今月のカメラ 2004年3月号   KONICA C35AF

KONICA MINOLTAとか、長い名前に
なったもんです。
長い名前記念として、第一弾、ジャスピンコニカにします。
私の持っている資料では、C35AF は、1977年11月発売となっています。
このころは、小西六、つまりKONICAは、写真業界をかき回していたと感じました。このC35AFのまえに、ストロボ内蔵カメラの、C35EF「ピッカリコニカ」を、大ヒットさせました。おかげで、大半のファミリー向けコンパクトカメラは、ストロボ内蔵となりました。フィルム、当時のサクラカラーは、20枚撮りの業界標準から、「4枚増えて値段は同じ」という、テレビCFで、カラーフィルムのスタンダードを24枚にしてしまいました。モノクロは、当時のJIS規格のために、24枚にはできませんでしたが。とにかく、お騒がせな、メーカーでした。



1977年当時は、
わたしは、大学生で、「プロセス制御」を勉強したばかりでした。その時、写真工業誌の、このジャスピンコニカの、オートフォーカスの制御法について、読んだ私はびっくりしました。フィーバックをかけていないのです。今の一眼レフのオートフォーカスと違って、巻上げ時のチャージしたパワーで、一回きりの、ピント合わせをするのです。つまり、のちのカメラで常識だった、フォーカスロックがかけられないということです。まあ、今となっては、びっくりですが、当時は、オートフォーカスというだけで、びっくりしたのですから、たいしたことをやったものです。





詳しいことは
NHKのプロジェクトXで、やっちゃいましたので、余計なことは書けませんが、Konicaの両脇の目玉の奥が、世に言うハネウェルのフォーカスモジュールです。このハネウェルの訴えで、Konicaと合併した、Minoltaが、負けてしまったのは、なんという因縁でしょう。このあとの、何社かは、ほとんど同一のやりかたで、オートフォーカスを実現したのは、これもびっくりです。
HEXANONというのは、いまでこそ、高額レンズにつけていますが、このころは、普及機のレンズにもつけていました。これでいいんですよ。へんに、ブランドにこだわることはないと思います。Olympusだって、レンズというレンズに、ZUIKOとつけていた時代もあったのですから




このC35AFは
友人が、ピンホールカメラの土台として、何台かのコンパクトカメラをジャンクとして購入したもののうち、お気にめさずに、分解、改造の難をのがれたものです。ただ、ジャンクでしたので、ニコイチのもう一台を入手するまでは、手をつけられませんでした。でも、ニコイチ用のもう一台を手に入れて、びっくりしました。ベストセラー機のためでしょうか、違う部品を結構使用していて、互換性の無いものもありました。それだけ、大量に作ったということでしょうか。







後ろは、いったてシンプルです
当時はデート機構が一般的ではなかったので、こんな感じが普通でした。
大学卒業後に、しりあいと大阪に行ったとき、大阪の安売りのカメラ屋さんで、知り合いは、ジャスピンコニカを購入しました。C35AFの後継機だったと思います。ものずい安売りでした。彼は、お出かけのお供にひんぱんに使用しました。でも、いがいに短期間にあっけなく故障しました。考えれば、電子カメラですから、故障も多かったのでしょう。しかし、この固体は、物理的に、外側の部品が壊れていただけで、中身は故障していませんでしたので、今もちゃんと動作します。





sakuraカラーです
ふたを開けると、貼り付けてあるのが、KONICAの決まりでした。フィルムのパッケージの色がオレンジだったので、このシールもその色です。

KONICAは、KONICAだし。小西六のカメラだから、コニカだし、Minoltaは、実る田んぼだから、ミノルタ。いいブランドだったと思います。








めずらしく、時間があったので、はやめに書きました。

(2004.2.29)


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