「大西巨人さんを囲む卓話会」に参加して
第V期「サークル村」 第4号所収(2004年春発行) |
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厳冬の二月、福岡市総合図書館から大西巨人さんを囲む『卓話会』のご案内をいただいた。わざわざ鹿児島の私までご案内という熱心さに、さっそく 往復はがきで申し込み、運良く当選の返事があった。 実は卓話会の案内がくるまで、私は大西巨人さんの作品を読んだことがなかった。『神聖喜劇』の評判がずっと気にはなっていたが、全五巻という その膨大な量に手を出しかねたままだった。卓話会に出るならせめて一冊くらいは読まねばと、泥縄式に『神聖喜劇』光文社文庫版第一巻を手に 入れたのは二日前。猛然と読み始めたが、何せ厚い。普段は居眠りして過ごす鹿児島から福岡までの高速バスの中でも、不思議と眠くならずページ を繰った。第一巻五百五十ページを一両日で読まなければならないという焦りもあったが、ぶっ通し読み続けても平気だった。つまり面白いのである。 主人公の陸軍二等兵東堂太郎のイメージが、どの行からも鮮やかに立ち上がり、私の脳裏にはその風貌、息遣い、心臓の鼓動すら伝わってくるの である。長編小説はとかく冗漫という私の思い込みにもお構いなしに、東堂太郎はぐいぐいと私を対馬要塞重砲連隊基地へひっぱり込んでいくのだ。 そこで繰り広げられる「神聖」なる「喜劇」の証人として、立ち合わせるかのように。 主人公東堂の、軍隊の規律と上官の命令の砂粒ほどの論理的矛盾も見逃さないしつこさ、こだわりの深さにいささか辟易しながらも、『軍隊内務書』 『戦陣訓』『陸軍礼式令』以下膨大な法令の一言一句に、その抜群の記憶力をもって敢然と分け入る主人公に何やら胸のすく思いがして、どんどん 読み進む。「軍隊内務班」という閉鎖的特殊社会の中で、「軍規」をいわば逆手に取り、その機構と上官を相手に平然と闘いを挑む主人公から、目が 離せないのである。一分間の出来事を一時間かけて描写し読ませる手法に、恐れ入った。こんな小説を書いた人ならぜひ会ってみたいものだと、読 み進みながら対面が楽しみであった。 三月六日午後一時半過ぎ。開始予定より少し早く赤煉瓦の福岡市文学館へ着くと、もう半分くらい席が埋まっていた。会場は二階の会議室。卓話会 の名の通り、その部屋には四十席ほどの椅子が並べられ、それと向かい合うように、大西巨人さんと司会者の席がしつらえてあった。私はいつもの 自分の癖で、一番前の席に着いた。 大西巨人さんは私の想像に反して、どちらかといえば小柄で、ほっそりと痩せておられた。白髪も美しく、八十四歳という年齢に抗わない、余分なもの が削ぎ落とされた凛とした風貌だった。私の父も健在であったら、あんなふうに静かな佇まいの似合う老人になっていたのだろうか。などと勝手な想像 を膨らませながら、目の前の大西巨人さんに見入ってしまった。 私の父は大正五年生まれ。大西さんより三歳年長で、軍隊の経験も二度あり、ほぼ同世代になる。棟梁の息子であった私の父は、大工の腕は確か なものの、高等小学校を出ただけの学歴なし。そういう一兵卒が軍隊内部でどのような扱いを受けたのか。『神聖喜劇』を読んで、私はそこに出てくる あれこれの新兵さんに我が父の面影を重ねては、軍隊ではこのような苦労をしたのだろうなと、脇役ともいうべきあまたの兵隊の運命に特別の思い入 れを感じながら読んだものである。 卓話会は司会者からの質問に大西さんが答えるという形で、生い立ちの話から始まった。大正八年八月生まれの大西さんの実家は、福岡出身の 唯一の総理大臣となった広田弘毅の家の斜め前にあり、そこで生まれたこと。その後小倉方面へ移住。父親が教師だったため、小学校はまた福岡 へ出て当仁小へ通学。小倉中学の時、図画の先生は杉田久女の夫であったというエピソードなど披露された。 敗戦後間もなくの昭和二十一年四月一日、福岡で総合文化誌「文化展望」が創刊されたが、そのいきさつが面白い。その前年十一月末、対馬から 復員したばかりの大西さんは、醤油を貰いに中学・高校と同級生だった三帆醤油屋の息子、宮崎宣久(のぶひさ)さんを訪問。その折、若主人となって いた宮崎さんから「商業雑誌を出そう」と持ちかけられたという。その二人に、山口から東大へ行って東大新聞と関係のあった高田という人が加わり、 大西・宮崎・高田の三人で編集を担当。宮崎さんが発行人となり、最初の話から五ヵ月足らずで創刊にこぎつけている。 創刊号には三岸節子、渡辺一夫、伊丹万作、芝木好子、太宰治などの作品が載り、第二号には堀口大学の詩や井伏鱒二のエッセイ、その後も 荒正人、花田清輝、野間宏、田中英光などそうそうたる書き手の評論や小説が掲載されている。 敗戦後すぐ、東京でなく福岡という一地方都市でなぜ総合文化誌が発行できたのか、なぜそのような有名作家の原稿が集まったのか。司会者が 大西さんの編集者としての高い手腕を称えると、大西さんはそれをあっさりと否定。それは自分の手柄ではなく、東大新聞に関わっていた高田さんや、 宮崎さんが有名作家とつながりがあり、作品を取ってくれたのだと明言された。当時は敗戦になって、再出発という雰囲気が満ちていて、また文筆家 が疎開で全国に散らばっていたという恵まれた情況もあったと話された。 とはいえ当時の通信手段を考えれば、電話も一般的ではなく、携帯電話はもちろんファックスもインターネットもない時代。編集に際して作家との 連絡手段は手紙のみで、しかもGHQの検閲があったので、一つのやり取りに十日くらいかかっていたという。創刊号は当然検閲され、福岡の場合 次号からは一冊GHQに渡すだけでよかったが、東京では三号まで事前検閲があったという。「文化展望」は三号までが三人の合議で編集し、四号 から大西巨人さんが編集代表となり、昭和二十三年六月まで全十三冊が刊行された。 「文化展望」創刊から五十年たった目で見たマイナス面として、大西さんは当時の情況を振り返り、「もう少しちゃんとしていたら、世の中、もう少し ちゃんとなっていたのではないかと思う。文化展望だけでなく、日本全体が浮ついていたところがあった。」と、反省を込めて述べられた。 卓話会なので、参加者からの質問に大西さんが応じながら、さらにさまざまな話題が展開した。戦争体験と『神聖喜劇』に話が及ぶと、大西さんは 「戦争や軍隊というのは、もう一回行けと言われたら、絶対お断りする。私は四年間を軍隊で過ごしたが、自分にとっては有益なものでもあった。」 また「小説というものは、『神聖喜劇』などある意味で意義がないということが、物を書く人間の望みでなければならないが、最近でもますます意義が あることになってきたのが、作家としては情けない。」と、最近のきな臭い政治情勢にもふれ、批判された。 『神聖喜劇』の中にはたくさんの詩歌や、古今東西の古典など幅広い文学が出てくるが、その手法は、現代の文学の中に古典文学がどのようにも 入るものだと読者に気付かせてくれる。それについて大西さんは「何か新しいものを生み出すためには、自分が古いものを咀嚼しないといけない。 ピカソは顔が二つあるような絵を描くが、ピカソはきちんとしたものを描けるからである。」と言われた。また『神聖喜劇』が一人称で書かれていること に関し、「一人称小説は主人公が見たり聞いたりしたもの以外は書けないという制約があるが、一人称小説の持つ迫力がある。一人称小説を書き 込むための手法としても、戯曲とか書簡体を取り込んで、一人称小説の不足分を補っていった。」と小説作法を明かされた部分には、思わず引き 込まれてしまった。 『神聖喜劇』の主人公東堂太郎は、作者大西巨人さん自身の経歴をモデルとしているが、いわゆる私小説ではない。私小説に関しては、大西さんは 「全然反対の立場である」と明言。日本の読者の場合、「作品を私小説的に読んで、作者と作中人物を混同する傾向があるが、小説世界は独自の 小宇宙でないといけない。一人称で書こうが、三人称で書こうが、独立した作品世界があれば、私小説ではない」と。例えば作者のことをよく知って いるということを前提に、友人に手紙で書くように書くのが私小説である等々、その説明は具体的で分かりやすかった。 好きな作家の名前を問われると、トーマス・マン、ウィリアム・フォークナー、モーリヤック、ガルシア・マルケス、戯曲のユージン・オニール、日本の 作家では森鴎外の名前があがった。かつて中野重治から、「君の書くものは、鴎外、茂吉、僕に似ている」と言われた由。『神聖喜劇』には鴎外の文章 が何度か出てくるし、大西巨人さんの緻密な文体や冷静沈着な文章運びから、さもありなんと私には納得できた。 また推理小説も大好きという大西さんは、その理由をこう述べられた。「推理小説のあるべき姿は、文学のあるべき姿であると思う。推理小説は犯人を 追求していくが、文学は真理を追究するのが仕事であるから、すぐれた文学、いい小説は、疑問をとことん追究していくことにおいて、推理小説的である。」と。 映画のことを話し始めたらきりがなくなる、というくらい映画が大好きだという大西巨人さん。森鴎外原作・熊谷久虎監督作品「阿部一族」や、志賀直哉 原作・伊丹万作監督作品「赤西蠣太」が一番好きだとのこと。山本周五郎原作「どら平太」にも話が及び、「文学における物語」とは「面白くもあるという 部分である」と明快だった。現代作家で人気のある宮部みゆきは、「力はあるが、もっとがんばると文学になる」という発言もあって、「面白い」と「値打ち」 の両方が文学には必要、という大西巨人さんの文学観の一端を知ることができた。 ところで大西巨人さんと似た名前の大西赤人という作家がいる。この人は巨人さんの息子さんであることを卓話会で知った。赤人さんはエディターの友人 と共同でホームページを運営し、その中の「巨人館」で、つまりインターネット上で大西巨人さんの長編小説『深淵』を連載開始。インターネットでの連載は 無料であることから、読者の集中力がなくなり、低く評価される傾向もあるので、購読を有料にしようという話も途中であったらしいが、結局無料のまま連載 を続け、完結したという。 実のところ私も、世界がミレニアム問題で大騒ぎしている最中の二〇〇〇年一月一日、自分自身のホームページを開設した。とにかく自力でお金をかけず、 をモットーに、独学で数ヵ月かけて制作し立ち上げたが、それは私のような無名の物書きにとって、インターネットは自分の作品を自分で自由に直接発表 することのできる、便利なツールだからである。だからプロの、しかも駆け出しではない大西巨人さんのような作家が、インターネット上に無料で作品を連載 されたという話は私には驚きだった。「インターネットで、無料で作品を公開することに抵抗はない」といわれる大西巨人さんは、「また次の作品を始めようと 思っている」と意欲を示された。今後の活字文化とインターネットの世界はどうなるか興味津々の大西巨人さんの姿に、私は八十四歳という年齢を感じさせ ない若さと柔軟さを見たのだった。 『深淵』の内容についての質問も多く寄せられ、大西さんは丁寧に答えられていたが、残念ながら私は読んでおらず、その詳細については省きたい。 壇上から一方的にしゃべる講演が大嫌いという大西さん。その理由を、自分は物書きは開業しているが、インタビューや講演を開業しているわけではない と言われた。また福岡、あるいは九州の文学の欠陥、足りないところとして、「すぐいい気になる」ことを挙げられた。それは日本人の特徴でもあるし、自分 の欠点でもあると言われたが、同時に卓話会参加者へのメッセージでもあろうと、その言葉が強く私の印象に残っている。 [上に戻る] |