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樋口 一葉 豆知識
                                           
全集樋口一葉(小学館)、樋口一葉事典(おうふう)他参照

注意*記述内容に関しては他の文献等も調査のうえ、ご利用ください

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一葉の本名 一葉の家族 一葉の祖父 一葉の学歴 樋口家の転居 一葉の兄
一葉の日記 一葉のさいふ 和歌の道 二人の歌子 萩の舎 法真寺
姉弟子 花圃 稲葉鑛(こう) 一葉の父 半井桃水 一葉の親友 一葉の妹
一葉の弟子 一葉の誤解 一葉サロンの人々 一葉の婚約者 一葉と宗教 一葉の名の由来
一葉の読書


[一葉の本名]
明治五(1872)年生まれの樋口一葉の戸籍名は「樋口奈津」。しかし日記の表紙には「なつ」「夏」「夏子」とも自署し、本名の奈津より「夏子」 を用いることが多かったので、樋口夏子が最も一般的な呼び方として通っています。

ちなみに一葉の父母は共に甲斐国山梨郡中萩原村の農民出身。結婚を反対された二人は駆け落ち同然に江戸へ出奔。夫婦で懸命に働いてお金を貯め、 刻苦十年ののち、南町奉行配下八丁堀同心浅井竹蔵の株を買い幕臣となります。大政奉還の直前でした。

その間、父則義は幼名大吉から、出世に従い八十吉、八十進、士族の身分を得たのちは為之助と名を変え、奈津(一葉)出生の後則義と改名。 母もあやめから、たき、多喜、滝、滝子などと称しました。


[一葉の家族]
樋口一葉の一家が揃って最も安定した生活を送っていたのは、一葉が四歳から九歳にかけて住んだ、東京帝大赤門向かいの法真寺に隣接する、 大きな構えの本郷六丁目の家でした。

父則義、母たき、長女藤(ふじ)、長男泉太郎、次男虎之助、次女奈津(一葉)、三女邦子の七人家族の全員が揃っていました。藤は十七歳で結婚した ものの翌年には離婚して実家に戻っていたのです。(のちに再婚)

一葉より十五歳年上の長女藤は、両親が萩原村から江戸へ出奔した時身重の母のお腹にいた子どもで、母は生活のために、生まれた藤を里子に出し、 自分は本郷湯島の旗本稲葉大膳の生後間もない養女お鑛(こう)の乳母として、屋敷奉公をします。父は蕃所取調所の小使いを振り出しに、 江戸での出世を夢見て、夫婦でゼロから生活の道を切り開いていきます。


[一葉の祖父]
樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村(旧塩山市・現在は甲州市)に屋敷を持ち、代々農業を 生業としていました。八左衛門を世襲の名とし樋口姓でしたが、苗字 帯刀は許されていませんでした。

一葉の祖父八左衛門は村の住職について学び、農耕の合間に子どもたちの手習いの指導をしたり、字の書けない農民の代筆をしたようです。

八左衛門は農民から持ち込まれる訴訟などの世話をしていたことから、隣村と灌漑用水をめぐる争いが起きたとき、江戸に出て老中阿部正弘 に直訴を決行し、数ヵ月牢に入れられたこともある気骨のある農民でした。

上昇志向の強かった長男大吉(一葉の父)は農業を嫌い、恋仲のあやめと共に江戸へ出奔したため、家業は次男喜作が継ぎ、八左衛門は隠居。 一葉が生まれる前年の明治4年11月に、70歳の生涯を終えました。

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[一葉の学歴]
明治10(1877)年3月、公立本郷学校へ入学した一葉は、幼少すぎるためすぐに退学。半年後5歳で私立吉川学校へ入学し、小学読本や四書の素読 を学び、明治14(1881)年4月に退学するまで3年半通います。

同じ年の11月、私立青海学校へ入学。半年ごとに小学二級後期、小学一級前期、小学中等科第一級、小学高等科第四級と卒業します。当時の小 学校は等級制のため級の終りごとの卒業でした。一葉は第四級を首席で卒業しますが、三級への進学をめぐって父母の意見が対立します。

利発的な一葉にもっと勉強させたい父親と、「女に長く学問させることは先々のために良くない、針仕事や家事見習をさせる」という 母親の言い争いになり、母親の意見が勝って進学希望だった一葉は退学します。後の日記に一葉は「死ぬ計(ばかり)悲しかりしかど、学校は止めに なりにけり」と悔しさをにじませています。

当時の小学校制度はまだ整っておらず、一葉は吉川学校に3年半、青海学校に2年、通算して5年半の通学です。 満11歳で小学高等科第四級卒業が一葉の最終学歴となりました。東京府では明治15年5月に小学校教則が施行され、 初等科3年、中等科3年、高等科2年と定まりました。一葉はちょうどそのころの小学生で、当時、東京の女子小学生の就学率は50%以下でした。


[樋口家の転居]
樋口家は引越し魔だったようです。一葉は東京府第二大区小一区(現千代田区)内幸町の東京府構内にあった、官舎長屋で生まれました。 同じ年に現・台東区の下谷練堀町に一家は自宅を購入して転居。

一葉二歳のとき、現・港区麻布三河町の屋敷に転居。四歳のとき、現・文京区の本郷六丁目へ転居。九歳のとき、下谷御徒町へ転居。十二歳 で下谷区西黒門町へ転居。十六歳のとき、黒門町の自宅を売却し、芝区高輪の借家(次兄が住んでいた)に同居。以後借家住まいとなります。 樋口家の没落のはじまりでした。

まもなく神田区表神保町、神田区淡路町へ転居。父則義の死去に伴い、一葉、母、妹の三人は次兄のいた芝区西応寺町に同居。十八歳の時、兄の 借家を出て本郷区菊坂町に母娘で転居。後に隣家に転居。二十一歳の時、荒物屋開店のため下谷区龍泉寺町の長屋へ転居。

しかし翌年、店をたたんで本郷丸山福山町へ転居。ここが一葉のついの棲家となりました。一葉は二十四年の短い生涯に、十数回も住まいを 移したことになります。


[一葉の兄]
一葉には兄が二人いました。二人とも生まれた時はまだ江戸時代でした。長兄泉太郎は勉強好きで、両親の期待を背負っていましたが、病弱でした。 父親が警視庁勤めの現役時代に、19歳で早くも家督を相続し、20歳の明治18年2月に明治法律学校へ入学しますが、1年半後に退学。

明治20年の初めに大阪方面へ出て、商売で一旗上げようしますが失敗し、ひと月あまりで帰京。同年6月、父親の退職と入れ替わるように大蔵省に 職を得ます。しかし数ヵ月後大喀血して休職し、11月に退職。12月27日に泉太郎は23歳の若さで亡くなりました。

次兄虎之助は勉強嫌いで素行も悪かったことから、父母と折り合いが悪く、15歳で分籍(勘当)され、6年間の契約で陶工成瀬誠至に弟子入り。職人の道を 歩みます。長男の死により家督相続は次男虎之助の順番ですが、分籍していたため虎之助を飛び越し、父を後見人に妹の夏子(一葉)が16歳で相続戸 主となりました。翌年父も亡くなり、一時的に母妹たちと同居しましたが長続きしませんでした。

虎之助は薩摩焼の絵付けの名手となり、一葉は陶工を主人公にした小説「うもれ木」執筆にあたり、虎之助に陶器の製造法など聞いています。 虎之助は大正14年に東京で60歳で亡くなりました。台東区の一葉記念館に虎之助(奇山)作の一輪ざしがあります。

最近の研究で、長男に早く家督を譲ったのも、次男を分籍したのも、徴兵を逃れるため父親が考えた策ではないかという説があります。

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[一葉の日記]
樋口一葉は小説のほかに膨大な日録や雑記を残しています。一般に一葉の日記と呼ばれるものは、明治24年4月11日から書き起こされた 「若葉かげ」以降で、その数40数冊におよびます。また日記とは別にメモ風の雑記も平行して書き継がれています。

日記帳はほとんどの場合、引越しや生活の節目となる時期にあわせて新しく書き起こされ、表紙右肩に起筆した年月、中央に表題、左下に 本名が書かれています。

日記の題名は「蓬生日記」「しのぶぐさ」「塵中日記」「塵之中」「水の上日記」など居住する場を意識したものが多く、最初は王朝日記風だった記述も、 だんだん社会の動きが書き込まれたり、興味を引いた人物が詳細に書かれ、小説以上の面白さに満ちています。

最初の日記「若葉かげ」は小説の師半井桃水との出会いから始まり、以後ほぼ全編、恋の相手であった桃水を軸に書かれていることから、一葉の 日記が恋愛日記とも呼ばれるゆえんです。

日記は焼き捨てよとの遺言にそむき、妹の邦子は小説の草稿や反古・下書きにいたるまで姉の書いたものは1枚も粗末にせず、生涯かけて守り通しました。 「焼き捨てよ」の話は、日記があると分かるとうるさいからそうしたと、邦子が後に語ったともいわれます。 こんにち近代作家の中でも樋口一葉の伝記研究が突出しているのは、資料の整理・保存に尽くした妹の存在あってのことです。


[一葉のさいふ]
明治22年、下級役人だった父親の退職前の月給は約20円でした。 

父亡き後の明治23年、母娘三人で暮らし始めたころ、一葉と妹の邦子は仕立や洗い張りで収入を得ました。単衣(ひとえ)の仕立賃は7銭 〜9銭、袷(あわせ)は8〜10銭、木綿綿入れは10〜14銭。洗濯は夏物が2、3銭、冬物は5銭ほどでした。三人の生活費を月8円位としても、 相当数こなす必要がありました。そのうえ亡き父が残した負債もあり、生活費のほかにその利子の支払いもありました。

明治26年、一葉が龍泉町で出した荒物屋で一番の売れ筋は、1個5厘か1銭のゴム風船。日用雑貨より安い駄菓子やおもちゃ中心の、子ど も相手の零細な商いでした。1日の売上げは30〜40銭ほどで、月の家賃 1円50銭と仕入代を差し引くと、いくらも残りませんでした。

一葉最後の引越しとなった本郷丸山福山町の一軒屋の家賃は月3円。一葉の原稿料は1枚25銭〜30銭、1作書き上げて入る稿料は10円少々 あったものの、大半が借金の返済に消えるため、一葉一家は着物の質入と知人友人からの借金で自転車操業を繰り返し、暮らしが良くなることは ありませんでした。


[和歌の道]
四、五歳から草双紙を読み、父に新聞を朗読して聞かせるのを日課としていた利発的な夏子(一葉)は、男まさりで上昇志向の強い、自 慢の娘でした。母の強い意見で、小学高等科第四級卒業のみで学業を終えた夏子を不憫(ふびん)に思った父は、『万葉集』『古今集』 『新古今集』などを買い与え、和田重雄という人に和歌を学ばせました。

しかし和田が高齢であったことと通信教育という方法だったので、これは数ヵ月しか続きませんでした。父は娘の旺盛な向学心を満た し、本格的に和歌を学ばせたいと、師匠選びに腐心します。

結局、知人のツテを頼って、小石川水道町(現在の文京区春日)の安藤坂にある中島歌子の歌塾「萩の舎」(はぎのや)へ入門の手はず を整えました。当時和歌は女性の高級なたしなみでもあったので、母も反対しませんでした。明治十九年八月、夏子十四歳の時でした。

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[二人の歌子]
夏子(一葉)の和歌の師匠探しに父親が奔走していた当時、東京には二人の歌子が活躍していました。一人は美濃国の松平藩士の家の出 で、明治宮女官の下田歌子。漢籍を祖父や父に、和歌を八田知紀と高崎正風に学び、明治十九年華族女学校の学監に任ぜられ、後には 実践女学校の創立者ともなる「婦女の学者」のはしりの人でした。

歌塾「萩の舎」を主宰する中島歌子は日本橋の絹織物商の次女として出生(異説あり)。江戸末期、水戸藩の勤皇派で天狗党の志士林忠 左衛門の妻となり、天狗党の乱に加わった夫が獄死すると東京へ戻り、桂園派の歌人加藤千浪のもとで歌道に専念した人です。

夏子(一葉)が入門したころの歌子は四十四、五歳。税所敦子、鶴久子と並ぶ有名な歌人でした。女といえど大勢の弟子をとり、歌の師匠として 活躍している現実のモデルを目の当たりにして、父則義は時代の変化を敏感に感じとり、夏子の将来に大きな期待を寄せたようです。


[萩の舎(はぎのや)]
  夏子(一葉)入門当時の歌塾「萩の舎」は、全盛期を迎えていました。単に門下生が多いというだけでなく、中島歌子は経営にあたり弟子 の斡旋や金銭面で、同門の歌人小出粲(つばら)、伊東祐命(すけのぶ)など有力者の援助を受けていました。

特に伊東祐命は御歌所に出仕していたこともあり、皇族や華族をはじめ上流階級の夫人や令嬢たちを、萩の舎の門下生に集めました。 公家綾小路令嬢の八重子、旧老中小笠原長行の娘艶子、旧沼津城主水野忠敬の娘銓子、旧佐賀藩主鍋島家の夫人と娘、陸軍中将鳥尾小 弥太の娘広子、元老議官の娘田辺龍子など、旧体制や明治新政府の特権階級の夫人や令嬢などが入門していました。

もちろん平民もいましたが、経済的には裕福な人々でした。夏子は入門すると同じ年齢で名前も同じ伊東夏子と仲良くなります。伊東 夏子は日本橋の鳥問屋東国屋の娘で、駿台英和女学校に通う商家の娘でした。下級士族の娘一葉は萩の舎では平民組の扱いで、二人は それぞれ「ひ夏ちゃん」「い夏ちゃん」と呼び分けられました。


[法真寺]
  東京都文京区本郷にある浄土宗の寺。地下鉄丸の内線、または都営大江戸線本郷三丁目で下車し、東京大学を目指して歩くと、やがて 道路をはさんで右手にどっしりとした有名な東大赤門が見えてきます。

赤門のほぼ真向かいまですすんだところで、今来た道の左を見ると、法真寺の入口があります。間口は狭いものの、奥へ進 むと境内と本堂があります。一葉は四歳から九歳まで、この寺に隣接する屋敷で生涯で最も裕福な生活を送りました。

一葉は二階の部屋から法真寺を眺め、桜木のある境内は遊び場でした。一葉はのちにこの屋敷を「桜木の宿」と呼び、小説「ゆく雲」にも <腰ごろもの観音様、濡れ仏にておはします御肩のあたり膝のあたり、はら/\と花散りこぼれて‥>と懐かしんで書いています。

現在、腰衣観音様は本堂軒下に安置されていますが、一葉のいたころは、境内中央あたりにあった築山(つきやま)に安置されていて、文字通り雨に濡れる 「濡れ仏」でした。法真寺では毎年一葉の命日11月23日に一葉忌を営み、法要や作品朗読・講演などが行われています。

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[姉弟子 花圃(かほ)]
  夏子(一葉)入門当時の歌塾「萩の舎」には、大勢の姉弟子がいました。中でも一番一葉に影響を与えたのは田辺龍子です。最初は意地悪な姉 弟子でしたが、だんだん一葉のよき理解者となり援助します。

龍子の父蓮舟田辺太一は旧幕臣で、のち貴族院議員になった人です。幕臣時代は外国奉行の任に就き、1867年パリ万博など二度の渡欧経験が あります。番町の屋敷で生まれた長女龍子はお姫様≠ニ呼ばれて育ち、跡見花蹊の塾、明治女学校、東京高等女学校(御茶ノ水女子大の前身) 専修科卒業など、当時の女性として最も恵まれた教育を受けています。英語が達者で、早くから束髪に洋装スタイルを通しました。

明治20年、田辺花圃のペンネームで書いた処女作「藪の鶯」が大評判となり、稿料33円20銭を得たというニュースに、一葉は羨望を感じます。 このときの刺激が、のちに一葉を小説に向かわせるきっかけになります。姉弟子の花圃は小説でも和歌でも、一葉の目標でありライバルでした。

明治25年哲学者三宅雪嶺と結婚して三宅花圃と名乗りますが、結婚後も当時の一流雑誌『都の花』に一葉を紹介して作品掲載の手助けをしたり、 『文学界』の同人たちと一葉を結びつけ、一葉が作家として成長するための大きな役割をはたしました。


[稲葉 鑛(こう)]
  稲葉鑛は、本郷湯島三丁目に居屋敷を構えた二千五百石の旗本稲葉大膳正方の養女として、姫様と呼ばれて育てられました。一葉の母は、長女 藤を出産後まもなく里子に出し、生活のために鑛の乳母として仕えました。

明治十五年に正方が没すると鑛は戸主として家督を相続し、二年後入り婿を迎えます。夫となった稲葉寛は手がけた小事業もことごとく失敗して、 維新後没落していく稲葉家を盛り返すことはできず、人力車夫や日雇い人足をするまでに落ちぶれます。

極貧生活に陥っていく鑛を、一葉はお鑛様と呼び乳母姉妹として気にかけ、「暁月夜」の原稿料が入るとその一部を生活の足しにと持参します。その とき一葉は稲葉一家の惨めな生活ぶりを目撃し、お姫様として育った鑛の変わりように哀れを感じ、日記に書き留めています。

稲葉鑛や寛の現実の姿は、人の世の盛衰を身をもって示した人物として、一葉の小説の多くの作中人物に投影されます。夫の寛は三十七歳で病没。 鑛は再婚しますが、その後のことも没年もわかっていません。


[一葉の父]
  甲州中萩原村(現山梨県塩山市)に小前(こまえ)百姓八左衛門の長男として生まれた一葉の父は、大吉と呼ばれていた若者時代、同じ村の中農古屋家 の娘あやめと恋仲になりますが、家格の違いや大吉の父が水争いが原因で投獄されたこともあって、古屋家から結婚を許されませんでした。

家業の農業を嫌っていた大吉は、27歳の時身重のあやめと共に江戸へ出奔します。同郷の農民出身で幕臣に出世していた真下(ましも)専之丞が江戸 にいて、大吉は彼を頼って落ち着きます。真下は同郷の友人の息子、大吉の面倒をあとあとまで良くみて、出世の手助けをしています。

大吉は蕃所取調所の小使いを振り出しに転々と職を変えながら、夫婦共働きで士族株を買うため貯蓄に励み、名前を幾つも変え系譜を整え、江戸幕府 崩壊直前に八丁堀同心浅井竹蔵の株を買い、直参の身分を手に入れます。江戸へ出て刻苦十年後のことでした。

  夏子(一葉)が生まれた当時父は明治新政府の下級官吏でしたが、名を則義と改め、肩書きも士族となりました。学問好きで能筆であった則義は記録 することが大好きで、旅日記や自伝を残しています。その血は一葉に引継がれたのでしょう。則義は余裕ができると金銭の貸付や融資を副業的に始め、事業 家的な一面も持っていました。

則義が役所を退職後まもなく長男が病死。自分を後見人に一葉に相続させ、再起を図って荷馬車運輸請負業組合設立のために出資しますが、事業は失敗。出資金も 戻らず失意のうちに病床につき、六十歳の生涯を終えました。一葉十七歳の夏でした。

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[半井桃水]
  半井桃水(なからいとうすい)は万延元年(1860)、対馬藩医半井湛四郎・藤の長男として出生。本名は洌(きよし)。11歳で上京し共立学舎に学び、 のち大阪魁新聞に入社。魁新聞が廃刊になると、父のいる釜山へ渡りました。

釜山滞在中に京城事変が起こり、友人の推挙で特派員として動乱を詳細に報じ、その腕をかわれて朝日新聞社に入社。釜山で成瀬もと子と結婚 しますが1年後にもと子は病死。東京に戻った桃水は、東京朝日新聞の専属小説記者となります。朝鮮の政治動向にも詳しかった桃水は、後に 書いた小説にもそれを生かしています。

東京に落ち着くと対馬から弟の浩、茂太、妹の幸子(こうこ)を引き取り一家を構え、親代わりとして学校へ通わせます。一葉が桃水に小説の指 導を受けるようになったのもこのころでした。桃水は長身の美男子で、一目ぼれした一葉は、生涯桃水に恋心を抱き続けることになります。

桃水は愛妻の死後長く独身でしたが、明治40年、49歳で大浦わかと結婚。朝日新聞には大正8年まで勤めて小説を執筆。晩年は長唄の作詞作曲でも 活躍しましたが、大正15年執筆中に脳溢血で急逝。67歳でした。晩年の桃水の写真を見ても、美しい老人との印象を受けます。 


[一葉の親友]
  小学校四級卒業までの学歴しかない一葉は、親しい学友といえる人はなく、歌塾萩の舎に入門して、初めて親友と呼べる伊東夏子と出会い ました。一葉の本名夏子(戸籍名は奈津)と名前も、年齢も一緒。上流階級の多かった萩の舎社中では「平民組」として一緒に扱われたので、 その結びつきは強かったようです。(一葉は下級士族の娘でした)

伊東夏子は元幕府の御用商人東国屋(鳥などの問屋)の娘で、平民とはいえ、裕福な商家の娘でした。駿台英和女学校に通い、キリスト教的 教育を受けています。

萩の舎では二人は、樋口のひ、伊東のいを付けて、ひ夏ちゃん・い夏ちゃんと呼び分けられていました。一葉一家が生活困窮に陥ったとき、 伊東夏子は一月分の生活費に相当する八円を貸すなど、友人として深い信頼と友情で結ばれていました。また賛美歌や外国文学にも二 人で親しんだことが、一葉の日記からも読みとれます。

結婚して田辺姓となり、山口県長府町や金沢、東京で暮らしましたが太平洋戦争末期に長男の嫁と山口県清水町に疎開し、昭和21年、75歳 の生涯を終えました。一葉も長命だったら、戦後まで生きていることは十分可能だったのです。


[一葉の妹]
  一葉には2歳離れた妹くにがいました。一葉の日記では邦子、国子と書かれています。裁縫を習い、父親が健在の頃、樋口家に出入していた 東京帝大文科の学生野尻理作に恋心をいだきましたが、理作の帰郷と同時にそれも終わり、父亡き後は、母と自分を養う立場に立たされた 姉を助け、ときには批判しながらも苦楽を共にしました。

裁縫が上手で、仕立物の内職では姉より早く上手だったようです。一葉が半井桃水と出会うきっかけを作ったのも邦子で、小説の勉強をしたい という姉の希望をいち早く悟ってのことでした。姉と違い邦子は大柄の色白でした。ほがらかで人あしらいもうまく、竜泉寺町で荒物屋を 始めた時、店番は邦子が担当しました。

一葉の死後邦子が相続戸主となり、姉の残した負債も引き受けましたが「日記は焼き捨てよ」との遺言にそむき、姉の残した原稿や小説の草稿、 反古紙にいたるまで一枚も粗末にせず、姉の業績の保存・整理・浄書に努めました。近代作家の中でも樋口一葉の研究が量と質で突出している のは、邦子の存在あってのことです。

明治31年、父の代から親戚付き合いをしていた西村釧之助の世話で吉江政次を入り婿として結婚。翌年には釧之助の文房具店礫川堂を譲り受け、 店の経営をしながら六男四女を産み育てました。邦子は大正15年7月1日、52歳で亡くなりました。

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[一葉の弟子]
  歌人中島歌子主宰の「萩の舎」門下生だった一葉は歌の実力があったので、売れない小説を書くより独立して歌門を開くよう、師匠の歌子もしきりに 推挙しました。しかしのれん分けに必要な看板料や、お披露目の発会を開催する財力のない一葉は、結局断念します。

歌門を開いていない弟子が、萩の舎以外で内弟子を取ることは禁止されていましたが、一葉の終の棲家となった丸山福山町の家には、いろいろな人 が「源氏物語」や「徒然草」の講義を受けにきました。一葉の定収入は萩の舎で歌子の助教をして受け取る月2円の手当だけ。月8円ほどの生活 費が必要で、不定期に入る僅かな原稿料もあてになりません。一葉一家の窮状を知っていた歌子は、内弟子の件は黙認していたといわれています。

「源氏」や「古今和歌集」の講義には、かつて一葉に半井桃水を紹介した野々宮菊子と、菊子が誘った安井てつが通いました。安井てつは教壇に 立ち男女共学の研究に携わっていましたが、文部省から3年間のイギリス留学を命ぜられ、帰国後、明治41年創立の東京女子大学の第二代学長と なったひとです。

「徒然草」の講義にはクリスチャンで一葉の妹の友人俵田初音、野々宮菊子の同僚教師石黒とら子など。男性では一葉の知人宅に寄宿していた慶應の 学生穴沢清次郎が通い、二高受験に備えて国文の指導を受けていました。学歴はない一葉でしたが、萩の舎で身につけた古典文学の素養にさらに独学 で磨きをかけ、自分より学歴も年齢も上の人たちを弟子にしていました。


[一葉の誤解]
  半井桃水は東京朝日新聞に入社した明治21年、東京に一家を構え、故郷の対馬から弟の浩、茂太、妹の幸子を引き取り、親代わりとして学校へ 通わせていました。またこの家には幸子の学友で、福井県敦賀町出身の写真館の一人娘鶴田たみ子も寄宿していました。

一葉が半井桃水と出会い、小説の師と仰ぐようになった明治24年、桃水の弟浩とたみ子が恋仲になり、たみ子が妊娠します。浩は当時独逸協会 医学校に在学中で、いずれ祖父の家の龍田家を継いで医者になる立場にありました。

浩は養子に行く身、たみ子は後継ぎ娘だったから二人を結婚させることは不可能で、困り果てた桃水は浩を退学させ、女学校を中退したたみ子 を平河町に借りた一軒家にかくまい、密かに出産させました。生まれた娘千代は桃水が引き取って養育し、たみ子は敦賀へ帰郷させました。

桃水は二人の将来を傷つけないように内々に手を尽くしましたが、この醜聞は一葉の耳にも入ります。ところがその噂は、たみ子と桃水を結び つけたもので、一葉は千代を桃水の子と思い込みます。このことは後に桃水本人の口からからはっきり否定されますが、一葉の日記を読む限り、 死ぬまで誤解は解けなかったようです。


[一葉サロンの人々]
  一葉の作品が『文学界』に掲載されるようになり、名声が高まるにつれ、終の棲家となった丸山福山町の一葉宅には、さまざまな人がやってきます。 若い姉妹と母親だけの女所帯は、気楽で家庭的な雰囲気があったのでしょう。親類縁者関係では、姉の一家や兄虎之助、半井桃水、父の代から付き合いの ある西村釧之助とその兄弟、佐藤梅吉、上野兵蔵、山下忠信、三枝信三郎、稲葉鑛、安達こう、宮塚くに等です。

歌人では小出つばら、一葉の講義を受けに来たのは野々宮菊子、安井てつ、俵田初音、石黒とら子、穴沢清次郎、大橋乙羽の妻などでした。

『文学界』同人では、平田禿木(とくぼく)、馬場胡蝶、戸川秋骨、上田敏、島崎藤村、大野酒竹。『文学界』以外では川上眉山(びざん)、戸川残花、 斎藤緑雨、泉鏡花、大橋乙羽、三木竹二(森鴎外の弟)、幸田露伴、新聞記者の横山源之助などです。文学界の同人たちは競うように、一人であるいは 数人で押しかけ、一葉を中心にさまざまな事を互いに話し合っています。

それはさながら文学サロンの様相を呈していて、一葉はそのサロンの女主人でした。一葉の視野は多くの人との出会いを享受することで開かれましたが、 一葉発病のため、それも2年ほどで終りました。

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[一葉の婚約者]
一葉には父親が将来を見込んで決めた婚約者がいました。父の同郷の恩人、真下専之丞の妾腹の子、つまり孫の渋谷三郎です。一葉は13歳のとき知人の 家で6歳上の三郎と出会っています。その後三郎は一葉宅に出入するようになり、一葉の父も、早稲田専門学校で法律を学ぶ苦学生の三郎の面倒をよく みています。

事業に失敗した一葉の父は夏子の将来を案じ、有望な青年と見込んだ三郎に一葉の将来を託します。はっきりした返事はなかったものの、三郎もその 気だと思い込んだまま一葉の父は亡くなりました。

女所帯になった心細さから、一葉の母が三郎を呼んで婚約のことをはっきりさせたいと切り出すと、父兄とも良く相談してからとその日は帰り、戸主と なった一葉との結婚は婿養子であることから、後日仲介人が法外な結納金を要求してきました。一葉の母は立腹してこの請求を断り、破談になりました。

その後三郎は専門学校を卒業し、翌年高文に合格し、司法官試補、検事代理、検事と順調に出世。明治25年士族坂本家の養子となり坂本三郎と改姓します。 その後新潟・水戸・東京地裁や東京控訴院(現・東京高裁)の判事となり、ドイツ留学で学位を取得して帰国。法政局参事官、早大教授、早大法学部長 と登りつめ、第二次大隈内閣時代に秋田・山梨両県知事も歴任しました。

一葉の父の見込みどおり出世していく三郎に対し、困窮していく一葉は日記の中で「思へば世は有為転変也けり」「此人のかく成りのぼりたるなんこと に浅からぬ感情ありけり」と、複雑な心境を書き記しています。


[一葉と宗教]
日記や作品を読むかぎり、一葉が特定の宗教を信仰していたようにはみえません。「人生の誠は道徳仁義のほかに あらず」という文言や、日記には多くの仏教用語が見られることから、一葉の思考や行動の規範をなすものとして、 仏教や儒教の影響が感じ取れます。そのような生育環境だったのでしょう。

徒歩が日常の移動手段だった一葉の行動範囲は、広くはありません。日記には本郷薬師に妹と、築地の 西本願寺へ母と、下谷区徳大寺の摩利支天に妹と、本郷区湯島の天神大祭に母妹と三人でと、生活圏にある 身近な神仏の縁日にはよく出かけています。貧しい日々の中での楽しみな行楽だったのでしょう。

作品の中にも、鷲神社と千束稲荷神社(「たけくらべ」)、徳大寺の摩利支天(「闇桜」)、源覚寺(「にごりえ」のこんにゃくえんま)、 法真寺の腰衣観音様(「ゆく雲」)などが登場します。日ごろ慣れ親しんだ寺や神社の境内は、一葉の作品には欠かせない「場」 でした。

一方キリスト教の信者だった友人の野々宮きく子に新訳全書を借りたり、親友伊東夏子と賛美歌の翻訳を試みたりしています。 また文学界同人の多くはキリスト教系女学校の教師でした。キリスト教的な雰囲気は常に一葉の周囲に満ちて いましたが、生活や創作に直結することはなかったようです。

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[一葉の名の由来]
樋口夏子が「一葉」という筆名を考えたのは、半井桃水の指導で、さかんに習作を試みた 19歳(明治24年秋)ころと考えられています。明治25年3月創刊の雑誌『武蔵野』に発表した 「闇桜」には「一葉女史」で初登場しています。一方翌月より『改進新聞』に連載した 「別れ霜」は「浅香のぬま子」、9月より『甲陽新聞』に連載した「経つくえ」には「春日野しか子」 を用いています。

一葉の名の由来で一般的に知られているのは、達磨が一葉の葦舟に乗って長江を渡る絵 からのヒントと、達磨が少林寺の壁に向かい九年座るうちに足がなくなったという面壁九年 の故事をあわせて、日々の暮らしに困っている自分には「お銭(おあし)がない」という シャレから、「一葉」という名を思いついたという話です。一葉が達磨の故事と関連づ けてシャレて語ったのは、あとからのようです。

それとは別に、一葉は歌塾に入る前から蘇東坡の詩「前赤壁賦」を暗誦していましたが、 その中には「駕一葉之扁舟」の一節があり、また小説習作の余白に「一葉舟士」の書き込み があることや、未完成作品に「棚なし小舟」があり、他の作品や日記にも舟や浮き草の イメージを繰り返し描いています。

一葉は早くから、零落し転居を繰り返す自分の人生を、彷徨し行く手を阻まれる<漂う舟> のイメージと重ね合わせていました。一葉は晩年の病床で「身はもと江湖の一扁舟、みづから 一葉となのつて葦の葉のあやふきをしる」と雑記に書き込んでいます。流転する舟の意識は 一葉の生涯を貫いていましたから、これが筆名の発想になったと考えるのが最も妥当では ないかと思われます。

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[一葉の読書]
一葉は学業半ばの11歳で進学を断念。小学校も満足に卒業していません。 歌塾「萩の舎」入門後は和歌や王朝文学や習字を学びますが、小説を書くようになって、 自分がいかに物事を知らないかに気づき、以後せっせと上野にあった東京図書館へ通います。 当時一般の閲覧室とは別に婦人閲覧室があり、一葉はそこで調べものをしたり、 貸し出しを利用して本を読んでいます。

小説を書き始めたころ一葉が図書館から借りた本は、依田学海『十津川』、饗庭篁村『むら竹』、 黒岩涙香の著作集、湯浅常山『雨夜のともし火』、藤原明衡編の詩文集『本朝文粋』、 松平定信『花月草紙』、『日本書紀』『日本外史』『吉野拾遺』『十八史略』『小学』『太平記』 『今昔物語』などで、日記に出てきます。小説の師だった半井桃水からは、蔵書や桃水の著作本を借りています。

明治25年9月、「うもれ木」を書き上げると、翌日には次の作品の種探しに図書館へ行き、 『奇々物がたり』『くせ物語』『昔々ものがたり』『各国周遊記』『雨中問答』『乗合ばなし』 などを借りています。図書館の本とは別に近松の浄瑠璃や『源氏物語』に親しみ、 一葉が進学を断念したあと父が買い与えた『万葉集』『古今集』『新古今集』等は愛読書でした。

雑誌では「文学界」「文芸倶楽部」「早稲田文学」をよく読み、一葉の小説の批判文を 掲載した雑誌「めざまし草」「明治評論」「青年文」の名が日記に出てきます。新聞は 「改進新聞」「読売新聞」「東京朝日新聞」を図書館や知人からの借用、一時購読などで 読んでいたようです。一葉の妹邦子はのちに「とにかく姉は勉強家でした」と語っています。

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