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2003年夏、 中国(新疆ウイグル・上海)の旅

     ウルムチ ・ トルファン紀行


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中国、ふたつの顔  ◆ウイグルの農家の暮らし  ◆おおらかさと自己責任  ◆魯迅公園

[ 中国、ふたつの顔]写真有り
はじめての中国の旅。福岡空港から上海へ飛び、国内線に乗り換え中央アジアに位置する新疆ウイグル自治区の首都ウルムチへ。そこに5泊、ウルムチから さらに180キロメートルほど高速道路で東南へ下ったトルファンに2泊、乗り継ぎの上海には行きと帰りに各1泊、合計9泊10日の旅だった。

天山山脈の北麓に開けたウルムチも盆地にあるトルファンも、シルクロードの要衝として栄えた町。新疆ウイグル自治区は新中国になって以来多くの 漢民族が流入し、今では人口は1億人を超えているという。ウイグル民族はその6%、約700万人くらいであるという。またウイグル人のほとんどが新疆ウイグル自治区に 住んでいるという。ウルムチ市に自宅のある知人(ウイグル人女性)の案内で、トルファンやウルムチ郊外の農家も数軒訪問することができた。

ウイグルには「客が幸福を運んでくる」という諺があり、お客にめいっぱい食べさせてもてなすのが喜びだとか。知人の家に招かれた時、客間のテーブルに は焼菓子やキャンディー、レーズン、自家製のものなどずらりと並べてあった。ジャスミンティーが出て、飲めば飲むほど注いでくれる。茶菓子の次には何と 食事が出てきてびっくり。それがウイグル式のもてなしらしい。農家でも自家栽培の数種類のぶどうや桃が、山のようにテーブルに盛られていた。

ウルムチ市は約164万人が住む大都市。道路は広く、高速道路網も発達し、高層ビルが立ち並ぶ。現在ウルムチ市の人口の約72%は新中国になって流入した 漢民族で、商業や工業などに従事し、約13%がウイグル民族という。ウイグル自治区に住むウイグル民族のほとんどは、農業に従事しているという。

新疆ウイグルにはウイグル民族のほか少数のカザフ、キルギス、タジキスタンなど多くの民族が居住しているが、彼らはトルコ系の民族なので、顔だちも一 般にいう中国人(漢民族)とは全然違うヨーロッパ系。ウイグル民族は独自の文化と言葉と文字を持っているが、中国語も話す。宗教はイスラム教なので豚肉 は食べない。

イスラム教とはいっても、ウルムチで近代的都市生活をしているウイグルの人たちはお酒も飲むし、女性の服装も私たちと何ら変わらない。最後の日、知人 の両親(元教師)の仲間のパーティーに招待されたが、そこに集まった女性たちは高校の校長先生、新疆テレビ局員、舞踏家、医師をそれぞれ退職した60代半 ばの方と、レストラン経営者や大学助教授など40〜50代の現職バリバリの方々ばかり。

ウイグルの女性たち
月1回のパーティーに集う、元気印の女性たちと一緒に

専業主婦というのは私一人で、さすがに中国だと思った。知人の話では、50年ほど前まではイスラム教の影響で、ウイグルの女性は男性と同席することもな く、常に控え目な存在だったという。その日も同じ部屋でテーブルだけ男女別になっていてイスラムの伝統が感じられたが、昔は部屋も別々だったというか ら大進歩だという。

それだけでなく新中国になって以来、同じ学歴であれば男女に関係なく能力のある人にチャンスが与えられるので、ウイグル民族の女性の地位は大いに向上 したとのこと。だから知人たちも、子供がいても現状に甘んじることなく、よりよい職業に就くために意欲的に勉強している。

私は国立大学の職員として勤めていた20年間、優秀な女子学生たちが就職に際して男女差別を受ける厳しい現実を見てきた。せっかく国家予算をつぎ込んで 教育しながら、最終的に女性の能力を活かしきれず評価しない日本の社会のしくみに、失望と憤りを抱いてきた。中国の高学歴の女性たちの恵まれた状況と 強い職業意識には、正直、日本の遅れを感じてしまった。

上海市では浦東(ホトウ)地区の摩天楼群や、100年前の街並みが残るバンド、高層住宅群、網の目のように走るハイウェイなど、中国経済の象徴ともいうべ き活気をまのあたりにした。一方でウルムチ郊外やトルファンで訪問した農家の生活には、全く別の国を見たようで本当に驚かされてしまった。それは端的 にいえば50年、いや100年の落差を感じたといってもいいすぎではない。

トルファンはブドウの産地なので、農家は政府から借りた土地でブドウを栽培し、レーズンに加工して生計を立てている。現在50歳前後から上の世代の女性 たちは子供を5人から10人は産んでいるが、病気で子どもを亡くしている人も多い。

彼女たちや夫は学校も十歳前後でやめて、家事や農業の手伝いを始めて いるが、子どもたちには借金して高額な授業料を払って、高校や大学へ行かせているという話だった。人々は親切で親類縁者の結束は固く、ぶどうの収穫に 数家族総出で共同作業をする「結(ゆい)」が、立派に機能していた。

農家の女性たちは農作業と家事と育児とで、本当に重労働の毎日のようだった。少しでも時間があれば針と糸を持って刺繍や縫い物をしていた。電化製品はほ とんど使わないし、煮炊きには竈(かまど)が大活躍。乾燥地帯なので、地下水を大切に使い、服は年に1回だけ買うだけ。毎日同じ服を着、お風呂もない暮ら しのなかで、長い黒髪はきれいに結い上げ、家の中も外もキチンと掃除が行き届いて、つましく質素な暮らしぶりに頭の下がる思いだった。

敷地の隅にあるトイレは、むかしの日本にもあった穴があいただけのもの。土壁でドアもないが、乾燥地帯なので万事カラカラに乾いているのがせめてもの 救いだ。庭にはブドウの木を植えて日陰を作り、食用の鶏や農作業用のロバを飼育している。ロバに引かせる荷車が農家の唯一の移動手段のようだ。農作業 に出かける大人から子どもまで一家を乗せて、ポコポコと荷車を引くロバの優しい顔がとても印象的だった。

ウルムチに向かう飛行機からは雪をいただく天山山脈、その南には延々と広がるタクラマカン砂漠。北も砂漠地帯。広大な国土と数十にのぼる多民族の住む 中国。全ての人々に等しく一定以上の教育と生活レベルをはかるのは、並大抵のことではできないとつくづく感じた。トルファンで私が見た農民の生活はま だいいほうで、南新疆地方では食べるのがやっとのもっと厳しい生活だという。

砂漠に隣接する乾燥地帯のウルムチやトルファンは夏は35℃以上の酷暑、冬はマイナス25℃以下の厳寒だという。親は農業でも若い世代は自動車修理や旅行 会社など職業もいろいろ。北京や上海に働きに出る人も多いようだ。一度都会に出た人は、50年以上前の暮らしのような農村に戻ることができるだろうか。

近未来都市のような上海と、辺境地の農村に生きる人々の両極端の暮らし。私の見た中国のふたつの顔は、いつその落差が縮まるのか一層格差が広がるのか。 旅人の私には容易にはつかめない、芒洋とした印象を残したままだ。(2003年8月27日)


[ウイグルの農家の暮らし]写真有り
日本でもそうであるけれど、その地方独特の暮らしというのは田舎に行くほど残っているものだ。だから外国に行ったときも、なるべく農村・農家を見る ようにしている。先月行った新疆ウイグル自治区でも、200万人近い大都市のウルムチの郊外や、遠く離れたトルファンの農家を案内してもらった。

知人の紹介で訪問したトルファンの農家は、農業を営む50歳くらいの夫婦と、長男夫婦、高校生の三女の5人暮らし。長男は自動車の修理工などをし、次男 はトルファン市内の旅行店勤務で別居。長女は隣村に嫁ぎ、次女はウルムチ市内の大学を出て、そのまま都会で働いているという。

私たちが行くと、まず客間に通された。20畳くらいの広さで、床一面に絨毯(じゅうたん)が二重に敷きつめてある。上に重ねた絨毯は上質のもので、テー ブルの周囲には長い座布団が置いてある。トルファンの人たちは日本と同じで、入口で履き物を脱いで床に座る習慣のようだ。部屋には寝具を収納するガラス 戸の棚、その横に女性が嫁入り道具で持参した長持ちのような箱、そして縦長の飾り棚があるきり。広い壁には二面に絨毯が飾ってあった。敷くだけではな いという。

農家の客間
床と壁に絨毯を使った客間。靴を脱いで座る
具を乗せた麺の昼食
農家のお嫁さん手づくりの麺(昼食)

窓側には古い扇風機があったが、余分なものが何もないので広々としている。壁が厚く一方だけにある窓が二重ガラスなのは、マイナス30度くらいまで下 がるという厳冬に備えてのことだろう。でも私たちが行った真夏は40度くらいの猛暑。乾燥していて汗はほとんどかかないが、クラクラする暑さだった。 部屋に入ると洗面器を下に置いて、ヤカンから冷たい水を両手に注いでくれた。気持がよくてしばし暑さを忘れた。それが旅人へのもてなしだという。そして 熱いチャイ(お茶)が出た。

道路に面して農家が並んでいたが、どの家も間口は12メートルくらいで、高さ4メートルほどの煉瓦塀が道にも隣家との境にも張りめぐらされている。塀の 一部が門になり、2枚の扉が付いていて夜は頑丈なカンヌキを掛けるようだ。どの家も同じような造りなので、けっこう物騒なのか、守りは固いようだった。 敷地の奥行きは50メートルくらいと長く、全体で200坪ほどだろうか。片側に縦にいくつか部屋が並び、ロバの小屋、最後にトイレがある。片方が庭で炊事 場や鶏小屋、主食のナンを焼く窯があり、ブドウ棚や花壇もあった。

トルファンの農家の入り口
トルファンの農家の門(玄関)。手前は借り上げレンタカー
トルファンの農家の中庭
農家の庭。手前はナンを焼く窯。右奥が入口

比較的新しいこの農家の家は外壁にタイルも使ってあり、庭の半分は煉瓦敷。門を入った上部を覆って日陰を作り、寝台や長椅子を置いて昼寝や休憩する 場所になっていた。エアコンなどないので昼間は無理せずここで昼寝。時折り「バオーッ」とロバの聞きなれない鳴き声が響き渡る。トイレの前の空地には 砲丸投げの玉そっくりなものが、何列も並べてある。これはロバの糞と石炭粉を混ぜて丸め、乾燥させて冬場の燃料にするという。

長男のお嫁さんは男の子を帝王切開で出産したものの、1歳で病死させたとか。長女は女の赤ちゃんを連れて隣村から毎日のように来て、一緒に生活していた。 彼女の夫は羊飼いで草原で生活するので、家に戻るのは1ヶ月に1度くらいとか。女性たちは早朝と午後にブドウ畑で働き、その合間に家事をする。私たちがい ただいたナンも麺もすべて粉からこねて作る、文字通り手づくりの食事だった。

その昔、天山山脈からの雪解け水は、流れるうちに砂漠で乾燥していたという。その貴重な水を利用するための先人の知恵が、カレーズという人工の地下水路。 天山山脈の麓から盆地のトルファンに向かってたくさんトンネルを掘り、そこに引き込まれた雪解け水は、遠く離れたトルファンまで流れ下る。地上では水 路のま上に穴をあけ、人々はそこからバケツなどを下ろして水をくみ上げる。その水は非常に冷たく、飲料や炊事に使われている。トルファンがシルクロード の要衝として栄えたのも、カレーズが豊富な水をもたらしてくれたからであろう。

私たちがお邪魔した農家は夫婦と長男夫婦が同居し、二女は大学まで出ているから豊かなほうらしい。しかしお嫁さんの帝王切開に4000元、二女の大学と三 女の高校の学費で出費がかさみ、借金も多いという。4000元は農家が半年食べられるくらいの金額だろうか。医療費と学費の高さは意外なほどだった。女だ けの話で、お嫁さん夫婦は別居したいらしいが夫は長男なので母親が許さないとか。長男夫婦の部屋に行ったとき、お嫁さんは死んだ男の子の写真を取り出 して、黙って見せてくれた。つらかっただろうと思った。

農家の台所
庭のカマドで昼食を作る長男のお嫁さん
長男夫婦の部屋
長男夫婦の部屋。棚の中の布団を左の台に
敷くと寝室になる。日本と似ている。

別の農家では30代で夫を亡くし、再婚せずに5人の子どもを育てた女性がいた。来年50歳になる彼女は、子供たちもそれぞれ結婚したり町で働き、現在は三女 と2人暮らし。政府の土地を借りて農業をするので定年があって、女性は50歳、男性は60歳が決まりという。30年働いた彼女の場合、月600元(約8700円)の年 金が貰えるが、払えなかった税金がたまっているので実際の支給額は半分以下になるという。でも節約して、何とか暮らしていくと言っていた。

小さい子ども5人を抱えて、食べるものが全くないこともあったという厳しい時代を生き抜いた、気丈なお母さんだ。敷地内には鶏を飼い、自給用の野菜が植え られていた。10年前よりずっと暮らしがよくなったといい、まもなく定年を迎える彼女の夢は、イスラムの聖地であるサウジアラビアへ旅することだという。 彼女の夢がきっと叶うよう、旅人の私は心から願うばかりだった。

結局のところ、はるばる中国の奥地まで行って私が考えたのは、豊かさとは何だろう、幸福とは何だろうということだった。物やお金の量を基準にすれば、 確かにウイグルの農民は貧しいとしか見えない。しかし一年に一枚しか服を買わない彼女たちは本当に貧しいだろうか、不幸だろうか。一枚の服を買う喜び は、次々と服を買う私たちより小さいと言えるか。むしろ一枚の服がもたらす幸福感は、私たちには計りようのないものであることだろう。

ウイグルの農民の電力にもガソリンにもほとんど頼らない暮らしは、前近代的かもしれないが、私たちのように楽な暮らしの代償としてCO2をむやみに排出 することもしない。日本の常識は中国の非常識と感じることも、その逆のこともいろいろあった。またウイグル語には「意地わる」はあっても「いじめ」に 相当する言葉がないという。いろいろな民族の生活や幸福の度合いを、お金や物の量を基準につい見てしまう愚かしさと無意味さを、改めてかみしめた旅で あった。(2003年9月3日)

羊のむれ
ウルムチ郊外の農村を移動中の羊。
道路の舗装は最近完成したばかり。
農家のおもてなし
ウイグルでは客人に菓子や果物をたくさん
ふるまうのが礼儀だそうです。
農家の庭を見る
ウルムチ郊外の農家の入口から中を見たところ。
ロバの荷車
ロバの荷車で農作業から帰る家族。
ぶどうを乗せたリヤカー
バイクに荷台をつけて収穫したブドウを満載。
畑から運び出すところ。(トルファン)
ブドウ乾燥小屋
ブドウを乾燥する小屋で。
親類や親子で共同作業している(トルファン)

[おおらかさと自己責任]写真有り
外国へ行ってまっさきに感じるお国柄といえば、交通事情とトイレ。大都会は別として、中国奥地のトイレ事情も事前にいろいろ聞いたり、調べたりした。 ある情報では、砂漠を観光バスで通行中、トイレタイムになると、乗客はパッと思い思いの場所に走って散り、用を足すとか。まごまごしていると、バス はさっさと出発するからご用心と。

そんな場合はこれで身を隠そうと日傘を持って行ったが、これは本来の日傘として役立った。あれこれトイレ情報のあまりの凄さに、トイレットペーパーの ロールをひとつ持っていこうかと本気で悩んだが、結局やめた。その代わり携帯用のティッシュペーパーは必需品。ウェットティッシュも水事情の悪い旅先 では何かと便利だ。

中国といえば広い道路を自転車がいっぱい走っているイメージがあるが、それは過去のこと。上海のハイウェイは自動車が洪水のごとく走っていたし、新疆 ウイグルの首府ウルムチ市内でも、片側3車線の広い道路には車やバスがひしめいていた。自転車に乗っている人など、ほとんど見なかった。多分裏道や路 地では走っているのだろうけど。

ウルムチ市内には路線バスがたくさん走り、タクシーはワーゲンが多く、ベンツや日本製の乗用車や4WDなどもよく見かけた。それらはほとんど営業車で、 マイカーはまだ少ないという。タクシーに何度か乗ったが、運転席と後部座席が鉄板で仕切られているのには驚いた。助手席の後ろの上半分だけが太い金網 になっている。タクシー強盗対策らしいが、何やら護送されている気分だった。

ウルムチ市内
新疆ウイグル自治区の首都ウルムチは大都会。
歩行者用の信号がないので、人はどこでも平気で横断する。

一番の驚きは、横断歩道はあっても信号というものがないこと。だから横断歩道があろうとなかろうと、自分の渡りたい所でみな平然と横断している。少し でも車が切れると1車線渡る。車線と車線の区切りの白線に立ち、次の車の途切れるのを待つ。そして2車線3車線と進み、中央分離線まできたらまた次の 3車線を渡る。幹線道路では交差点などに地下通路があったので、私はそれを利用した。

子どもや高齢者が横断しているからといって、車は止まったり徐行しないで走るから、中国ではどうやら歩行者優先という考えはないらしい。下手に止まろ うものなら、後ろからドンと追突されるのは必至。詰めなきゃ損とばかり、車間距離というものをほとんど取らず走っている。少しでも空けようものなら、 すかさず横から頭を突っ込んでくる。

歩行者も慣れたもので、車の流れに割り込むようにいたる所で1人、3人、家族づれなど、いくつも人間の小島ができている。車が切れないので白線上を歩い たり、道の真ん中で携帯電話片手の人もいる。日本の信号機に慣れた身には、走る車の直前直後の横断者の多さに、どきどきハラハラの連続。渋滞する場所 では、何と道路のまん中で車を相手に新聞売りをしていた。

走っている車のほとんどが営業車だとすれば、運転している人たちはプロの運転手ということになる。彼らは運転には自信があるのだろう。上海を案内し てくれた運転手さんと一緒に夕食を取ったら、平然とビールを飲んでいる。オイオイと思ったが、中国語ができない悲しさ。しかも中国のビールは14度と 強い。滞在中、日本の非常識は中国の常識のような交通事情の中、ともかく10日間、無事故で過ごせたことには感謝したい。

私の記憶では、日本は高度経済成長で自家用車が増え、昭和45年の夏ころには交通事故死亡者が1万人を超えて、大きな社会問題となっていた。つまりプロ ではない運転者が増大して、それも交通事故の増加につながったと思う。中国もマイカー時代に突入すれば、交通事故の増加は避けられないだろう。現に ウルムチ市内では、事故が多いのでバイクは禁止されているという。私たちも滞在中、2回交通事故現場に遭遇した。

ウルムチを立つ日、まだ日の出前の町を車で出発したが、ライトもつけず走っている車や、信号のある交差点で、止まっている車もあれば、信号無視して 交差点を走り抜けるトラックもあった。中国の人は、どうも信号というものが嫌いらしい。日本と違って、信号を無視するのも、道路を横断するのも、全て 自己責任なのだろうと思った。私たちが上海で乗った車は、スピードメーターが壊れていた。走ればいいということなのだろうか。

中国だって運転マナーや規則があると思うが、運転する人も歩行者も、我れ先にの強引さには脱帽。旅人の目には、規則より自分の判断が優先されるように も感じた。一人っ子政策のこともウイグルの人は全然意に介していないらしく、たいてい兄弟姉妹がいた。規則は規則、しかし自分たちはこうだという意地が かいま見える。何事にもおおらかな半面、その裏には自己責任という見えない掟(おきて)があるのかもしれない。

ホテルのシャワーもなかなかお湯が出なかった。カランにはお湯と水を示す赤と青のしるしがついている。頭の固い日本人(私のこと)は赤はお湯と決めてか かるから、赤いしるしに合わせていつまで待ってもお湯が出ない。こんな時は反対側に回してみよう。すると青いほうからお湯が出てくる。しるしなんて関 係なし、お湯が出ればいいのだ。中国では頭を柔らかくしないとダメだと思った。

広大な中国の、ほんの一部分だけを見たに過ぎないが、ウルムチ市では足の悪い少年や幼い子を連れた女性の物乞いを見かけた。バリアフリーという考え方 もまだないらしく、歩道にでこぼこや穴があってもそのまま。生活のため不法に都市に流入した農民の子どもは、学校教育を受け られず放置されているという。12億の人々が住む中国の内実は容易には掴めそうもない。いまや大多数の漢民族が住む新疆ウイグル自治区。その中で独自の 文化と言葉と伝統を守るウイグルの人たちの生活には、民族としての強い誇りと意地を感じた。(2003年9月10日)


[魯迅公園]
五十歳になったとき何が嬉しかったかというと、自分自身の自由度がぐんと増したことだった。仕事を持ち二人の娘の子育てをしていた四十代までは、 毎日の日課に追われて気持のゆとりもなく、出口の見えないトンネルの中を疾走する機関車のように、やたら前にのめっていた。しかし長女、次女と 十八歳で次々と親元を離れたとき、トンネルを出て、いきなりぽっかりとのどかな原っぱに解放された気分だった。年を取るのも悪くないと思った。

時間ができると旅行の機会も増えた。そして旅先では何か文学に関係のある場所に行くことを意識するようになった。私も物書きの端くれ。何も殊勝な 目的などないが、せめて旅費分くらいは何か自分の肥やしになるものをと、主婦根性を発揮して出かける。最近は文学散歩という便利な言葉もある。 手っ取り早く言えばそういうことで、何を見つけるかはその時のお楽しみ。

アメリカのアトランタに行ったときは、地下鉄で少し足を伸ばしたところにマーガレット・ミッチェルの記念館があって、見に行った。新婚間もない 彼女が『風と共に去りぬ』を執筆した住まいが、記念館となって保存されているのだ。娘と行ったヨーロッパ旅行では、ゲーテゆかりの土地をフランク フルト→フルダ→ワイマールと移動。ベルリンには森鴎外記念館、ロンドンには漱石記念館があり、下宿した建物も残っている。下調べをしておいて、 自分で歩いて探し当てるところが楽しい。

そう書くと何やら自慢げに聞こえるかもしれないが、ミーハー気分の一方で切羽詰った思いもある。それは私の中にいつも重低音のように鳴りひびいて いる問い。人はなぜ書くのだろう、何を書くのだろう、それは本当に書かなければならないことだろうか? 私はあれこれ作家たちの足跡を訪ねながら、 いつもその問いを反芻する。もちろん答がすぐに出るわけではないけれど。

中国の作家で私が読んだのは魯迅(ろじん)ひとり。新疆ウイグルからの帰路、上海に1泊するので、その日に魯迅公園への案内を頼んだ。運転してくれる人 が日本語を話せる友人を同行してくれたので、とても助かった。国内線空港横のホテルを出てハイウェイを通り、渋滞する上海観光のメッカ租界地区を 通り過ぎ、ずっと北のほうに魯迅公園はあった。約1時間と遠いので、彼らも初めて来たとのこと。

高層ビルの林立する街区を抜け出ると、見慣れたような古い街並みになった。道路は狭く、舗道が道路より一段高くなり、道路に面して商店が並んでいる。 魯迅が住んでいた70年ほど前のこのあたりは、日本人居住区だったという。確かにところどころ一軒家の日本風家屋が残っていたが、古くていずれ壊さ れる運命にあるようだ。

魯迅公園は想像以上に広大だった。公園内にある上海魯迅記念館は白亜の堂々たる建物で、魯迅の生涯と活動とが写真や遺品などで分かりやすく展示され ていた。魯迅が中国で大事にされていることがわかって、ファンの一人としてとても嬉しかった。公園内の奥まった一角に、魯迅の銅像とお墓もあった。 その周囲は植え込みがよく手入れされ、訪れる人に泰山木が涼しい木陰を落としていた。

ROJIN3
上海魯迅記念館
ROJIN2
公園内にある魯迅の像
記念館からお墓まで歩く途中、広場の横を通るが、そこにはいくつもの人垣ができていた。アコーディオンの音に男性の歌声。別の人垣では楽器を持った 数人の演奏に合わせて、女性が歌い、その周りでは踊っている人々もいた。それをもっと多くの人々が取り巻いて、一緒に楽しんでいた。その日が日曜 だったこともあるのだろう。案内人の説明では彼らはみな素人の人で、広場で自慢のノドや演奏を披露して、楽しんでいるのだという。青空の下、のど かで健康的な印象だった。

魯迅廟
魯迅のお墓
魯迅旧居跡
魯迅の住居跡
魯迅記念館からさほど遠くない場所に、魯迅が晩年を過ごした赤レンガの旧居が保存されている。午後4時3分にそこに着くと、あいにく開館は4時まで。 鉄の門扉がもう閉まっていた。立ち去り難く佇んでいると、私たちを見かけたご老人が寄ってきて、このあたりは古い集合住宅が多く残っていて、現在 は昔の2戸分を1戸に広げて使っていると、英語で説明してくれた。旧宅の近くに魯迅が足繁く通った内山書店跡があるらしいが、それは未見のままだ。

魯迅は約100年前の1902年、20歳で日本に留学し、東京の弘文学院に入学。のち医学の勉強のため仙台医学専門学校に入学、2年後退学して東京へ戻り、 28歳で帰国するまでの7年半を主に東京で過ごしている。魯迅が医学を志したのは、漢方医に頼って病気の父親を早く亡くした経験から、西洋医学を学 び中国の病人を救いたいからであった。しかし在学中、ある一枚のスライドを見たのがきっかけで、魯迅は文学へと方向転換する。

そのいきさつは、作品集『吶喊(とっかん)』の「自序」に詳しい。医学から文学の道へと魯迅の一生を決したという一枚のスライドが、壁一杯の大きな 写真に拡大されて上海魯迅記念館に展示してあった。中国人にとっては屈辱的な、日本人にとっては過去の日本軍の蛮行を見せつけられるその写真・・。 けれど目をそらさずに見なければならない。

そこには魯迅がなぜ医学を捨て、文学に向かったか。なぜ書こうとしたのか。何のため、何を書こうとしたのか。それを静かに伝えてくれる。私は若い頃 「阿Q正伝」や「狂人日記」を読んだが、奇妙な題名のみ印象に残っていた。年を取って読み返すと、以前よりずっと理解できたように思う。ゆかりの地 に足を運んで、作品もあわせて読める時間がある。これも年を取ったことの恩恵と素直に喜んでいる。(2003年9月17日)
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