◆インチョン(仁川)からチュンチョン(春川)へ ◆あっという間の車社会 ◆韓式食住体験 ◆遠くの隣国から真の隣人へ ◆インチョン(仁川)からチュンチョン(春川)へ 初めての韓国旅行は鹿児島からの週2便の直行便を利用した。インチョン国際空 港はキンポー空港よりさらに西に数十キロ離れた永宋島に2001年に新しく開港。 4000メートル級の滑走路2本を持つ、24時間対応の海上空港だそうだ。到着して 面食らったのは文字。表示類には漢字など見当たらず、ハングルばかり。当方ハングル文字は全く読め ずお手上げ! しかし韓国の知人たちはみな日本語が堪能。言葉の不自由はなかったものの、 旅人としては情けない心境だった。 空港からソウル中心部までは約60キロメートル。今回、ソウルからさらに東へ 80kmのカンウォン(江原)道のチュンチョンへ行くのに、直行バスを利用した。 5、6年前韓国に留学していた人の話では、バスやタクシーの運転が荒っぽくて、 チュンチョンへの曲がりくねった川沿いの道を、バスがスピードを落とさず 走るので、恐ろしかったと聞いていたので心配だったが…。 チュンチョン行直行バスは渋滞で有名なソウルの中心部を避け、川沿いの山道 も通らず、新しくできた自動車道を走ったので恐い思いをすることもなかった。 バスの運転も荒いということはなく、道路事情も運転マナーも飛躍的に向上して いるらしかった。予定より早く2時間40分でチュンチョン市のバスターミナルに 到着。日本に留学していたことのあるSさんが出迎えて下さった。 Sさんのクルマに乗り、途中チュンチョン駅で奥さんと合流したが、道路右手 は高い塀が延々と続いていた。その中は米軍基地という。市街地の4分の1以上 が、基地として使われているらしいが、観光地図には基地の表示はない。確かに 迷彩服を着た韓国の若者、つまり軍人さんの姿が目に付くし、軍事基地が多い のも、チュンチョン市が北朝鮮まで3、40kmと近いからであるという。一見平和 な中にも、韓国には休戦ラインがあり徴兵制度があるという水面下の緊張感が 厳然と存在することを、迷彩服を見て感じた。 基地周辺の寂しい通りを抜け、道庁前を通り、鳳儀山という小さな山の中腹の ホテルに到着。ここは昔、日本人が神社を作っていた場所だという。四方を山 に囲まれた人口約26万人というチュンチョン市は、2つの川が合流し、3つのダム によって川の中には幾つもの小島が浮かび、風光明媚な観光名所となっている。 翌日はSさんの奥さんの案内で、ナミ(南怡)島へ。ここは韓国のテレビドラマ 「冬のソナタ」の撮影場所となった美しい小さな島。市内からバスで約30分、 島へは小さな観光船で渡り、島全体が並木道の公園になっている。最近ドラマ の影響で、日本や中国からの観光客がどっと増えたそうだ。確かに日本語があち こちで飛び交っていた。 韓国の女性は結婚しても姓は変わらないからSさんの奥さんはHさん。彼女も 夫の留学中に日本に住んでいて、現在また日本語を勉強中とのこと。彼女に 韓国のことを習い、私は彼女の日本語の発音を直し、1日付き合ってもらった。 韓国も教育費がとても高いので、国立大に入るため、進学希望の子どもたちは こぞって放課後に学院(日本では進学塾)に通うという。 18年ぶりに会ったCさんは髪こそ白い部分が目立ったものの、相変わらずの 豪快さ。夜、高層アパートにある自宅までお邪魔したが、日本でいう分譲マン ション。敷地内と地下も全面駐車場となっていて、1戸あたり1.8台分確保され ているという。エレベーターを出ると頑丈なドアがあり、ドアに付いたテンキー で暗証番号を押して開けると、その中は3畳くらいのタタキになっていた。自転 車などが十分置けるスペースだ。玄関ドアはその奥にある。つまり二重のドアに なっていた。 玄関も十分広かったが、居間となる空間はたっぷり15畳くらいあり、それが8 畳ほどの食堂とつながっている。個室は3つ取ってあるが、日本でおなじみの ベランダがない。寒冷地対策と思うが、南向きに大きく開いた居間のサッシの 向こうは、ベランダのかわりに奥行2mほどのサンルームになっている。床は全て オンドル仕様。各部屋ごとの温度調節が可能だという。高層アパートはどれも 同じような外観なので、南側はサンルーム形式が普通のようだ。 限られた空間をいかに区切って部屋数を取るかという日本のマンションと違い、 これだけの空間は生活に必要、という考え方から出発しているのだろう。狭い 廊下や無駄な仕切りがないから開放的な間取りで、120u以上はあったと思う。 広いタイプだそうで、一般にはもっと狭いのもあるとは聞いたが、間取りの 考え方というか、住空間に対する発想の違いを大いに感じてしまった。 チュンチョン最後の夜は18年ぶりに再会のIさん行きつけの酒場へ。ビルの上階 に店があったが、1・2階は病院で、隣りはキリスト教会だった。その変な組み合 わせを指摘すると、お酒を飲み過ぎたら下の病院へ行き、隣りの教会で懺悔(ざん げ)をするのに便利、という答えに大笑い。ウィスキーを注文すると、ピーナッツ などのおつまみの他に、牛乳の入った大きなビン、ウーロン茶、そしてバナナ・ リンゴ・パイナップル・ナシ・トマト・スイカなどにスルメを添えたフルーツの 盛りが出てきた。韓国ではこれが普通で、胃と畜産振興のためにまず牛乳を飲み、 健康のためにフルーツもたっぷり取りながらお酒を飲むそうだ。 Iさんの話で驚きだったのは、韓国では農村は80歳以上のお年寄りばかり残って いて、しかも出生率は日本より僅かに低いとか。つまり少子高齢化は日本より 早く進んでいるのが現実だという。また韓国では長男の権力が絶大で、かつ先祖 を祭る祭祀を行う重大な責任があるという。そのため娘しかいない家では、兄弟 などの息子を養子にして、必ず後継ぎを作るという。私たち夫婦には娘二人しか いないが、養子縁組など考えたこともないので、改めて国情の違いをかみしめた 夜だった。
近くて遠い国といわれる韓国。顔やファッションも特に若い人たちは日本人と
全然見分けがつかない。今まで旅行したヨーロッパやアメリカは勿論、中国や
ベトナムなどアジアの国々で感じたような、外国にいるという違和感のような
ものを、韓国では全くといっていいほど感じなかった。しかしその安易な思い
込みに落とし穴があるように思えた。似ていると感じるのは表面だけのことで、
実は文化も習慣も異なることのほうが多い、と気づかされた最初の数日間だった。 ◆あっという間の車社会 外国へ行って食べ物以上にお国柄が表れるものに、交通事情がある。効率的 な移動手段としてタクシーにはたいがいお世話になる。強盗対策のために 後部と前の座席が鉄板で完全に仕切られていたのは、中国のタクシー。怪しげ という意味ではインドのタクシー。空港や駅周辺はメーターなどない白タク がウヨウヨ。客と見るや頼みもしないのにスーツケースをつかんで、勝手に トランクに押し込むから油断できない。 韓国のタクシーといえば相乗りが有名で、日本と違うところだろう。ところが タクシーの台数も増え、私が最初に行ったチュンチョン市内では最近は相乗り はほとんどないという。客の乗った信号待ちのタクシーのドアをあけて男性が 乗り込もうとして、実際断られているのを見た。先客が嫌がるし、タクシーが 増えて不況でもあるから、相乗りの時代は終ったようだ。 韓国は中国やアメリカと同じ右側通行。日本のように青信号で対面同士が走る 方式ではなく、交差点では1ヵ所の信号だけが青になる。右折(日本では左折) は赤信号でも常時進める。青信号では他の3ヵ所の信号が赤なので、直進も左折 (日本では右折)も同時にできるから、日本のように右折車が交差点内で対向車 の切れるのを待つということはない。 右折のタイミングの難しい日本の方式に比べれば、韓国の信号の方が交差点は 安全なように感じた。これは中国も同じ。しかしこの方式だと4ヵ所の信号が 順繰りに変わるので、信号待ちの時間は当然長くなる。交通ルールの採用は、 それぞれお国の事情があって決められたのだろうから、一概には言えないが、 運転初心者には走りやすい方式と思った。 どうも気になったのは運転中の携帯電話。韓国の人も携帯電話が大好きで、 運転中でも抵抗なく利用している。信号待ちが長いのは話すには便利だが、 やっぱり気になる。チュンチョン市で乗ったタクシーでは、携帯電話を手に 持たない方法ではあったが、乗ったときから下りるまで延々と、運転手さん の私生活丸出しのお喋りを聞かされた。(むろん意味はわからないが) 知人に聞いたところでは、韓国では1990年代の後半以降、急激に車社会に なったという。まだ10年足らずである。高速道路は片側4車線あるし、都市 と都市を結ぶ国道ですら、片側3車線の自動車専用道路だった。地面から 少し高くなった盛土の上に道路があり、歩道などない。バイクや自転車も 全く走っていない。 日本の国道のように民家や商店街が並び、自転車や歩行者も一緒の生活感の ある道路ではなく、完全に車のための道路になっていた。車社会に合わせて 新しく造られたのだろう。韓国の高速道路は経済成長とともに急速に整備され、 昨年はワールドカップもあり、幹線道路網の整備が飛躍的に進んだようだ。 市内に入ると、当然のことながら車が溢れ、商店や自宅前の路上が駐車場に なっている。車庫などない建物のところへ車が増えるので、路上に止めるしか ないようだ。車庫証明もいらず、運転免許も日本よりずっと安くて取れるので、 車は増えるばかり。裏通りではパリやローマ並に道の両側に縦列駐車していて、 歩きにくい。1週間の滞在中自転車を数台、ミニバイクを1台見たきり。韓国は 今の日本以上に車社会になっていると感じた。 今回チュンチョン(春川)市からチョンジュ(全州)市までと、チョンジュから ソウル近郊のインチョン国際空港まで、高速道路を走る長距離バスを利用した。 どちらも見晴らしの良い一番前の席に座った。運転席も見える位置だ。 道路がいいので高速道路ではバスは平均110キロくらいで走行していた。国道 でも70キロくらいで走れるから、日本よりスピードが速い。どうやら車優先が 日本より徹底しているようだ。そんなことを考えながら高速バスに乗っていたが、 どうも運転手さんの挙動が気になって仕方がなかった。 チョンジュまでの若い運転手さんは、中央分離帯をはさんで対面してすれ違う 自社のバスと出あうたび、右腕をピッと曲げて軍隊式の敬礼をする。何と律儀 なと最初は思っていたが、それがひっきりなしに続く。約3時間半、相手の顔も 見えない距離なのにひたすら敬礼は続く。もう合図をやめてちゃんと前向いて 運転してよ、と言いたくなった。 ソウルまでの高速バスは中年の運転手さん。始発なのに15分遅れて来たが、 走行中に仲間のバスには時々合図するくらい。やれやれと思っていると、携帯 電話を取り出して誰かにかけ、楽しそうに片手運転。到着までの4時間に、 何と自分から2回かけ、2回かかってきて、和気あいあいと普通に長話し。 眠気覚ましになるのかもしれないが、そんなことでいいのと私はヤキモキ。 一番前に座るのも良し悪しだと思った。 途中サービスエリアに10分ほど寄ったが、私がいつも利用している九州自動車 道のものより、駐車場も店舗もはるかに規模が大きく、大賑わいで驚いた。 韓国では急激に車社会に変貌していたが、中国で自転車が消えたように、タイ やマレーシアやベトナムでも早晩バイクが姿を消し、車社会になることだろう。 しかしそれには大気汚染のおまけが付き、石油に依存する生活形態への移行 でもある。 高速道路を走っていると、所どころ道路をまたぐ橋のようなどでかいゲートが 見られる。その中には石が詰まっていて、北朝鮮が攻めて来た時、それごと 落として高速道路を封鎖するためのものであるという。また上下8車線ある高速 道路の一部は、緊急時に分離帯を除いて飛行機の滑走路として使えるとも聞いた。
「やっぱり韓国は南北統一したいんでしょう?」と知人に聞くと「当然ですよ」
という答えが返ってきた。あのベルリンの壁だって無くなったんだから、韓国
だって急に情勢が変わることだってあり得る、と私は思ったことを知人に話した。
さらに政治的なことや自分の意見を自由に話しても問題ないかと聞くと、「全然
問題ない」という返事に正直安心したものだ。日本語で会話するのでつい気持も
緩んでしまうが、やっぱり外国。知らないことばかりとしみじみ思った。 ◆韓式食住体験 韓国は近代社会に変貌した現在でも、儒教の教えが生活の隅々に色濃く残って いる。親や目上の人の前ではタバコを吸わないし、お酒も遠慮がちに飲むとか。 女性の場合は夫以外の男性にお酒をつぐのはご法度で、横を向いてそっと飲む のが礼儀であるという。そんなことを知らない私は、お酒をつぎはしなかった ものの、前向いて堂々と飲んでしまった。(早く教えて!) ある宴席でちょっと遅れて到着したら、先に座っていた人たちが一斉に立ち 上がられた。客人に対する礼儀としての行為だろうけれども、一瞬、何事?と 面食らって、恐縮してしまった。しかし食べ始めると様相は一転。ご飯と韓国 風味噌汁やメインの料理以外、テーブルに所狭しと並んだ皿のごちそうは全部 もやい、つまり共同でいただく。 テーブルには銀製に似た(たぶん真鋳)柄の長い箸とスプーンが、右側に縦に 並べてある。取り皿はあっても、取り箸はなく、自分の箸で取り分け、スープ は自分のスプーンですくってそのまま口へ運んでよい。初めは気になったが、 慣れると家族で食事しているような気楽さ。食事の店は靴を脱ぎ床に座って食 べる方式がほとんどで、冬は床暖房になるようだった。 メインの料理を注文するとまず10種ほどの副菜の小皿が出てくる。ご飯と汁物 も出るので、毎回とても食べきれない量だった。副菜はキムチが4種くらいに ナルム、サラダ、青野菜の炒め物など野菜中心。お箸はこれらの副菜を取り分 ける時に使い、ご飯はスプーンで食べるのが普通のようだ。私はご飯はお箸で いただいたけれど。 チュンチョン(全州)市での1日目はホテルではなく、平屋の伝統的な韓国風の 建物に案内された。屋根付の立派な門には珍しく漢字で「全州韓屋生活体験館」 の看板が掛かっている。四角い中庭に面した部屋の1つが宿泊場所だという。 伝統的住居で韓式生活をぜひ体験してもらおうという、知人の配慮のようだ。 観音開きの扉(障子戸)を開けると、さらに引き戸の障子戸があった。 中は四畳半くらいの広さで、隅に布団が2組重ねられ、小さな鏡台と棚とミニ 冷蔵庫がある。木の戸の向こうはトイレだったが、壁にシャワーが付いている。 床も壁もツヤのある丈夫な厚紙のようなものが貼ってある。床はもちろん全面 オンドル仕様。夜になるとどんどん熱くなってきた。というより熱すぎる。 入り口も窓も障子戸なので、外の音が声がそのまま聞こえる。ということは 室内の音も筒抜けということらしい。 夕食を外で済まし戻ると、泊り客は私たちのほかに1組あるらしい。靴が入口 の石の上に脱ぎ捨ててあるのでわかる。テレビもなく椅子もなく、寝ころぶと 熱いので布団を敷いたがまだ熱い。温度調節がきかないので敷布団を2枚重ね たが、鉄板の上のお好み焼きのような気分。とうとう寝巻も脱いで裸同然の かっこう。オンドル部屋は貴重な体験だったが、一晩で降参。(以前韓国式 旅館に泊まった夫は、オンドルが熱すぎて寝る場所がなく風呂場で寝たという) 朝食堂に行くと韓式の朝食だった。白ご飯と味噌汁風スープに15品くらいの 副菜がずらりと並ぶ。少し遅れてやってきたのは何とイギリス人カップル。 韓国に留学中だという。つまり昨夜は外国人2組が泊まっていたわけだ。その 後迎えに来た知人に体験学習は充分堪能したと伝えて、普通のホテルに宿替え した。韓国の人ですら、体験館に泊まって夜中に帰った人がいたそうだから、 伝統的韓式生活は過去の遺物になっているのだろう。 今回の旅行は仕事に忙しい知人に代わって、初対面の奥さんたちにあちこち 連れて行ったもらった。彼女たちは日本語が話せるので、前からの友だちの ように楽しく話ができた。女同士、どうしても子どもの教育や日常生活が話題 になった。子どもをいい大学へやり、優秀な子ほどアメリカなどへ出すことに 親たちは熱心である。子どもも勉強の他に、ピアノやテコンドーなどの習い事 に忙しいということだった。 日本では夫婦別姓問題がいろいろ論議されているが、韓国では結婚しても 女性の姓は変わらず、子どもが夫の姓を継ぐ。もし離婚し、女性が子連れで 再婚したら、子どもの姓はどうなる?と聞いた。姓と婚姻は関係ないので、 子どもは前夫の姓のまま。つまり親子全員違う姓になる。それが学校でいじめ の原因になることもあるという。親の都合で姓が違うことのしわ寄せは、子 どもが被る。それはどこも同じようだ。 このような不都合な現状に対し、最近、再婚した場合の子の改姓についての、 新しい法案が提出される動きがあるという。しかし法改正は現実的にはまだ 難しいだろうと。血縁の結束が強い韓国でも最近では離婚が増加し、両親の どちらも子どもを引き取らず、施設に預けられるケースも増えているとA さんは嘆いていた。 チョンジュ市では、今年度の高校入学者数が定員割れになったという話も 聞いた。日本でも15歳人口、次いで18歳人口の減少で、すでに高校や大学の 入学者数の定員割れが始まっている。少子高齢化は先進国のあかしなのかも しれないが、韓国はどんな打つ手を考えているのだろうか、気になる。
韓国のある知人はこう言った。経済発展に伴って到来が予想される少子高齢
化対策は、欧米型をモデルにしがちだけど、それでは合わないのではないかと。
アジアにはアジア独自の問題があり、それを踏まえた研究と対策が必要で、
日本はそのモデルを示して欲しいと。アジアで1歩先をゆく日本は、良くも
悪くも経済発展が行き着く先の見本であり、成り行きが注目されているのだと
隣国の知人の意見を聞いて思った。 ◆ 遠くの隣国から真の隣人へ 日本語には母音が5つある。外国語を知らないうちは、母音とはそんなものだ と思っていた。ところが英語を習い始めると、アやエなどのそれぞれに数種類 の違った発音があることを知って驚いた。また日本人にはRとLの発音を使い 分けることが難しいが、それはたいていの人が経験していると思う。 英語の授業時間に発音がうまくいかず苦労しているころ、ある思い出が甦った。 私が小学生のときに聞いた、母の戦前のころの昔話である。母が子ども時代、 近所に朝鮮の人がいて、顔では見分けがつきにくくても、ある種の発音で日本 人でないと見分けがついたというのである。 それはba行がpa・pi・pu…の発音になりがちで、つまりbiがpiに聞こえるから、 いくら日本語が話せても「ビールビン」と言わせてみれば、すぐにバレるのだと。 ビールビンとうまく発音できないことを理由に、チョウセンとバカにし、集団 ではやし立てて虐めていた、そんな話だった。 それと同じようなことで、日本語の発音に慣れてしまった舌には、英語のRと Lの発音は特に難しい。逆にアメリカ人はリャリュリョなどの発音が苦手で、 例えば ryou より jou が言いやすいとか。発音の悪さをもって外国人をバカに したり、逆にバカにされたりするのは理不尽なことだと今はわかる。差別や イジメという言葉にであうたび、私は無知というものの例えとして、母の昔話 を苦々しく思い出してしまう。 私の知っている韓国の人たちは、日本語がうまいし英語もうまい。韓国語には 母音が十数個あるというから、それを聞き分ける耳を持っていることになる。 だから日本人が苦手とする英語の発音の聞き取り、つまりヒアリングの能力は 韓国の人たちのほうが高いだろうし、英語の上達も早いのだと思う。発音が変 などと笑っている場合ではないのは、日本人の方かもしれない。 高校2年生の時、同じ文芸部で同級生の栄子さんからぜひ読んでと『ユンボギ の日記』を手渡された。それは韓国の貧しい家庭の子ユンボギが、けなげに 逞しく生きていく日々を書き綴った日記だった。泣きながら読んだ記憶が残っ ている。今回韓国の知人たちに何人か『ユンボギの日記』を知っているか聞い てみたが、知らないという返事だった。 韓国でベストセラーになった本とはいっても、約40年前の話。知人たちはみな 私よりひと回り年下だから、知らなくても無理はない。日本では同じように 貧しい兄弟の奮闘を描いた『にあんちゃん』が話題になって、映画にもなった。 日本も韓国もそう遠くない昔に、貧しかった時代が確かにあった。 現在の韓国は車社会になり、高層住宅が建ち並び、商店には物が溢れ、日曜日 には大型店の駐車場は車でいっぱい。家族連れで買物にでかけるようすは、 日本と何ら変わらない。今回はソウルほど大都会ではないものの、都市部に 滞在したので、高齢化が進んでいるという農村を見ることはできなかった。 ただ、日本の高級和牛に相当する韓牛を肥育している畜産農家と、パプリカを 栽培しているハウスを見学する機会があった。韓国でも現在オーストラリア産 の牛肉が大量に輸入され、庶民にとって韓牛は高嶺の花であるという。確かに 見学した店では、輸入牛肉の3倍くらいの値がついていた。 パプリカはピーマンを大きくしたような、赤・黄・緑色のカラフルな野菜。 ハウスといっても8千坪もある工場のような広さで、設備も資材も技術もパプ リカの種も、全てオランダの会社のものを導入しているという。温度も湿度も 全てコンピュータシステムで管理されており、月に1回オランダから技術者が 来て、何から何まで指導・点検・保守するのだという。 ハウス内の地面はコンクリートの床で、パプリカは一株ずつ小さなポットから 幹を伸ばし、7メートルくらいまで伸びてたくさんの実をつけるという。一直 線に並んだパプリカの列と列の間はレールが敷かれ、1人乗りの台車が電動で 移動しながらパプリカの世話をできるようになっている。またパプリカの成長 に合わせて、作業台は人を乗せて屋根近くまで高く伸びるようにもなっていた。 現在はドールジャパンと契約して、生産物の全てを日本に輸出しているという。 出資者8人で政府の支援を受けてスタートし、現在は3人で経営しているという。 驚いたのは経営者のうち2人はまだ20代前半の若者で、1人は学生さんだった。 決済は全てドルで行われるため、為替レートをにらみながらウォンに換金して いる、と若き経営者は言っていた。規模といい取引形態といい、農業という よりビジネスそのものの印象だった。
政治的にも経済的にも成熟度を増している韓国。現在不況にみまわれていると
はいえ、いろいろな面で日本よりはまだ余力がありそうに思えた。かつては
韓国から大勢の留学生が日本にやってきていたが、今では日本から韓国の企業
などへ研修にいくケースも多いという。双方向の交流が行われるようになった
今こそ、ますます隣人として互いに尊重しあう時代に入ったのではないだろうか。
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