東京ディズニーランドだぁ!〜お仕事モード編〜(2000.5.4)

 お客さんにあれこれ要求しない、それがディズニーランド。
 田舎のちょっとヘンなアミューズメントパークなんかだと、人手がないところをやりくりしなくちゃイケナイせいか、客になんだかんだと「指示」をする。アブナイから下がれ、とか、一列にきちんと並べとか。看板とか表示板で注意を促してるつもり、というのが更にむかつく。人が言うのだとしても「仕事上、そうしてもらわないと、私が困るのよう。」と言わんばかりな口調だったりするからあきれたものだ。接客業をなんと心得ているのか知らないけれど「こっちはお客さんなのよ?」と思わず喧嘩腰で切り返したくなるくらい。つぶれるのもわかる。そんなところは2度と行きたくないもん。

 中学生の長男が1才半のときにはじめてディズニーランドに行って以来、少なくとも2年に一度は行っている。(通算して7回か8回目だ。)その割には、まだまだ体験していないアトラクションが半分はあるから、要領が悪い遊び方をしているかもしれない。でも、アトラクションに乗らなくても、ちょっとしたショーがあったり、キャラクターが歩いていたりするのでワタシとしては充分にモトはとっているつもりだ。でも肝心の子どもはというと、たいていのものは並んで待たなくちゃならず、すぐにコレに乗りたい、すぐにアレが欲しいという欲求が適わないため、「東京ディズニーランドなんて嫌だ−っ。」って言っていたこともある。現に、中学生の長男は今回はついてこなかった。(親と出歩きたい年頃ではないから、なおさら。)しかし、今回のパーク入りは、娘のリクエスト。「待つこと」をディズニーランドで学んだのかな。ま、子どもがぐずぐず言わないだけでも、親も気分はずいぶん違う。

 ディズニーランドに惹かれる理由。散らかったまま、見苦しいままで放置しておかない。植木や花壇、トイレなど、どこを見ても人の「目」と「手」と「気持ち」が行き渡っている。ゲストに対応するキャストが多いこと。乗り物の乗り降りには必ず人がつく。これだけでもゲストは気分が良いだろう。順番待ちの最中に娘を肩車をしていたら、いつのまにやら係の人がやってきて、優しく注意された。楽しさの土台には徹底した安全へのこだわりがある、しかしピリピリしていない。このことにゲストは安心して何度も足を運ぶのだろう。

 「両手を広げても抱えきれないくらいのマニュアルが、ディズニーランドにはある」というのは有名な話。現場に出る前にかなりの研修期間を置くということも聞く。マニュアルをなぞるだけでゆとりのない機械的なキャストは現場には出てこれない。マニュアルをなぞりつつ、そのそぶりを見せないというのがマニュアルのどこかに記載してあるはずだ。
 「今の若い人はマニュアル通りにしか動けない。自分で気がついて動くことがない。」と、知った風なことをいう輩が多いけど、中途半端なマニュアルしかつくれないのに、よく言うよ、と、思う。たとえ話でよく「ハンバーガー20個頼んだのに、『店内でお召し上がりですか、それともお持ち帰りですか。』だってさ!マニュアル通りにしか応対できんのかね。ハンバーガ20個お召し上がりかどうかなんて、考えたら分かるだろ?」っていうけど、分かるのはそのマニュアルが不完全だということだ。時給680円程度の売り子に気働きを要求するのは筋が違う。この場合の売り子に要求されるのは、気働きではなく、どの場面にどのマニュアルで対応するかを見極めることだ。

 こういうふうに考えていくと、個人個人の気働きをあてにして成り立っている組織は脆弱だ。もしそれがサービス業なら、その組織は遅かれ早かれ潰れてしまうだろう。個人の気働きを、組織の知として積み上げるしくみが無いままでは、その場しのぎで無責任な気まぐれなサービスしか提供できない。無責任で気まぐれな組織は徐々に信頼を失う。組織の知をマニュアルとして蓄積し、常に最新のものに書換えていかなくては、時代についていけないのだ。

 衰えずに発展していく東京ディズニーランドに行くと、自分の仕事の行き詰まりの向こう側に、僅かな光が差しこんでくるようで、ちょっと元気になるのだった。

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