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    土 着 と 反 逆

      ――吉野せいの文学について――               

杉山武子                                     


『農民文学』第189号所収(1984年4月20日発行)

     
 「自分にたよってくれ、頼られるものと思ってくれ。頼られることで自分は強くなれる。一日も早く貧しさからぬけ出る為に力限り働いている。 いまにいい日のくるのを信じてくれ!」

 若い開拓農民吉野義也のこの悲痛な叫びは、人生の入口に佇み不安と期待とで一歩を踏み出しかねている若松(のち吉野)せいの無垢な魂を、 どんなにかゆさぶり打ち震わせたことだろう。

 そして五十年。
 齢七十の吉野せいの両手を握りしめ、射すくめんばかりの鋭い眼を向けて草野心平は言う。
 「あんたは書かねばならない」
 「いいか、私たちは間もなく死ぬ。私もあんたもあと一年、二年、間もなく死ぬ。だからこそ仕事をしなければならないんだ。生きているうちにしなければ――。 わかるか」
 「わかります」
 「わかったらやれ。いのちのあるうちにだよ。死なないうちにだよ」

 今この二つの場面が、ひとりの女の太くもたくましい人生をがっしりと捉えあぐねている私の目の前に現われては交錯し、この意味を解け、この切り口から 深淵を覗けとばかりに呼びかける。

 『洟をたらした神』一巻を初めて読んだ時、私はその文体を貫く横溢する感性に圧倒され、七十五歳という著者の型破りの出現にとまどった。人を黙 らせる凄さを感じた。その文の一字一字が眼に食い込み、その一句が心臓をしぼる。なぜかしら行間までがたぎる情感を抑えてのたうつ。かと思う一方では 風の色、雲の心、木々の悩み、葉っぱの気持まで、知り尽くした者のみが描きうる的確さで自然を描写している。「刃毀れなどどこにもない斧で、一度ですぱ っと木を割ったような、狂いのない切れ味」と評した串田孫一の嘆息にも素直にうなづけた。

 三年を経て『洟をたらした神』を再び手に取って読み直した時、今度は一冊の本にはとうてい納まりきれない著者吉野せいの人生の相貌が、やすやすと 通りすごさせまいとする強い牽引力をもって、読む者に挑みかかってくるのを感じた。その後、たて続けに読んだ『暮鳥と混沌』『道』の二冊と日記等の断章で、 私の中に形づくられていた吉野せいのイメージは修正され肉付され、その人と生涯の全体像は私の興味をしっかり捉えて放さなかった。

     
 吉野せいは明治三十二年(一八九九)四月十五日、父若松力太郎、母ミヱの次女として福島県石城郡小名浜の網元の家に生まれた。地元では“黒門の 家”と呼ばれる名の通った網元であった。

 しかしせいが六歳の時、父が病没すると家庭の事情は一変した。せいは高等小学校のみで進学を断念し、独学で准教員検定試験に合格。代用教員を勤 めたこともある。

 せいは十代半ばから国木田独歩、長塚節、高山樗牛、北村透谷などの著作に触れ、地方新聞の文芸欄や山村暮鳥、室生犀星の手になる雑誌『プリズム』 にさかんに投稿した。百十枚の小説『破壊』は、改題後、暮鳥の便宜で月刊誌『第三帝国』へ分載された。

 暮鳥がせいの文才に着目し、大事に育てていこうとしたことは、せい宛の次の一枚の葉書が物語る。

  『女子文壇』からあなたに原稿の依頼が来たがことわった。今から発表することは後日必ず悔いる時ができる。今は、しっかりきたえておくれ。   暮鳥

 五十年後の吉野せいの文学的再生の事実から考えても、恐らく暮鳥のこの判断は正しい。華やかな未来を思わせる幸運な文学的スタートにも拘らず、 師とも仰ぐこの暮鳥の忠告を胸深く納め、書き急がなかった十九歳のせいの判断も又、賢明であったというべきか。

 そのころのせいが本気で文学を志し、生きることの意味について真面目に考えようとした時、思想的なものへの飢えが始まった。 せいの琴線を強くかき鳴らした最初の思想は、京都鹿ヶ谷の一燈園と西田天香の存在だった。私有物一切の放棄、下座と捨身奉仕、托鉢の生活に 対するその思想を、せいは作品「道」の中で「世相の不純に反逆し咆哮する世直しの鋭い叫びはなくとも、我が身、世の人のために一人一人が寄りそい、 一粒の奉仕の種を祈りながらまきつづけるこの集団の強い信念は、裏を返せば無血の革命につながる平和の獲得に挑む静寂な凄まじい戦いとも思える」 と讃えている。

 父の死後、零落の一途をたどった家庭環境に育ったせいが、西田天香の思想にセンチメンタルな賛美以上の強い共鳴を感じたとしても不思議はない。

 そんな折、せいは隣村に住む人類・考古学専攻の青年学究八代義定に見出され、その蔵書を自由に読めるという幸運をつかんだ。社会主義者だとして 巡査の監視下にあった八代は、自分の書斎『静観室』を全部開放してせいの旺盛な読書欲に供したのみならず、貝塚や土器の発掘にも立ち合わせた。

 せいはルソーの『懺悔禄』を皮切りにベルグソンの『創造的進化』、ゾラの『巴里』、大杉栄、堺利彦、山川均の著書、『平民新聞』等手当たり次第読んだ。 「魂の本だよ」といって八代からこっそり渡されたクロポトキンの発禁書『パンの略取』にせいは戦慄に似た感動を覚え、「自分の習作している身辺雑記みたい な小説なんか、実に情けない程くだらなく」思い、「書くなら全く客観の立場から深い社会思想を取り入れた一大ロマンでなければならぬ」と吐息をついた。

 いわゆる無政府主義は、それをいくつかの類型に分類しようとする試み自体が無意味なほど、それぞれの思想家の個性が表象されており、雑然とした学説や 思想の並立するイデオロギーであるといわれる。

 「人間は単に愛に依って行動するのではなく、凡ての人類と同一体であるという認識に依って行動する」というクロポトキンの無政府主義は、人間の社会的 本能ともいうべき「相互扶助」の精神を骨子とし、個人の自由と自発性に基く見来社会を描き出したものである。

 西田天香の「一切無所有」「捨身奉仕」の思想に触れた若いせいが、『パンの略取』に新たな目を見開かれたのも、それがともに人間の善なる面に基調を据え、 愛や奉仕や相互扶助の精神によって理想的な社会を作ることを目指していたからであろう。

 せいが二十一歳の大正九年(一九二〇)、日本は世界大戦参加により派生した経済不安、労働争議の摘発、普選運動の広がりと、国内情勢は大きくゆらぎ、 中でも大正七年の米騒動は大逆事件のあと息をひそめていた社会運動を蘇生させる引き金ともなった。一方、社会主義革命に成功したロシアへの動揺と 共鳴は、日本の社会にも微妙に影響を及ぼした。それらの動きとほぼ期を同じくして、はじめ上層の知識人の中に芽吹いた大正デモクラシーの気運は、 「土俗」とはおよそ無縁であったにも拘らず農民の間にも急速に広がっていった。

 ちなみに、アメリカに留学した有島武郎がクロポトキンの著作に触発され、物の所有に疑問を持ち、狩太農場を無償で小作人に解放したのは大正十一 年のことである。

 せいの生涯に大きな転機を与えた八代義定は、その出会いの仕上げに、かねてから目をかけていた一人の青年吉野義也をせいに引き合わせた。

     
 吉野せいを語るとき、その伴侶として五十年を共に生きた夫、三野混沌の存在について触れないわけにはいかない。

 開拓農民として土着をつらぬき、すぐれた詩を書き続けた三野混沌(吉野義也の筆名)は、詩人としてあまり知られることもなく、その一生を開拓地に閉じた。 しかし彼の死後、妻せいの作品が世に出るに及んで詩人混沌の存在がいくらか知られるところとなった。

 れっきとした農家に生まれながら、三男という家督にあずかれない立場のためか、混沌は「隠居息子」としての劣等感を抱きつつ青年になった。中学時代、 哲学に全身かぶれた混沌は、その若い頭にカント、ゲーテ、ベアンズ、内村鑑三、ベルグソン、ホイットマンなど見さかいなくつめ込んだ。十九歳で詩作を始 め、パブテスト教会で受洗してからは狂信的な行動をとっていたかと思うと、ふっつり教会から遠ざかった。あるべき自分の場所を見出せずに放浪の生活す ら考えた。

 この不安定な青年期の生活の中で混沌がゆきついたのは、百姓になりたい、土ごろの生活がしたい、という強い願いだった。兄に勧める婿入りの良縁を 蹴って、自活のために農業の中でも困難といわれた新切り(開墾)に、しかも小作として飛び込んだ混沌の決意にはそれなりの理由があった。

 「私は自我の大洋に漂わされてるにも似ています。けれども私は浮草ではない。既に根を持っている以上は、どこかに根の働きを作(な)さねば生きてい られるものではない。どこだ! そこに私は着こう」

 混沌二十二歳の大正五年、阿武隈山系菊竹山の山腹、竜雲寺の一町六反歩の所属地に入植した。

 「僕はもう終りまで鋤と親しもうと思う。土から生まれ出るものが可愛いからだ。そこにどんな力がひそんでいるんだろう」「自我の物の偉大なる鏡のうち に照り返る。私の生地はそこなのです。ちょうど鳥や虫や獣のように餌のために動き、巣を営まんがために労す」(「暮鳥と混沌」)

 ここには大地への憧れと自然との共生、土着への志向という、苦難の末にたどりついた混沌の思想の原型がくっきりと示されている。この大地的ロマン 主義ともいうべき傾向は、折から知り合った山村暮鳥の観念的な宗教感にふれて、生活と芸術の統一を求道する明確な思想性を帯びてくる。

 農民詩に詳しい松永伍一は、混沌の「今日は無産党の盛の時だけれど、私は余りこれに意味をもたなくなって、何だか隠遁生活じみているようだが、 決して隠遁するつもりではないのである。寧ろこれからほんとうの私の積極的生活になって行くと信じてゐる」「黒い土の上で、殆んど無から始める。雀や 燕が巣を作ると大して違いはない。この本能だ。創造だ。右手に鋤を持ち、左手にペンを持つ。徹頭徹尾この生活を遣っていったらば――それはその人及 び生活は芸術体だ」という言葉を引用しつつ、「宮沢賢治とも共通する理想的生活への傾斜は、三野混沌の場合もっと訥弁で詩に結晶していくことになる」 (『土とふるさとの文学全集』第十四巻解説)と指摘する。

また『日本農民詩史・中巻二』では三野混沌に一章を割き、山村暮鳥との密接な交渉に触れたあと、 暮鳥の詩「荘厳なる苦悩者の頌栄」の冒頭にヨシノ・ヨシヤ、つまり吉野義也=三野混沌の言葉として「天日燦として焼くがごとし、我等出でて、働かざる可からず」が 書き込まれていることを紹介し、この開墾者混沌が「暮鳥の転換点にもわりこんで立っている実直この上ないひとりの若き魂そのものだった」と書き留めている。

 大正十一年、猪狩満直、妻木泰治が出した詩誌『播種者』に混沌も参加、十三年には草野心平とも出会い、アナキズムの詩運動に共鳴しつつ、昭和二年、 詩集『百姓』『開墾者』を刊行した。 混沌がアナキズム詩人の系譜に連なり、最も詩作に熱中し、「詩の会」などを作って近隣の若い農民、労働者達と絵画、音楽等をも含めた交流の場を持った のは、大正デモクラシーの高揚期と重なっている。昭和初期の農本主義・ファシズム化の嵐の前に、一時期にせよ一地方の青年たちにリベラルな表現意欲 が芽ぶいていた事実は、大正デモクラシー運動が政治的な色合いを強くもちながらも、一面で文化面をも貫いて浸透していたことの例証ではあるまいか。

 大正末期からの農民文学運動の中には重農主義の傾向も現われてきたが、混沌の場合、アナキズム・イデオロギーの中に自らの詩を打ち立てようとし た。混沌とアナキズムの関係について、松永伍一は「かれは石川三四郎の土へ帰属する生き方に共鳴する所からアナキズムの道を発見した面があり、 バクーニン流の戦闘的アナキズムは、開墾者の生態の中に割り込みにくかったようだ」と分析する。

 昭和二年二月、福島県平町で蔵原惟人、葉山嘉樹、山田清三郎、金子洋文、小堀甚二など当時の『文芸戦線』の文士による文芸講演会が開かれた折、 小堀と混沌の間に論争が起きた。唯物史観に立つ小堀が組織論をぶつと、混沌は哲学や土の精神をくり出して応戦。結局、精神主義と決めつけられた混 沌が論争に負けた。このエピソードは、混沌の、組織論にも運動論にも発展しない心情的アナキズムの特色を如実に示していて興味深い。

 混沌の詩に散見される「平等の社会」「共力」「共済」「自由」などの語句、「彼と競争して、一つの/畑の物を採ってはならない」などの考え方、つまり クロポトキン的相互扶助論こそが、混沌の思想的支柱であった。土に生き、詩を書き続ける生活の中に理想を見い出そうとした混沌の姿勢は、完全に 土着を貫くことの中に保たれていたといえる。

 戦後、混沌は農地委員に選ばれ、小作側委員として一期つとめた。この間混沌は福島県下の十七郡をくまなく歩き回り、紛争の解決にあたる一方、 農地解放で国が手をつけなかった国有林の調査にも独自に乗り出した。

 この一銭にもならない行脚の中で、混沌は膨大な量の未刊の詩集「未墾の地貌」を書いたと言われているが、この間、家族とその生活にはまるで 無頓着であった。

 『歴程』同人として混沌と長い交友のあった草野心平は、混沌の性格を次のように描写する。

 「混沌は善意にあふれヤマアラシのように直情径行の人だった。風采は文学的なところは少しもなく土百姓そのものだった。いくぶんドモリで眼は かがやいていた。笑うと歯グキがまる見えになる。ムキでユーモラスで熱烈で、その上正義感が混沌を串刺しにしていたので、本人はそのためにい つもジタバタしていた」(『暮鳥と混沌』跋)

 晩年、混沌は脳軟化症になり、臥せりがちの生活の中でも草むしりをしたり、ノートに判読できない文字を書きつけたという。

 生涯詩を書き続けながら詩壇とは無縁でありつづけたところに土の詩人・三野混沌の面目躍如たるところがある。

 「生活と詩がこのように渾然と融合し充溢することは、誰もが望みたいところであろうが、混沌のように、他人のあまり知らない場で、独り謙虚に実践 するのでなければ、その実現は難しい」

 混沌六十歳の一九五四年(昭和二十九)。友人達の協力で刊行された詩集『阿武隈の雲』によせた草野心平の序文の一節である。


 クロポトキンを読んで文学観を一変させられたせいの目に、開拓者混沌の生活はきびしいが確かな手ごたえのあるものとして映っていた。せいに一 目置き、指導的立場にあった八代義定の老成した目が、せいの最良の配偶者として選んだ相手である。

 「この人とその山上で働くことがながい間自分の心にたゆたうているもやもやの何かを、ふっきるものであるように思えた」とせいは当時を回想する。 開墾という、大地に根づき自然と共に生きる生活をバネとして、新たな創作の世界へ飛び出そうという期待に満ちていた。

 一九二一年(大正十)。二十二歳のせいがあえて混沌を選んだのは「小気味よい若さの賜物」でもあったろうが、何よりも寂しい荒野にただ一人開墾 の鍬をふるう純朴な彼の魂と、一切のごまかしを嫌う剛直なせいの性情とが呼び合ったためでもあろう。せいが「家を出る前にそれまでの原稿も日記も 手紙も思い切りよく焼き捨ててしまった」のも、今までの生半可な生活にかっきりと区切りをつけようという、並々ならぬ決意の裏返しであったとも言える。

 以後五十年にわたる結婚生活の内実は、夫の死後書かれたせいの作品が明らかにしてる。そこには、三男三女、六人の子供の数ほどに詩集を出した夫 とは対照的に、終始生活防衛の側に身を置き、筆を折って生きてきたせいの生活の断面が、鋭く書き起こされている。

 初めての収穫後に「一の労力に一の報酬のかえってこない小作農業の生態の冷酷さをはっきり見た」ことも、結婚二年目、混沌が友人や近隣の百姓達 とガリ版刷りの詩誌『播種者』を刷り上げ、寒天に無邪気な歓声をとばしている時、せいは北風の中に子供を背負うて「残されている未墾の藪を眺めて、 ここはいつ完全に墾されるのやら、さてくらしの楽になる日はいつのことやら」と暗たんたる前途にため息をついていた現実も。

 「無謀が真実だ」との混沌の言葉通り、貧乏も重労働も承知の上で山に入ったせいである。開墾地に生きる生活にせいが牧歌的な理想ばかりを描い ていたとは思えないが、小作開墾の厳しさより、混沌の純朴な魂に目を止めたせいの若さも指摘できよう。

 創作の時間が持てない――。

 それはせいの大きな誤算であったが、単に開墾に追われて時間的余裕がなかったばかりではない。夫の詩の創作活動を裏で支える、つまり生活者 としての徹底を強いられるという、二重の形でせいの創作欲をからめとった。

 結婚十年目のせいの日記には、自宅を根拠としての詩集づくりや混沌の詩友たちの出入りに、苛立ち以上の反感すら抱いているせいの感情が読みとれる。

 「島田、石川来る。朝出かけた混沌のあとを追ってそこここさがしてきた。いい面の皮だ」「殆んど駈け歩き通しで彼等の為に(食物等を―筆者・注) はこぶ。一日こんなことに費やされて何も出来ずにしまうのはほんとうにたまらない」と憤り、ついには「えい、こやしでもかつげ。自分は畑にとりかか ろう」「あそびもしないが、畑仕事はぐんとおくれた。書く、それさえばかばかしい気がする。自分の無能を知って、ろくでもない暇つぶしをしたってどう にもなりやしない」(日記)と生活を顧みない夫に勝手にしろとばかり背を向け、創作それ自体にまで火のような怒りを投げつける。相も変わらぬ貧乏 暮らしゆえに、生活者に徹することを強いられたせいの、周りの表現者達に向ける刃のような憤怒は、同時に己れの内にあった牧歌的な理想や夢 に対しても向けられ、それらをことごとく切り裂いていった。

 特に一九三〇年(昭和五)、次女・梨花を急性肺炎のためわずか生後八ヵ月で死なせるという出来事は、せいに手痛い打撃を与えた。その直後のせい の様子は当時の日記が生々しく伝える。

 「自分の手で殺してしまったと同じ感じ」「運命といえばいえようが、貧富の差で手遅れした事を思うと血が逆立つ」「梨花を思うとき創作を思う」「創作は 梨花だ。書くことが即ち梨花を抱いていることだ」(日記)。

 乳呑児を死なせた罪悪感を、せいは創作に注ぐ努力であがなおうと決意する。その一方で「家庭の女ほどくだらない生涯を終るものはない。能力が あっても徒にすりへってしまう」「自分は自分の力を信ずる。夫や子供や、家庭の為にの自分ではない」「自分一人の生活をして思うさまうごめいてゆき たく思う」(日記)といい切り、家庭を破壊しての出奔すら考える。

 働きづめの生活に疑問をさしはさんだ時、せいの創作に対する執念が猛然と頭をもたげた。この強烈な自意識の発露に、私は決して軽くは見すごせな いせいの表現者としての矜持を見る思いがする。

 しかしこの頃はまだ、せいの日記の中に夫に対する怨み言は見られない。逆に「豊島の一幕物を読んでみて、夫婦間の微妙な争闘を考える」「実に勝手 極まる夫のふしだらも聡明な妻の石のような冷酷さに原因することを知ると、自分にぴりっとくる。ああもっと広やかに一切を包んでやる心がでないか」と我 身をふり返る謙虚さも吐露している。また出奔したいと一心にはやる一方で「子供らを思うとくさりで首を引きくくられる」思いにかられるせいでもある。

 当時、せいは死んだ梨花も入れて四人の子の母になっていた。母親を頼り切る子供らの姿を裏切れない、せいの本能的な母性愛が出奔を思いとどまら せたと言えよう。

 ともかくせいは危機を乗り越え、踏みとどまった。しかし戦前戦中小作農民に課せられたありたけの収奪をやっとの思いで切り抜けたとたん、敗戦と同時 に混沌は梨畑をせいと息子の手に投げつけ、農地解放運動にとび込んだ。

 それは混沌にとって、自らの意志と良心に従った損得ぬきの行動であったが、家業を放棄し、家族の生活を犠牲にした所に成り立っていた。

 せいは混沌のその謙虚な仕事を理解しつつも「家族にとっては一文のたしにもならぬそれを私は疲れ切ったからだで烈しく憎みながら、心ではいさぎよ く負けていた」という。このジレンマは、いつか夫に対するせいの傲慢な自負心ともなり、加えて結婚以来の生活苦が一層せいの性格をしこらせてしまった。

 昭和二十九年に出た混沌の詩集『阿武隈の雲』の中にこんな詩がある。

    妻を抱く力を失くするほど稼ぐでない

  日長日課どれだ
  何んてちくちく
  腕痛い晩だ
  それほど射した刺は一体何んだ
  茶っぽいばった
  側に飛び降りた
  焼けた地べたを這い隠れる
  九時の光の塊り

  妻はどんくろの足を
  君の腹に
  どさりとあげる
  君は驚いた
  君はその足を柔らかくし

  でも 心が日中打ち込まれた物で一杯だ
  何うしようもない重苦しい玩具
    (後略)

 稼ぎすぎる妻ゆえに、夫たる自分が妻を抱く力をなくす――とうたうこの詩からは、生活の主導権を失い、家庭での発言力を失い、せいに日長一日のろ まな働きぶりをけなされる混沌の、孤独な悲しい姿が見えてくる。

 せいが仕事の鬼になり、憎悪の塊りとなって荒れ狂ったのも、一つには混沌の無欲で実直な人柄と家業の放棄とが貧しい生活をさらに助長したからに ほかならない。

 混沌は詩という自由な精神空間を生涯手離さなかった為に、貧困や生活苦の現実からは一歩隔たった所に生きることができたのかもしれない。しかし せいは違う。自らも表現者を目指していながら、現実には「書く」ことなどかなわぬ生活者としての徹底を強いられた故に、現実と夢との狭間でもがき、苛 立ち、ジタバタせざるを得なかったのであろう。

 この頃から二人の間は「憎悪の烈しい無言のたたかい」にまで発展する。

 新藤謙はこの二人のあらがいを「混沌のロマンティシズムとせいのリアリズムの抗争であり、混沌の詩と、せいの散文との確執であった」(『土と修羅』) と捉えているが、私はそう図式的には割り切れないものを感じる。つまりもっとドロドロした土着にかける二人の情念のぶつかり合いであり、食いつなぎ、 生き延び、土着の百姓であるだけではなお飽き足りない熱い創作欲を、それぞれが内に抱え込んでいたことによる避けがたい確執であったと考える。

 自伝的作品「白頭物語」の中で、せいは自分を「気紛れに飛び込んできた野性の猪」に、混沌を「高い山に放牧された根っからの駄馬」にたとえ、生活費 や子供の養育費のために「猪は畑中を狂い廻って、強い鼻柱でどこもここもひっくり返して」働く一方、駄馬は情けなさそうにばさりばさりと尻尾で煩いせい を払いながら「サルトルやカフカをもぐもぐと青草のように噛みかみ、ぽこぽこと前足や後ろ足で畑をのんびり掘ったり、砕いたり」というように、その対照的 な働きぶりとのっぴきならない二人の性格を、むしろユーモラスに描いている。現実の二人の確執の根深さが、逆に柔らかい表現を求めたのであろう。

 海育ちのせいと自分との結びつきを、混沌は暗示的に「海と山との結婚だ」と呼んだという。

 かつてせいが憧れた混沌の無欲で実直な性格が、逆に生活苦に拍車をかけ、せいの反感と憎悪をかったのは皮肉といえよう。

 二人の対立の原因が直接には生活苦と性格の相違にあることは言うまでもない。が、そこに加えてもう一つの大きな理由――二人の上にのしかか る時の権力による農民支配の過酷な現実という社会条件をも、決して見落としてはならないと思う。

 「最も苦痛な生き方を選んだ事は本質的に自分をよりよく生かしてゆきたいがためだ。この生を自覚し、この生をよりよく有意義に用ふることをゆるが せにしてはならぬ」「徹せよ、徹せよ、最も底に徹せよ」「自分たちは絶えず創造することによって自分というものを永遠に生かし得る。形にあらわれたる 亡滅は形だけの亡滅だ。自分、この自分がいづこに亡び失せよう」とノートに書きつけた二十一歳当時の、せいの鋭い眼光。ここに表出されたせいの 人生観、自意識、創作意欲は奇しくもその後五十年の自らの実人生を予見し、総括してはいないだろうか。

     
 農業の経験の全くないせいが開拓者混沌のもとへ行く決意を固めた最大の動機は、そこでの生活が己れの文学に新しい境地を開いてくれるに違 いない、と判断したところにあった。混沌の語る貧窮はむしろせいの勇猛心をかきたて、前途は輝いて見えた。

 しかしながら、開拓地での五十年がせいの予想を超えた厳しさの連続であったことは、これまで明らかにしてきた通りである。そこでの苦闘の生活を 強調するあまり、せいにとっての農業をマイナスの面でのみ展開することを私は恐れる。それだけで終ればせいの一生は晩年期の文学的開花という並 はずれた幸運を差し引いても、惜しまれた人生と思われよう。

 吉野せいの死後、雑誌『あるとき』に掲載された古いノートの断章は、せいが小作開墾に自ら身を投じたことによって何を学び、何を考え、何を為そう としたかが、読む者の胸にヒヤリと当てられた白刃のように、そくそくと迫ってくる。

  吾等は最も地に深き交渉を持つ生命のあらはれ、即ち、地球の直参士である栄光を負ふ。

  言ふべくして言い得ざる、言葉として現し得ざる、現さんとして時を持たぬ、その下の下の下積みにされて幾世紀、一部少数の幸福者を他にして幾十万 の彼等が土をかんで空しく亡んだか。

  鬱積したるこの心は恰も密度濃き水飴の沸り立つにも似た重苦しい熱を持って吾等の衷に沸り立っている。はけ口を知らぬ農婦の言葉を語ろう。粉飾 なき本心のことばは、よし足らぬにしても、巨弾の如き響きを持つ確信を抱く吾等。知識ある婦人はそのほこり臭き書庫と空想の内から出て吾等を見よ、 余裕ある人妻は衣服と劇と社交と美食への五官を止めて吾等を顧みよ。婦人社会運動家はその調査のペンを捨ててコーヒーの碗を伏せよ。夢見る女 流詩人は清朗なる田園への賛美を止めて、御身等を一時と素足でたたせないであろう、むづむづする糞土の香をかげ。

 どんづまりの人間百姓、
 逃げ出した豚子以上の悲鳴、
        けちくさい醜態を見ろ。
 現在百姓のみじめな痴呆状態、
       僅かの事に前后を失うてしまう。

 醜い世相を描け、
 理想を忘れるな。
 百態の人間畜生を描け、
 愛でもない、欲でもない、実に殺風景な憎悪の世界を描け。
 汚い世界を描け、苦難の世界を描け。

 ここに至る時、自分は、ほんとに生一本の自分を見る。
 あらゆる呪詛と反逆を持って叫びたくなる。
 自分の書きたいものはここに根ざすのだ。
      (『あるとき』第五号)

 一九二九、三〇年頃に書かれたというこの文章には、自分と同じ百姓・農民達の血しぶく永代の営みの意気と動作を称え、下積みにされながら黙し 果てるのをいぶかり、手を汚さず土を知らぬ都会人に反駁し、抑圧され貧しさゆえにさもしさからぬけ出せない百姓の状態に憤る、せいの身を削ぐような 現実認識が見られる。「余儀なく働き続けながら墓場に急ぐ自分等」のみじめな現実の姿をはっきりと見て取ったせいは、満身の力を込めて引き絞った 反逆の矢で、賢しげに自分の内に秘めていた唯一の願望―― 一大ロマンの創造――を射落としはしなかったか。その時点がせいの百姓的リアリズムの 出発点であろうと私は考える。農婦の視点を己れの武器とし、自ら「農婦の感情の水口を切る者」となる事を決意した時、せいの創作の的は自ずと定まった。 農業にあくまでも主体的に関わることで、せいはあるべき自分の姿を見失うことがなかったと言えよう。

 詩と小説という形こそ違え、混沌が入植以来目ざし続けた生活と芸術の統一という理念は、せいの生き方にも見事に投影しているといえる。

 せいの創作への激しい意欲と確かな視点の獲得は、作品として結実する事によって初めてその目的を達し得る。自分等百姓階級のみじめな現実に対 するせいの憤怒と反発は、土を知らぬ都会人や有産階級の人々に反逆の叫びとして向けられてこそ、意味があった。

 だが、書く時間を持てぬ生活の厳しさは、せいのうつぼつたる創作欲のハケ口を塞いでしまった。この遣り場のない現実にせいは苛立ち、気を荒立て、 やがてそれは生活力のない夫への反発心となり、憎悪の感情へと発展した。せいはもはや人生のやり直しのきかない事を知っていた。知っていればこそ、 農業に主体的に関わり、家庭内の実権をにぎり、生活面で夫を凌ぐ勢いを発揮することがせいには必要だった。夫に創作の時間があり、自分にないこと への夫に対する面当て、精一杯の反逆だった。

 混沌の死後、せいが七十五歳にして文学的開花を成しとげた事実を見る時、せいの混沌に対する反逆のエネルギーは、激しい創作欲の裏返しではな かったかと思われてならない。しかしせいにとって、与えられた時間はあまりに短すぎた。

 「貧乏とは縁の切れぬ開拓一すじだけに生ききった頑ななきびしさを、唯無常なうつけとささやく風を耳にする時、私の胸は追いつかぬ悔ともなり、怒りと もなり、きちきち鳴りひびいてふるえる」(「夢」)と回想するせいの心情には、生活の為に筆を折らざるを得なかったせいの、痛恨の思いがこめられている。

 またせいは自分等農民階級の文学に「農民」の二字が加えられる事を訝かり、「農民詩人、農民××、もしこの冠で類別されるなら、工員作家、労働 詩人、漁撈画家、行商歌人の名称が並称されてもいいではないか」と反発する。その理由をせいは「殊更な冠の中には、何か泥まみれの不様に哀しい尻 尾の形がつきまとうような気がしてならない。不似合いな場所からあげる舌たらずのみじめな呻きが特別に抽出されて、特殊扱いされていやしないか。 逆にいえば農民といううそ寒い溜り場に掃き寄せられて、ため息まじりの眼鏡で俯瞰されているしがないひがみが伴うためか」(「かなしいやつ」)と非常に 主観的に述べている。

 都会の生活や文壇とは縁もなく生きてきたせいの、その対極に位置する心情の底にこもる、本能的な反発のように私には聞こえる。

     
 「書く」行為。それは精神の全力投球である。そこに生まれた作品は、作者のすべてを反映するといえる。つまりは作者の人格や人生観、時代や社会に 対する視点が自ずとそれにふさわしい文体を要求するともいえよう。

 吉野せいの登場後、その人と文の一致の見事さがとりわけ云々された。百姓バッパのみずみずしい感性をほめそやし、文体の素晴らしさが珍しがられた。

 文体を修辞法のカテゴリーにとどめ、言語表現の技術や技法の修練のみを文章作法と心得ている限りでは、吉野せいの文体は、“奇跡”“驚異”という 底の浅い近視眼的な評価にとどまってしまう。

 せいの文体を考える上で、まずその生成の発展過程を見る必要があろう。

 それは「絶えず創造することによって自分というものを生かし得る」と決意した二十一歳の青くさい創作欲から出発し、小作開墾を通じて「百態の人間畜 生を描け」とリアリズムに徹する創作の視点を獲得するに至る。その後、老いるまでの数十年を農婦に徹する中で、自然や人間の観察眼を養い、無産の乏 しい生活が虚飾をふるい落とし、今日、独自の文体を形成するに到ったといえよう。

 そこからまさに、書いたように生き、生きたように書いた、せいの人格と等身大の文体が出現したのである。

 吉野せいの文体について「刃毀れなどどこにもない斧で、一度ですぱっと木を割ったような、狂いのない切れ味」と評したのは串田孫一であったが、 他にも「書いたあとから詩になる文」(草柳大蔵)、「からだの中の皮膚と感官に刻みつけられ記憶していたことばの奔出」(真壁仁)、「『農と知』がまこと に渾然一体となった」(安間隆次)、「堅く身のしまった。地鶏の味」(土岐惇)、「『眼でうたい、突き放すでもなく溺れるでもない』独特の感覚」(松永伍一)と、 さまざまな人が吉野せいの文体の解釈を試みている。また「直哉のものにくらべれば―くらべるなんてだいそれたことですが、わたしのものは跳躍してい るし、どろどろしていて、生臭い、それは白樺派人道主義と、土俗リアリズムの違いでしょう。わたしの人間観は、白樺派人道主義の対極でしたから」 (『あるとき』七号)と語ったというせい自身の言葉がある。

 開拓地への土着と夫への反逆の過程が、せいの五十年の結婚生活の内実だったことはすでに述べたが、これはそのまま、せいの文体生成のプロセ スとも重なる。同時に、夫であり、詩人であった混沌との日常的な関わり合いが、せいの人間形成、ひいては文体にも影響を与えていることを指摘しておこう。

 混沌は自然に即し、土に同化し、あるがままに生きる事の中に理想を見い出し、詩を書き続けた。一方のせいは「詩は人間の心に湧いて言葉の中に哮(た)け る精髄のあらしなのだと思う。その人さまざまの詩は生まれ、そのさまざまの詩のかげにその人は生かされていく」(「かなしいやつ」)という、詩に対する明確 な認識を持っていた。にもかかわらず、日常生活の中で詩をたたき出し、練り上げる混沌の言葉との格闘を、せいは冷やかにながめる。混沌の詩作を生活面 で支えながらも、せいは決してその領域には踏み込まず、詩と対峙し得るものとして散文に立つ自分の位置をはっきり自覚していた。

 しかもせいは、混沌のようには自然に即する生き方をとらない。開墾を通じてせいが得たもの、それは自然とは挑むべき相手、という実感である。一身血族 六人の子育てのための血を滴らすような労働、創意、蹉跌、工夫の連続の、自然を相手の戦いの中から、せいは書くべきもの、書かずにおられないものを 弁証法的に学びとり、感性を磨いていったといえよう。

 たとえ五十年の文学的空白があったにせよ、機が到来するや、一気にその沈黙を打ち砕くだけの文学的土壌が、せいのその生涯の中に用意されていた のである。

 せいの文体の特徴として、次の事もあげられる。即ち、せいが創作の筆をとったのは昭和四十七年からの三年間であるのも拘らず、せいの作品に登場 する時代は大正初期から昭和四十九年まで、実に六十年間にわたっているという事である。

 特に第二次世界大戦前夜と銃後の農村を描いた作品群は、三十年の歴史を経た今日のせいの透徹した目で再構築されたものであり、そのことが作品 の内容と質を一層高める結果となっている事を見極める必要があろう。

 たとえば「地力も薄いこんな開墾畑の集落にも、国をあげての戦争というどえらい重圧などと、口が裂けてもいってはならない」(「麦と松のツリーと」)、 「割合はたとい自分らの口腹を満たされぬ不作であっても量目は果たさねばならぬ。不条理な目つぶしをくらわされた悲しい群盲のひしめくひん曲がった 時代であったから」(「いもどろぼう」)という、主観と客観の両方に目配りした言い回しは、戦中その時代にはとうていできない表現である。

 またその時点では考え及びもしなかった民衆への収奪のからくりも、「国を挙げての存亡の糧作りと噛みつかれると、戦果のでたらめな放送にもしんじつ耳を傾けて信じ込 み」「一粒でも多くの増産をはかるための苦労は当然であることのような義務観念をすなおに植えつけられた、その時の百姓たち、私たち」と当時の偽りの ない気持と今日から見た客観的な判断とを、現在形の文体の中に調和させて、その時代を立体的に描き出すことに成功している。

 この文体の特徴を、真壁仁は「概念も説明もなしに、過ぎ去った時間をたぐりよせ現在形で『事実』を語っていくことばは、もう文章の修辞を越えた、人間 の土根性のひびきがあるし、ゆきついたところから見かえしているたじろがぬ凝視の眼がある。おそるべき眼光である」と指摘する。

 吉野せいが戦前・戦中を通じ表現者としての自己を農に徹することで貫いていったことが、のちにその時代を文学作品の中に生き生きと再現するこ とのできた、一つの大きな理由ではないかと思われる。

 今日、商業主義とマスコミの要請に乗じてペラペラした「文芸作品」の量産される中で、時代と人間性に深く錨をおろした吉野せいの文学の登場は意義 深いと言える。

     
 生前混沌はせいを「鬼婆」と罵ったと言う。しかしその後で微かに「かんべんしろ」とも言ったという。せいの阿修羅のような生きざまが、ほかならぬ自分の 頼りなさの反映でもあることを、混沌は痛いほどに感じ取っていたのだろう。その混沌のせいより数年早い死が、せいに創作の時を与える契機となったと いい切るのは余りに穿った見方かもしれないが、せいが混沌の死後執筆に投じた三年余りの時間の無限の尊さを思う。あるいは創作にかけるせいの執念 がついに確保し得た、血を滴らすような一分一秒であったのかもしれない。「今度のこのような成り行きを私は愛によってとも友情によってともいい足りぬ、 人間同志の心の奥に流れ合う凄まじい信頼からといいきりたい」とせいは言う。

 混沌はせいから理想や夢を奪ったかもしれない。しかし、彼の報いを求めぬ純朴な人柄は、その周りに山村暮鳥、草野心平といった詩人たちの熱い信 頼を引きつけ、その魂の交流は永劫に消え去ることなく、ついには亡き混沌に代わっての草野心平の励ましともなり、遅咲きながら、せいの文学の見事な 開花を導いてくれた。

 草野心平は「何もいわなかった奴、孤独な混沌は日本でもいや世界でも希少なばかだ」と混沌の墓前でうなだれたという。そのような混沌と生涯つれ そったせいの人生も又、その激越さにおいて稀有といえるだろう。

 しかし同時に、せいの作品が世に出て受けた幸運な待遇と結構な評価のされ方を、私はしばし暗然たる気持でながめる。なぜならその作品を産まし めた母体――書くことより食うことに追われた生活の内実――と陣痛の長さ――「憎しみだけが偽りない人間の本性だと阿修羅のように横車もろとも、 からだを叩きつけて生きてきた」五十年の懊悩――とが、私にはあまりの痛々しいからだ。

 一つの文体に費やされた苦悩と試練の奥深さを、人を瞠目させる文体の生成の秘密を、吉野せいはそのしたたかな生涯と共に、衒いなく見せるのである。 (完)

(第27回農民文学賞受賞作品)


主要参考文献
『洟をたらした神』吉野せい作品集 彌生書房
『道』吉野せい作品集 彌生書房
『暮鳥と混沌』吉野せい 彌生書房
『あるとき』創刊号、二号、三号、四号、五号、七号 彌生書房
『土とふるさとの文学全集』第十四巻 家の光協会
『日本農民詩史』上、中(一)(二)、下巻 松永伍一 法政大学出版局
『土と修羅』新藤謙 たいまつ社
『詩と詩人』草野心平 和光社
『暦程』詩集
『農民詩紀行』松永伍一 NHKブックス ほか
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(この作品は杉山武子の著作物です。無断転載・引用はできません。)