今月のカメラ 2001年6月号   OLYMPUS M-1

私にとって思いでのカメラです
おやじさんが、家族の写真を、KONICA IIIとCanon Demi S で撮っていたのは、私が小学生の頃、妹が幼稚園の頃までだったと思います。私たち兄弟が、小学校の頃以降は、学校の先生方も皆さんカメラを持つようになって、行事があれば、写真を撮って、そのあと、貼り出して、「一枚いくら」と設定して買うことが一般的になっていました。
私たち家族は、そのころは、家族旅行の年に一度くらいしか、写真を撮らなくなったので、私のアルバムの中身は、学校の行事の写真のほうが、多数になって行きました。私が中学校の頃については、アルバムにまとめていないので、はっきりとはわかりませんが、たぶんほとんど、学校行事の写真でしょう。
そんななかで、高校入学すると、カメラが欲しくなりました。おやじさんが写真を撮ってる姿は、ほとんど見なくなったので、なぜカメラが欲しくなったのか、そこらへんの記憶はありません。中学校2年の時の担任の教師が、修学旅行の時に一眼レフに広角レンズを付けてきたのを覚えていますが、カメラの機種とか、レンズとかについては覚えていないので、特にそのころカメラに興味があったとは思えません。
とにかく、カメラが欲しくなって、高校の入学祝いを集めて、カメラを買うことにしました。予算は5万円でした。
私の時代の憧れは、NIKON F2という時代でした。しかし、予算5万円では、まったく届きません。日本光学(当時)ならば、NIKOMAT FTという解もあったかもしれません。50mm F2を付ければあるいは予算に入ったかもしれません。ちなみに、Nikomat FT2の発売前の話しです。
おやじさん行きつけのカメラ店に行きました。何が良いか、聞いてみました。まず、Leica M3とM4を触らせてくれました。当時の高校1年には、Leicaは理解できません。何を触ったか、覚えているだけでも立派というべきでしょうか。M3はシルバー、M4はブラックでした。ファインダーを覗いた感覚は、Konica IIIのように、「二重の像を合わせればピントが合うという普通の方式だな」と思っただけで、Leica好きな皆様のように、ファインダーの見えとか、二重像の具合とか、考えられるはずもありません。シャッターの音は、「コトン」と、変な音だなあと思ったことは、覚えています。
次に出してきたのは、このOLYMPUS M-1でした。そのカメラ店のマスターは、後で聞くとLeicaファンだったそうで、それでM-1に惚れ込んだとしたら、米谷氏の設計思想を理解していたことになります。
「ライカみたいだろ」。当時の私には、意味不明です。ファインダーを覗くと、一眼レフですから、写るそのままに見えるはずだというのは、あらかじめ勉強済みでした。確かに、Konica IIIやLeicaとは違います。シャッター音もシャッターのショックもまるで違います。シャッター音は、確かに大きなものでした。
OLYMPUS M-1 を気に入ったものにしたのは、そのあとに触ったアサヒペンタックスのSP(だったと思います)との比較でした。SPは大きくて、Konica IIIやCanon Demi Sを触りなれた手には、もてあましそうな気になってくるものがありました。しかも、シャッター音が「ガチン」とやたら大きくて、びっくりしました。M-1は、小型で、シャッター音も大きくなくて、使いやすそうでした。
セミハードケース、フィルターとおまけのKodacolor X 12枚撮り2本ついて、5万円でした。値引きは良いほうでは無かったはずですが、後でいろいろ教えてもらえそうで、納得して買いました。

そのころケースは
黒が多かったので、これが標準的でしょう。

買ってきてすぐに撮ったのは、おまけでもらった、Kodacolor Xです。当時のネガカラーは、Kodacolor Xが、ASA80で、富士とさくら(当時)はASA100でした。ASA80は、ASA100に比べるとかなり感度が低いという、イメージがありました。実際は、ひと絞りも無いのですが。そのころのネガカラーフィルムは、高かったので、高級品ですから、アルミ絞り出しの、スクリューキャップのケースに入っていました。光を通さないので、あとあと便利なものでした。欠点は、アルミのため、変形しやすいことでした。

当時のOLYMPUSには、本体マニュアルのほかに、交換レンズ読本が入っていて、マニュアルと同じくらいの厚さで、交換レンズの知識と使い方、そして、各レンズの説明が載っていましたので、それこそ穴の開くほど読みました。今の一眼レフには、このようなものは付いてくるのでしょうか。ついてこないのではないですか、だから、写真関係の、ホームページで、「どのようなレンズを使ったら良いのですか」と、私が思うに「ばかばかしい質問」をどうどうと書き込むのです。原価の問題が大きいのでしょうが、交換レンズ読本をつけてくれれば、ばかばかしい質問をする人は少なくなるのでは、ないでしょうか。

底面です。
初期の、M-1,OM-1は、モータードライブをつけるためには、本体の改造が必要で、有償で改造してもらわないと、取りつけることができません。これは、モータードライブがつかない状態です。なお、ワインダーと呼ばれるものは、当時はまだありません。ワインダーは、この3年あと、Canon AE−1で「連射一眼」で売れたために、各社こぞって、出したようなものです。OLYMPUSも、OM-1の廉価版のOM-10には、ワインダーを付けられるようになっています。

レンズは、50mm F1.8を付けて購入しました。もちろんF1.4は高かったので予算に入らなかったわけですが、今でもF1.4が欲しかったなあと思い出します。その後、F1.8コンプレックスがあって、ミノルタのF1.7の標準レンズを見るたび、たった0.1の差であっても「いいなあ」と思ったものです。そのせいではないのですが、Nikkor 50mm F1.4は、今では3本もあるのがお笑いです。
交換レンズは、はじめに135mmを買うまでは、交換レンズ読本を、穴の開くほど読んで、「欲しい欲しい」と、いつも思っていました。同級生で、当時高級品のズームレンズを買ってもらっているのを見て、うらやましく思いました。ちなみに、私がズームレンズを手にしたのは、社会人になってから、しばらくしてからです。それも、純正ではない、中古です。
なお、はじめての交換レンズとして、135mmを買ったのは、高校の1年の同級生に、Nikon Fフォトミックに、Auto Nikkor 135mm F2.8を付けたものを使わせてもらった影響です。このFフォトミックは、もちろん同級生の父親の所有のものです。それにしても、当時Fフォトミックに135mmつけているというのは、写真のよっぽど好きな父親なのでしょうねえ。

接眼部の初期状態は、
忘れました。記録も残していません。オーバーホールに出したら、違って、戻ってきました。ファインダーの光学系に、初期モデルは問題があったのでしょうか。ですから、このM-1は、完全な初期状態ではなくなったので、コレクションとしての価値は低いと思います。
ちなみに、今の状態は、ペンタプリズムの腐食もミラーの腐食もありません。裏ブタのモルトは、完全にだめです。50mm F1.8は、カビも無く、完全です。表面も完全で、このレンズは、前も、後ろも拭いたことがありません。ブロワーでの吹き飛ばししかしていません。それほど、大事に使いました。

M-1は、高校1年から、大学1年の4年間は、唯一の一眼レフとして、かなり使いました。しかし、おいそれとは買えないものなので、大事にも使いました。大きな傷はありません。90%以上は、モノクロフィルムでしょう。高校時代は、富士のネオパンSSかSSS。大学になって、KodakのPlus Xを主に使いました。カラーは、高校時代は、Kodakcolor Xと富士カラー、当時の富士カラーはなんだったか、今すぐには思い出せないが。大学になって、Kodacrome 25と64、そして、Ektacromeを少し使いました。カラーは大学時代でさえ、月に2本がやっとでしたから。

ファインダーをうまく撮ることは、
できませんでした。オリジナルは、マイクロプリズムでしたが、後で、まず、スプリットに変えています。スプリットのほうが、正確なピント合わせができると思っていました。それで、135mmに2倍のコンバーションレンズを付けたときに、F値が暗くて、スプリットがかげりやすいので。前面マットに変えています。前面マットは、中間リングをつけての近接撮影のときも使いやすかったので、今もつけっぱなしです。OLYMPUSは、前面マットのマット面の違いで、2種類出していますが、これは、標準、広角用です。別に、望遠用の明るいものも出ています。
視野率も100%では無いですが、結構使いやすい倍率で、50mmを付けたときは、ほぼ1倍くらいに見えるので、ペンタックスを覗くと、その倍率の低さに驚いたものです。
バッテリーは、露出計用に水銀のHDを使います。あまり、電流は流さないようで、結構もちました。今は、HDの入手は楽じゃないですね。最後に買ったものが、ひとつだけ未開封で残っていますが、どの程度の容量がのこっているやら。無くなったら、LR44をアダプター自作で、入れるしかないか。

思い出が多すぎて、書ききれないのですが、そのうち交換レンズのことも書きますので、そのときにでも、また、思いで書きますか。
(2001.6.3)


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