まるで彼女が品物か、それとも奴隷ででもあるかのように、クレールを
 所有することばかり考えている。

この3人の動向が「フランス知性の抵抗運動の集約的表現」(訳者あとがき)と なっているのがこの小説の特徴といえます。小説は第一部と第二部からなり、 第一部はジャンとジャックの収容所での再会。ジャックは脱走するものの、捕 まって連れ戻され、やがて病死するまでが描かれます。

第二部では、ジャックの死後ジャンは釈放され、妻クレールと子供の待つドイ ツ占領下のパリへ戻りますが、ある日妻クレールの手帳を見つけ読んでしま い、ジャンは妻について知らなさすぎた自分に打ちのめされます。私もこの 「クレールの手帳」の部分を読んだとき、ぬるま湯からもたげた頭をガンと殴 られたような、強烈な印象を受けました。

 結婚―未知の国への移行。国境のむこう側でどんなものが発見される
 かわからない。大きな変化を期待する。すばらしい飛躍に身がまえる。
 それから、ただあっけなく、ジャックがあんなに軽蔑して言うところの、
 ブルジョア的幸福の中にはまりこむ。

 私は意義のある生活がしたいのだ。両親が職をおぼえさせてくれなかった
 のが、残念だ。私には、夫婦や家庭の二人または三人での利己主義とい
 うものが、理解できない。飛行機は速力によって空中にうかぶのだ。愛と
 いうものもやはり、動きの中でしかつづきもしないし、花咲きもしない。

 自分の思想を表現するために語る――これが、あらゆる教育のイロハで
 なければならないだろう。

 体質的な差異。ジャックは倦むことなく、未来にむかって飛躍する。かれ
 のすべての努力は、創造を目ざしてすすむ。ジャンにとっては、知的活動
 も、ほかの娯楽とおなじように、時間つぶしにすぎない。ジャックは彼の
 思想を、行為にまで発展させる。ジャンは思考するだけで満足する。

 私は知識人と結婚した。それなのに、私の生活は、どこかの商人とでも
 結婚したのと、ほとんど同じことである。知的生活というものは、なぜ、
 職業をこえて発展しないのだろう?

 ジャックからの手紙。音楽が持ち得る意味について、おどろくほどの烈し
 い言葉。《芸術は、われわれの意欲次第でどんな意味にでもなる。人が
 芸術をだらしなく放任するとき、人が自分自身の創造をきわめて高いとこ
 ろから監視しないときには、芸術は悪徳とおなじくらい、人を堕落させる
 ことができるのです。(略)それは不在証明、免罪符、カムーフラージュ、
 裏切りとなり得る。それは、人間たることを放棄する音楽家や詩人を、卑
 劣さのなかに投げ込むこともできる。モーツァルトを演奏することによっ
 て、おのれの純粋さをとりもどすというのは、教養ある殺人者の誰にでも
 できることなのです。》

この小説には、戦時下に命がけで守ろうとしたフランスの表現の自由、ナチス ドイツに対する抵抗の精神、芸術とりわけ音楽の持つ本質について、結婚に おける愛情の問題、そして思想的な闘争の必要性等々、若い頭では消化しき れないほどの示唆に富んでいました。とりわけ独身の私は、この小説に描か れた結婚観、愛情観には強い刺激と魅力を感じました。その影響は、のちに 私が2度も結婚するはめになったことと無縁ではないように思います。

久しぶりに読み返して、フランスがファシズムに対して、いかに人間と文化を 守ることに命がけで闘っていたかを知り、同じ時代に日本はどうであったのか を考え合わせてしまいました。思想や言論や自由に対するフランス人の意識 と歴史の根強さを改めて考えさせられます。それは文字通り血みどろになっ て抑圧者から勝ち取り、守られてきたものであるからです。

「訳者のあとがき」として、巻末に石川湧氏がこう書かれていて、ドッキリさせられました。その文末に は、「京都 1951年12月1日」と記されています。

  「ユマニテ共通の敵ナチ主義の亡霊が、衣装を着かえて再現する気配
  のただならぬ今、モルガンのはたす役割はますます大きいものがある
  ばかりでなく、われわれの日本においても、かれらの態度に学ぶべき
  ところが少なくはあるまい。」(石川湧)

  ※引用は 岩波現代叢書 クロード・モルガン著『人間のしるし』
         石川湧訳 1967年6月30日 第24刷発行 ¥300 より
                              (2005年11月26日)
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『洟を垂らした神』『暮鳥と混沌』吉野せい著  
吉野せい、という名前を知る人はもう少ないかもしれない。その女性は1899年4月15日 福島県小名浜生まれ。高等小学校卒業後、検定で教員資格を得て、17歳より2年間小 学校教師として勤め、その後福島県平町で牧師をしていた詩人の山村暮鳥と知り合い、 その感化を受けます。22歳のとき阿武隈山系菊竹山麓の荒地を開墾していた小作農 民吉野義也と結婚。網元の家で生まれたせいは、山に入り開拓農民となります。

せいは結婚前にすでに小説を書いて懸賞に応募したり、同人誌に作品を発表していま した。考古学者の八代義定とも出会い、その蔵書を自由に読める幸運を得て20歳前後 の数年間を読書に明け暮れ、作品を書いては山村暮鳥の指導を受けていました。いつ かきっとロマン的な大作を書き上げるんだ、という希望と野心に燃えながら。しかし暮 鳥は若いせいに対し、決して書き急がぬよう、しっかり鍛えておくれ、と諭します。

夫となった吉野義也は農家の三男の生まれ。義也は家の農業を手伝う傍ら、20歳ころ から詩を書き始めていました。21歳のころ自家生産の野菜の行商をするかたわら町の 本屋に入り浸っているうち、日本聖公会の牧師山村暮鳥と知り合い、2人は生涯強い友 情と信頼で結ばれます。

義也は23歳のとき開墾を始めますが、借りた土地は藪だらけの原野。「ガマが湿地に こもる。蝮が出る。ムカデがくいつく。夜狐が出る。開墾は根ふじや石やチガヤとの死 闘だ」という日々を、自給自足に近い生活で耐えます。27歳のとき開墾地に植えた梨 の木に初めて実がなり、収穫を見ました。翌年せいと知り合い、結婚。2人は山のあば ら小屋で新婚生活を始めます。せいは厳しくとも新しい生活が創作にプラスになると、 密かに期待したのです。しかし夢を砕く厳しい現実が待っていました。

以来50年、戦前は小作開拓農民として貧困にあえぎ、戦中は理不尽な作物の取立て に加え息子は出征。戦後は農地を得たものの、夫は農地解放運動にのめり込み家業 を放棄。6人の子育てと農業はせいの肩にかかり、せいは生活に追われて畑中を狂っ たように這いまわります。夫は畑に出ても、急にしゃがんで詩を書き始めるような人。 三野混沌という筆名を持つ夫は、生涯詩を書き続けた農民詩人でした。

71歳のとき夫を亡くし家業も息子に譲った吉野せいは、やっと自由な時間を手にした とき、50年間の苦闘の開拓生活と夫との確執をふり返り、書き始めます。まず山村暮 鳥と夫との交流を書いた評伝『暮長と混沌』を上梓。続いて開拓生活を描いた作品集 『洟をたらした神』は、1975年の第6回大宅壮一ノンフィクション賞と第15回田村俊子賞 を受賞。一躍東北の開拓農民パッパの存在が注目されました。

私が『洟をたらした神』を買ったのは、出版直後の1975年4月28日です。そのころ25歳 の私は、生後間もない娘がいて、働いていて、文章も書いていましたが、書くことにつ いての方向に悩んでいました。商業的な文壇のあり方に疑問を持ちつつも、読んでも らうためには売れ筋のものが書けないとだめなのか等々、悶々としていました。そん なときに読んだ吉野せいの文章は、私のあやふやな考え方をこっぱ微塵に吹き飛ばし ました。

私の目指すものがここにある、と吉野せいの鋼のような文体を前に私は迷いが吹っ切 れました。書くとは何か。何を書くのか、なぜ書くのか。私が疑問に思っていたことを、 逆に厳しく問い返されるようでした。書きたくても書けなかった50年間の懊悩、書くチャ ンスを掴んだとき、真に書きたいものだけを一気に爆発させて書く情念の強さ。吉野せ いの作品は、文体とは修辞や技術を超えて、その人の生きかたから形成されるもので あると強く実感させられたのです。

 「ノボルは重たい口で私に二銭のかねをせがんだ。眉根をよせた母
 の顔に半ば絶望の上眼をつかいながら、ヨーヨーを買いたいという。」
 「初めてねだったいじらしい希望であった。だが私はこんな場合にさ
 え、夢を砕いた日頃の生活から湧く打算を忘れぬ非常さを持つ。」
 「然しその夜、吊ランプのともるうす暗い小家の中は、珍しく親子
 入り交じった歓声が奇態に湧き起こった。見事、ノボルがヨーヨー
 をつくりあげたからであった。」

 「満月の青く輝く戸外にとび出したノボルは、得意気に右手を次第
 に大きく反動させて、どうやらびゅんびゅんと、光の中で玉は上下
 をしはじめた。それは軽妙な奇術まがいの遊びというより、厳粛な
 精魂の怖ろしいおどりであった。」  「洟をたらした神」より

夫の死後、ネズミの巣になった箱の中から若き日の暮鳥と夫(混沌)の 往復書簡を発見したせいは、それを元に2人の詩人の清冽な出会いと 別れを評伝にまとめました。私はこの本がいま読んでも大好きなのです。

 とうとう自分の「時」がきた。
 三年五年は何でもない。一生の残る日のすべてをも喜んで自分は
 その仕事にささげる。自分ははじめて仕事らしい仕事にとりかかる
 のだ。おお長かった準備の時代よ!
 病気は自分に静かな日々をあたえてくれる。貧乏は自分をいよいよ
 真摯(まじめ)にする。病気はまた生命(いのち)の尊いことを自分に
 おしえてくれた。貧乏は働けと、自分に逼った。
 そしてこの仕事が選ばれた。(略)
 生命を賭けてする仕事に光栄あれ。
 仕事は漫歩的であらねばならぬ。優秀な仕事はつねにあそびである。
 そのことを自分は去年奈良で実見した。あの大美術品をみて廻って
 いるうち、その中でも優れたものだという仏殿の、その足の裏を見た。
 その偉大な製作者がどんな気分でその作をしていたと思う。蹠にはい
 ろいろのいたずらが書かれてあった。制作監督の役人のカリケチュア
 などがたくさん書いてあった。全くのあそびだ。そんな暢気さがある。
 あれだ。ほんとうにいい仕事はのんきに、気長にやられるものだ。
       混沌宛 山村暮鳥の手紙   『暮鳥と混沌』より 

詩集『聖三綾玻璃』『風は草木にささやいた』、童話集『万物の世界』『鉄の靴』、評伝『ドフ トエフスキー』などすぐれた作品を書いた山村暮鳥は大正末に41歳で病死しました。暮鳥 より15歳年下の吉野せいは、1年間の入院生活のち1977年11月6日に78歳で亡くなりまし た。実質的な執筆活動は5年足らずでした。文学をやりたい、小説を書きたいという20歳の ときの夢がかない、古希を過ぎた晩年になって大輪の花が開いたのです。

何歳であろうと、願い続けた人の思いはかなうものだと、吉野せいを見て思います。しか し残された時間はあまりにも短かすぎました。病床のせいは「良くなって思いっきり書きた い」「人間の晩年について書きたい」と息子さんに語っていたそうです。吉野せいの文学と 文体に衝撃を受けた私は、22年前に評論「土着と反逆 〜吉野せいの文学について〜」 をまとめ、菊竹山麓にある開拓地跡を2度訪問しました。書くことの意味を教えてくれた吉 野せいの文学は、私にとって永遠の道標なのです。 

 ※引用は 弥生書房刊 吉野せい著『洟を垂らした神』『暮鳥と混沌』 より
                           (2005年10月21日)
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『二十歳のエチュード』 原口統三著 
角川文庫・110円のこの本を買ったのは、私の二十歳の誕生日を目前に した昭和44年8月24日でした。『二十歳のエチュード』という美しいタ イトルに惹かれたのは、十代との決別に際して、私を励ましてくれるも の、鼓舞してくれるものをと思ったからです。しかしこの作者は二十歳 を迎えることなく、友人に予告して十九歳十ヶ月で自殺した人でした。 あろうことか二十歳になる自分のために私が買ったのは、そういう本で した。

自殺した人の遺書みたいな本を読んで、何か得るものがあるのだろうか。 そう思いながらページをめくった私は、たちまちその強い観念の世界に 引き込まれました。そこには純化し観念化された自己への愛着と懐疑と、 誠実、潔癖、自我、愛、表現、詩、死、そんな言葉が溢れていました。 そこに私が見たのは、透徹した観念世界に取りつかれた十九歳の痛々し いまでの魂の叫びでした。

本をたくさん読むことはいいことだと、一般に言われます。しかし本の虫 だった私にとって、それは必ずしもいいことばかりではありませんでした。 家と学校、ただそれだけの空間しか知らず生活実体験もない子どもの私は、 本の世界にたやすく没頭できましたが、頭の中は観念的なもので満たされ、 現実的なものを受け入れる隙間はあまり残されていなかったように思いま す。

中学生になって母に「掃き溜めに鶴」ってどんな意味か問うたとき、母は 「鶴のような美しい鳥がゴミ溜めに舞い降りてくるようなことよ。きたな い場所に似合わないものが入ってきたようなもの」と答えました。そして 「だけど人間、きれいな心だけでは世の中生きていけん」と自分の考えを 付け加えたとき、私は驚いて母を見つめました。

まるで嘘つきや不正を正当化するような言葉だったからです。私はなぜき れいな心ではダメなのか?と母に反発し、そんなのが大人なら大人になり たくないと強弁したものです。けれど、だんだん現実の世の中と私の考え る理想の世界とは、大きな隔たりがあることが分かってきました。それを 認めたくなくて、私は現実逃避のため、さらに読書に励んだのです。

そんな十代を過してきた私にとって『二十歳のエチュード』を読む間は、 観念の世界に引っ張られすぎていた自分の姿を、鏡に映して見ているよう でした。もちろん私は原口統三ほど先鋭でも深刻でもありませんでしたが、 物事を必要以上に観念的に考えすぎる自分の欠点を、客観的に見つめ直す きっかけになったのです。

 ・立ち止ることは、既に身のまはりに、憩ひと慰安との影を落とす
  ことだった。僕の潔癖さがそれを嫌悪した。

 ・精神の自由者とは、いつの日も、深淵に向って張り出された、たゞ
  一本の細絲の上を辿って行くものではないのか。

 ・自我の純潔さは、それが他の魂に住めない程にか弱く、決して他に
  犯されることがない程に強い、といふことである。

 ・僕の精神世界を照す燈台では、いつも潔癖なる自意識が見張りしてゐた。

こんな観念のキラ星のような語句は、詩的な言い回しやしゃれたフレーズ に酔いやすい十代の少年少女にとって、毒にも等しい効力を持っています。 私は十代前半のころ萩原朔太郎の詩をさかんに読んで、それをまねた詩を 書いて深刻ぶっていました。もし私が十九歳ではなく、五年早く『二十歳 のエチュード』を読んでいたら、その観念世界に魅せられ死ぬことに何の 罪悪も感じなくなっていたかもしれません。

というのは、中学生のころ何となく自殺というものに憧れていたからです。 ちょっと嫌なことがあるとすぐ死ぬことを考えるのです。深い意味などあ りません。一種の現実逃避です。結局実行に移すほどの勇気もなく、学校 が楽しくなるといつのまにかそのような考えは消えていました。その意味 でタイトルの「二十歳」は重い意味を持っているといえます。

  ・「愛とは許容に過ぎぬ。」
  この言葉を胸に隠して、僕は君達の幸せな日々を祈り、
  その上で旅立たう。

  ・純粋なる「自我」には生命の匂ひはない。僕に於ける「精神の肉体」
  とはこの「自我」ではなかつたか。

  ・詩とは――夢の解体そのものが、或る律動の建設となることであり、
  観念の分析そのものが、或る音楽の構成となることである。
   思へば、僕が「詩」を離縁したとき、既に僕は「死」との婚約を
  成就してゐたのではなかつたのか。
   おゝ、人生、――この、孤独なる詩、この知られざる記念碑よ!
  お前の冷やかな石の上に、二十の春秋を刻み終へて、僕は今、
  立ち去るのだ。

こんな言葉に満ちた『二十歳のエチュード』を読み終えて、十九歳の私が 思ったのは、私は絶対自殺しないぞということでした。私の二十歳は目前 に迫り、純粋で純潔なままで自殺するには二十歳を過ぎてはダメだと思っ たからです。そのうえ私には『二十歳のエチュード』のような遺書も書け ません。自殺するには遅すぎたことを知った私は、大人になって、原口統 三が知らない世界を生きてみせると思ったのです。

五十代も半ばを過ぎてしまったいま改めて読み返してみると、青春時代の 必死な気持が甦ってきます。さらに純潔や潔癖という言葉などは、もう私 の日常生活から消え失せていることに気が付きました。厚顔な大人にはな りましたが、生きることをまっとうすることの中に、二十歳では知りえな かった喜びも、悲しみや辛ささえも、豊かに味わうことができたのです。

私は早くから詩や小説などの文学書にかぶれ、悩みすぎたせいか、明るい 十代を送ることができませんでした。『二十歳のエチュード』は読む人に よっては、その観念的死の魅力に足もとをすくわれるかもしれません。

しかし私にとっては逆に、暗い十代との決別を意味する書となり、実社会 に出て働こうという気持を後押ししてくれたのでした。

「死を神秘化し、偶像化し、それに甘えてはならない。それは本当の意味 で原口統三の本旨ではないと思ふ。」という本書の冒頭に掲げられた森有 正の言葉を、私は今でも大切にしています。

  ※引用は 原口統三著『二十歳のエチュード』角川文庫
       昭和44年5月発行 第24版より
  ※一部、旧仮名遣いを新仮名遣いに改めました。  (2005年9月23日)
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『夜と霧』  ヴィクトル・E・フランクル著 
25歳のとき、私はいまふうに言えば、バツイチ・コブ付きの状態でした。 四季ひと回りの短い結婚生活にピリオドを打ち、生れて間もない赤ん坊と 二人、新しい生活に踏み出したばかりでした。結婚しても出産しても仕事 を手放さなかった私にとって、私を筆頭者とする戸籍を作り子どもの親権 者となったその時点が、本当の意味の独立だったように思います。

仕事が終わり、子どもを保育園に迎えに行き、夕食とお風呂をすませると、 遊び疲れのためか朝までぐっすり眠るいい子でした。はた目には気の毒な 状況に見えたかもしれませんが、毎晩誰にも気兼ねなく読書と書くことに 没頭できた日々は、再婚までの4年間続きました。高校時代と並んで最も 集中的に本を読むことのできた、得がたい数年間でした。

しかし読書三昧の日々が始まったころ、深刻な悩みもありました。結婚の 何倍ものエネルギーを費やして離婚にこぎつけたのもつかの間、今度は相 手が復縁を迫る行動に出たのです。現在はストーカー法がありますが、30 年前の私は自分と子どもの生活を守るため、相手が諦めるまでの約1年間、 大げさに言えば孤軍奮闘、壮絶な闘いを余儀なくされたのでした。

その真っ最中の悪夢のような毎日、日々成長する赤ん坊は足手まといどこ ろか、私の荒れた心を和らげてくれる救いの天使でした。この子に恥じな い生き方をして、きちんと育てよう。その意志と希望が私を支えていまし た。でも気持が弱くなると、いっそ仕事をやめて身を隠そうかと悩む日も ありました。そんなころふと、かつての恋人がぜひ読んでと勧めていた本 を思い出し、すぐに買って読んだのが『夜と霧』でした。

シミやヤケの目立つ表紙を開けると、昭50.6.18の日付があり、ちょうど 30年前です。『夜と霧』の作者フランクルは1905年ウィーン生まれの精神 科医であり心理学者でした。ユダヤ人であったためナチスドイツのオース トリア併合の後に逮捕され、強制収容所へ送られ、彼の両親・妻・子ども をガス室や餓死で失いました。

『夜と霧』の原題は「強制収容所における一心理学者の体験」となってお り、アウシュビッツから生還したフランクルの、収容所での個人的な体験 が記述されています。日本語版『夜と霧』には、強制収容所の全貌を語る 解説と、巻末には目を覆いたくなるような当時の写真が加えられています。 アウシュビッツの囚人ほどの極限状態ではないにしろ、当時人生最大の危 機に直面していた私は、この本を読むことによって安易に絶望してはいけ ないと自分に誓い、自分の状況を客観的に考えることができました。

かつてフロイトは、「生存を脅かされる状況に置かれた人間は、だれもが ケダモノのように堕落する」と言ったそうですが、フランクルの見たもの は決してそうではありませんでした。以下印象的な部分の引用です。

 ユーモアもまた自己維持のための闘いにおける心の武器である。

 創造的及び享受的生活は囚人にはとっくに閉ざされている。しかし
 創造的及び享受的生活ばかりが意味をもっているわけではなく、生命
 そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味を
 もっているに違いない。

 人間が彼の苦悩を彼の十字架としていかに引き受けるかというやり方
 の中に、たとえどんな困難の状況にあってもなお、生命の最後の一分
 まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれているのである。

 収容所の囚人についての心理学的な観察は、まず最初に精神的人間的
 に崩壊していった人間のみが、収容所の世界の影響に陥ってしまうと
 いうことを示している。またもはや内面的な拠り所を持たなくなった
 人間のみが崩壊せしめられたということを明らかにしている。

フランクルは、戦争は5月に終わり解放されると信じた囚人の一人が、そ
の希望が外れるや落胆と失望に急激に沈んだ結果、彼に潜伏していた病気
に対する抵抗力を失い間もなく亡くなった例や、1944年のクリスマスと年
明けの正月との間に囚人の大量死亡が発生した事実をあげ、クリスマスや
新年には家に帰れるだろうとの希望に身をゆだね、それが裏切られた結果
によるとの因果関係を指摘しています。

そこからフランクルは、もはや何の生活目標も認めず、頑張り通す何らの 意義もなく、拠り所を失って「私はもはや人生から期待すべき何ものも持 っていない」という人々に対し、どう答えるべきかと次のように言ってい ます。

   ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。
 すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではな
 くて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのであ
 る。(略)われわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が
 問われた者として体験されるのである。

フランクルは自殺を図ろうとした囚人に対し、あなたによって生み出され る何かがあなたの未来には待っている、あなたがいなくなれば出来上がら ない仕事を、あなたの人生が待っている、と説得して自殺を防いだのです。 フランクルは各人にとって唯一で一回的な、他のどんな運命とも比較され 得ない運命――人間存在の意味を、素直に自らに担うことを求めたのです。

フランクルは助かる何の希望もない強制収容所の中で、自分を絶望から救 ったのは「何人も彼の代りに苦悩を苦しみ抜くことはできないのである。 まさにその運命に当った彼自身がこの苦悩を担うということの中に独自な 業績に対するただ一度の可能性が存在するのである」という唯一の思想で あった、とも述べています。

今回20年ぶりくらいに読み返して、『夜と霧』のもう一つのテーマに改め て気がつきました。フランクルは人間には「品位ある善意の人間とそうで ない人間」との二つの種族があり、その境界は入り混じっている。人間の 善意はナチのグループにも見られたし、逆に囚人をやたら殴りつける囚人 代表もいた。善意はあらゆるグループに見られ「一方が天使で他方は悪魔 であると説明するようなことはできない」と、人間の奥底に横たわる善と 悪を分かつ亀裂の存在を冷静に語っています。

年間3万人を超える自殺者を出している最近の日本の状況を考えるとき、 絶望的な苦悩の中に価値を見出し、生きる意味を問うフランクルの思想は もっと知られ、この本はもっと読まれていいと思います。なぜなら目には 見えないけれど、強制収容所的な一面を持つ現代社会の中で、自分に自信 が持てず、人生には価値がないと思い込み、人生を投げ出そうと考えてい る人たちに、フランクルは説得力ある答えをこの本の中に用意しているか らです。

  ※引用はすべて フランクル著作集1『夜と霧』霜山徳爾訳
          みすず書房刊 1974年6月10日発行より
                           (2005年7月24日)
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『私だけの部屋 〜女性と文学〜』  ヴァージニア・ウルフ著 
昭和のはじめに、宮大工だった曽祖父が孫(私の父)のために自らの手で 建てた純日本家屋が、私の生まれ育った家でした。子供部屋などないので、 高校生になったのを機に私は座敷を囲む広縁の一角を本棚で仕切り、机を 置いて自分の部屋を作りました。しかし座敷で来客があったり宴会がある と、自分の机を使えない不便さにいつも悩まされたものです。

手元のヴァージニア・ウルフ著『私だけの部屋〜女性と文学〜』新潮文庫 版を買ったのはそんなころだとわかるのは、表紙の裏にS.45.1.20 つまり 1970年1月20日購入を示す日付があるからです。19歳のそのころ私は国文科 の学生で、ある文芸同人誌のメンバーになり、文章を書き始めていました。 ウルフという少しおっかない名前の作家のことは知らなかったので、多分 『私だけの部屋』という題名と「女性と文学」の副題に惹かれて本屋で手 に取ったのでしょう。

このエッセイは、ウルフが「女性と文学」というテーマで、若い女子学生 たちのために講演した内容をまとめたもので、「A Room of One's Own 」 1929年出版の訳本です。第一章の2ページ目に、早くも結論とも言うべき 部分「婦人は、もし小説を書くとすれば、お金と自分ひとりの部屋を持た ねばならない」が出てきます。

ウルフは自分に与えられた「女性と文学」というテーマを考える際、まず、 エリザベス朝時代に男性の半分が詩歌をたしなんでいたのに、女性の書いた作品が 1つも無いのはなぜか? 当時の女性はどんな環境で生活していたのだろう かと疑問を持ち、そこからスタートします。そしてその答えを求めようと、 書棚に並ぶ歴史書を調べ、数々の男性作家・女性作家の足跡や作品をたど り、冷静に歴史的分析を加えつつ、女性が書いたものを考察します。

その思考の過程で、ウルフは自分が現実に体験した日常のこまごました出 来事を用いて、論旨を補強し、結論をより理解しやすくするよう工夫して います。ウルフはエッセイを展開するにあたり、ある女性を主人公にみた て、彼女がイギリスの女性作家や男性作家の作品を批判したり一種の抗議 を行い、また女性に対する社会的地位や偏見について歴史的な面から考察 していくという手法を取っています。そしてその過程をドキュメントとし て丹念に追い、エッセイの骨格としています。

例えば女性の生活環境と作品の内容を考察する場面では、シャーロット・ ブロンテの『ジェイン・エア』の第12章の一部が引用されます。もちろん ウルフは、シャーロットが牧師館という狭い生活環境しか知らずに育った ことにも触れています。

 私は、この狭い世界を越えて彼方まで見えるような視力、忙しい世界、
 町々、噂に聞くばかりでまだ一度も見たことのない、生活に充ちた土
 地にまでとどくような視力があったら、という強い欲望に襲われた。
   (略)
 この地上に住む無数の人々の中に、いかに多くの反逆の炎が燃えさ
 かっているか、誰が知ろう。女は、普通、きわめて温和であると考えられ
 ている。だが、女とて、男とまったく同じように感情がある。女も、
 男の兄弟たちと同じく、その才能を働かせる機会と、その活動の舞台
 が必要である。女があまりにも厳しい束縛とあまりにもはなはだしい
 沈滞のために苦しむのは、男の場合とまったく同じである。

この引用文のあと、ウルフはこれを書いたシャーロット・ブロンテの文才 を認めつつも、次のように述べます。

 彼女の文章に含まれる、この激越な調子、この憤懣に気がつくと、
 彼女の天分は、全き形のままで表現されることは決してあるまい、と
 いうことがわかる。(中略)
 怒りの念が小説家としてのシャーロット・ブロンテの誠実に、妨害を
 加えていることは明らかである。彼女は、全身を打ち込まなければな
 らないのに、自分の物語を離れて、何か個人的な不満を述べ立ててい
 る。

と。だからこそウルフは、いくら文才があっても、自由に旅行したり交際 することが許されなかった彼女たちに、もし年300ポンドのお金があった らどうなっただろう? と想像するのです。さらにロンドンの古本屋にあ ふれる女性作家の小説を考え、「この数多い女性の小説を腐らせたのは、 そのまん中にある疵なのだ。いずれも、他人の意見に敬意を表して、自分 の価値を変えたのがいけなかったのだ」と、男性の価値基準に簡単に左右 されてしまう女性の作品を厳しく批判しています。

では「私だけの部屋」の意味はどうでしょう。ウルフはナイチンゲールが 「女には、自分の自由になる時間が、ただの三十分とてありはしない」と 不満を述べたという逸話を引用して、19世紀初頭の女性が物を書こうとす る場合の困難さに言及しています。

その具体例として『自負と偏見』を書いたジェイン・オースティンを取り あげ、彼女が家族共有の居間で創作の筆を取り、しかもそれは家族や来客 の誰にも気づかれないよう、人が来たら原稿は隠された。そのようにして 書かれたとのちに甥が証言しているのを読んで、ウルフはその環境が作品 の出来を損ねているのではないかと危惧します。しかし『自負と偏見』を 読んだウルフは自分の心配が無用だったことを知り「この作家こそ、1800 年ころに、女性の身で、ひとを憎まず、怨まず、恐れもせず抗議も説教も せずに、ものを書いていた婦人なのだ。これは正しくシェイクスピアの創 作態度である」と讃えています。

このようにしてウルフは、自分の内に湧き起こる疑問の数々を1つ1つ丹念 に解きほぐし、「もしあなた方女性が、小説とか詩とかを書こうと思えば、 年に五百ポンドのお金と、ドアに鍵のかかる部屋を一つ持つことが必要で ある」という結論へと、読者を導いていくのです。

二十歳を前にして、私はただ家庭にいて愚痴ばかりこぼしている母を見て、 違う生き方をしたいと真剣に悩んでいました。そんなとき『私だけの部屋』 を読んで、私はパッと目の前が開け、大きな力を得たのです。私は学校を 卒業と同時に就職し(収入を得)、家を出てアパートを借りて独立する(自 分だけの部屋を持つ)んだと決心し、やがてその通り実行したのです。

1970年のその当時、女は娘のうちは親元にいて、少し勤めをしたら結婚し て専業主婦になる。それが女の幸福と信じられていた風潮が、まだ色 濃くありました。一方でウーマン・リブの運動がアメリカで起き、日本でも 影響された一部の女性たちが気勢をあげていましたが、まだフェミニズム も一般的には言われておらず、ジェンダーの概念などおよそ無縁な時代でした。

ヴァージニア・ウルフが『私だけの部屋』で示した、歴史や文学に対する 深い理解と洞察力と、そこから導き出される「女性と文学」への緻密かつ 具体的な考察は、近年声高に主張されるジェンダー論よりずっと説得力と 新鮮さを備えた女性論・文学論として、私は読み返すことが出来ました。 この本は私の人生のスタート地点で、仕事を持ち鍵のかかる自分の部屋を 持つ=自立することの大切さを教えてくれましたし、私がものを書くこと の意味をずっと考え続けているきっかけにもなっているのです。(2005年6月22日)

 ※引用は全て新潮文庫版:ヴァージニア・ウルフ『私だけの部屋』
  (西川正身・安藤一郎訳:昭和44年6月、15刷)より
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『トニオ・クレーゲル』 トーマス・マン著  
『トニオ・クレーゲル』を読んだ日のことは、今でも鮮明に覚えています。 子供部屋などまだなかった時代、私は高校生になると自分の部屋が欲しくて、 東側に面した縁側の一角に机を置き、本棚で仕切って自分の城としました。 ある日曜日の朝、私はお小遣いで買った赤い表紙の中央公論社版「世界の文 学」シリーズの1冊を手にし、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』 (1965年6月刊・福田宏年訳)を読み始めました。

朝の新しい光が、庭の植え込みを透かして私の机まで届き、金木犀のむせる ような芳香が、あたりに満ちていました。主人公トニオとの鮮烈な出会いは、 秋でした。しかし小説の冒頭はこう始まったのです。

 冬の太陽は、狭い町をおおった雲をすかして、ミルク色によどんだ
 輝きを弱々しく放っていた。破風造りの家が並んだ路地には、湿り
 を含んだ風が吹きめぐっていた。… (福田宏年訳)

私はいきなり灰色の雲に覆われた冬のその場面に連れて行かれ、引き込まれ、 夢中になって読みふけりました。きらめく朝日の中にいる現実の私と、想像 しながら読むヨーロッパの冬の街とのギャップが、いっそう私を『トニオ・ クレーゲル』の世界にのめり込ませたのかもしれません。

主人公の14歳の少年、詩を書き、南国風な顔立ちと黒い目を持ったトニオ・ クレーゲルは、級友のブロンドの髪をした美少年ハンスに、恋心にも似た感 情を抱いています。二人が下校途中に散歩する場面の、14歳という微妙な年 ごろのトニオの切ない気持は、そのまま15歳の私の激しい片思いの経験とも 重なりあい、息苦しいほどに伝わってくるのでした。

16歳になったトニオは、今度はブロンドのお下げ髪の少女インゲボルクに恋 をします。ダンスのレッスンの日、その少女と同じ組になったトニオはすっ かりのぼせて、女性の輪に入って一緒に踊ってしまい、一同の笑いものにな ります。トニオの少年時代を描く部分は私をすっかり夢中にさせましたが、 後半で展開される芸術の本質に関わる部分については、あまり理解できない ままでした。それでも『トニオ・クレーゲル』は私の青春時代の愛読書とな りました。

その後十代の終わり頃から文章を書くようになった私の脳裏に、『トニオ・ クレーゲル』の中の一節が、不意に浮かぶことがありました。例えばこんな 部分です。(中央公論社版・福田宏年訳より引用)

 「最も多く愛するものは敗者で、苦しまねばならぬ――」

 「実直で健全でちゃんとした人間は、決して物を書いたり芝居をした
 り作曲したりなどしないものだ」

 「文学は決して天職じゃありませんよ。呪いですよ」

 「おのれの生命を代償にするのでなければ、芸術の月桂樹からたとえ
 ただの一葉といえども摘み取ってはならないのです」

漠然と文学というものに興味を持ち、近づこうとしていた当時の私にとって、 「文学というものは天職じゃない、呪いですよ」という一行は、毒にも等し い効力を持っていました。『トニオ・クレーゲル』を読んで芸術や文学に対 する強烈な暗示に影響された私は、なかなかその刷り込みから抜け出せませ んでした。

大人になり二人目の子供を産んだ30歳のとき、私は新潮文庫版の『トニオ・ クレーゲル』(高橋義孝訳)を新たに買い、読み直しました。いまその文庫本 を開いて、高校生のときに買った本と比較すると、印を付けたり線を引いて いる箇所がずい分違っていました。文中に出てくる破風造り・尖塔・エキセン トリック等々の意味がわからず、高校生の私が辞書で調べた欄外の書き込みが 懐かしさを誘います。

トニオは成長してある程度名の知られた文士となり、デンマークへ旅をしま すが、ホテルで思いがけない人々と再会します。それはかつてトニオに恋の 悩みを味あわせたハンスとインゲボルクでした。しかもダンスの会場に二人 は連れ立って現れたのです。不意に郷愁に胸を締め付けられたトニオは、思 わず暗がりに逃れ、相変わらず快活にふるまう二人を見つめます。

 片時も忘れはしなかった。君も、ハンス。それからおまえも、金髪
 のインゲ。自分が仕事をしたのは、君たち二人のためだったのだ。

   君のようにしていられたら。もう一度初めからやり直して、君のよ
 うに成人して、堂々とたのしく素直に、まっすぐに秩序正しく、神
 とも人とも和解して無邪気な幸福な人たちに愛されたなら。

 ――認識と創造との呪縛から解き放たれ、幸福な凡庸性のうちに
 生き愛しほめることができたなら。(高橋義孝訳より)

トニオのような深刻な「芸術家気質」とハンスやインゲボルクに代表される 明るく快活な「市民気質」とが、対立概念として描かれた『トニオ・クレー ゲル』。極端なその二つの世界にあいだに立ち、どちらにも安住できない トニオの孤独な姿は、そのまま作者トーマス・マンの悩める魂の記録でもあ ったようです。

1903年、28歳の時刊行された『トニオ・クレーゲル』に初めて盛り込んだ問 題意識――芸術および芸術家が、快活な人生とは敵対的な関係にある、とい う対立概念は、トーマス・マンが生涯にわたり究め続けた深遠なテーマであ ったことは、その後書かれた『ヴェニスに死す』や『フェリクス・クルルの 告白』を読んでも明らかです。

普段からあまり論理的に物事を考える習慣のない私は、『トニオ・クレーゲ ル』にちりばめられた生と精神、美と倫理、陶酔と良心、感性と理性、享受 と認識等々の対立する概念に圧倒され、その言葉の意味するものを理解でき たという自信は今もありません。さらに執拗なまでに考察される芸術家気質 への傾倒に、凡人の私は置き去りにされた寂しさすら感じました。

私が『トニオ・クレーゲル』の毒気にあたっていた時期は、芸術や文学とい うものは、高踏的な、自分の日常とはとんでもなくかけ離れた遠い存在に思 えました。しかし年齢を重ねて今の私は、芸術家気質と市民生活の対立とい う考えに疑問を持つようになりました。芸術とは普通の生活人のすぐそばに あり、私たちがそれに触れ、観賞し、味わい、その美のもたらす幸福を分か ち合えるもの。そこに芸術の存在価値があり、創作者もともに生きていける のではないかと、自分なりに考えるようになったからです。

『トニオ・クレーゲル』から、私はヨーロッパの土壌には芸術をめぐる種々 の対立概念があることを教えられ、作者トーマス・マンの創作態度の真剣さ や言葉に対する厳格なまでの厳しさを学んだように思います。しかしそれは 大人になって読み返してからの感想であって、私にとって、あの朝日のこぼ れる中で、悩める少年トニオ・クレーゲルに共感し没入して読んだ体験こそ が、その後かずかずの文学作品を読み続ける原動力になったのです。(2005年5月22日)
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『アンネの日記』 アンネ・フランク著
私の本格的な読書は、小学二年のときに読んだ『フランダースの犬』に始まります。 学校の図書室の利用が自由にできるようになった三年生になると、たいていの子ど もがそうであるように、私も『小公子』『小公女』『あゝ無情』などから読み始め ました。野口英世やエジソン、リンカーンなどの並んだ伝記の棚は、卒業までには ほぼ読み終えました。面白かったからです。

小学生時代に最も繰り返し読んだ本はデ・アミーチス著『クオレ』。最も印象に残 った本はと問われれば、私は躊躇なくアンネ・フランクの『アンネの日記』をあげ ます。真実の友がいなかったアンネは13歳の誕生日に貰った日記帳に「キティ」 と名前をつけ、隠れ家での出来事を友達に話すように詳細に書き綴ります。その試 みに刺激された私は、14歳ころから日記をつけ始めました。『アンネの日記』は、 自分の感じたことや考えたことを文章にして「書く」という行為に、強い関心を持たせてくれた初め ての本だったのです。

20代の終りころ『アンネの日記』が読みたくなった私は、皆藤幸蔵訳・文藝春秋 社刊の単行本を買って再読しました。そして今回、この原稿を書くために25年ぶりにまた読み 返して、アンネ・フランクが非常に早熟な少女であったことに驚かされました。そ れだけではなく、周囲の大人たちへ向ける観察力の鋭さと旺盛な批判精神にも。普通な ら親に甘えている年ごろなのに、父や母や姉に対する感情は、辛辣ですらあるので す。たとえば次のような記述にはドキリとさせられます。

  お父さんもお母さんも、わたしを徹底的に甘やかし、かわいがり、か
  ばい、親としてできるだけのことをして下さいました。それにもかか
  わらず、わたしは長い間、とても寂しく、ひとりぼっちに残され、無
  視され、誤解されているような気がしてきました。お父さんはわたし
  の反抗心をおさえようとして、ずいぶん努力しましたが、効果はあり
  ませんでした。わたしは自分自身で、自分の行ないの間違っている点
  を見つけ、それをいつも忘れずに、自分で直してきました。

  わたしが煩悶しているとき、お父さんはどうして、わたしの心の支柱
  になれなかったのでしょう? お父さんはわたしに助けの手を差し伸
  べようとするとき、なぜ完全にまとをはずすのでしょう。それはお父
  さんの方法が間違っていたからです。
              <1944年7月15日(土)の日記の一部>

10歳のとき、私は大人になったら物を書く人になろうと『アンネの日記』を読んで 心に決めましたが、今回読み直して、それは次の一節に触発されたであろうとことが 分かりました。

  私はジャーナリストになりたいのです。(略)
  お母さんやファン・ダーンのおばさんや、その他の多くの女の人たち
  のように、家庭の仕事をするだけで、やがて忘れられてしまうような
  生活をしなければならない自分を想像することはできません。わたし
  は夫や子供のほかに、何か心を打ち込んでする仕事を持ちたいと思い
  ます。

  死後も生きているような仕事をしたいのです。この意味で、神様がわ
  たしに文章を書き、自分の心を表現し、自分を発展させていく才能を
  与えて下さったことを感謝します。
               <1944年4月4日(火)の日記の一部>

アンネの深い洞察力と強い精神力と成長を感じさせられる、こんな記述もあります。

  世界には食物があまって、腐らしているところがあるのに、どうして
  餓死しなければならない人がいるのでしょうか? 人間はどうしてこ
  んなに気違いじみているのでしょう。
    私は偉い人たちや、政治家や、資本家だけに戦争の罪があるのだとは
  思いません。いいえ、決してそうではありません。一般の人たちにも
  罪があります。さもなければ、世界の人々はとっくの昔に、立ち上が
  って革命を起こしたはずです!人間には破壊と殺人の本能があります!

  わたしは快活な性質と強い性格をもっています。自分が精神的に成長
  していること、解放が近づいていること、自然はどんなに美しいかと
  いうこと、周囲の人々がどんなに親切かということ、この冒険がどん
  なにおもしろいかということを、毎日感じています。それなら、なぜ
  絶望する必要があるでしょうか?
               <1944年5月3日(水)の日記の一部>
      ※皆藤幸蔵訳『アンネの日記』文藝春秋刊より引用

日記には13歳から15歳までの少女の日常が、隠れ家に息をひそめて暮らすという特 異な状況下にもかかわらず、精一杯明るく楽しく過ごし精神的に成長していくようすが 綴られています。

しかし1944年8月4日、アンネとその家族など隠れ家にいた8人は、ユダヤ人ということを理由に、 密告によりついに捕え られます。収容所へ送られたアンネの母親は翌年1月、アウシュビッツで死亡。アンネ と姉マルゴットの二人は、母の死より前にドイツのベルゲン・ベルゼン収容所に移され、 2月に姉が亡くなり、3月にはアンネも15歳の生涯を終えました。収容所が解放され たのは、その1ヵ月後のことでした。

ただ一人生き残ったアンネの父オットー・フランクは、戦争が終ってアムステルダムに 戻り、知人たちが大切に保管していたアンネの日記を渡されました。妻と娘たちを失い人生の希望を失っ ていたフランクは、アンネの日記を読んで、「アンネの死を無駄にしてはならない」「人 間性に対するアンネの信頼と希望のメッセージを世に人々に伝えることに自分の余生を 捧げよう」と心に誓ったそうです。

『アンネの日記』初版本は1947年に出版され、世界各国で翻訳され、 読み継がれています。アンネ・フランクの肉体は滅びましたが、その死から60年後のいまなお、 日記はアンネの生命の輝きを私たちに伝え続けているのです。
(2005年4月30日)
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