第1回「市内の人ですか?」
三年前の夏、県外から鹿児島市へ転居した。その年の春、私は二年半同人雑誌に連載した作品を一冊の本にまとめた。
それは明治の作家樋口一葉の一生涯を、彼女の日記を柱にしてまとめた評伝である。四百部刷った。
鹿児島市内への転居は夫の転勤に伴うもので、一方の私は退職を余儀なくされ、三十年近い勤め人の生活にピリオドを打った。
長年にわたり職場でお世話になった同僚・上司、そして友人・知人にお礼と感謝の手紙を添えて、印刷したばかりの本を贈った。
あとは全国の図書館と女性センターを調べて、百冊以上を寄贈した。
鹿児島は住む所なので挨拶代わりにと、さっそく某図書館へ持参し、寄贈の意志を伝えた。するとカウンターの館員は、じっと本の表紙を見つめて、
「市内の人ですか?」と聞いた。「はい、最近越してきたばかりです」と私。「いえ、この人です」と館員が指さしたのは、本のタイトルにも使っていた
樋口一葉の名前だった。「は?」。そう、一葉が鹿児島市内に住んでいるのか聞いているのだった。あまりのことにもう帰ろうかと思ったが、
一応検討するとのことで本を置いて帰った。
はたして一週間後、寄贈を断られて本を引取りに行った。理由は郷土関係の内容ではないこと、本棚のスペースがない、の二点だった。
受入れ規定を聞きもせず、のこのこ行った私もうかつだった。
寄贈を断られたことも初めてで驚いたが、それ以上にショックだったのは、若い館員が樋口一葉の名前すら知らないことだった。聞くところでは、
最近の教科書には一葉の名は出てこないという。そればかりか漱石や鴎外の名も消えようとしているとか。本好きには寂しいことである。
(南日本新聞夕刊2002年12月12日掲載)
第2回「ホームページを作る」
二十代の初めから仕事をしていた私は、結婚して出産しても、当たり前に仕事を続けた。まわりの女性たちもそうだったし、
何の不思議も感じなかった。思えば職場はもちろん、家族の協力と健康に恵まれてのことだったと、振り返ってありがたく思う。
仕事と子育てを一度に卒業して鹿児島に来て、私は五十歳にして初めて専業主婦になった。しかも夫と二人暮らし。
友人もなく、行くところもない。雨が降ればその激しさに驚き、灰の降る日も嫌で、何日も家に閉じこもった。
以前の生活とは百八十度の転換だ。
溜息ばかりついていたが、せっかく与えられたこの時間を活かそうと、ホームページ作りを思い立った。
パソコンは十数年前から仕事で使っていたので友達以上の仲。
さっそく前々から興味のあったHTMLの勉強をした。次にどんな内容にするか、何度も案を作っては練り直した。
そして最も難しいタイトル決め。これも何十と候補を挙げて、絞っていった。生まれた子どもに名前をつける親の心境だ。
一ヶ月以上熟考のうえ、やっと内容が決まった。私のライフワークである樋口一葉研究を柱に据え、これまで同人雑誌に
発表してきた作品の紹介やエッセー、読書案内等で構成した。コンセプトは「五十代からが人生楽しい」。
十一月からさっそく作業開始。ホームページの公開日を二000年一月一日と決めた。独学で一から作るので、タグの
参考書を片手に作っては壊しの苦闘の日々。ページを飾る壁紙やカットも全てフリーの素材をウェブ上で入手。
ギリギリまで手を加え、二000年問題で世界中が大騒ぎの中、大みそかにサーバーにファイルを転送。
元旦にめでたく公開できたのだった。
(南日本新聞夕刊2002年12月19日掲載)
第3回「密かな楽しみ」
私のホームページにちょっとした異変が起きたのは、八月二日のことだった。その日、朝刊に樋口一葉が新五千円札の図案
に採用されるという記事が載った。私は驚き、そして一葉のために嬉しかった。朝メールをチェックすると、知らない人か
ら一葉のことで質問が三件来ていた。すぐ返事を書いて送信した。
夕方、帰宅した夫が「ホームページを見て」という。さっそく開いて見た。いつもの画面だったが、カウンターに
目をやって驚いた。きのうまで一万四千で始まっていた数字が二万五千台になっている。「え?」一瞬目を疑った。
そうやって見ている間にも数字が上がって行く。結局夜の十二時前に二万六千台に乗った。何と一日で二年分に相当
する一万一千ビュウを超えてしまった。それまでは日に四十人前後の来訪者しかなかったのに。なぜ?
理由は検索サイトにあると思う。代表格のヤフーには、二〇〇〇年四月に挑戦3回目にしてめでたく登録していた。
一方、登録しなくても勝手にキーワードで検索結果を出してくれる、グーグルという検索サイトがある。
一年ほど前から、ここで「樋口一葉」をキーワードに検索すると、検索結果のトップに私のページが出ることは
気付いていた。たぶん今回のニュースで、「一葉ってだれ?」と知りたかった人が、いっせいに来てくれた結果
であろうと分析した。
九月には一葉関連のサイト数は六千から九千件へ、十一月には一万件を超えた。
もちろん検索結果でトップに表示されたからといって、それがどうというわけではない。ただサイト運営者に
とっては日々精進のたまものと、ひとりほくそえむ密かな楽しみなのである。
(南日本新聞夕刊2002年12月26日掲載)
第4回「日記帳」
日記をつけ始めたのは十三歳の時。それからちょうど十年間書き続けた。普通のノートに書き始め、その後一日一ページ
の日付入りの分厚い日記帳を何年か使った。高校生のころは一日一ページでは足りなくなって、罫線だけが引いてある
自由日記帳に替えた。しかしこれも一年一冊では間に合わなくなり、また大学ノートに戻った。気の済むまで書いたので、
一晩で十五ページくらい延々と書く日もあった。
私が日記を書くきっかけとなったのは、十歳のころ読んだ『アンネの日記』。アンネ・フランクのような過酷な日常は
ないけれど、私のまわりで何が起き、どう感じ、何を考え、どうしたか。どんなささいなことでも、書いて文章にする
ことがとても大事なことに思えた。そこから私の書く生活が始まった。
その後は仕事と同時平行で出産や子育てが続いたので、日記も状況に応じて変化した。新聞一面の見出しを書き連ねた、
社会情勢だけの年もあるし、「家族日記」と称して家族の誰もが読めて書ける日記帳にしたこともある。
ホームページを立ち上げてからは、プライベートな日記を一歩進めて、私の体験をエッセイやコラムにして配信する
メールマガジンに発展させた。一方で、昨年から五年日記を使い始めた。一日たった五行なので楽である。
かつてスペイン滞在中、作家堀田良衛が漢字を書いていると、それを見た友人が感心して言ったという。君はそんな
複雑な文字を書いているから、頭が明晰なのだろうと。
短くても、過箇条書きでもメモでもいい。記録を兼ねて毎日手書きの文字を書くことは、脳ミソの老化を防ぐ有効な手段
ではないだろうか。
第5回「三倍の法則」
二十代、三十代を官庁関係に、四十代を民間会社に勤めた。民間会社は東証一部上場企業と地元の小さな会社に在職した。
いわば公務員と会社員の、両方の職場を経験したことになる。会社員の十年は営業職で、それしか選択の余地がなかった。
官庁時代、お給料やボーナスをきちんと決まった額もらうことは当然と思っていた。昇給も当たり前の時代だった。
転職した大企業の支店勤務のときも、それはほとんど同じ感覚だった。
ところが家から車で五分の、従業員十三人の不動産会社では違った。創業者でもある社長はよく「三倍の法則」を口にした。
給料の三倍の利益を上げなければ、会社はペイしない。事務所を構え社員の福利厚生まで考えるとそうなるのだと。
だから二十万欲しければ六十万、三十万なら九十万稼いで、自分の給料は自分で決めればいいと単純明快。このとき初めて、
民間会社では自分の給料は自分で稼ぐんだと気がついた。何か新鮮な気持になったことを覚えている。
仕事は不動産の仲介で、入社一年目は売買契約がなかなか取れず、基本給だけの泣きたい月もあった。二年目からは月二件以上、
百万の売上げを目標に、常時六十人以上の顧客をフォローした。
営業をノルマと考えると辛いものがあるが、自分で目標設定して段取りし、成約にこぎつけた時の達成感は格別だ。
営業の面白さを味わったら、デスクワークには興味が薄れてしまった。
社長の話でもう一つ忘れ難いのは「給料は会社から貰うのではない。顧客が運んできてくれるものだ」のひと言。
なるほどこれが商売というものか、と素直に納得できた。
(南日本新聞夕刊2003年1月16日掲載)
第6回「受験とインターネット」
ひところインターネットの有害性を取り上げて、青少年への悪影響を懸念する声が強かった。しかしインターネットは
しょせん道具である。そのものが目的ではなく、情報収集や情報発信のための手段として使うものだ。生活に欠かせない
自動車でも包丁でも、使い方を誤ればたちまち凶器に早変わりする。
それと同じようなことで、インターネットも儲け話に飛びついたり、助平心を出したり、怪しいと思われる情報に
近づかなければ、むやみに敬遠するものでもない。要は使う人の判断力次第だ。
わが家では長女が大学受験の十年前は、まだインターネットはなかった。現在大学四年生の次女が高校三年生になった
五年前から、自宅でインターネットを始めた。最初はただ珍しく、あれこれ見るだけで楽しんでいた。
慣れてきて検索機能を使いこなせるようになると、が然インターネットの威力を知ることとなった。何しろ最新の情報が
得られる。日刊の新聞でも追いつかない、リアルタイムの情報だ。
受験する大学の概要や入試情報が自宅で調べられる。特に活用したのは「大学入試センター」のサイトなど。センター試験
が終ると、まもなく平均点が発表される。するといっせいに各大学の合格のボーダーラインが出そろう。
それらを判断材料に、第一志望はもちろん、落ちては困る後期日程の受験先を決定するのに、娘のセンター試験の得点と
希望学部の入試データをにらみながら、細かく作戦会議。毎晩最新情報をチェックして受験先をしぼった。娘は運良く
後期日程で合格したが、受験にインターネットを活用した、臨場感溢れる面白い体験だった。
(南日本新聞夕刊2003年1月23日掲載)
第7回「プロジェクトEU」
勤めているときの一番の夢はヨーロッパ旅行だった。しかし長期休暇もままならず、在職中は実現できなかった。
仕事をやめてそのことを思い出した。今なら親も元気だし、時間もある。しかし一人旅ではちょっとさみしい。
ところが一昨年春、福岡市にいる大学生の娘からメールがきた。「お母さん、ヨーロッパに一緒に行こうよ!」同級生が
春休みに三十万円で一ヶ月間ヨーロッパ旅行した話に刺激されたらしい。チャンス到来。さっそくヨーロッパ旅行
プロジェクト開始。一人三十万円で一ヶ月間の、鉄道の旅の計画を立てるのだ。実施は次の冬か春休みと決め、まずは資金調達。
娘はバイトに精を出し、私もさっそくハローワークへ。
具体的な内容を決め始めた矢先、アメリカで同時多発テロが発生した。でも行くと決めた以上計画続行。それぞれ行き
たい都市、見たい所を出し合い、それを地図に落とした。トーマスクック時刻表を買って使い方を覚え、移動時間と滞在日数
を計算し、いくつかのルートを考えた。
結局パリを基点に鉄道でイタリア、オーストリア、ドイツと移動し、ベルリンから空路イギリスに飛んで、ロンドンを終点
とする案に決めた。予定地の観光ポイント、安宿のリストなど、集めた情報はノートにまとめた。計画を練る間も充分楽しめた。
航空券と鉄道パス、一日目のホテルのみ旅行代理店に頼み、あとの宿は行く先々で現地調達の自由気ままな旅だ。イギリス
初日の宿は夕方到着予定なので、インターネットでB&Bを探して予約した。
「本当に行くの?」と心配顔の夫を鹿児島に残し、昨年の二月八日、私と娘は成田からテイク・オフ!
(南日本新聞夕刊2003年1月30日掲載)
第8回「欧州ビンボー旅行」
せっかく行くのにただの観光ではもったいないのでテーマを決めた。大学で建築・環境設計を専攻している娘の希望は、パリから行くサヴォア邸と
ロンシャン教会、ドイツのバウハウスの足跡を辿ることなど。
私は音楽と文豪ゆかりの地を訪れるのが目的。ザルツブルクとウィーンの他は、パリのカフェ・ドゥ・マゴ、ベルリンの森鴎外記念館、ロンドン漱石記念館、
そしてシェークスピアの生誕地ストラドフォード・アポン・エイヴォンに行くこと。それらをルートに組み込んだ。
帽子をかぶり、各自のバッグは防寒コートの下にナナメ掛け。貴重品も身につけて着込んでいるので防犯対策はバッチリ。見た目は不恰好だけど
知る人はいない。パリもローマもそれで歩きまくった。
移動に鉄道を利用するので、宿は駅から五分、遠くても十分以内を探した。シーズンオフのため、たいてい空室はあった。一日の予算は二人で百ユーロ。
当時のレートで約一万二千円。これで宿代と食費・雑費をまかなうのだ。
駅に着いたら一つか二つ星の宿を見つけ、受付はたいてい二階なので私は下で荷物番。料金を聞いて折り合えば部屋の中を見せてもらい、決めるのは
娘に任せた。いくら安宿でも清潔で鍵がしっかりしていることが絶対条件だ。夕食は街の総菜屋さんで調達。
ウィーン西駅に着いたとき男性が寄ってきて「チープホテル、テンユーロ」。安ホテルを十ユーロで紹介すると言っている。手数料は高いし人の顔を見て
「チープ」を連発するのが気に食わない。「自分たちで探します。フン!」と横向いて無視して歩いた。前半は雨にたたられたが、面白いビンボー旅行だった。
(南日本新聞夕刊2003年2月6日掲載)
第9回「樋口一葉の日記」
私が樋口一葉の日記に関心を持ったのは、三十年ほど前のこと。一葉が日記を書いた期間は、私が最も日記を書くことに熱中した時期と全く同じだった。
そのことに気がついて以来、「一葉日記」は私の愛読書となった。
日記は「作品」として書かれたわけではないから、人の悪口も書いてあるし、破り捨てたらしい欠落した部分もみられる。事実と反する記述もあるとして、
伝記的資料とは言い難いとする研究者もいるが、それは後世の人の勝手な言い分であって、一葉にしてみれば「余計なお世話よ」言いたいことだろう。
一葉は十五歳の時兄を亡くし、翌々年事業に失敗した父も心労から亡くなったので、十七歳にして戸主となり、母と妹を扶養する立場に立たされた。
妹と力を合わせて洗い張りや仕立物をして暮しを立て、時には帯や着物を持って質屋に走り急場をしのいだ。
女の職業が極端に少なかった当時、一葉は生活のために小説を書こうと決心。女性としては前例のないプロ作家を目指した。日記からその苦闘の跡は
いくらでも読みとれる。
「午後より文机に打むかひて文どもそこはかとかいつゞくるに、心ゆかぬことのみ多くて、引きさき捨て/\することはや十度にも成ぬ」。一葉の稼ぐ僅かな
原稿料は前の借金の返済に消え、一家はいつも貧苦の状態にあった。 (※注 /\は古文に使用される「繰り返し」の記号)
「廿九、三十の両日、必死と著作に従事す。暁がたしばしまどろむにて、一意に三十一日までに間に合わせんとするほどいと苦し」と深夜まで机にかじりつく一葉。
その姿に妹の邦子は「名誉もほまれも命ありてにこそ」「何卒これは断りて、もはや今宵は休み給へ」と繰り返し諌(いさ)めるのだった。
(南日本新聞夕刊2003年2月13日掲載)
第10回「一葉に学ぶ「書くこと」」
人はなぜ書くのだろう。何のために書くのだろう。それは本当に書かなければならないことだろうか?
私の意識の底にはいつもこの問いがある。私が一葉日記を愛読するのは、「書く」ことについての一葉の強い問題意識に惹かれるからでもある。
一葉は母妹を養うお金のために小説を書いたが、一方で「書く」とは何かについて、生涯考え続けた人でもあった。
一葉は小説を書き始めたころ「我れ筆をとるといふ名のある上は、いかで大方のよの人のごと一たび読みされば屑籠(くずかご)に投げいらるるも
のは得かくまじ」「人情浮薄にて、今日喜こばるるもの明日は捨らるのよ(世)といへども」(「森のした草」)と、書くことへの真摯なまでの決意を記している。
一年後の日記には「我は営利の為に筆をとるか。さらば何が故にかくまでおもひをこらす。得る所は文字の数四百をもて三十銭にあたひせんのみ。
家は貧苦せまりにせまりて、口に魚肉をくらはず、身に新衣をつけず。老いたる母あり、妹あり。一日一夜安らかなる暇なけれど、こゝろのほかに文を
うることのなげかはしさ」と記している。
一葉の時代も現代も読者がいて出版という業界があり、書いて何ぼ、売れて何ぼの世界がある事は否めない。しかし文を売って売らなくても、自分
の書いたものに責任を持つということに変わりはない。
晩年の一葉は生活苦という現実を突き抜けて、明治の世をあからさまに書き伝えたいという使命感に到達し、社会の底辺に生きる女性たちを主人公
に据えた。一葉の筆がとらえ続けた、権利もなく境遇に身を沈める近代以前の女性の姿は、今なお私たちに訴える力を持っている。
(南日本新聞夕刊2003年2月20日掲載)
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